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2009年1月

2009年1月31日 (土)

内村剛介氏の死/追悼(5)

ロシア文学者で評論家の内村剛介氏が、1月30日に亡くなった。
気になる存在として意識していたが、熱心な読者ではなかった。
そのうちに読んでみようと思いながら、時間が徒過していた。

わが身を吹き抜けたロシア革命』五月書房(0007)に記載されている略年譜をみてみよう。
1920(大正9)年 栃木県に生まれる
1934(昭和9)年/14歳  満州・四平に赴く
1940(昭和15)年/20歳 国立大学ハルビン学院に第21期生として入学
1941(昭和16)年/21歳 ハルビン学院21周年記念祭歌に一等入選
1943(昭和18)年/23歳 ハルビン学院を卒業、関東軍に徴用され、総司令部参謀二課勤務
1945(昭和20)年/25歳 平壌にて逮捕
1946(昭和21)年/26歳 ヴォロシーロフ収監所へ
1948(昭和23)年/28歳 25年の禁固刑、市民権剥奪、5年の流刑を宣言される
1956(昭和31)年/36歳 最後の集団帰国者の1人として舞鶴に上陸
1960(昭和35)年/40歳 日商株式会社に入社
1961(昭和36)年/41歳 「試行」に参加。日商(株)のロシア事務所長に就任
1966(昭和41)年/46歳 『呪縛の構造』現代思潮社刊
1973(昭和48)年/53歳 北海道大学教授に就任
1978(昭和53)年/58歳 上智大学外国語部教授に就任

私が内村氏の名前を知ったのは、記憶は定かではないが、吉本隆明氏の発行していた「試行」に寄稿した論考によってだったように思う。
ラーゲリ体験とその逆境の中で鍛えたのであろう強靭な思索が感じられて、その頃はまだソビエト連邦共和国と呼ばれていた国の情勢分析については、まずはこの人の言うことを聞いてみよう、という気になった。

ソビエト連邦共和国という国家が消滅したのは、1991年のことだった。
まだ、18年しか経っていないとも、もう、18年も過ぎてしまったともいえるだろう。
私がもの心ついた頃は、かなりの人々にとって、憧れの国だったはずである。
「歌ごえ運動」とか「歌ごえ喫茶」などというものがあり、その場合の「歌ごえ」の主役は、ロシア民謡だった。
「カチューシャ」、「ともしび」、「黒い瞳」……。
不思議なことに、日本人にとってもノスタルジーを感じる曲が多かったように思う。
いま考えるとどういう思考回路だったのかと思うが、ソビエト連邦共和国を「わが祖国」などと考えていた人が、特に純真な若者と呼べるような層に結構な比率で存在していた。

もちろん、それは地球上で初めて誕生した社会主義国家だ、ということに起因する。
人工衛星を初めて打ち上げたのはソ連だった。
科学上の発見においても、芸術の分野でも、スポーツの世界でも、ソ連は大きな力を示した。
社会主義は資本主義よりも、優位性があるのではないか、と考える根拠が具体的にあるようにも思えた。

観念論と唯物論が二者択一かどうかは別として、自然科学を学ぶものにとっては、唯物論の方が自然である。
その延長線上で、歴史の発展についても、弁証法的唯物論(史的唯物論)の説くところが、合理的であるように思われた。
マルクスによって創始され、レーニンによって実践的に発展した哲学。
その現実への適用への結果として、地球上に誕生した国家。
それが理想郷でなくて、どこに理想を求められるだろうか?

おそらく、本気でそう考えた青年が少なくなかったのではないだろうか。
しかし、私たちは、いまソビエト連邦共和国が崩壊し、帝国ともみなし得るロシア(連邦)に変貌したことを知っている。
それをいち早く日本人に説いてみせたのが、内村剛介氏だったといえるだろう。
内村氏は、ラーゲリにいる間、「レーニンをしてレーニンを論破する」という意識を持って、朝から晩まで「レーニン全集」を読んだという。
その体験が、ソ連という国家の本質やロシア人の思考方法に対する的確な認識をもたらしたのだろう。

それは、日本にいて遥かな母なる祖国として思い描いていた戦後民主主義者や旧左翼・進歩派とは、明確に異なる視線と姿勢となって表現された。
私たちにとって、昭和の歴史は、歴史であると同時に、同時代性という側面を持っている。
私は満州を知らないが、満州の赤い夕陽といえば、想像できないことはない。
リサーチャーにとって、「満鉄調査部」は、ある意味での理想像だった。
満州国にしろ、ソビエト連邦共和国にしろ、歴史の実験だったとみることもできるだろう。
侵略としての側面と、理想郷を求める側面と。
内村剛介氏の死は、あらためて昭和の歴史を再考する契機になりそうである。

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2009年1月30日 (金)

楳図ハウス一審判決

漫画家の楳図かずおさんが、吉祥寺に建設した自宅をめぐって、近隣住民2人が外壁の撤去を求めていた裁判に一審の判決が降りた。
090129ok22問題の建物は、写真(産経新聞09年1月29日)に見るように、赤と白の横縞模様に塗装されている。

訴訟の経緯は、日刊スポーツによれば、概略以下の通りである。
07年8月1日
建設中の楳図さんの自宅に対し、周辺住民2人が、赤と白のストライプの塗装などを、「異様な外観になる計画で、閑静な住宅街の景観を破壊する」として工事の差し止めの仮処分を申請していたことが判明
07年8月7日
タレントの中川翔子さんが、楳図さんを擁護する発言
07年10月12日
東京地裁が、「法令違反や公序良俗違反は見あたらず、住民らに差し止めの権利はない」として仮処分の申し立てを却下
07年10月24日
周辺住民が、騒音被害ならぬ「騒色被害」の危機として、工事差し止め請求を東京地裁に提訴
07年11月14日
第1回口頭弁論で、楳図さんが、「主観的、個人的価値観の押し付けで、景観利益を侵害しない」として争う姿勢を示す
08年3月13日
覆いのシートが外され、赤白の縞模様が公開
08年4月14日
楳図邸が完成したことにより、周辺住民が外壁の撤去に請求内容を変更
08年9月29日
楳図さんが、赤白のボーダーのネクタイ姿で出廷し、「新参者へのいじめと感じる」と主張。一方、住民側も、「おぞましい」と不快感を訴える
09年1月28日
東京地裁が、周辺住民の請求を棄却
http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp0-20090128-454896.html

判決の詳細は見ていないが、報道されているところでは、以下のような内容である。
1.外壁の色彩に関する条例などの法的規制や住民間の取り決めはない
2.保護されるべき景観利益があるとはいえない
3.仮に景観利益があるとしても、周囲との調和を乱すような建物ではない

まあ、とりあえずは、住民側の完敗といっていいだろう。
もともと、根拠になる法規範が存在していないのだから、判断は感性の問題ということになる。
言ってみれば、好きか嫌いかということである。
私自身は、このような家に住む趣味はないが、趣味は人それぞれである。
だから、よほどのことがない限り、他人の趣味に対して容喙はできないと考えている。
言い換えれば、他人の趣味に干渉して提訴するような住民が、近隣にいたら嫌だろうな、とも思う。

私の住んでいる集合住宅でも、騒音問題をめぐって確執があり、裁判沙汰になっているらしい。
集合住宅では、音がどういう伝わり方をするかよく分からない部分もあるが、上階と下階との間で、決定的な感情的な対立にまで至ってしまった。
バイオリンを練習している音の問題が原因で、もちろん練習過程だから、ミスも多いだろう。
それが耐えられない程度なのか否か、それは全く個人的な感覚の問題である。
われわれの場合も、気にならないとする人が多かったのは事実であるが、だからといって、耐えられない人に我慢せよ、というのもどうかな、という気がする。

保護されるべき景観利益があるかどうか、当該建物が周囲との調和を乱すかどうか、などは、結局主観の問題というしかないだろう。
その時代、その地域の常識(多数の合意が得られるところ)に従うしかない。
周りの住民がこぞって反対というならば、判断は別だったかも知れない。
しかし、所詮趣味や感性の問題を裁判で処理しようとすること自体がムリだった、ということだろう。
もちろん、京都や奈良などの歴史的な街並みの中でならば、話は変わってくる。
もっとも、その場合は、歴史的景観保存条例のようなものが制定されていて、根拠になる法規範も整っているだろうし、常識(多数意見)のレベルもシフトするであろうが。

しかし、何事も、法に抵触しなければ自由である、という考え方も問題だろう。
「法律の規定に触れさへしなければ何をやつても可いと云ふ思想ほど、社会に迷惑をかけるものはない」
統帥権の独立を盾に、権限を拡大しようとする軍部を牽制した、大正デモクラシーの指導者・吉野作造の言葉である。
何だか、最近の風潮に対する言葉のようにも感じられる。

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2009年1月29日 (木)

Heel and/or Hero

大相撲初場所は、ここしばらく見られなかった盛り上がりを見せた。
もちろん、朝青龍の復活によるところが大きい。
私も、久しぶりに、千秋楽の結びの一番をTV観戦した。
両横綱の対戦は、本割りも決定戦も、さすがに見応えのあるものだった。

朝青龍は、3場所連続休場していたので、ここで不甲斐ない結果だと、引退に追い込まれるという瀬戸際だった。
もちろん、危うい相撲もあったが、14日目まで全勝で迎えた千秋楽である。
復活を優勝で飾りたいと切に願っていただろう。
かたや、白鳳は、10日目に新大関の日馬富士に1敗を喫していた。
しかし、朝青龍が休場していた期間を、独占的に優勝しており、ここで朝青龍に優勝されたら面目を失うと考えていただろう。

朝青龍は、稽古不足を伝えられていたこともあって、場所前の下馬評では、白鳳有利という声が多かったと思う。
また、朝青龍については、「品格」が問われるケースもあり、その点でも白鳳の方が好感されていたのではないだろうか。
結果的には、本割りで白鳳が勝ち、決定戦では朝青龍がリベンジを果たした。
商業的な面からみれば、最上の結果だったということになるだろう。

朝青龍の場所前の評価は、いってみればヒールだった。
ヒールという言葉は、プロレスなどで使われていたが、大相撲では朝青龍の以前に誰がそう呼ばれたのか記憶にない。
ヒールという言葉を念のため辞書で引いてみた。

heel[ hl ]
n. かかと; (馬などの)後足(のかかと); (靴・靴下の)かかとの部分; かかと状のもの; 【ゴルフ】クラブのヒール; 〔米俗〕 卑劣な奴; (プロレスの)悪役; 【ラグビー】ヒール.

角界はこのところ不祥事続きだった。
力士への暴行とその結果の死亡、八百長騒ぎ、大麻疑惑、理事長の引責辞任……。
沈滞ムードが漂っていたのだが、朝青龍の復活優勝がそれを払拭してしまったようだ。
少なくとも、初場所に関して言えば、角界の危機を救ったヒーローというべきだろう。

優勝回数からしても大横綱の資格はある。
優勝直後のインタビューで、朝青龍は思わず涙ぐんでいた。かなりプレッシャーがあったのだろうな、と感じさせられる涙だった。
復活優勝によって、周りの目も反転したようだ。
まさに勝てば官軍である。
「品格」についても、決定戦で勝った後の「ガッツポーズ」が問題にされている程度になったらしい。
ガッツポーズは、良くないのか?
野球や水泳やゴルフでは許されて、大相撲では不可なのか?

私は、ダメ押しなどで、横綱はもう少し泰然とした態度が相応しいと感じたことはあったが、ガッツポーズについては、さして違和感はなかった。
それにしても、上記の「7」の訳語はかなり強烈である。
救世主(?)に対して、安易にヒールなどと言わない方がいいのかも知れないと反省した。
プロレスの場合は、演出された悪役であり、まさにヒールという言葉が相応しい。

しかし、それにしても、日本人力士が優勝から遠ざかって久しい。
私は、狂信的なナショナリストではないつもりだが、国技を称する以上、やはり日本人にもう少し優勝を争って欲しいとは思う。
日本人が豊かになって、ハングリー精神が無くなったのが原因だというように説明されている。
しかし、イチロー選手やゴルフの石川遼君などのように、豊かな中で精進に励んでいる例もある。
イチロー選手のストイックな姿勢や遼君の爽やかさなどは、角界も参考にするところがあるのではないだろうか。
ゴルフや野球と相撲は違う?
日頃の精進に欠ける私が言うのもなんであるが、日本人力士には、強くなろうというこだわりが少ないように感じられる。
それも含めて、朝青龍の復活優勝で盛り上がった人気を持続させるためには、角界にも構造改革が必要だ、ということだろう。
それとも、ヒールがいた方が、コマーシャル的には安泰だと考えているのだろうか?

