内村剛介氏の死
ロシア文学者で評論家の内村剛介氏が、1月30日に亡くなった。
気になる存在として意識していたが、熱心な読者ではなかった。
そのうちに読んでみようと思いながら、時間が徒過していた。
『わが身を吹き抜けたロシア革命』五月書房(0007)に記載されている略年譜をみてみよう。
1920(大正9)年 栃木県に生まれる
1934(昭和9)年/14歳 満州・四平に赴く
1940(昭和15)年/20歳 国立大学ハルビン学院に第21期生として入学
1941(昭和16)年/21歳 ハルビン学院21周年記念祭歌に一等入選
1943(昭和18)年/23歳 ハルビン学院を卒業、関東軍に徴用され、総司令部参謀二課勤務
1945(昭和20)年/25歳 平壌にて逮捕
1946(昭和21)年/26歳 ヴォロシーロフ収監所へ
1948(昭和23)年/28歳 25年の禁固刑、市民権剥奪、5年の流刑を宣言される
1956(昭和31)年/36歳 最後の集団帰国者の1人として舞鶴に上陸
1960(昭和35)年/40歳 日商株式会社に入社
1961(昭和36)年/41歳 「試行」に参加。日商(株)のロシア事務所長に就任
1966(昭和41)年/46歳 『呪縛の構造』現代思潮社刊
1973(昭和48)年/53歳 北海道大学教授に就任
1978(昭和53)年/58歳 上智大学外国語部教授に就任
私が内村氏の名前を知ったのは、記憶は定かではないが、吉本隆明氏の発行していた「試行」に寄稿した論考によってだったように思う。
ラーゲリ体験とその逆境の中で鍛えたのであろう強靭な思索が感じられて、その頃はまだソビエト連邦共和国と呼ばれていた国の情勢分析については、まずはこの人の言うことを聞いてみよう、という気になった。
ソビエト連邦共和国という国家が消滅したのは、1991年のことだった。
まだ、18年しか経っていないとも、もう、18年も過ぎてしまったともいえるだろう。
私がもの心ついた頃は、かなりの人々にとって、憧れの国だったはずである。
「歌ごえ運動」とか「歌ごえ喫茶」などというものがあり、その場合の「歌ごえ」の主役は、ロシア民謡だった。
「カチューシャ」、「ともしび」、「黒い瞳」……。
不思議なことに、日本人にとってもノスタルジーを感じる曲が多かったように思う。
いま考えるとどういう思考回路だったのかと思うが、ソビエト連邦共和国を「わが祖国」などと考えていた人が、特に純真な若者と呼べるような層に結構な比率で存在していた。
もちろん、それは地球上で初めて誕生した社会主義国家だ、ということに起因する。
人工衛星を初めて打ち上げたのはソ連だった。
科学上の発見においても、芸術の分野でも、スポーツの世界でも、ソ連は大きな力を示した。
社会主義は資本主義よりも、優位性があるのではないか、と考える根拠が具体的にあるようにも思えた。
観念論と唯物論が二者択一かどうかは別として、自然科学を学ぶものにとっては、唯物論の方が自然である。
その延長線上で、歴史の発展についても、弁証法的唯物論(史的唯物論)の説くところが、合理的であるように思われた。
マルクスによって創始され、レーニンによって実践的に発展した哲学。
その現実への適用への結果として、地球上に誕生した国家。
それが理想郷でなくて、どこに理想を求められるだろうか?
おそらく、本気でそう考えた青年が少なくなかったのではないだろうか。
しかし、私たちは、いまソビエト連邦共和国が崩壊し、帝国ともみなし得るロシア(連邦)に変貌したことを知っている。
それをいち早く日本人に説いてみせたのが、内村剛介氏だったといえるだろう。
内村氏は、ラーゲリにいる間、「レーニンをしてレーニンを論破する」という意識を持って、朝から晩まで「レーニン全集」を読んだという。
その体験が、ソ連という国家の本質やロシア人の思考方法に対する的確な認識をもたらしたのだろう。
それは、日本にいて遥かな母なる祖国として思い描いていた戦後民主主義者や旧左翼・進歩派とは、明確に異なる視線と姿勢となって表現された。
私たちにとって、昭和の歴史は、歴史であると同時に、同時代性という側面を持っている。
私は満州を知らないが、満州の赤い夕陽といえば、想像できないことはない。
リサーチャーにとって、「満鉄調査部」は、ある意味での理想像だった。
満州国にしろ、ソビエト連邦共和国にしろ、歴史の実験だったとみることもできるだろう。
侵略としての側面と、理想郷を求める側面と。
内村剛介氏の死は、あらためて昭和の歴史を再考する契機になりそうである。
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問題の建物は、写真(産経新聞09年1月29日)に見るように、赤と白の横縞模様に塗装されている。
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裁判員は左図のようなプロセスを経て選任される。
漢字検定としたら、結構な良問ともいえるが、質問内容があらかじめ渡されているのでは意味がない。
木津川市教育委員会と京都府埋蔵文化財調査研究センターが、1月13日に発表したものである。

なお、上掲書では、アメリカは中国政府を支持する態度を示したが、英仏露三国は、ヨーロッパの戦線が大規模化するなかで、極東で対立が生まれることを好まず、公使を通じて「日本と武力抗争を試みるのは賢明でない」と袁世凱に「忠告」したという、と記述している。
その交点の地名は、「糸田」である。
それでは、坂田氏の読解は、どこに導くであろうか?
従来の多数派説は、「末盧国=唐津市あたり」としているが、そうすると、邪馬壹国は佐賀県小城郡・佐賀郡あたりになって、「女王国の東、海を渡る千余里」という記述に合致しない。
その東南へ約40kmの位置、つまり福岡県田川郡・京都郡が、邪馬壹国の所在地である。
山形氏は、従来の史家は、『倭人傳』と訣別出来かねていることが問題で、それは『倭人傳』を『日本古傳』と誤解していること、この傳記を解釈する際の既成の史的知識に原因がある、としている。
支南方方面の土着人の国情習俗などの傳風聞を巧みに混淆させて綴られた雑記文の一種で」、「『半島古傳風聞雑録』とでも言えようか」ということになる。
邪馬台(蓋馬)国の所在地については、「鴨緑江北岸・渾江口より遡ること9kmの古馬嶺村周辺から、麻天嶺の中間地域」ということになる。
2005年の人口構成と2055年の予測とを対比してみよう。
超長期的な人口動態をみた場合、私たちの生きている時代は、きわめて特異的な性格を持っているということができる(
日本在住の日本人人口は、出生数がわずかに増えたものの、死亡数が大幅に増えて、自然減が過去最大の51,000人になる見通しである。
そんな気持ちもあって、知人の「毎年、大晦日の落日を見ることにしている」という言葉を聞き、昨日は海に沈む夕陽を眺めてきました。
ことに、ノーベル賞を、益川俊英、小林誠、南部陽一郎(米国籍)(以上物理学)、下村脩(化学)と、4人の日本人が受賞したことを見ても、日本人の創造力は、きわめて高いものだと思われ、その創造力を働かせて、もっと長期的な視点をもって、問題解決に取 り組むべきではないでしょうか。

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