張作霖爆殺事件と昭和天皇
田母神前航空幕僚長の張作霖爆殺事件に対する認識に、異論を書いた(09年1月13日の項)。
田母神氏の見方は、明らかに偏向していると私は思うが、それは相対的なものではないか、という人もいるだろう。
偶々手にした『天皇・皇室事件史データファイル (別冊歴史読本 34)』新人物往来社(0902)に、「張作霖爆殺事件」の項目が載っているので、見てみよう。
リードの文章は以下の通りである。
「満州某重大事件」として、戦後まで国民に真相が知らされなかった関東軍の独走は、その後の軍部専横の嚆矢となった。
自衛隊の航空幕僚長という最高幹部が、「最近ではコミンテルンの仕業という説が極めて有力になってきている。」と書き、それが一民間私企業の懸賞論文とはいえ、最優秀作に選ばれるということに、私はきな臭さを感じざるを得ない。
東亜・太平洋戦争への道において、軍部専横がいかに大きな要因だったか、語るまでもないだろう。
もちろん、戦前・戦中の軍部と現在の自衛隊は、そのコントロールの仕組みがまったく異なっている。
しかし、戦力を独占している集団には、そのことを自覚した自制が求められることは当然だろう。
上掲書に戻る。
1928(昭和3)年、北伐中の中国・国民革命軍(蒋介石)と北京にいた張作霖率いる奉天軍の衝突が懸念される事態となった。
田中義一首相は、蒋介石から満州には侵攻しないとの言質をとり、張作霖には満州に撤退するよう調整を試みた。
田中義一の考えは、山海関(満州と北支の境界)を境に、北支は蒋介石に治めさせ、満州で張作霖を温存して傀儡として動かし、満州における権益を拡大しようとするものであった。
関東軍は、政府の意向とは別の満州支配のシナリオを考えていた。
張作霖は、田中の提案に乗って、6月4日の早朝、北京を退去し特別編成列車で満州に引き上げようとした。
途中、奉天近郊で線路に仕掛けられた火薬が爆発して、列車ごと吹き飛ばされるという事件が起きた。
張作霖は重傷を負い、それがもとでまもなく死亡した。
事件の翌日、大阪朝日新聞の6月5日夕刊は、「南軍の便衣隊、張作霖氏の列車を爆破」との見出しの下に、便衣隊犯人説を報じた。
便衣隊とは、日中戦争時に、中国において平服を着て敵地に潜入し、内牒、後方撹乱、宣伝活動、暗殺、破壊、襲撃などを行なった中国人の特殊部隊のことである。
http://www.wdic.org/w/MILI/%E4%BE%BF%E8%A1%A3%E9%9A%8A
まあ、ゲリラ軍と考えていいだろう。
しかし、便衣隊説が偽装工作であることは、事情を知る者にはすぐに想像できたようである。
元老西園寺公望は、秘書の原田熊雄に「どうも怪しい。日本の陸軍あたりが元凶ではるまいか」と漏らしている。
田中義一は、真相をまったく知らされていず、小川平吉鉄道相から、現場に残された便衣隊の遺体のでっち上げなどの謀略工作を知らされ、「河本の馬鹿野郎!」と大声でどなったらしい。
河本とは、関東軍高級参謀・河本大作大佐で、事件が河本大佐の指示で行われたことは既に書いた。
陸軍首脳部は、6月末に河本を呼び寄せて尋問したが、河本は全面否定し、尋問する側で河本の謀略工作の一端を知っていた荒木貞夫参謀本部作戦部長らは、「河本は関係なし」とそれ以上の追及を放棄し、白川義則陸相も了承した。
10月8日になって、満州に派遣していた憲兵司令官から、ことの全貌を聞いた田中首相は、「それじゃオラはだまされていたのか」と、怒った。
田中首相は、すぐに西園寺に事情を説明したが、西園寺は、「日本の軍人であることが分かったら、断然処罰することが、国際的な信用を維持する」として、田中に即時の処断を迫り、天皇陛下に報告するように指示した。
しかし、陸軍、閣僚内部から、真相発表は国家の恥辱を自ら吐露することで、百害あって一利なし、と反対が強まり、田中首相は大いに迷った。
12月24日、参内した田中首相は、「事件は帝国軍人が関係している。鋭意調査中で、事実ならば厳正に処分を行う」旨奏上した。
天皇からは、「軍紀は厳重に維持するよう」釘を刺された。
ヨーロッパ視察をしていた天皇は、厳正、公正な判断力を下したのだった。
1929年1月から再開された第56議会で、田中首相は、当時民政党に所属していた中野正剛に「満州某重大事件」の公表を迫られた。
中野正剛は、東方会総裁として右翼のイメージが強いが、反軍派の政党人としての一面も持っていた。
西園寺や天皇からは、厳正な処分をせかされ、議会、政友会、閣僚の過半は、公表反対で、田中は板挟み状態になり、厳正な処分を実行しようとする田中に対して、陸軍は「もし軍法会議を開いて尋問されれば、河本は日本の謀略を全部暴露する」と開き直った。
結局、田中首相は陸軍との間で、関東軍は無関係だが警備に手落ちがあったので責任者を行政処分する、という線で妥協してしまった。
天皇への報告をどうするかが、田中にとっては難題だったが、6月27日に、上記の妥協案を基本として奏上した。
しかし、天皇の耳には既に河本大佐の謀略計画の全貌が入っていて、統帥権干犯、軍紀弛緩事件として認識していた。
田中の「厳正に処分する」という以前の報告と180度変わっていたので、田中を叱責したわけであるが、その時の発言については、証言者によって微妙なニュアンスの差がある。
しかし、大いに不快感を示したことは共通しており、鈴木侍従長から天皇の言葉を聞いた田中首相は即座に辞意を固め、7月3日に総辞職した。
上掲書は、次のように総括している。
この事件の処理の誤りが、昭和の軍国主義の幕を開くことになった。河本大佐は関東軍、陸軍内で英雄視され、その後、第二、第三の河本が現れ、石原莞爾による満州事変を引き起こし、関東軍の暴走、陸軍の暴走へとエスカレートしていく発火点となった。陸軍の下克上を抑えきれず、天皇の統帥権を無視した軍の暴走を阻止できなかったことも、シビリアン・コントロールの不全という戦前の政軍関係の矛盾がこの事件に集約されている。
このような歴史的な事件に関して、田母神前航空幕僚長の意見が、自衛隊幹部の共通認識だとしたら問題だろう。
防衛大学や統合幕僚学校等においては、もう少し中立的な歴史教育をするべきではなかろうか。
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