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2009年1月28日 (水)

インターネット法廷の可能性

裁判に関する記事が続いたので、自然にその方面の資料に目が向き、山口宏・副島隆彦『新版 裁判の秘密』宝島文庫(0807)が目に止まった。
東京第二弁護士会に所属する山口弁護士の主張を、「もの書き職人」を自称する副島氏がまとめたものだ。
副島氏は、幅広い分野で活発に言論活動を展開している鋭い問題提起をしている人である。
山口弁護士が余りに多忙なため、そのような形で書籍にしたらしい。
山口弁護士が書類を作成するのは深夜になってからで、睡眠時間は3時間だという。

何故、そんなに忙しいのか?
それは、日本の裁判制度による部分が大きい。
私も、幸いにして自ら被告席に座ったことはないが、証人として出廷したことはある。
やはり、法廷は神聖な場所だと思うから、緊張する。
できれば余り関わりたくない場所であるが、出廷せざるを得ない。

上掲書のエピローグのところで、日本の司法制度に対するいくつかの提言がなされている。
その第一が、「一日も早くインターネット法廷を導入せよ」である。
裁判は、裁判所で行われるのが原則である。
裁判所は全国にあるが、訴訟が起きた地域での裁判所の法廷で行われる。
もちろん、病気で動けない人などの場合は、裁判官がベッドの傍らで尋問する臨床尋問なども行われるが、それは例外である。

弁護士が忙しいのは、この遠隔地で行われる裁判のためでもある。
山口弁護士が例示しているのは、例えば網走市の裁判所で裁判が行われるとすれば、網走まで出向くことになる。
そこで何をするかといえば、「期日を決めてくるだけ」ということだ。
もちろん、実際は、単に期日を決めるだけということではないだろう。
しかし、法廷で、裁判官から「準備書面を陳述しますか」と尋ねられ、頷くだけの仕事なのだ、と山口氏はいう。
準備書面が分かりやすく書いてあれば、それで済むことだという。

そして、次回の期日を決める。
裁判官と双方の弁護士の3人の日程を調整するわけだ。
もちろん、どこの事務所でも、書類はパソコンなどで作っているだろう。
しかし、最終的には、プリントした書類を綴じて、ホチキスで止めて割印を押して郵送するということをしている。
電話回線等の利用は不可だという。

このIT時代に、インターネットの利用が行われていないということだ。
書類や証拠をインターネットでやりとりすることを認めてくれれば、弁護士はもっと依頼人のために働ける、と書いている。
インターネットの利用などは、裁判員制度などよりも優先して実施されるべきではないだろうか。
弁護士が裁判所に出向くのは、「裁判の公開の原則」に基づくものだという。
準備書面の陳述の公開ということである。
しかし、傍聴席から準備書面の内容が読めるわけではない。
そもそも、通常の裁判では、傍聴人はほとんどいない。

裁判の迅速化というのは、大きな課題である。
山口氏の挙げている例では、オウム真理教の麻原彰晃の裁判である。
裁判に長時間かけていたら、裁判中に麻原が死んでしまうかも知れない。
麻原が何歳まで生きるかは神のみぞ知るところだが、60歳くらいで死んでしまうことは十分に考えられる。
60歳で死刑の判決を下しても、意味がないだろう。
もっとも、副島氏は、「あとがき」で、裁判の迅速化が問われていることから、日本の司法は注目度の高い麻原裁判は早くやってしまうだろうと予測している。

裁判に関係した人なら、裁判の迅速化そのものについては、賛成する人が多いだろう。
平成15年には、「裁判の迅速化に関する法律」も制定されている。
司法試験改革では、裁判の迅速化をするため、弁護士を500人から3000人にまで増やすとされ、法科大学院なども設置されている。
裁判員制度も裁判迅速化に応えるという面ももっている。

副島氏は、『属国・日本論』五月書房(0506)などで、アメリカの対日戦略に関して警鐘を鳴らしてきた人である。
「新版のためのあとがき」で、司法試験合格者の増員も、アメリカの要求によるものだと書いている。
日本に進出したアメリカの巨大法律事務所が、増員された弁護士を大量に雇用し、日本の法務や争訟をその事務所で扱うようにすることが目的だという。
金融ばかりでなく、司法の世界にもグローバリズムの波が押し寄せて来ているということらしい。

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2009年1月27日 (火)

長銀粉飾決算事件再考②

長銀粉飾決算事件の該当決算期である平成10年3月期は、きわめて特殊な決算期だったということになる。
平成2年のバブル崩壊を受けて、銀行には巨額の不良債権が残った。
そのため、細野祐二『長銀・粉飾決算「逆転無罪」には、見逃せないウラがある』(「諸君!/08年11月号」掲載)によれば、強い社会的批判を受けて、平成7年12月22日、金融制度調査会は、金融機関による資産の自己査定と監督官庁による早期是正措置の導入を答申し、平成8年6月21日に金融3法が公布され、平成10年4月1日から導入されることになった。
それまで統一経理基準に準じていた日本の銀行経理は、企業会計原則に統一されたが、統一経理基準が最終的に廃止されたのは平成10年6月8日であり、問題の平成10年3月という時点では、移行の過渡期で、2つの基準が並存していた。

そのことは、当時の大手都市銀行18行中14行が、従来の不良債権償却証明制度で決算を行っていたことからしても、統一経理基準での決算が認められていたことは明らかであろう。
したがって、長銀のこの時の決算も、不法決算とすることはできない、ということになる。
ところが、一審、二審共に有罪であった。
それは、細野氏によれば、「公正な会計基準が2つ以上並存することはない」という司法の先入観によるものであった。
しかし、現実の社会では、複数の会計基準が並存している。

上場会社の場合は、企業会計原則に則った決算書を作成する。
ところが非上場会社の圧倒的多数は、税法基準によって決算書を作成している。
上場会社の場合は、一般社会に対して決算を開示する必要があるのに対し、非上場会社ではその必要がなく、決算書は主として税務当局との間での税務折衝としての利益計算が中心テーマになるから、非上場会社が税法基準で決算処理することは当然のことである。
ところが、企業会計原則と税法とでは、すべてが一致しているわけではない。
ダブルスタンダードが存在しているのである。

長銀の粉飾決算事件は、ちょうど会計処理基準が揺れ動いている時点での問題であった。
ここで問題にしたいのは、細野氏が指摘している一審・二審での審理の過程である。
大野木元頭取らの被告人は、有価証券報告書虚偽記載ならびに違法配当の犯罪事実並びに自らの加担・凶暴を是認する調書に署名・捺印していたのである。
つまり、犯罪事実を認める「自白」をしていたということになる。
大野木元頭取は、「『社会に大迷惑をかけたのだから、文句を言わずに刑罰に服しよう』と思った」ということで、調書に署名・捺印したのだという。
そして、その背景に、日本国中が長銀経営陣に対して断罪を求めるような空気に包まれていた、と細野氏は書いている。

「空気」である。
「空気」については、山本七平氏の卓見である
「空気」の研究 』文春文庫(8310)に触れたことがある(08年4月28日の項)。
日本人は、「異」を求めるよりは、「和」を求める傾向がある。
言い換えれば、同質性を志向する傾向があるわけであるが、その「空気」が、自白調書をもある意味で変造させた。
細野氏は、一審・二審の段階では、国民世論やマスコミの作り出す「空気」が、弁護人の法廷における弁論さえ萎縮させた、と書く。
最高裁の判決は、激昂した国民世論が鎮静化したから可能になったのだ、と。

長銀が粉飾せざるを得ない原因を作ったのは誰か?
平成元(1989)年までのバブル期において、頭取・会長を務めた故・杉浦敏介氏等であった、というのが細野氏を含む大方の見方である。
大野木氏らは、その処理を迫られた最終ランナーに過ぎない。
私も、そう思う。
言ってみれば、駅伝の敗北を、アンカーだけに負わせているようなものである。

もちろん、だからといって、大野木氏らが、まったく罪を問われなくていいのか、とも思う。
しかし、それ以上に危惧するのは、「空気」の影響である。
長銀粉飾決算裁判の教訓は、「自白調書」や弁護士の弁論さえも左右する、ということである。
裁判員として参加する市民は、おそらくは法曹の専門家よりも、「空気」に左右されやすいのではないだろうか?
刑事裁判の量刑が、世論という「空気」に左右されていいものだろうか?
その意味でも、裁判員制度に疑問符を付けたいと思うのである。

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2009年1月26日 (月)

長銀粉飾決算事件再考

トヨタ自動車の社長交代と連結営業赤字という決算見通しとの関係について触れた(09年1月22日の項)。
トヨタ自動車だけではない。日産も、ソニーも、東芝も、TDKも……、今まで日本経済を牽引してきた大企業が、軒並み赤字決算発表である。
まるで「みんで渡ればこわくない」を地で行くような感じである。
それぞれの内情は分からないが、不況感が蔓延しているこの際に、出せるマイナス要因を出してしまおう、という部分もあるのではないかと思う。

トヨタ自動車の決算に触れた際に、旧長銀の粉飾決算事件について、最高裁で無罪の判断だったので、粉飾が否認されたかのように書いてしまったが、どうやらこれは誤認だったようだ。
細野祐二という公認会計士が、「諸君!/08年11月号」掲載の『長銀・粉飾決算「逆転無罪」には、見逃せないウラがある』という論文において、否認されたのは不法性であって、粉飾ではない、と書いている。
つまり、問題の決算は、粉飾決算でありながら不法決算ではない、ということである。
果たしてそんなことがあり得るだろうか?

細野会計士は、そもそも粉飾決算という司法上の定義はない、と言う。
粉飾決算というのは「経営者の意図を伴う重要性のある利益、あるいは収益力の不当な過大計上」という社会通念に過ぎない。
さて。問題の長銀の平成10年3月期の決算の事実関係はどうだったのか?
細野氏は、長銀の経営会議及び取締役会資料を紹介している。

現実には関連親密先の損失を完全に一掃するには一兆円規模の手当てが必要。当時これを一掃出来る体力がないのが現実であり、抱えていかざるを得ない。

ここで関連親密先というのは、第一ファイナンス、NED関係、日本リース関係等の5企業グループのことで、まあ長銀の身内のような貸出先である。
長銀は、これらの企業群を一般貸出先と区分し、その不良債権に対する引当・償却を行わなかった。
理由は、上記の引用文の通りである。
この処理を、先の「社会通念としての粉飾決算」に照らしてみよう。
「経営者の意図を伴う」のは、経営会議及び取締役会資料なので、問うまでもない。
「利益、あるいは収益力の不当な過大計上」であるのは、通常ならば引当・償却が必要であるのに、「関連親密先」という特殊な区分を設定して行っていないのであるから、明らかに該当している。
つまり、粉飾決算であったことは、明白なのである。

それでは、この粉飾が不法ではない、というのはどういうことか?
引当金について、企業会計原則注解において、次のように規定されている。

〔注18〕引当金について(貸借対照表原則四の(一)のDの一項、(二)のAの三項及びBの二項)
将来の特定の費用又は損失であって、その発生が当期以前の事象に起因し、発生の可能性が高く、かつ、その金額を合理的に見積ることができる場合には、当期の負担に属する金額を当期の費用又は損失として引当金に繰入れ、当該引当金の残高を貸借対照表の負債の部又は資産の部に記載するものとする。

長銀の「関連親密先」に対する債権は、まさにこのようなものであった。
つまり、長銀の処理は、企業会計原則に違反していた。
企業会計原則は法律ではないが、法的な規範性を持っている。
私も、監査法人との間で、解釈を戦わせた記憶があるが、企業会計原則そのものの解釈ということではなく、それを適用すべき個別事象の、例えば「将来の特定の費用又は損失の見積もり」をどう考えるか、ということであった。

細野論文では、驚くべきことに、平成10年当時の日本の銀行では、企業会計原則が全面適用にはなっていなかった、と書いている。
何ということであろうか。
貸出先企業には厳しい審査をする銀行に、企業会計原則が適用されていなかったとは。
細野氏によれば、平成10年6月8日以前の日本の銀行における決算は、旧大蔵省銀行局による「統一経理基準」に基づいていた。
そして、この「統一経理基準」では、金融機関が不良債権を償却・引当するに際しては、対象債権ごとに、大蔵省の検査部署から事前了解と取ることが求められていたという。
つまり、大蔵省の償却証明がない不良債権の償却・引当が行えなかったというのである。
それゆえに、「粉飾ではあったが、不法ではなかった」ということである。
不法性がないのであれば、無罪判決は容認すべきだろう。
しかし、粉飾に対する責任は、誰がどう負うことになるのだろうか?

