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2009年1月13日 (火)

田母神氏のアパ論文における主張②…張作霖爆殺事件

田母神氏は、アパ懸賞論文において、次のように書いている。

1928年の張作霖列車爆破事件も関東軍の仕業であると長い間言われてきたが、近年ではソ連情報機関の資料が発掘され、少なくとも日本軍がやったとは断定できなくなった。「マオ(誰も知らなかった毛沢東)(ユン・チアン、講談社)」、「黄文雄の大東亜戦争肯定論(黄文雄、ワック出版)」及び「日本よ、「歴史力を磨け(櫻井よしこ編、文藝春秋」などによると、最近ではコミンテルンの仕業という説が極めて有力になってきている。

コミンテルンというのは、共産主義の国際組織で、第三インターナショナルとも呼ばれる。
田母神氏は、次のような文脈で主張する。
アメリカ合衆国軍隊が日本国内に駐留しているのと同じように、合法的に中国に駐留していた日本軍に対し、蒋介石国民党は頻繁にテロ行為を繰り返した。
これに対し日本政府は辛抱強く和平を追求したが、その都度蒋介石に裏切られた。
蒋介石はコミンテルンに動かされていたのであり、コミンテルンの目的は、日本軍と国民党を戦わせ、毛沢東率いる共産党に中国大陸を支配させることであった。
日本は、国民党の度重なる挑発に我慢できなくなって、1937年8月15日に、近衛内閣が「支那軍の暴戻を膺懲し以て南京政府の反省を促すため、今や断乎たる措置をとる」という声明を発表した。
つまり、日本は蒋介石によって、日中戦争に引きずり込まれた被害者なのだ。

そして、上記の引用文に繋がっていく。
武田晴人『帝国主義と民本主義/日本の歴史19』集英社(9212)では、張作霖爆殺事件をどう見ているであろうか。
1928年(昭和3)年4月、国民政府が北伐を再開したのに対応して、日本は山東半島に出兵した。
北伐とは、辛亥革命後の軍閥が割拠する状態の中国において、孫文や蒋介石の指導する国民党が全国統一を目指して行った、北京政府や各地の軍閥との戦いのことである。
5月9日から済南市に砲火を浴びせ、中国側の死傷者5000人といわれる済南事件を起こして、日本に対する国際的な批判を招いた。
6月3日、日本の勧告に従って北京を退去した張作霖は、4日未明、奉天市瀋陽駅到着直前の地点で、乗っていた列車を爆破され、まもなく死去した。

この張作霖爆殺事件に、日本軍が関与していたことは、日本以外の国では公然たる事実だった。
当時の首相は、政友会総裁の田中義一だった。
田中義一が真相(関東軍高級参謀河本大作によるもの)を確実に知ったは、10月8日のことだとされる。
田中は、元老西園寺のすすめもあって、天皇に真相を報告し、関係者の処分を約束した。

田中自身は、国際的な信用を保つために容疑者を厳罰に処すべきと考えていた。
しかし、陸軍の強い反対にあって、処分を実行することができなかった。
昭和天皇は、「お前の最初に言つたことと違ふぢやないか」「田中総理の言うことはちつとも判らぬ。再びきくことは自分は厭だ」と強く叱責し、田中は涙を流して恐懼し、内閣総辞職することになった(1929年)。

田中は、狭心症の既往があった。
天皇の叱責が堪え、退任後の田中はあまり人前に出ることもなく塞ぎがちだったらしい。
内閣総辞職から3ヵ月もたたない1929年9月29日午前6時、田中は急性の狭心症で死去してしまう。

一方、昭和天皇は、田中を叱責したことが内閣総辞職につながったばかりか、死に追いやる結果にもなったかもしれないと考え、以後は政府の方針に不満があっても一切口を挟まなくなった。
田中義一首相が、関東軍の仕業であることを認識していたことは、昭和史の常識であって、コミンテルン謀略説は、いわゆる陰謀史観の一種と言うべきであろう。
コミンテルン謀略説を真面目に取り上げていることからすると、M資金の話も、本当に信じて行動していたのかも知れないと思えてくる。

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