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2009年1月31日 (土)

内村剛介氏の死/追悼(5)

ロシア文学者で評論家の内村剛介氏が、1月30日に亡くなった。
気になる存在として意識していたが、熱心な読者ではなかった。
そのうちに読んでみようと思いながら、時間が徒過していた。

わが身を吹き抜けたロシア革命』五月書房(0007)に記載されている略年譜をみてみよう。
1920(大正9)年 栃木県に生まれる
1934(昭和9)年/14歳  満州・四平に赴く
1940(昭和15)年/20歳 国立大学ハルビン学院に第21期生として入学
1941(昭和16)年/21歳 ハルビン学院21周年記念祭歌に一等入選
1943(昭和18)年/23歳 ハルビン学院を卒業、関東軍に徴用され、総司令部参謀二課勤務
1945(昭和20)年/25歳 平壌にて逮捕
1946(昭和21)年/26歳 ヴォロシーロフ収監所へ
1948(昭和23)年/28歳 25年の禁固刑、市民権剥奪、5年の流刑を宣言される
1956(昭和31)年/36歳 最後の集団帰国者の1人として舞鶴に上陸
1960(昭和35)年/40歳 日商株式会社に入社
1961(昭和36)年/41歳 「試行」に参加。日商(株)のロシア事務所長に就任
1966(昭和41)年/46歳 『呪縛の構造』現代思潮社刊
1973(昭和48)年/53歳 北海道大学教授に就任
1978(昭和53)年/58歳 上智大学外国語部教授に就任

私が内村氏の名前を知ったのは、記憶は定かではないが、吉本隆明氏の発行していた「試行」に寄稿した論考によってだったように思う。
ラーゲリ体験とその逆境の中で鍛えたのであろう強靭な思索が感じられて、その頃はまだソビエト連邦共和国と呼ばれていた国の情勢分析については、まずはこの人の言うことを聞いてみよう、という気になった。

ソビエト連邦共和国という国家が消滅したのは、1991年のことだった。
まだ、18年しか経っていないとも、もう、18年も過ぎてしまったともいえるだろう。
私がもの心ついた頃は、かなりの人々にとって、憧れの国だったはずである。
「歌ごえ運動」とか「歌ごえ喫茶」などというものがあり、その場合の「歌ごえ」の主役は、ロシア民謡だった。
「カチューシャ」、「ともしび」、「黒い瞳」……。
不思議なことに、日本人にとってもノスタルジーを感じる曲が多かったように思う。
いま考えるとどういう思考回路だったのかと思うが、ソビエト連邦共和国を「わが祖国」などと考えていた人が、特に純真な若者と呼べるような層に結構な比率で存在していた。

もちろん、それは地球上で初めて誕生した社会主義国家だ、ということに起因する。
人工衛星を初めて打ち上げたのはソ連だった。
科学上の発見においても、芸術の分野でも、スポーツの世界でも、ソ連は大きな力を示した。
社会主義は資本主義よりも、優位性があるのではないか、と考える根拠が具体的にあるようにも思えた。

観念論と唯物論が二者択一かどうかは別として、自然科学を学ぶものにとっては、唯物論の方が自然である。
その延長線上で、歴史の発展についても、弁証法的唯物論(史的唯物論)の説くところが、合理的であるように思われた。
マルクスによって創始され、レーニンによって実践的に発展した哲学。
その現実への適用への結果として、地球上に誕生した国家。
それが理想郷でなくて、どこに理想を求められるだろうか?

おそらく、本気でそう考えた青年が少なくなかったのではないだろうか。
しかし、私たちは、いまソビエト連邦共和国が崩壊し、帝国ともみなし得るロシア(連邦)に変貌したことを知っている。
それをいち早く日本人に説いてみせたのが、内村剛介氏だったといえるだろう。
内村氏は、ラーゲリにいる間、「レーニンをしてレーニンを論破する」という意識を持って、朝から晩まで「レーニン全集」を読んだという。
その体験が、ソ連という国家の本質やロシア人の思考方法に対する的確な認識をもたらしたのだろう。

それは、日本にいて遥かな母なる祖国として思い描いていた戦後民主主義者や旧左翼・進歩派とは、明確に異なる視線と姿勢となって表現された。
私たちにとって、昭和の歴史は、歴史であると同時に、同時代性という側面を持っている。
私は満州を知らないが、満州の赤い夕陽といえば、想像できないことはない。
リサーチャーにとって、「満鉄調査部」は、ある意味での理想像だった。
満州国にしろ、ソビエト連邦共和国にしろ、歴史の実験だったとみることもできるだろう。
侵略としての側面と、理想郷を求める側面と。
内村剛介氏の死は、あらためて昭和の歴史を再考する契機になりそうである。

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コメント

内村剛介氏がなくなられたと、今知りました。
 情報有難うございます。

 観念論と唯物論が二者択一かどうかは別として、自然科学を学ぶものにとっては、唯物論の方が自然である。

 この点に関しては、次のブログを読んでください。
  一般法則論 

投稿: 一般法則論者 | 2009年2月 1日 (日) 02時31分

一般法則論様

コメント有り難うございます。
貴ブログ拝見しました。大変興味あるテーマを扱われているのですが、難解です。
少し腰を据えて読解させていただきます。

投稿: 管理人 | 2009年2月 1日 (日) 11時01分

“日本にいて遥かな母なる祖国として思い描いていた戦後民主主義者や旧左翼・進歩派とは、明確に異なる視線と姿勢となって表現された”。
ー ー 、この表現に、激しく心動かされました。
大正9年は私の母が生まれた年です。その母より一才上の父は昨年亡くなりました。
戦争を生き抜きながらも、今や死に行く年齢、過去の歴史となりつつある年代、再考の時、というのは正にこういう時を云うのだと、今、こちらの記事を読ませて頂いて、ハタと気付きました。
大変、価値ある記事だと感じ入っています。

投稿: 重用の節句を祝う | 2009年2月 1日 (日) 12時16分

重陽の節句様

過分な評言、恐縮に存じます。
世の中が何となく慌しいような気がします。
こういう時こそ、重心を低く構えて生きたいと思いますが、生来的に浮薄ですのでどこまで出来ますことやら。

投稿: 管理人 | 2009年2月 1日 (日) 14時35分

1月30日に内村剛介氏逝去後、内村氏への追悼記事が、
毎日新聞(沼野充義)、
図書新聞(工藤正廣)、
東京新聞(吉本隆明)、
ジャパンタイムス、
北海道新聞(工藤正廣)などに掲載されました。
今後も、
週刊読書人(亀山郁夫)、
産經新聞(麻田平蔵)、
などが出る予定です。
恵雅堂出版 miyamasa

投稿: miyamasa | 2009年2月17日 (火) 23時37分

miyamasa様

産経新聞09年2月20日掲載の、麻田平草恵雅堂出版社長の追悼記を読みました。
社長もハルビン学院のご出身とのこと。内村さんが大変な秀才だったこと、権力をふりかざしたり、権力をかさに着る人間が嫌いだったこと、ラーゲリで調書のサインを拒否しながら生き抜いたこと、など改めてその見事な行動の原則を教えられました。
「内村剛介著作集」が多くの読者を得ることを(余り期待できないのでしょうが)願っています。

投稿: 管理人 | 2009年2月23日 (月) 16時57分

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