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2009年1月25日 (日)

裁判における専門性と教養性

先に、大学における専門教育と教養教育について、思うところを記した(09年1月18日の項)。
裁判員制度がすっきりと腑に落ちてこないのは、このことと関係しているのではないだろうか?
刑事事件において、人の量刑を判断するためには、事実の認定や社会常識などの他に、刑法自体の理解も必要だろうし、他の判例とのバランスも必要になるだろう。
その部分は、少なくとも専門性に係わる部分だろう。

裁判員は、専門性に係わる部分については判断を求められないということだろうか?
WIKIPEDA(09年1月22日最終更新)の解説では、以下のようになっている。

裁判員は審理に参加して、裁判官とともに、証拠調べを行い、有罪か無罪かの判断と、有罪の場合の量刑の判断を行うが、法律の解釈についての判断や訴訟手続についての判断など、法律に関する専門知識が必要な事項については裁判官が担当する(法6条)。

この辺りが、実際にどう運用されるのか、イメージが浮かばない。
有罪の判断をしたら、量刑の判断に移る。
量刑の判断に必要な法律の解釈については、裁判官が担当するとのことであるが、他人に法律の解釈を委ねて量刑の判断ができるものなのだろうか?
一連の判断の流れを、別の人格が分担して行うということが可能なのだろうか。

危険運転致死傷罪の場合について考えてみよう。

(危険運転致死傷)
刑法第208条の2
アルコール又は薬物の影響により正常な運転が困難な状態で自動車を走行させ、よって、人を負傷させた者は15年以下の懲役に処し、人を死亡させた者は1年以上の有期懲役に処する。その進行を制御することが困難な高速度で、又はその進行を制御する技能を有しないで自動車を走行させ、よって人を死傷させた者も、同様とする。
2 人又は車の通行を妨害する目的で、走行中の自動車の直前に進入し、その他通行中の人又は車に著しく接近し、かつ、重大な交通の危険を生じさせる速度で自動車を運転し、よって人を死傷させた者も、前項と同様とする。赤色信号又はこれに相当する信号を殊更に無視し、かつ、重大な交通の危険を生じさせる速度で自動車を運転し、よって人を死傷させた者も、同様とする。

2006(平成18)年8月25日に、福岡市の元職員が起こした交通事故に関する福岡地裁の判断は、危険運転致死傷罪の成立を認めなかった。
事実認定は、以下の通りである(08年1月9日の項)。

(前略)
被告は事故直後、ハザードランプをつけて降車したり、携帯電話で友人に身代わりを頼むなど、相応の判断能力を失っていなかったことをうかがわせる言動にも出ている。飲酒検知時も千鳥足になったり足がもつれたりしたことはなく……(以下略)
(中略)
被告は二軒目の飲食店を出発して事故後に車を停止させるまでの約八分間、湾曲した道路を進行し、交差点の右折左折や直進を繰り返した。幅約二・七メートルの車道でも車幅一・七九メートルの車を運転していた。
(後略)

このような事実認定に基づいた上で、裁判官は、危険運転致死傷罪に該当しないというように、「法律の解釈」を行ったわけである。
「法律の解釈」と「事実の解釈」は不可分だろう。
裁判官は、交差点の右折左折や直進を繰り返したのだから、「正常な運転が困難な状態」ではなかった、と判断して、危険運転致死傷罪の適用要件を満たしていないと判断したのだろう。

しかし、約8分の間の運転の経過で、正常な運転が困難な状態であったか否かを判断できるであろうか?
実際に、元職員は、追突事故を起こし、追突された車が海に転落し、乗っていた幼児3人が死亡するという悲惨な結果が起きているのである。
裁判官は、この事故の原因を、「アルコールの影響により正常な運転が困難な状態だったとは認められない」として、「わき見運転による前方不注意」によるものと認定した。
私は、そもそも「わき見運転による前方不注意」が「正常な運転」ではないと解釈するが、法の解釈を裁判官が行うとしたら、裁判員の判断とは何だろうと思う。

ここで、専門性と教養性という問題になってくる。
私は、この判決を書いた裁判官は、専門知識はともかくとして、一般教養(常識)が足りないのではないか、と批判した。
どんなに専門性が高くても、人間の心理や行動に関する判断には、一般教養的な要素が大きいだろう。
言ってみれば、一般教養というインフラの上に、専門知識を構築しなければ、見当違いの判断を示すことになり兼ねない。
裁判に市民的な常識性を導入することには大いに賛成であるが、裁判員制度によってそれが実現するとは思えない。

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2009年1月24日 (土)

裁判員制度に関する素朴な疑問

裁判員制度というものが、今年から実施されることになっている。
WIKIPEDIA(09年1月22日最終更新)の解説を抜粋してみよう。

市民(衆議院議員選挙の有権者)から無作為に選ばれた裁判員が裁判官とともに裁判を行う制度で、国民の司法参加により市民が持つ日常感覚や常識といったものを裁判に反映するとともに、司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上を図ることが目的とされている。
裁判員制度が適用される事件は地方裁判所で行われる刑事事件のうち、殺人罪、傷害致死罪、強盗致死傷罪、現住建造物等放火罪、身代金目的誘拐罪など、一定の重大な犯罪についての裁判である。

2_52_7 裁判員は左図のようなプロセスを経て選任される。
候補者名簿に記載された場合は、12月ごろまでに通知があるということだから、今年の裁判員候補者には既に通知が届いているということになる。
裁判員候補者名簿に記載されるのは、毎年約29万5000人で、352人に1人の確率であり、実際に裁判員となる確率は5000人に1人だという。
まあ、事実上は実際に裁判員になる可能性はほとんどない、といえる。
ある人が裁判員になる確率が小さくても、必ず誰かが選任されるとすれば、やはり他人事とすべきではないのだろう。
しかし、私自身を顧みれば、現時点ではまったく他人事というのが率直なところである。
何か通知が来たら、その時に真面目に考えよう……。
おそらくは、多くの人がそう考えているのではなかろうか。

裁判員には、出廷義務や守秘義務が課せられる。
裁判員は、事実の認定、法令の適用、刑の量定について裁判官と共に合議体を構成して裁判をする権限を有する。
守秘義務は、評議の経過やそれぞれの裁判官や裁判員の意見やその多少の数およびその他職務上知り得た秘密を漏らしてはならない、ということで、この義務は生涯にわたって負うということになる。
それにしても、なぜこんな制度が導入されたのだろうか?

世論調査では、裁判員として参加したいか、という問いに対して、以下のような回答だった(2006年12月時点)。
・参加したい……5.6%
・参加してもよい……15.2%
・あまり参加したくないが、義務であるならば参加せざるを得ない……44.5%
・義務であっても参加したくない……33.6%

つまり、積極的に参加したい、とする人は殆どいないということだ。
私も、判決に違和感を持つことがないわけではない。
例えば、福岡市の元職員の飲酒運転に関し、危険運転罪の成立を認めなかった判決を「非常識な判決」としたことがある(08年1月9日の項)。
だから、裁判官に、もっと社会の実相を知ってもらいたいと思う。

しかし、だからといって、「市民が持つ日常感覚や常識といったものを裁判に反映させる」ために、市民が裁判に参加することがいいのかどうかは別問題である。
仮に裁判員に選ばれたとしたら、出廷義務や守秘義務が大きな負担になるだろうことは容易に想像できる。
その負担を越えるメリットが得られるのか?

そもそも、司法試験は、最も難しい資格試験として知られている。
われわれは、難しい試験を通った人だからということで、法曹人を信頼している。
もちろん、世には悪徳弁護士なとと呼ばれる人もいないわけではないけれど、まあ基本的には弁護士ならば信頼するだろう。
そして、司法的判断には、高度の知見が必要になると考えている。
司法試験に合格した後も、一定期間の研修が課されていることも知っている。

市民の場合はどうか?
確かに、司法以外の社会生活に関しては、経験豊富な人も多いだろう。
しかし、選挙権を有する者から無作為で抽出するとなると、その人のバックグランドに関しては、何も担保されないことになる。
一方、なんらかの基準で作為的に選ぶとすれば、その基準自体をどう考えるかが、一義的には決まらないだろう。

今の制度は、もちろん見直しも想定されているが、そもそも市民が裁判に参加して得られるメリットが、例えば市民的常識を反映させるということであるならば、裁判員制度などではない方法も考えられるのではなかろうか。
少なくとも、私は、人を裁くことに参加したいとは思わない。
「義務であっても参加したくない」派であるが、現実には「義務であるならば参加せざるを得ない」ということになるだろう。
つまり、不本意ながら評決に係わることになるわけで、そんなことでいいのだろうか?

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2009年1月23日 (金)

民主党石井一副代表の大暴投

民主党という政党は、阪神タイガースに似ているような気がする。
せっかく好機がまわって来ているにもかかわらず、いつも大事な局面で自滅的なことをして、チャンスを逃してしまい、応援しようかな、と思っている人間をも失望させてしまう。
先に自ら命を断った永田寿康元議員の偽メール事件がそうだったが(09年1月8日の項)、今回は、石井副代表という要職にある人が参院予算委員会で、麻生首相に「漢字テスト」をするというバカバカしいことをしてみせた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090120-00000565-san-pol

もちろん、首相の漢字能力については、いろいろ言われている。
私も、「今年の漢字」との関係で、「首相の漢字能力検定」について書いたことがある(08年12月13日の項)。
しかし、これをパネルまで作って国会での質問に使うというのは、まったく違うと言うべきだろう。
石井氏は、おそらく国民の間でこの話題がかなり盛り上がっていることを踏まえて、人気取りのつもりでやったパフォーマンスだろう。
実際に、石井氏は、「最近の小学生の間では、漢字が読めないと「麻生」と呼ばれ「あっそう」と切り返すのがはやりだ」という話をを紹介している。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090121-00000032-sph-soci
そういう状況の中で、麻生首相を挑発すれば、何らかの失点を稼げるのではないかと考えたのだろう。

しかし、石井氏のパフォーマンスは、余りにも現下の厳しい情勢とかけ離れた独りよがりである。
民主党本部や石井氏に批判が相次いでいるというが、当たり前である。
こんなことをしているようでは、民主党への政権交代など覚束ない。
阪神タイガースがペナントレースで絶対優位な位置にいながら、最終的に優勝を逃してしまう構図に似ているといえないだろうか。
そういえば、石井氏は、タイガースのお膝元の神戸市の出身だ。
まあ、それは関係ないだろうけれど。

石井氏は、神戸市須磨区の生まれで、甲南中学、甲南高校を経て、甲南大学経済学部を卒業。スタンフォード大学でマスター・オブ・アーツの学位を取得したとある。
父親は、兵庫県議会議員だった。
日本生産性本部の職員だったが、政治家を志し、1969年の総選挙で初当選。
1989年には、第一次海部内閣において、国土庁長官として入閣した。

自民党では旧竹下派に属していたが、分裂に際し、小沢一郎や羽田孜と行動を共にし、1993年に、宮沢内閣不信任案に同調して自民党を離党して新生党に参加。
その後、一時小沢一郎と袂を分かつ時期があったが、民主党に参加し、2005年の郵政総選挙で落選するが、2007年の参議院選挙で参議院に鞍替えして国会議員としての身分を継続中というのが略歴である。
永田寿康元議員などとは違って、大ベテランといっていいだろう。
もっとも、公明党・創価学会を批判しているところなどは、永田元議員と共通性があるともいえる。

石井氏は、「文藝春秋」の昨年11月号に掲載された首相の手記で使われた「就中」など12個の漢字を並べたボードを用意し、「相当高度な漢字だ。これを隠して、どれだけ読めるかやってみたかったが、先に渡してあるから今なら読めるだろう」と首相を挑発した。
当該手記では、臨時国会冒頭の衆院解散の決意表明がされていたので、早期解散を迫ることが本意だったのだろうが、話題はそちらの方には向かわなかった。
ちなみに、石井氏の出題は、次のような漢字である。

2漢字検定としたら、結構な良問ともいえるが、質問内容があらかじめ渡されているのでは意味がない。
予算委員会では、真面目に予算審議をしろ、というのが多くの国民の声だろう。
石井氏は、首相が「漢字読めない(新KY)」であることを強調したかったらしいが、自分が「空気読めない(元祖KY)」であった、というマンガ的な一幕ということになる。
オバマ新大統領の演説と比べても仕方がないけれど(オバマ氏のスピーチライターは27歳だという)、高校時代だったか、statesmanpoliticianの違いを教わったことを思い出した。

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2009年1月22日 (木)

トヨタの社長交代と赤字発表との関係

2年連続で2兆円を超える営業利益を出していたトヨタ自動車が、この3月期の決算見通しを営業赤字と発表したのは記憶に新しい。
もちろん、そこまで不況が急速に進展しているのか、と驚いた次第だった(08年12月23日の項)。
身の回りでも、景気のいい話などは皆無であるが、トヨタですら赤字なのでは仕方がないか、とも。

そして、1月20日、トヨタ自動車の社長交代が内定したことが正式にアナウンスされた。
赤字発表の際から、社長が交代するのではないかという観測が流れていたが、それが本当だったということである。
もちろん、私企業の社長交代だから、第三者がどうこういう問題ではない。
新社長に内定した豊田章男氏は、実質的な創業者ともいうべき豊田章一郎氏の孫にあたるという。
大変な時期だから、創業家に大政奉還して、難局を乗り切ろうということも理解できる。

しかし、正式に創業家のプリンスが社長に内定したということを聞くと、連結の営業赤字発表も、出来レースだったのか、という気がしてくる。
もちろん、トヨタ自動車は監査体制も万全であろうから、極端な会計操作などはないだろう。
それでも、期間損益に関しては、収益についても費用についても、判断の要素があることは事実である。
だから、利益の計算が、完全に一義的に決まるということではなく、努力の要素があることは、企業の現場では当たり前のことである。
その努力の方向として、利益を少なくしようとすれば、税務当局に見解が問われ、利益を多くしようとすれば、粉飾が問われる。

