「M資金」のルーツ
「M資金」の原資について、WIKIPEDIA(09年1月9日最終更新)では、次のように説明している。
第二次世界大戦終戦時の混乱期に、大量の貴金属やダイヤモンドなどの宝石類を含む軍需物資が、保管されていた日銀地下金庫から勝手に流用されていた隠退蔵物資事件や、件の日銀地下金庫にGHQのマーカット少将指揮の部隊が調査・押収に訪れた際に、彼らによる隠匿があったとされた事件、などが発生した。
GHQの管理下に置かれた押収資産は、戦後復興・賠償にほぼ費やされたとされるが、資金の流れには不透明な部分があり、これが“M資金”に関する噂の出典となった。
こうした噂が真実味を持って信じられた背景には、降伏直前に旧軍が東京湾の越中島海底に隠匿していた、金塊1,200本・プラチナ塊300本・銀塊5,000㌧という大量の貴金属が1946年4月6日に米軍によって発見された事件や、終戦直後に各種の軍需物資が隠匿され、闇市を通じて流出していた(そのひとつが旧軍で特攻隊員などに興奮剤として服用させていたヒロポンであり、現在に至る覚醒剤渦の根源となっている)時期の記憶が、多くの日本人の間で鮮明であった事が挙げられる。
安田雅企『追跡・M資金―東京湾金塊引揚げ事件』三一書房(9507)は、上記の、「降伏直前に旧軍が東京湾の越中島海底に隠匿していた、金塊1,200本・プラチナ塊300本・銀塊5,000㌧という大量の貴金属が1946年4月6日に米軍によって発見された事件」の経緯を追ったドキュメンタリーである。
同書の冒頭は、後藤幸正という人物が、GHQを訪ねるシーンから始まる。
一九四六年、太平洋戦争敗戦の翌年の三月二十三日、GHQ(連合軍総司令部)第三十二軍調査部担当将校エドワード・ニールセン中尉の事務所があった東京・丸の内三菱ビル二十一号館に、後藤幸正(七○)と通訳が現れ、儀礼的な挨拶をしたあと、
「東京湾の月島付近、九日本陸軍の糧秣廠の倉庫の近くの海底に、ぼう大な量の貴金属塊--旧日本軍部の隠し財産が埋められています」と打ち明けた。
後藤幸正については、「政財界の黒幕と言ったら穏当を欠くが、一種の政商または軍部御用商人だった」と説明されている。
蒋介石と親しくて政界に知己が多く、陸海軍の上層部に隠然たる勢力を持っていたが、敗戦により失脚していた。
ニールセン中尉は、後藤老人の気骨に剛毅朴訥な精神を認めていたようだ、と安田氏は描写している。
後藤幸正は、本名を幸太郎といい、静岡県富士宮市の旧家に生まれ、富士川の水力を利用して富士川電力を作り、身延線を作ったり、伊豆長岡温泉の開発に尽力した。
幸正の孫が、山口組きっての武闘派として知られる後藤忠政(忠正:後藤組組長・六代目山口組舎弟)である。
上掲書によれば、金塊等の発見の経緯は次のようである。
後藤がニールセン中尉を訪ねた約2週間後の4月6日、ニールセン中尉が後藤の案内で、部下と潜水夫らを米軍用車に乗せ、東京湾月島に向かった。
潜水夫らが探索すると、レンガ状のものが沈んでおり、引き揚げてみると。金のインゴットだった。
インゴット引き揚げ作業は、当初日本側で行う予定であったが、早くも日本側に財宝を巡る争いがあり、後藤がそれを見て嫌気がさして、「米軍に一任します」とゲタを預けてしまったことにより、連合軍最高司令部の判断で、第一騎兵師団が管理することになった。
その結果として、金塊等の引揚げ作業は、米軍の管理下で極秘に行われ、その全容が明らかにされないばかりか、その帰属すら曖昧となってしまった。
後藤らは、正当な権利として金塊の日本への返還をGHQに要求するが、結局はタライ回しにされ、埒があかなかった。
GHQの関係者も、講和条約が成立すると、本国に帰ってしまった。
GHQ側では、最初に係わったニールセン中尉等の少数者を除いて、そもそも日本に返還しようという気がなかったのだろう。
引揚げ作業に係わった日本側の関係者も、次々に亡くなっていく。
上掲書では、幸正の娘のカズ子にインタビューしている。
カス子は、後藤の死については、「父は終戦後四年目に亡くなった。金塊事件で二世のアメリカ兵がよく来ており、毒殺されたのではないか、という噂が立った。カクシャクとしていたのが急に縁側で口から血を吐いて死んだことは事実」と語っている。
カス子は余り父の死を不審に思っていないようだが、その他の関係者も含めて考えると、GHQが係わっていた可能性も全くは否定できない、という書きぶりである。
幸正が亡くなったあと、遺志を継いで金塊返還同志会を作って活動したのが水谷明という人物である。
水谷明は、日本大学政治学科を卒業後、月刊誌などを刊行しながら、政治家への道を志向して「新日本党」という名前の政党を作ったりしていた。
「日本新党」やら「新党日本」などが現れたことを思うと、その「さきがけ」のような名前であるが、戦後の最初の衆院選で、女性2人が当選したが、党首の水谷は落選してしまったという。
水谷明の友人に、日大教授兼理事の世耕弘一代議士がいた。
1946(昭和21)年、戦後経済復興のため経済安定本部が設置され、その中に隠退蔵物資処理委員会ができた。
石橋湛山が委員長、世耕弘一が副委員長に就任した。
水谷は、国会で問題化し世論を喚起することが、金塊返還の条件と考え、世耕に情報を提供し、世耕は、隠退蔵物資処理委員会で華々しく活躍した。
この世耕弘一は、現参議院議員の世耕弘成の祖父である。
世耕弘成は、2005年9月11日の第44回衆議院議員総選挙(いわゆる郵政民営化選挙)で、自民党広報本部長代理及び自民党幹事長補佐として自民党のメディア戦略を担当し、注目を浴びた。TVの討論番組等への露出度も高い。
世耕弘一は、どこの倉庫にどんな品物がいくら格納されているか、どんな連中が持ち出したかを指摘する「世耕指令書」を発令した。
それが闇商人の手に渡って詐欺の材料になったり、閣僚や高級官僚、財界人らの旨い汁を吸っていた連中から妨害されたりして、1月半ほどで副委員長の座を追われてしまう。
後藤の死後、GHQへ行く際に通訳を務めていた榎三郎という人物が、「金塊に関する権利は自分にある」と主張しだし、その榎と養子縁組をしてさらに権利を継承したとする和知という運送会社の社長が登場する。
和知も、元新日本党の党員で水谷の部下だった。
和知によれば、金塊は、南方の某国から日本軍部が奪ったもので、1943年の2月か3月ころ、空母「鳳翔」「瑞鶴」に積んできたものだった。
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