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2009年1月 7日 (水)

珍説・奇説の邪馬台国・補遺…⑦「宇佐移転」説(澤田洋太郎)

「珍説・奇説」とは、言い換えれば、異端説ということであろう。
異端から学ぶ古代史』彩流社(9410)の著者である澤田洋太郎氏の見解はどうであろうか?
ここでは、澤田洋太郎『天皇家と卑弥呼の系図―日本古代史の完全復元』新泉社(9411)の記述を見てみよう。同書の「著者略歴」によれば、澤田氏の履歴は、以下の通りである。

1951年 東京大学法学部政治学科卒業。同年都立江戸川高校社会科教諭を初めとして高校教師を勤め、1982年都立大学付属高校教頭にて退職。以後、執筆活動にいそしむ。

上掲書「まえがき」には、澤田氏が日本古代史に興味をもち始めたのは、高校の教員をしていたころのことで、最初は、予感として、「邪馬台国は九州のどこかにあり、それを取り巻く“邪馬台国連合”といったものの一部が“東遷”して大和王朝を開いた」といったものがあっただけだった。
54歳のときに高校の教員を辞めた頃、近所にいた推理作家の高木彬光氏のお宅にお邪魔するようになり、高木氏は、澤田氏と古代史論議をする中で、『邪馬台国の秘密 新装版 高木彬光コレクション』光文社文庫(0610)(改稿新版版は、東京文芸社より1976年刊)の続編として、『古代天皇の秘密』角川文庫(8712)の構想がまとまった。
同書は、高木彬光著となっているが、澤田氏が高木氏の構想に沿うように元稿を書き、高木氏が手直しを重ねたものである、という。
つまり、実態は限りなく共著というべき性格のものであった、ということであろう。
澤田氏は、高木氏の手伝いをしながら、「卑弥呼の名のある系図」と「豊後・日田の秘密」という澤田氏独自の問題意識を軸に、古代史に対する考察を深めて、上掲書としてとりまとめた。

邪馬台国の所在地論に限れば、澤田氏の推論のあらすじは、以下の通りである。
①末盧国=東松浦半島説は誤りである
ほとんどの説が、魏使が最初に上陸した地点である末盧国を、佐賀県の東松浦半島としているが、魏使が上陸したのは、遠賀川河口の西方の神湊である。
当時の航海技術からして、冬の玄界灘を渡ることは無理で、夏の航路となるが、壱岐からほぼ真東に進み、神湊に着く、というのが自然であり、『魏志』の「海を渡る一千里」という距離にも適合する。

②伊都国=糸島半島説は誤りである
末盧国が東松浦半島でないとすれば、通説の「伊都国=糸島半島」説も成り立ち難い。
高木説では、魏使は、神湊に上陸したあと、「しばらく」東南に道をとり、やがて東北東に向かい、現在の北九州市から行橋市付近の伊都国に到着した、という見解をとっている。
「魏志倭人伝」に、末盧国から伊都国へは東南の方向に行く、と記されているから、少なくとも「しばらく」の間は東南の方向に向かわないと具合が悪い、ということである。
しかし、神湊から高木説の北九州市方面に行くならば、海路で行く方が自然である。
末盧国からの行程は「草木茂りて盛ん、行くに前人を見ず」とあり、舟では行けない行程であると解するべきで、とすれば、伊都国は内陸部にあったとしなければならない。

伊都国はどこか?
末盧国=神湊とし、そこから東南の方向に位置するとして、東南方向に線を引く。
伊都国は、「郡使が往来するに常に駐るところ」であり、「女王国より以北は、特に一大率をおき諸国を検察す。諸国はこれを畏れ憚る。常に伊都に治す」とあるから、交通の要路にあることが条件である。
現在の福岡市から東に、豊前・中津市へ至る道路と、遠賀川の河口から豊後・日田市に通じる道路を引くと、この3本の線が一点で交わる。
3_2 その交点の地名は、「糸田」である。
糸田は、末盧国の東南であるし、諸国を検察するに好適であり、舟では行くことができない。
つまり、伊都国の備えるべき条件を、すべて満たしていることになる。

澤田氏は、この陸の伊都国の出先的な場所として、「海の伊都国」ともいうべき地点があるのではないか、として小倉区に「到津」を見出している。
読みは、「イトウツ」である。
奴国は、高木説を採用する。豊前・中津で、伊都国の東南であり、中津は「ナの国の港」である。
不弥国も、高木説を採用する。豊前・長洲で、海(ウミ)に面した場所である。
さらに、神湊の西隣の玄海町の海岸地帯は「松原」という地名であり、これが「末盧」であった。

澤田氏は、邪馬台国連合の主流は、筑紫から豊の国へ移転した、とする。
それは2世紀末の倭国大乱の際で、松浦半島にあった末盧国は神湊近くの松原に、怡土郡の糸島にあった伊都国を内陸の糸田に、福岡の那の津にあった奴国を中津に、大移動させた。
それでは、3世紀における「邪馬台国」の位置はどこか?
邪馬台国は、上記の旁国の移動と同じように、筑紫から宇佐へ移転したのであり、結論的には「宇佐」説ということになる。

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