旧長銀の例では、粉飾の有無の認定に、10年近い裁判を要した(08年7月19日の項)。
旧長銀の場合は、大野木克信元頭取ら旧経営陣3人は、いずれも無罪となった。
つまり、粉飾ではないと認定され、巨大損失に関する経営責任は何が何だか分からなくなってしまった。
言い換えれば、利益計算に関してはいろいろな見方ができるので、トヨタ自動車のような巨大企業の場合、ある程度目標を定めれば、ある範囲内であれば、そこに着地することは比較的容易ともいえよう。

決算見通しの発表は、もちろん外部向けに行われる。
市場での公正な判断のためには、決算数値自身が信頼できるものでなければならない。
そのため、上場企業は、かなりのお金を払って監査法人に会計監査を依頼している。
監査法人から「無限定適正」というお墨付きを貰わなければ、その企業の存続は危ういということになる。

しかし、今回の赤字見通しの決算発表には、多分に内部向けの効果を狙った部分があるのではないか、と思う。
創業家への社長交代をいずれ行うことにするとすれば、そのタイミングをどう考えるかということが問題になる。
順風期と逆風期の両局面があるだろう。
2008年は、トヨタグループ(ダイハツ工業、日野自動車を含む)の世界販売台数がGMを抜いて世界一になったらしい。
GMは77年間世界一を維持してきたというから、歴史的である。

ここまでは、トヨタにとって順風だった。
しかし、世界的な景気悪化で、風向きが急転した。
GMは、今や存続が危ぶまれる状態になってしまった。
しばらくは逆風期が続くことは避けられないだろう。
としたら、これを引き締めの好機とできないか。
トヨタの役員会はそう考えたのではないだろうか。

赤字決算からのスタートであれば、新社長のプレッシャーも軽減されるだろうし、社内の志気も引き締まるだろう。
と考えれば、ここは可能な限り営業利益を低くすることが、一石何鳥にもなり得る。
おそらくはそういうような経緯を踏まえた上で、先ず営業赤字が発表され、社内的に一種のショック療法を施した上で、正式に社長交代の発表という段取りになったのだろう。
社長交代というのは、通常は4年に1度程度だろうが、章男氏はまだ52歳だから当然長期政権になることが予想される。

トヨタ自動車の動向の影響力は大きい。
デンソーが、1~3月に計11日間の工場操業停止に踏み切るという。
大規模な生産調整を実施するのは、1949年の創業以来初めてである。
秋葉原の歩行者天国で衝撃的な無差別殺人事件を起こした容疑者も、トヨタ系列の関東自動車工業への派遣社員だった(08年6月11日の項6月22日の項)。
経済ばかりでなく、社会的にも大きな影響を及ぼすといっていい。
まあ、章男氏はクルマの申し子のような人らしいから、クルマ離れという流れの中でどう手腕を発揮するか、社会的責任の問題も含め、注目するとしよう。

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2009年1月21日 (水)

「かんぽの宿」一括売却に関する竹中平蔵氏の宮内氏擁護論

「かんぽの宿」をオリックス・グループに一括売却する件について、鳩山総務相が異議を唱えていることが議論を呼んでいる。
このブログでも、私たちのような市井の人間には想定外の「しかけ」ではないのか。言い換えれば、宮内義彦氏の率いるオリックス・グループが譲渡先であっては、出来レース的ではないか、と書いた(09年1月9日の項)。
本件については、「泉の波立ち」で精力的に執筆している南堂久志さんも、「政府の財産である「簡保」の資産を、破格の安値で一括売却を受けるというのは、莫大な額になる国民資産を、捨て値でちょうだいしよう、という魂胆だ。」と批判している。
http://www005.upp.so-net.ne.jp/greentree/koizumi/main.htm
鳩山総務相の「待った」については、賛否両論あるようだ。

宮内氏の盟友の竹中平蔵氏が、宮内擁護論を展開している。
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090119/plc0901190243000-n1.htm
竹中氏は、論点を次のように集約している。

第1に、資産価格が落ち込んでいる今の時期に、急いで売却するのは適切ではない。第2に、オリックスの宮内義彦会長は規制改革会議の議長を務めており、郵政民営化による資産処分にかかわるのは「できレース」的である。
……
そもそも民営化とは、民間の判断に任せることであり、経営判断の問題に政治が口出しすること、しかも機会費用の概念を理解しない政治家が介入することは、根本的に誤っている。

この部分だけを取り出してみれば、竹中氏の意見は正論のように聞こえる。
「機会費用」などと経済学者に言われると、何となく「そうですか……」と引き下がらざるを得ない雰囲気になってくる。
機会費用とは何か?
私などは、費用の一種のことかと思ってしまうが、むしろ利益の概念だというからややこしい。
WIKIPEDIA(09年1月16日最終更新)では次のように説明されている。

機会費用きかいひよう opportunity cost)とは、選択されなかった選択肢のうちで最善の価値のことである。
法学では、逸失利益とも呼ばれる。
……
例えば、大学進学の機会費用とは、進学せずに就学期間中働いていたら得られたと考えられる利益である。

竹中氏は、次のように説明する。

今のような不況期に資産を売却する価格は、確かに好況期に比べて低くなる。しかし民営化された郵政は、売却した資金を新たな事業資産に投資することになる。その際、そうした投資資産の購入価格も不況期には安くなっている。従ってこれは相対価格の問題であり重要な経営判断なのである。いつが適切かは、市場や経営を知らない政治家や官僚に判断できる問題ではない。

「民営化=市場主義」こそが正しい選択肢なのだ、ということであろう。
しかし、それは、公正な市場が形成されていて、参加者が同等の条件で競争している、ということが前提条件になるのではないか。
宮内氏が、一種のインサイダーであって、情報の量と質において、有利な立場にあったことは明らかで、そもそも上記の前提条件が該当しない。

竹中氏は、次のように宮内氏を擁護している。

第2の点についても、根本的な錯誤がある。まず、郵政民営化のプロセスに規制改革会議が関係したことはない。

そして、鳩山総務相の見解を、「民間人排除の論理」と一般化して批判する。
特定の問題を一般論で論議するのは、欺瞞的だろう。
問われているのは、民間人が政策決定に係わることの是非ではなく、総合規制改革会議議長だった宮内氏の率いるオリックスグループが、簿価よりも低い価格で一括譲受することの是非である。
総合規制改革会議から、郵政民営化の答申はでていないが、郵政民営化問題が経済財政諮問会議に一本化されるまでは議論が行われていたのであり、無関係とは言えない、と鳩山総務相が反論している。
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090120/plc0901201742007-n2.htm
せっかくの擁護論ではあるが、これでは竹中氏が仲間に甘いことを表明しているだけで、かえって逆効果だと思うが、それが竹中氏には分からなくなっているらしい。

また、竹中氏は、ホテルの営業に関して、次のように言っている。

完全民営化されたかんぽ生命保険には、他の民間企業と同様、保険業法が適用される。当たり前の話だが、民間の保険会社がホテル業を営むことはあり得ないことだ。ホテル業のリスクが、金融の本業に影響を及ぼすことがあってはならない(いわゆるリスク遮断)からである。

これに対し、鳩山氏は以下のように事実誤認を指摘している。

竹中氏の論文には間違いがある。竹中氏は「民間の保険会社がホテル業を営むことはあり得ない」として「かんぽの宿」が「かんぽ生命」の施設のように書いているが、「かんぽの宿」は(親会社の)日本郵政が所有する施設だ。
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090120/plc0901201742007-n1.htm

ここは鳩山氏に歩があるだろう。

オリックスは外資ではないが、今回の事態を見ていると、破綻した長銀がハゲタカファンドに買収された案件を連想するのは考えすぎだろうか。
もっとも、関岡英之氏などによれば、郵政民営化自体が、アメリカの「年次改革要望書」に沿ったものだということだから、似ていて当然かも知れない。
この辺りの「しかけ」については、もっと知らなければならないと思う。

竹中平蔵氏は、依然としてグローバル市場主義(米国型金融資本主義)の信奉者のようであるが、かつての僚友の中谷巌氏が「週刊朝日09年1月23日号」で、『「改革」が日本を不幸にした』と実に率直に「懺悔」している。
中谷氏は、1969~74年にハーバード大学に留学し、市場主義的な世界観に没頭した、と紹介されている。
それが、歴史、文化、哲学などの専門家と交流する中で、「経済学で記述できることは社会全体の2~3割に過ぎないとわかってきたのです」と語っている。
まあ、実に素直と言えば素直なのだけれど、「今頃何言ってるの?」という気がする。
中谷氏のいう「社会」というのが、人間の営みのことを指すとしたら、中谷氏に、加藤周一氏の次の言葉を贈りたい(08年12月7日の項)。

文学藝術についていえば、昔芥川龍之介は、『人生は一行のボードレールにも若かず』といったことがある。私はその説に全く反対である。しかし一行のボードレールも知らずに過ごす人生は、さぞ空しかろう、と私は考えていたし、今でもそう考える。

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2009年1月20日 (火)

張作霖爆殺事件と芥川龍之介の予感

歴史の距離感というのは不思議なものだと思う。
東大の安田講堂で、全国全共闘と機動隊とが衝突した40年前の出来事は、私にとっては同時代史である。
もちろん、その時代から「遙けくも来つるものかな」というような感懐はあるが、まあそう昔話という気がするわけではない。
しかし、さらにその40年前に起きた張作霖爆殺事件は、それこそ遙か昔の歴史的事象のように感じられる。
40年間という時間の長さは変わらないのだけど、自分がまだ産まれていない時から青春期までの40年間と、青春期から現在までの40年間では、心理的には著しい違いがある。

中村草田男が「降る雪や明治は遠くなりにけり」と詠んだのは、昭和6(1931)年のことだった(07年12月6日の項)。
大正の15年間を間に挟んでいるので、昭和6(1931)年と明治が終わった1912年の距離感と、現在と昭和が終わった1989年との距離感も似たようなものだと思う。
昭和は既にノスタルジーの対象である。

大正から昭和への改元は、12月25日という年の瀬だったから、昭和元年はほとんど無かったに等しい。
実質的な昭和の始まりは、昭和2年だったと考えていいだろう。おそらく、心理的にも昭和2年が昭和元年と感じられたのではないだろうか。
時間は連続していても、改元という事象は、否応なく時間の節目を感じさせるだろう。
昭和から平成へ改元のあった1989年も、振り返ってみれば歴史的節目の年だったように思う。
昭和元年と昭和64年が、共に7日間しかなかったのも、偶然ではあるけれど何となく因縁めいてはいる。

1989年の主な出来事を拾ってみる。
・1月7日   昭和天皇崩御。皇太子明仁親王即位。小渕恵三官房長官が、新元号「平成」を発表
・6月4日   天安門事件
・11月4日   オウム真理教による坂本弁護士一家殺害事件発生
・11月11日 ベルリンの壁崩壊
・12月3日   米ソ首脳によるマルタ階段で冷戦の終結を宣言
・12月29日 東証の日経平均株価が大納会で史上最高値(38,915円)を記録

もちろん、平成改元が天安門事件や冷戦の終結に影響しているとは思わないが、偶然にせよ1つの歴史的転換の年だったとは言えるだろう。
何となく世界中が騒然としていたし、国内もバブルの最後の火が燃え盛っていた。
平成という言葉とは裏腹に、平成元年は、浮き足だった年だったともいえるのではないだろうか。

今日の日経平均の終値は8,066円だったから、この20年間で31,000円近く下落している。
現在の水準は、最高値の20%程度である。
もちろん、株価だけで資産評価がなされるわけではないが、株式についてみれば、20年の間に資産価値が1/5になってしまったということだ。
「失われた10年」ということが言われていたが、既に「20年」が失われているとも言えるだろう。
麻生内閣の支持率が20%を割っている。
麻生太郎という人の問題もあるだろうが、「自民党をぶっ壊す」という小泉マジックによって自民党が延命したに過ぎないのではないか。
現状は、森内閣時代に戻ったということだと思う。森内閣で、自民党政権は歴史的使命を終えていたのだと思う。
現在多くの国民が感じている閉塞感は、森内閣時代から麻生内閣の現在まで、つまりは21世紀に入って、果たして何が変わったのか、という感覚によるものと言えないだろうか。

さて、実質的な昭和元年ともいうべき昭和2(1927)年はどのような時代だったか?
3月14日に、時の蔵相片岡直温が、「東京渡辺銀行が破綻」と失言して、昭和金融恐慌の発端となった。
3月24日には、蒋介石の国民革命軍が南京に入城する際に、諸外国の領事館を襲撃するという南京事件が起きる。
暗い世相だったであろうことは想像に難くない。

そんな中で、7月24日に、芥川龍之介が睡眠薬を多量に服用して自殺した。
遺書には「唯ぼんやりした不安」とあった。
芥川の不安は、翌年の張作霖爆殺事件を1つのきっかけとする軍部の独走時代となって現実化した。
カナリヤは危険な異物に敏感に反応するので、炭鉱に入るときに先導役を担わされたという。
オウム真理教のサティアンの捜査でもカナリヤが使われていた。
芥川の鋭い感受性は、時代の行方を感知するカナリヤの役割を果たしたのではないか、という気がする。

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2009年1月19日 (月)

張作霖爆殺事件と昭和天皇

田母神前航空幕僚長の張作霖爆殺事件に対する認識に、異論を書いた(09年1月13日の項)。
田母神氏の見方は、明らかに偏向していると私は思うが、それは相対的なものではないか、という人もいるだろう。
偶々手にした『天皇・皇室事件史データファイル (別冊歴史読本 34)』新人物往来社(0902)に、「張作霖爆殺事件」の項目が載っているので、見てみよう。

リードの文章は以下の通りである。

「満州某重大事件」として、戦後まで国民に真相が知らされなかった関東軍の独走は、その後の軍部専横の嚆矢となった。

自衛隊の航空幕僚長という最高幹部が、「最近ではコミンテルンの仕業という説が極めて有力になってきている。」と書き、それが一民間私企業の懸賞論文とはいえ、最優秀作に選ばれるということに、私はきな臭さを感じざるを得ない。
東亜・太平洋戦争への道において、軍部専横がいかに大きな要因だったか、語るまでもないだろう。
もちろん、戦前・戦中の軍部と現在の自衛隊は、そのコントロールの仕組みがまったく異なっている。
しかし、戦力を独占している集団には、そのことを自覚した自制が求められることは当然だろう。

上掲書に戻る。
1928(昭和3)年、北伐中の中国・国民革命軍(蒋介石)と北京にいた張作霖率いる奉天軍の衝突が懸念される事態となった。
田中義一首相は、蒋介石から満州には侵攻しないとの言質をとり、張作霖には満州に撤退するよう調整を試みた。
田中義一の考えは、山海関(満州と北支の境界)を境に、北支は蒋介石に治めさせ、満州で張作霖を温存して傀儡として動かし、満州における権益を拡大しようとするものであった。

関東軍は、政府の意向とは別の満州支配のシナリオを考えていた。
張作霖は、田中の提案に乗って、6月4日の早朝、北京を退去し特別編成列車で満州に引き上げようとした。
途中、奉天近郊で線路に仕掛けられた火薬が爆発して、列車ごと吹き飛ばされるという事件が起きた。
張作霖は重傷を負い、それがもとでまもなく死亡した。

事件の翌日、大阪朝日新聞の6月5日夕刊は、「南軍の便衣隊、張作霖氏の列車を爆破」との見出しの下に、便衣隊犯人説を報じた。
便衣隊とは、日中戦争時に、中国において平服を着て敵地に潜入し、内牒、後方撹乱、宣伝活動、暗殺、破壊、襲撃などを行なった中国人の特殊部隊のことである。
http://www.wdic.org/w/MILI/%E4%BE%BF%E8%A1%A3%E9%9A%8A
まあ、ゲリラ軍と考えていいだろう。
しかし、便衣隊説が偽装工作であることは、事情を知る者にはすぐに想像できたようである。

元老西園寺公望は、秘書の原田熊雄に「どうも怪しい。日本の陸軍あたりが元凶ではるまいか」と漏らしている。
田中義一は、真相をまったく知らされていず、小川平吉鉄道相から、現場に残された便衣隊の遺体のでっち上げなどの謀略工作を知らされ、「河本の馬鹿野郎!」と大声でどなったらしい。
河本とは、関東軍高級参謀・河本大作大佐で、事件が河本大佐の指示で行われたことは既に書いた。

陸軍首脳部は、6月末に河本を呼び寄せて尋問したが、河本は全面否定し、尋問する側で河本の謀略工作の一端を知っていた荒木貞夫参謀本部作戦部長らは、「河本は関係なし」とそれ以上の追及を放棄し、白川義則陸相も了承した。
10月8日になって、満州に派遣していた憲兵司令官から、ことの全貌を聞いた田中首相は、「それじゃオラはだまされていたのか」と、怒った。

田中首相は、すぐに西園寺に事情を説明したが、西園寺は、「日本の軍人であることが分かったら、断然処罰することが、国際的な信用を維持する」として、田中に即時の処断を迫り、天皇陛下に報告するように指示した。
しかし、陸軍、閣僚内部から、真相発表は国家の恥辱を自ら吐露することで、百害あって一利なし、と反対が強まり、田中首相は大いに迷った。

12月24日、参内した田中首相は、「事件は帝国軍人が関係している。鋭意調査中で、事実ならば厳正に処分を行う」旨奏上した。
天皇からは、「軍紀は厳重に維持するよう」釘を刺された。
ヨーロッパ視察をしていた天皇は、厳正、公正な判断力を下したのだった。

1929年1月から再開された第56議会で、田中首相は、当時民政党に所属していた中野正剛に「満州某重大事件」の公表を迫られた。
中野正剛は、東方会総裁として右翼のイメージが強いが、反軍派の政党人としての一面も持っていた。
西園寺や天皇からは、厳正な処分をせかされ、議会、政友会、閣僚の過半は、公表反対で、田中は板挟み状態になり、厳正な処分を実行しようとする田中に対して、陸軍は「もし軍法会議を開いて尋問されれば、河本は日本の謀略を全部暴露する」と開き直った。
結局、田中首相は陸軍との間で、関東軍は無関係だが警備に手落ちがあったので責任者を行政処分する、という線で妥協してしまった。

天皇への報告をどうするかが、田中にとっては難題だったが、6月27日に、上記の妥協案を基本として奏上した。
しかし、天皇の耳には既に河本大佐の謀略計画の全貌が入っていて、統帥権干犯、軍紀弛緩事件として認識していた。
田中の「厳正に処分する」という以前の報告と180度変わっていたので、田中を叱責したわけであるが、その時の発言については、証言者によって微妙なニュアンスの差がある。
しかし、大いに不快感を示したことは共通しており、鈴木侍従長から天皇の言葉を聞いた田中首相は即座に辞意を固め、7月3日に総辞職した。

上掲書は、次のように総括している。

この事件の処理の誤りが、昭和の軍国主義の幕を開くことになった。河本大佐は関東軍、陸軍内で英雄視され、その後、第二、第三の河本が現れ、石原莞爾による満州事変を引き起こし、関東軍の暴走、陸軍の暴走へとエスカレートしていく発火点となった。陸軍の下克上を抑えきれず、天皇の統帥権を無視した軍の暴走を阻止できなかったことも、シビリアン・コントロールの不全という戦前の政軍関係の矛盾がこの事件に集約されている。

このような歴史的な事件に関して、田母神前航空幕僚長の意見が、自衛隊幹部の共通認識だとしたら問題だろう。
防衛大学や統合幕僚学校等においては、もう少し中立的な歴史教育をするべきではなかろうか。

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2009年1月18日 (日)

最近の大学事情と専門教育、教養教育

昭和44(1969)年の1月18日、東大安田講堂では、全国全共闘の学生と機動隊が激しく衝突していた。
その模様は、全国にTVで生放映され、安田講堂の攻防戦は、広く国民の関心事となった。
全共闘の学生は、1日持ちこたえたものの、圧倒的な装備の差にいつまでも抵抗できるはずもなく、翌19日に安田講堂は落城する。
全共闘運動は全国に拡散するが、次の主戦場と位置づけられた京都大学では、後に「狂気の3日間」と呼ばれる奇妙な事態が起きた。
安田講堂攻防戦の熱気が冷めやらぬ1月21日から23日にかけて、日大全共闘等の武闘勢力が押し掛けてくるというウワサの中で、大学の正門が「全共闘から大学を守れ」というスローガンによって逆封鎖されたのだった。
冷静さを取り戻すに連れ、この逆封鎖はベクトルを反転し、全共闘の問いかけを真剣に捉えようという雰囲気が、一般学生に広がっていった。

安田講堂の攻防戦に際し、全共闘議長の山本義隆さん(量子論の研究者、後に駿台予備校講師)は、直前に逮捕状が出ていたため東大構内から去った。
山本さんに代わって、安田講堂防衛隊長となったのが今井澄さんだった。
今井澄さんがマイクをとったと伝えられている最後の時計台放送は、胸に沁み込むものだった。

我々の闘いは勝利だった。全国の学生、市民、労働者の皆さん、我々の闘いは決して終わったのではなく、我々に代わって闘う同志の諸君が、再び解放講堂から時計台放送を真に再開する日まで、一時この放送を中止します。

今井さんは、沼津東高校から東大医学部に進み、60年安保闘争に係わって退学処分を受けていた。
復学後も1962年の大学管理法反対闘争で自治会中央委員会議長として、再度の退学処分を受けたという強者である。
現参議院議長の江田五月さんも、この時に退学処分を受けているし、旧大蔵省の過剰接待問題で批判を浴びた中島義雄さんも停学処分を受けている。

今井さんは、大学を卒業して医師としての道を歩み、地域医療への情熱から、1974年に茅野市の諏訪中央病院に赴任した。
1977年に、安田講堂事件の判決が確定し、静岡刑務所に服役するが、獄中も医学書を携えて勉強を続けたという。
刑期を終えると、1980年に、40歳の若さで諏訪中央病院の院長に就任したが、1988年に、院長の職を鎌田實さんに譲っている。
鎌田さんは、このブログで紹介したことがある。迷走状態にある定額給付金に替わる有意義な案の提示者としてである(08年12月10日の項)。
今井さんは、1992年に参議院議員になり、活躍が期待されたが、2002年にガンにより亡くなってしまった。

40年を経たが、全共闘運動の問いかけたものをどう考えたらいいだろうか?
今となってはうたかたのようにはかない思いがするが、「大学とは何のために存在するのか?」、「学問とはどのような営為か?」。
真面目に生きようとする学生にとっては、避けて通れないテーマだったように思う。
全共闘運動によって、それまで想定していた人生の行路を大きく踏み外してしまった人も少なくない。
その安田講堂の攻防戦も既に歴史となってしまった。
大学はどういう状態にあるのか?
今日も、大学入試のセンター試験が行われているが、このところ大学をめぐってさまざまな事件がひきもきらない、という感じで起きている。
有名私大のキャンパスで、大麻の取引が行われたと聞いても、余り驚かなくなってしまっているが、中央大学の将来を嘱望されている教授が、刺殺された事件はさすがに衝撃的である。
背景などは未詳だが、国家権力も不可侵の学問の府などという共同幻想は既に過去のものなのだろう。

もちろん、私はセンター試験はおろか、その前身の共通一次試験も体験していない。
とかくの批判はあるが、センター試験への歩みは、学力を公平に測定しようという一種の標準化の試みであり、大勢としてはマークシート方式を含め、進歩改良だといえるだろう。
しかし、問題は、大学へ入った後の教育である。

先日の新聞に、「観光立国」に対応すべき観光系大学のカリキュラムの問題が論じられていた。
観光系の学部・学科は、昭和42年に立教大学に観光学科が設置されたのを嚆矢とする。
後に多摩大学、宮城大学等のユニークな大学の経営に係わる野田一夫氏が初代の学科長だった。
ここ数年、学生集めの目玉として観光系の学部・学科が新設され、平成4年度に240人だった観光系学部・学科の定員が、平成20年度には3900人に増加した。

この観光系学部・学科に関して、産業界が求める「期待する人材像」と大学でのカリキュラムに齟齬があるのではないか、ということが問題になっている。
観光関連企業側では、「管理職・リーダーとしての素質・適性」、「どの部門にも対応できる基礎能力」、「社会人としての常識・マナー」を求める声が多いという(産経新聞/09年1月10日)。
これに対し、観光系学部・学科のカリキュラムは、歴史、政治、地理などの社会科学系分野を重視する傾向にあり、経営に関しては軽く触れる程度だという。

何だか違うよな。
産業界が求めている「管理職・リーダーとしての素質・適性」などは、大学のカリキュラムでどうこうなる問題ではないだろう。
「どの部門にも対応できる基礎能力」というのは、応用性の高い汎用的な学力ということだろうか。
最近の言葉では「地頭力」というのかもしれない。
産経新聞では、問題は、カリキュラムが、社会科学系を重視するか経営系を重視するか、と集約されている。
しかし、経営やマーケティングといった専門知識の問題なのだろうか?
ドッグイヤーとも言われている時勢である。大学で学んだ「知識」などは早晩陳腐化してしまうだろう。
必要なのは、経営やマーケティングの問題に柔軟に対応できる思考の力ではないだろうか。

センター試験でも、思考力を問おうということが言われるが、実際には難しいと思う。
としたら、せめて大学にいる間に思考力の訓練をすべきではないか。
大学から、教養という課程が消えてしまっているが、大学院重視化とも併せ考えれば、大学の学部教育はすべて教養の充実にあててもいいくらいだと思う。
業界の専門知識などは、就職して現場で身につけた方が、よほど効率的なのではないだろうか。

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2009年1月17日 (土)

アメリカに渡った金塊類

安田雅企『追跡・M資金―東京湾金塊引揚げ事件』三一書房(9507)によれば、1947年8月13日の国会で、当時の石橋湛山蔵相は、次のように述べている。

連合軍総司令部は、日本政府に千数百億円の物資を引渡しておる。
……
二、三千万くらいのものが内務省の手を経たようでありますが、千数百億円のものがどこへ行っておるのか、わからない。

石橋湛山は、東洋経済新報社の主幹、社長を務めたエコノミストで、戦後1946年の総選挙に自由党から出馬した。
選挙は落選だったが、第1次吉田茂内閣に大蔵大臣として入閣したのだった。
大蔵大臣として、傾斜生産(石炭増産の特殊促進)や復興金融公庫の活用などを軸とする「石橋財政」を推進したが、戦後補償打ち切り問題、石炭増産問題、進駐軍の経費問題などで、GHQと対立した。
1947年の総選挙では中選挙区制における静岡2区(東部地域)から当選を果たしたが、GHQとの軋轢がもとで公職を追放される結果となった。

後に、鳩山一郎が、日ソ共同宣言によってソ連との国交回復を果たして引退すると、岸信介と共に、総裁選に出馬した。
熾烈な争いで、1回目の投票では岸が1位だったが、石井光次郎と2・3位連合を組んで、決選投票で逆転し、第55代内閣総理大臣に就任した。
しかし、風邪をこじらせた肺炎に罹患、「政治的良心に従う」として辞職した。
後任に、副総理格で入閣していた岸信介が就き、60年安保を迎えることになる(07年10月6日の項10月7日の項10月8日の項10月9日の項10月11日の項)。

上記でみるように、石橋湛山は、清廉で気骨があり、見識の高い人物だった。
その湛山が、大蔵大臣という職にある時に、「千数百億円のものがどこへ行っておるのか、わからない」と言っているのである。
現在価値にすれば、どれくらいの金額になるのだろうか。
その一部だけでも、「M資金」の原資となり得るだろう。もちろん、「M資金」の存在が確認されたことはないのであるが。

50年2月16日の第7回国会の予算委員会で世耕弘一が追及すると、当時の池田勇人蔵相は次のように答えて、説明を拒否している。

日本銀行は大体一億二千万円程度の金を持っているが、戦争中に南方諸国より持って来たものとは断言できない。東京湾の金塊については聞いていない。

なお、大蔵省の伊原理財局長は、次のように答弁し、それが以後の政府の公式見解となった。

(東京湾から引揚げられた銀塊について)世上いろいろ噂はあっても真相は終戦後、陸軍から臨時貴金属数量等報告令というのに基づきました。政府に銀塊約三十トンが東京湾にあるとの申告が出ております。この銀塊は司令部に接収された後、民間財産管理局で略奪物資であると認定されています。

「M資金」の「M」は、GHQ経済科学局のマーカット少将の名前に由来する、というのが定説である。
マーカットは、第一次世界大戦にも参戦した職業軍人で、マッカーサーの信任があつく、腹心として活躍した。
そのマーカットの片腕といわれたキャピー原田という二世がいた。
キャピー原田は、東条内閣の商工大臣として統制経済政策を推進した岸信介の才能を認め、日本の経済復興に必要な人物であるとして、早期釈放をマッカーサーに具申した。
その後押しをしたのがダレス国務長官で、彼はロックフェラー家と親密だった。

東京湾から引揚げられた金塊類は、極秘にアメリカに運ばれた。
アイゼンハワーによって、CIAの長官に、ジョン・フォスター・ダレス国務長官の実弟のアレン・ダレスが選任された。
CIAは、予算額や使途明細が公表されない組織であったが、国家予算を費消しにくい使途があったことは想像に難くない。
そのような使途に対して、東京湾から引揚げられた金塊類が使われたのではないか、という説がある。

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2009年1月16日 (金)

「M資金」のルーツ

「M資金」の原資について、WIKIPEDIA(09年1月9日最終更新)では、次のように説明している。

第二次世界大戦終戦時の混乱期に、大量の貴金属やダイヤモンドなどの宝石類を含む軍需物資が、保管されていた日銀地下金庫から勝手に流用されていた隠退蔵物資事件や、件の日銀地下金庫にGHQのマーカット少将指揮の部隊が調査・押収に訪れた際に、彼らによる隠匿があったとされた事件、などが発生した。
GHQの管理下に置かれた押収資産は、戦後復興・賠償にほぼ費やされたとされるが、資金の流れには不透明な部分があり、これが“M資金”に関する噂の出典となった。
こうした噂が真実味を持って信じられた背景には、降伏直前に旧軍が東京湾の越中島海底に隠匿していた、金塊1,200本・プラチナ塊300本・銀塊5,000㌧という大量の貴金属が1946年4月6日に米軍によって発見された事件や、終戦直後に各種の軍需物資が隠匿され、闇市を通じて流出していた(そのひとつが旧軍で特攻隊員などに興奮剤として服用させていたヒロポンであり、現在に至る覚醒剤渦の根源となっている)時期の記憶が、多くの日本人の間で鮮明であった事が挙げられる。

安田雅企『追跡・M資金―東京湾金塊引揚げ事件』三一書房(9507)は、上記の、「降伏直前に旧軍が東京湾の越中島海底に隠匿していた、金塊1,200本・プラチナ塊300本・銀塊5,000㌧という大量の貴金属が1946年4月6日に米軍によって発見された事件」の経緯を追ったドキュメンタリーである。
同書の冒頭は、後藤幸正という人物が、GHQを訪ねるシーンから始まる。

一九四六年、太平洋戦争敗戦の翌年の三月二十三日、GHQ(連合軍総司令部)第三十二軍調査部担当将校エドワード・ニールセン中尉の事務所があった東京・丸の内三菱ビル二十一号館に、後藤幸正(七○)と通訳が現れ、儀礼的な挨拶をしたあと、
「東京湾の月島付近、九日本陸軍の糧秣廠の倉庫の近くの海底に、ぼう大な量の貴金属塊--旧日本軍部の隠し財産が埋められています」と打ち明けた。

後藤幸正については、「政財界の黒幕と言ったら穏当を欠くが、一種の政商または軍部御用商人だった」と説明されている。
蒋介石と親しくて政界に知己が多く、陸海軍の上層部に隠然たる勢力を持っていたが、敗戦により失脚していた。
ニールセン中尉は、後藤老人の気骨に剛毅朴訥な精神を認めていたようだ、と安田氏は描写している。
後藤幸正は、本名を幸太郎といい、静岡県富士宮市の旧家に生まれ、富士川の水力を利用して富士川電力を作り、身延線を作ったり、伊豆長岡温泉の開発に尽力した。
幸正の孫が、山口組きっての武闘派として知られる後藤忠政(忠正:後藤組組長・六代目山口組舎弟)である。

上掲書によれば、金塊等の発見の経緯は次のようである。
後藤がニールセン中尉を訪ねた約2週間後の4月6日、ニールセン中尉が後藤の案内で、部下と潜水夫らを米軍用車に乗せ、東京湾月島に向かった。
潜水夫らが探索すると、レンガ状のものが沈んでおり、引き揚げてみると。金のインゴットだった。
インゴット引き揚げ作業は、当初日本側で行う予定であったが、早くも日本側に財宝を巡る争いがあり、後藤がそれを見て嫌気がさして、「米軍に一任します」とゲタを預けてしまったことにより、連合軍最高司令部の判断で、第一騎兵師団が管理することになった。

その結果として、金塊等の引揚げ作業は、米軍の管理下で極秘に行われ、その全容が明らかにされないばかりか、その帰属すら曖昧となってしまった。
後藤らは、正当な権利として金塊の日本への返還をGHQに要求するが、結局はタライ回しにされ、埒があかなかった。
GHQの関係者も、講和条約が成立すると、本国に帰ってしまった。
GHQ側では、最初に係わったニールセン中尉等の少数者を除いて、そもそも日本に返還しようという気がなかったのだろう。

引揚げ作業に係わった日本側の関係者も、次々に亡くなっていく。
上掲書では、幸正の娘のカズ子にインタビューしている。
カス子は、後藤の死については、「父は終戦後四年目に亡くなった。金塊事件で二世のアメリカ兵がよく来ており、毒殺されたのではないか、という噂が立った。カクシャクとしていたのが急に縁側で口から血を吐いて死んだことは事実」と語っている。
カス子は余り父の死を不審に思っていないようだが、その他の関係者も含めて考えると、GHQが係わっていた可能性も全くは否定できない、という書きぶりである。

幸正が亡くなったあと、遺志を継いで金塊返還同志会を作って活動したのが水谷明という人物である。
水谷明は、日本大学政治学科を卒業後、月刊誌などを刊行しながら、政治家への道を志向して「新日本党」という名前の政党を作ったりしていた。
「日本新党」やら「新党日本」などが現れたことを思うと、その「さきがけ」のような名前であるが、戦後の最初の衆院選で、女性2人が当選したが、党首の水谷は落選してしまったという。

水谷明の友人に、日大教授兼理事の世耕弘一代議士がいた。
1946(昭和21)年、戦後経済復興のため経済安定本部が設置され、その中に隠退蔵物資処理委員会ができた。
石橋湛山が委員長、世耕弘一が副委員長に就任した。
水谷は、国会で問題化し世論を喚起することが、金塊返還の条件と考え、世耕に情報を提供し、世耕は、隠退蔵物資処理委員会で華々しく活躍した。
この世耕弘一は、現参議院議員の世耕弘成の祖父である。
世耕弘成は、2005年9月11日の第44回衆議院議員総選挙(いわゆる郵政民営化選挙)で、自民党広報本部長代理及び自民党幹事長補佐として自民党のメディア戦略を担当し、注目を浴びた。TVの討論番組等への露出度も高い。

世耕弘一は、どこの倉庫にどんな品物がいくら格納されているか、どんな連中が持ち出したかを指摘する「世耕指令書」を発令した。
それが闇商人の手に渡って詐欺の材料になったり、閣僚や高級官僚、財界人らの旨い汁を吸っていた連中から妨害されたりして、1月半ほどで副委員長の座を追われてしまう。

後藤の死後、GHQへ行く際に通訳を務めていた榎三郎という人物が、「金塊に関する権利は自分にある」と主張しだし、その榎と養子縁組をしてさらに権利を継承したとする和知という運送会社の社長が登場する。
和知も、元新日本党の党員で水谷の部下だった。
和知によれば、金塊は、南方の某国から日本軍部が奪ったもので、1943年の2月か3月ころ、空母「鳳翔」「瑞鶴」に積んできたものだった。

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2009年1月15日 (木)

「M資金」の謎

田母神前航空幕僚長が係わったのではないか、といわれている「M資金」とは何か?
戦後史において、これほど著名であるにもかかわらず、これほど実体が良く分からない「事件」は少ないのではなかろうか。
それは、仮に実際に「M資金」が存在して、その恩沢に浴した人がいたとしても、その人から真相が漏れることはあり得ないだろうし、「M資金」の話に乗ってみて、結果的に空振りに終わった人は、「そんなものは架空の話だ」ということになるからだろう。
そもそも、「ある」ことを証明するのは、1つの事例を示せばそれで済むが、「ない」ことを証明するのは大変に難しい。

WIKIPEDIAを見てみよう(09年1月9日最終更新)

M資金(エムしきん)とは、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が占領下の日本で接収した財産などを基に、現在も極秘に運用されていると噂される秘密資金である。
M資金の存在が公的に確認された事は一度も無いが、その話を用いた詐欺の手口が存在し、著名な企業や実業家がこの詐欺に遭い、自殺者まで出した事で一般人の間でも有名になった。
Mは、GHQ経済科学局の第2代局長であったウィリアム・フレデリック・マーカット(William Frederick Murcutt)少将の頭文字とするのが定説となっている。

ここで言われている「著名な企業や実業家がこの詐欺に遭い」というのも、詐欺事件が存在したことが実証されているというよりも、そういう噂がある、ということに過ぎない。
しかし、その噂によって、大企業の社長が失脚したり、自殺者が出たこと自体は事実である。
下山事件などの戦後史における不可解な事件を、「日本の黒い霧」として追究した松本清張に、M資金を扱った『深層海流』という作品がある(『松本清張全集 31 (31) 深層海流・現代官僚論』所収)。
末尾に付された「『深層海流』の意図」という文章の中で、松本清張は、次のように書いている。

私は「深層海流」を「日本の黒い霧」の続編のようなつもりで書いてきた。これを小説というかたちにしたのは、いちいち本名を出しては思い切ったことが書けないからだ。
……
旧安保成立以来の日本を小説に書こうとすれば、遺憾ながら「深層海流」に書いた程度がぎりぎりの線だと考える。それそれに実名を登場させて具体的にはっきりさせるためにはもっと時日を経なければならぬ。私が「深層海流」に書いたことは、正確と思われる資料と調査によっているのだが、部分的には勿論フィクションになっている。

清張のこの一文には、昭和37年2月という日付が書いてある。
それから半世紀余を経ているわけであるが、未だ「もっと時日を経なければならぬ」という時日は経ていないようである。
現在でも、亡霊の如くM資金は現れ、しかし「具体的にはっきり」とした姿は見られない。

「深層海流」では、「M資金」は、「V資金」という名前で語られている。
V資金の性格として、GHQが占領中に摘発した隠匿物資、貴金属など、占領中のGHQのLS(法務局)が取り上げた罰金の積立金などの他に、GHQが関与した貿易の利潤が大いに含まれている、というのが清張流の解釈である。
確かに、GHQが権限を握っていた時代、食糧にしても石油にしても、輸入物資に関して価格に関しては、全く市場性を捨象していたであろうことは想像に難くない。

現在、TVの討論番組などで活躍している高野孟氏の若い時代の著作に、『M資金』日本経済新聞社(8003)がある。
同書の「あとがき」で、高野氏は、次のように書いている。

取材チームは、……丸三カ月間、昼夜の別なく走りまわったけれども、得たものはわずかでしかなく、いまになってみると後悔の念ばかりが湧いてくる。

つまり、高野氏の敏腕をもってしても、「M資金」の実相は十分には明らかにし得なかった、ということである。
「M資金」の全貌や真相が不明なのは、事案の本質に由来するものであり、この手の話は、忘れられては現れ、現れては否定される、ということが繰り返されるということだろう。

余談ではあるが、高野孟『M資金』は、Amazon.co.jpの中古書マーケットでは、\12,000の価格がついている。
絶版になっていて、希少価値があるということだろうが、それは「M資金」に関する情報へのニーズが、未だに大きいということでもあり、「M資金」についてのまとまった情報がいかに少ないかを示していると言えるだろう。
私は、街中の古書店で、\1,000程度で買った記憶があるので、何だかトクした気分である。

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2009年1月14日 (水)

京都府木津川市馬場南遺跡で寺院跡が見つかる

昨年10月、万葉木簡の出土が報じられた京都府木津川市の馬場南遺跡で(08年10月23日の項)、730~780年頃の推定される寺院跡(仏堂跡や池の跡など)が見つかった(現場写真は、産経新聞09年1月14日)。
2木津川市教育委員会と京都府埋蔵文化財調査研究センターが、1月13日に発表したものである。

同遺跡は、恭仁宮と平城宮の中間地点にあるが、都市再生機構の宅地開発計画に伴い、一帯2200㎡を調査していたものである(位置図は、http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is81023a.htm

2

これまでに、8000枚以上の灯明皿が出土していて、大規模な法要の燃灯供養が行われていたと推測されており、三彩陶器や「神雄寺」と書かれた土器なども出土しており、この神雄寺の跡ではないかとされる。

仏堂跡は、天神山(94m)南側斜面で見つかったが、柱跡や四天王像の破片、須弥壇の周りに張り付いていた平瓦が出土した。
遺物にはいずれも火災の痕跡があり、仏堂は幅5m、奥行き4.5mで、庇を南側に伸ばした入母屋造りで、堂内の大半を須弥壇が占める特異な構造だった。
須弥壇の地面は周囲よりも高く、中央に心柱の礎石の抜き取り跡と見られる穴がある。
築山状の須弥壇に、山や水を造形した三彩陶器を並べ、周囲に四天王を配したとみられる。
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2009011300174&genre=M2&area=K00

須弥壇の三彩陶器の破片には、緑や黄色が残っており、図のようなものであったと推測されている。http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is81023a.htm2_4

仏堂南側の谷では、約100mにわたり川をせき止めた池の跡が見つかった。
池のほとりに、仏堂前に造成されたテラス状の平地に掘っ建て柱の建物跡があり、中軸線や向きが仏堂と一致していることから、礼拝用の建物とみられる。

馬場南遺跡一帯は、奈良時代に権勢をきわめた橘氏が支配しており、猪熊兼勝・京都橘大名誉教授(考古学)は、「付近には橘諸兄の別邸や寺院nもあり、子の橘奈良麻呂ら有力貴族の私寺の可能性が強い」とみている。
森郁夫・帝塚山大教授(歴史考古学)は、「大量の灯明皿や貴重な奈良三彩が出土したことを考えると、新薬師寺で、延命を願う大法会・燃灯供養を行った聖武天皇がかかわったのではないか」としている。
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kyoto/news/20090114-OYT8T00011.htm

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2009年1月13日 (火)

田母神氏のアパ論文における主張②…張作霖爆殺事件

田母神氏は、アパ懸賞論文において、次のように書いている。

1928年の張作霖列車爆破事件も関東軍の仕業であると長い間言われてきたが、近年ではソ連情報機関の資料が発掘され、少なくとも日本軍がやったとは断定できなくなった。「マオ(誰も知らなかった毛沢東)(ユン・チアン、講談社)」、「黄文雄の大東亜戦争肯定論(黄文雄、ワック出版)」及び「日本よ、「歴史力を磨け(櫻井よしこ編、文藝春秋」などによると、最近ではコミンテルンの仕業という説が極めて有力になってきている。

コミンテルンというのは、共産主義の国際組織で、第三インターナショナルとも呼ばれる。
田母神氏は、次のような文脈で主張する。
アメリカ合衆国軍隊が日本国内に駐留しているのと同じように、合法的に中国に駐留していた日本軍に対し、蒋介石国民党は頻繁にテロ行為を繰り返した。
これに対し日本政府は辛抱強く和平を追求したが、その都度蒋介石に裏切られた。
蒋介石はコミンテルンに動かされていたのであり、コミンテルンの目的は、日本軍と国民党を戦わせ、毛沢東率いる共産党に中国大陸を支配させることであった。
日本は、国民党の度重なる挑発に我慢できなくなって、1937年8月15日に、近衛内閣が「支那軍の暴戻を膺懲し以て南京政府の反省を促すため、今や断乎たる措置をとる」という声明を発表した。
つまり、日本は蒋介石によって、日中戦争に引きずり込まれた被害者なのだ。

そして、上記の引用文に繋がっていく。
武田晴人『帝国主義と民本主義/日本の歴史19』集英社(9212)では、張作霖爆殺事件をどう見ているであろうか。
1928年(昭和3)年4月、国民政府が北伐を再開したのに対応して、日本は山東半島に出兵した。
北伐とは、辛亥革命後の軍閥が割拠する状態の中国において、孫文や蒋介石の指導する国民党が全国統一を目指して行った、北京政府や各地の軍閥との戦いのことである。
5月9日から済南市に砲火を浴びせ、中国側の死傷者5000人といわれる済南事件を起こして、日本に対する国際的な批判を招いた。
6月3日、日本の勧告に従って北京を退去した張作霖は、4日未明、奉天市瀋陽駅到着直前の地点で、乗っていた列車を爆破され、まもなく死去した。

この張作霖爆殺事件に、日本軍が関与していたことは、日本以外の国では公然たる事実だった。
当時の首相は、政友会総裁の田中義一だった。
田中義一が真相(関東軍高級参謀河本大作によるもの)を確実に知ったは、10月8日のことだとされる。
田中は、元老西園寺のすすめもあって、天皇に真相を報告し、関係者の処分を約束した。

田中自身は、国際的な信用を保つために容疑者を厳罰に処すべきと考えていた。
しかし、陸軍の強い反対にあって、処分を実行することができなかった。
昭和天皇は、「お前の最初に言つたことと違ふぢやないか」「田中総理の言うことはちつとも判らぬ。再びきくことは自分は厭だ」と強く叱責し、田中は涙を流して恐懼し、内閣総辞職することになった(1929年)。

田中は、狭心症の既往があった。
天皇の叱責が堪え、退任後の田中はあまり人前に出ることもなく塞ぎがちだったらしい。
内閣総辞職から3ヵ月もたたない1929年9月29日午前6時、田中は急性の狭心症で死去してしまう。

一方、昭和天皇は、田中を叱責したことが内閣総辞職につながったばかりか、死に追いやる結果にもなったかもしれないと考え、以後は政府の方針に不満があっても一切口を挟まなくなった。
田中義一首相が、関東軍の仕業であることを認識していたことは、昭和史の常識であって、コミンテルン謀略説は、いわゆる陰謀史観の一種と言うべきであろう。
コミンテルン謀略説を真面目に取り上げていることからすると、M資金の話も、本当に信じて行動していたのかも知れないと思えてくる。

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2009年1月12日 (月)

田母神氏のアパ論文における主張…対華21箇条要求

田母神俊雄前航空幕僚長が、最優秀賞を得たアパグループの懸賞論文の評価はどうか?
賛否両論、既にさまざまな人によって論じられている。
さほど長いものではなく、下記のアパのサイトからダウンロードできるので、一読してみては如何だろうか。
http://www.apa.co.jp/book_report/images/2008jyusyou_saiyuusyu.pdf

私も、著書は買わなかったが、この論文には目を通してみた。
率直に言って、高校生の「私の主張」といった趣きである。
早熟な中学生ならば、もう少しヒネリを効かせるかも知れない。
主張は単線的だし、論拠も通俗的な資料が殆どである。

冒頭のフレーズを見てみよう。

アメリカ合衆国軍隊は日米安全保障条約により日本国内に駐留している。これをアメリカによる日本侵略とは言わない。二国間で合意された条約に基づいているからである。我が国は戦前中国大陸や朝鮮半島を侵略したと言われるが、実は日本軍のこれらの国に対する駐留も条約に基づいたものであることは意外に知られていない。

田母神氏は、事例として、対華21箇条要求について、次のように書く。

また1915年には袁世凱政府との4ヶ月にわたる交渉の末、中国の言い分も入れて、いわゆる対華21箇条の要求について合意した。これを日本の中国侵略の始まりとか言う人がいるが、この要求が、列強の植民地支配が一般的な当時の国際常識に照らして、それほどおかしなものとは思わない。中国も一度は完全に承諾し批准した。しかし4年後の1919年、パリ講和会議に列席を許された中国が、アメリカの後押しで対華21箇条の要求に対する不満を述べることになる。それでもイギリスやフランスなどは日本の言い分を支持してくれたのである「日本史から見た日本人・昭和編(渡部昇一、祥伝社)」。

この辺りの事情は、錯綜しているので、視点や立場によって、ものの見え方が大きく異なってくる。
田母神氏の論拠として示されているのは、審査委員長を務める渡部昇一氏の、専門書とはいえない読み物的著書である。
論拠として提示する方も如何かなものか、とは思うが、それを「最優秀」とする渡部氏の判断力を疑わざるを得ない。
かつて『知的生活の方法 』講談社現代新書(7601)によって、知的生活を志向する人間に大きな影響を与えた渡部氏はどこへ行ってしまったのか?
知的とは、何よりも「批判的精神」の行使のことではないのか?
なんらの批判的視点を持たずに自分の著書を引用する「論文」を最優秀とするとは、知的退廃というしかないのではないか?

「対華21箇条要求」は、一般的な概説書ではどのように扱われているだろうか。
以下では、武田晴人『帝国主義と民本主義/日本の歴史19』集英社(9212)を見てみよう。

1912年1月1日、辛亥革命により孫文を臨時大総統とする中華民国が発足。
1913年10月、孫文から臨時大総統の地位を引き継いだ袁世凱が、正式大総統に選ばれる。
中国は、大総統の権限を拡張しようとする袁世凱と、これに反対する勢力によって、激しい対立抗争を繰り広げる。

日本政府の態度は、当初の清朝擁護方針から、革命派援助による利権の追求、最後は列強に追随した袁政権支持へとめまぐるしく変わった。しかし、それ以上に問題であったのは、対中国外交をめぐって、日本政府の方針が事実上分裂状態におちいり、、陸軍を中心とする軍の独走が内閣のコントロールを逸脱していく傾向をみせたことであった。

1914(大正3)年6月28日、ボスニアの首都サラエボでの1発の銃声により、ヨーロッパは4年余りの第一次世界大戦に巻き込まれる。
このヨーロッパの戦争は、列強が軍隊を駐留させていた中国を舞台に、アジアに飛び火しようとしていた。
日本は、それを好機として捉えたのだった。
当時の日本の外交の基軸は日英同盟にあり、イギリスは日本の宣戦布告を見合わせるよう要請してきたが、日本政府は、参戦中止は日英同盟の「真価に重大な影響を及ぼす」として、参戦した。
東洋経済新報などは、非戦の社説を掲げていたが、それは少数派で、世論も中国領土の侵犯を容認する方向にあった。

ドイツへの宣戦布告、ドイツの膠州湾租借地への出兵は、対外強硬路線を主張し、中国革命の動乱に乗じて日本の権益を拡張すべきだという考え方の人々にとって願ってもない好機であり、経済的利権を「平和的手段」で拡張することを主張する人々にも受け入れやすい出兵の口実となった。

日本軍は、1914(大正3)年9月2日に、山東半島北岸からの上陸を敢行し、10月下旬には、青島攻撃を完了した。
在中国公使日置益は、日本の軍事行動の縮小を求めると共に、日本軍の婦女暴行や家屋・物資の徴発行為について善処するよう依頼してきた。
中国政府は、青島陥落後、日独の作戦行動が一段落したとして、日本軍の撤退を求める交渉を開始したが、日本軍は、青島を中国に返還する義務はないとして拒否し、中国の強い反発を買った。
「領土的野心はない」として宣戦布告してから3ヶ月半しか経っていなかった。

日中間の対立は、日本が強圧的な方針をエスカレートさせていったことから、激しくなる一方となった。日本の意図を露骨に表現し、中国の人々を激昂させることになったのが、一九一五年(大正四)年一月一八日に在華日本公使から袁世凱大総統に手交された、いわゆる対華21か条要求であった。
……
内政への広範な干渉を含む、このような要求は、日本が、革命による中国の混乱と、大戦による列強の影響力の後退を好機として、それこそ「領土的野心」をあらわにしたことを示していた。

対華21箇条要求の内容は、表のようなものである。
武田晴人上掲書は、対中国強硬策を主張する官民の意見に共通するものとして、以下のような点をあげている。
①中国人は国を統一する能力がなく、日本の<支援>が必要だという中国侮蔑意識
②大戦を利用して、日本の中国に対する優越的地位を確立すべしという火事場泥棒的根性
③日本の優越的地位を基礎とする日中<提携>がアジアの平和を維持することになるという身勝手な判断

212_2なお、上掲書では、アメリカは中国政府を支持する態度を示したが、英仏露三国は、ヨーロッパの戦線が大規模化するなかで、極東で対立が生まれることを好まず、公使を通じて「日本と武力抗争を試みるのは賢明でない」と袁世凱に「忠告」したという、と記述している。
そして、武力を背景とする高圧的な外交政策は、まったくの失敗であり、中国の人々の反感を買い、排日の気運を高めただけであった、と総括している。
現在の時点で、対華21箇条要求をみれば、やはり高圧的というしかないであろう。
田母神氏は、「中国も完全に承諾し」と書いているが、武力を背景とした要求であったのであり、田母神氏のような見方は、やはり偏向と言わざるを得ないのではないか。

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2009年1月11日 (日)

田母神前幕僚長のアパ懸賞論文への応募

田母神氏は、どのような意図で、アパグループ主催の懸賞論文に応募したのだろうか?
書店で、田母神氏の『自らの身は顧みず』ワック出版(0812)を手にとってみたが、どうも購入する気にならかった。
棚の隣にあった、松岡正剛『連塾 方法日本 1 神仏たちの秘密 日本の面影の源流を解く 』春秋社(0812)が目に入り、こちらの方を買ってしまった。
いささか手強そうではあるが、日本を考えるのには、田母神氏の著書よりも参考になりそうだと感じたからである。

「自らの身は顧みず」というのは、軍人ならば、当然のことではないかと思う。
田母神氏を軍人と呼んでしまっていいのだろうか?
私は、自衛隊は、軍隊だと考える。
憲法9条との関係をどう考えるかは難しい問題であるが、実態として軍隊であることは否定できない。
田母神氏は、いわば空軍の代表者だったのだから、自らの主張を公にするに際して、ことあらためて「自らの身は顧みず」などと言って欲しくないのだ。

このタイトルをみて、かつて小泉純一郎元首相の詠んだ「短歌」を連想した。
首相に就任して最初の夏休みを箱根で過ごして、公務に復帰した際に披露したものである。

柔肌の熱き血潮を断ち切りて仕事ひとすじわれは非情か

与謝野晶子の有名歌の本歌取りのつもりなのだろうが、私は目にした瞬間に、この首相に興醒めしてしまった。
何というナルシズム。
こういう歌を得々として披露する人は、総理の資格がないと思った。
もし、本当に、柔肌を断ち切って仕事ひとすじに励んでいたとしても、それは自分だけが知っていればいいことではないのか。

もちろん、人間誰しも自分のことは可愛いものだ。
特に、大して読者もいないブログなどを書いている人間(自分のことです)は、程度の差はあれ、何がしかナルシストだろう。
しかし、臆面もなくこういう表現をできる人には違和感を感じる。
それと同じ印象なのである。「自らの身は顧みず」というタイトルは。

ところで、そもそもアパグループとは、どのような企業グループなのだろうか。
TVのCMを見たような気はするが、業態についての記憶はなかった。
例によって、WIKIPEDIAをみると次のようである(08年11月28日最終更新)。

1971年4月1日に、石川県小松市において信金開発株式会社として会社設立、同年5月10日から事業を開始している。1997年11月25日から、信金開発株式会社からアパ株式会社に商号変更し、グループ名をアパグループに変更している。
……
多くの建築事業に係わるグループだが、メインとなるのは、マンション事業とホテル事業である。マンション事業は、グループ代表である元谷外志雄が代表を兼ねている。ホテル事業は元谷外志雄の妻、元谷芙美子が社長を務めるアパホテル株式会社。
アパホテルは元谷芙美子が、常に帽子を被った正装で積極的に広告などに出ている事で有名で、“帽子の名物社長”等と言われる事もある。
アパは「JAPAN」から採られた語句とされ、アパマンショップをはじめとする各地の不動産仲介業者に見られる「アパ・マン」が名称に附く事業所店舗は全くアパグループと関係ない。

このグループが、懸賞論文を主催するようになった経緯は、やはりWIKIPEDIAによれば、以下のようである(09年1月7日最終更新)。

アパグループの代表である元谷外志雄が、著作「報道されない近現代史」(アパグループの月刊「アップルタウン」に「藤誠志」の筆名で連載したもの、産経新聞出版刊)の出版を記念して歴史論文顕彰制度を創設し、2008年5月から募集を始めた。

田母神氏は、自分の意見を開陳することがどうして批判されなければならないのか、と大いに不満らしい。
思想・信条の自由は、もちろん田母神氏も有していることは当然である。
しかし、それをどう表明するかは、自ずから職業や立場によって制約を受けると考えなければならない。
もちろん、田母神氏の立場からすれば、高度に戦略的判断に基づいて行われるべきだろう。

彼の論文は、結果として、自衛隊の信用を低減させたと考える。
自衛隊のトップの席にいる者として、軽率な行為だったことは否定できない。
論文の内容についても、その認識力や表現力は、問題だと感じさせられる部分が少なくない。
しかし、それを最優秀とした選考委員がいるのだから、そこは見解の違いということになるだろう。
もし、渡部昇一氏が、本気でこの論文を最優秀と認定したのならば、渡部氏に対する見方も変えなければならないだろう。
私は、渡部氏は、博覧強記の人として、畏敬してきた1人である。

自衛隊は、武力集団であるが故に、単なる公務員ではない。
公立学校の教師が、君が代を歌わないのとは事情が違う。
この人は、文民統制ということの意味が理解できていないのではなかろうか。
M資金話を持ちまわっている詐欺師との交際といい、自分の意見の開陳の波及を予測できなかったことといい、この人の情報解析能力(インテリジェンス)はお粗末だと思う。
幕僚の最高責任者としては、不適格だったと言わざるを得ないだろう。

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2009年1月10日 (土)

田母神第29代航空幕僚長とM資金問題

航空幕僚長とは、いかなる職階か?
WIKIPEDIAの解説をみてみよう(08年12月24日最終更新)。

航空幕僚長(こうくうばくりょうちょう、Chief of Staff,ASDF)は、航空自衛隊の軍政(=行政)部門である航空幕僚監部の長。空幕長と略する。防衛大臣を補佐する。
階級は空将だが、階級章は一般の空将より桜星が一つ多く四つである。これはアメリカ空軍大将に類似した階級章であり、また英訳も航空幕僚長たる空将はGeneralである(大将参照)。
航空幕僚長の監督を受ける部隊及び機関に対する防衛大臣の指揮監督は、航空幕僚長を通じて行われ、航空幕僚長は部隊等に対する防衛大臣の命令を執行する。

分かりやすくいえば、大将の位にある航空自衛隊の最高責任者、ということである。
その第29代に、防衛大学15期卒業の田母神俊雄という人が就任した。2007年3月のことである。
そして、2008年10月31日に、アパグループ主催の第1回『「真の近現代史観」懸賞論文』に応募した「日本は侵略国家であったのか」が最優秀藤誠志賞を受賞した。
この論文の内容が、政府見解と異なる歴史認識であり、かつ独断で外部発表したことにより、防衛大臣から航空幕僚長の職を解かれ、航空幕僚監部付となって、60歳定年が適用され、11月3日を以て自衛隊を定年退職した。

田母神氏は、速攻で『自らの身は顧みず』ワック出版(0812)という著書を出版し、世に問うた。
この田母神氏が、M資金詐欺の片棒を担いだのではないか、と問題になっている。
内容は、例えば、以下のような動画サイトで見ることができる。
http://www.veoh.com/videos/v16789597cCNjZw4e

軍事評論家の田岡俊次氏が、「新潮45」の08年12月号に掲載されている「『お騒がせ幕僚長』とM資金女詐欺師」という記事を読み、「まさか」と思いつつウラをとってみたら、事実だったことが確認された、ということである。
田岡氏が、「まさか」と思ったのは、次のようなことである。
①田母神氏が統合幕僚学校長時代に、M資金話を持ち込んだ女性に講演をさせている
②その女性を、防衛省出入りの防衛産業社長に紹介し、M資金話の仲介をした

もちろん、田母神氏が、M資金話のエージェントだったなどということではないだろう。
しかし、M資金話といえば、余りにも有名な詐欺話である。
最近のM資金話は、かつてのような「大蔵大臣の証書」というような単純なものではなく、手が込んだものになりつつある。
しかし、この女性詐欺師の場合は、かなり程度の低い話だったようである。
そのような話に安易に乗るような人が、航空幕僚長のような要職にあった、ということは大きな問題だろう。

アパグループの論文は別として、このM資金問題においても、十分辞職に値するのではないか。
防衛産業の社長は、おかしな話だと思ったが、田母神氏の紹介だったので、断れなかったという。
実害がなかったということだろうが、M資金話で被害が発生した事例は少なくない。

M資金話に触れたことのない人は、何でそんな荒唐無稽な話を信じてしまうのだろう、と思うだろう。
また、既に歴史になってしまった詐欺話と思うだろう。
しかし、おそらく万を越える金融ブローカーが、M資金まがいの話を持って、東京の街を徘徊しているのではないかと想像する。
だからこそ、田母神氏のような立場にあった人が、その仲介の片棒を担ぐなどということはとんでもないことと言わなければならない。
女性詐欺師に講演させたことについて、田母神氏は、なんらスキャンダルを起こしたということではない、と力説している。
しかし、その女性のM資金話の仲介に係わっていたのであれば、十分にスキャンダラスではないか。

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2009年1月 9日 (金)

郵政民営化の一帰結…「かんぽの宿」をオリックスに譲渡?

私たちのような零細企業で、日々の資金手当にも苦しんでいる人間には、想定外の「しかけ」が世の中にはあるらしい。
昨日の朝刊各紙は、鳩山邦夫総務相が、日本郵政が「かんぽの宿」を一括してオリックスグループに譲渡することに対して、強い疑義を表明したことを報じている。
鳩山総務相の表明した疑義とは、以下のような事項である。
①なぜオリックスなのか?
②なぜ一括譲渡なのか?
③なぜ不動産価格が下落しているこの時期なのか?
これらの点に関し、日本郵政から、納得的な回答が得られなかったとのことである。

「かんぽの宿」には、私も泊まったことがあるし、各地にある立派な外観の施設をみて、時間にゆとりが持てるようになったら、こういう施設を利用しながら旅行を楽しみたいものだ、などと思っていた。
「かんぽの宿」は、全国に70施設あるという。
「かんぽの宿」は、年間約40億円の赤字を出していて、日本郵政は、2008年の4月に譲渡のための公募を開始した。
27社が応募し、2回の入札を経て、12月26日にオリックスの100%子会社であるオリックス不動産への一括譲渡が決まった。
一括であることと、従業員の雇用の継続が譲渡の条件だった。

「かんぽ=簡保」は、簡易生命保険の略である。
政府が債務保証することにより、破綻の心配のない保険だったから、利用者は多かった。
郵政民営化が法定されたことにより、政府保証の条件がなくなった。
「かんぽの宿」も、日本郵政株式会社法により、民営化から5年以内の譲渡か廃止が定められている。
譲渡によって、民間の運営になり、利用者にとってのコスト・パフォーマンスが向上するのであれば、結構なことだと言うべきかも知れない。

しかし、一括譲渡先が、宮内義彦氏率いるオリックスグループとなると、如何なものか、と感じる人は多いだろう。
宮内氏は、小泉内閣で総合規制改革会議の議長などを務めた規制緩和推進論者である。
一部には、規制緩和を商機として活用するのに長けた人との評もある。
もちろん、郵政民営化についても積極的な推進派である。
小泉、竹中(平蔵)、宮内とトリオで捉えられることも多い。
今日の日本社会の荒廃を招いたグローバル市場主義のリーダーである。

今回の譲渡に関して、オリックスの社長室は、「公正な手続きで譲渡契約を結んだ」というコメントを出している。
また、総合規制改革会議の答申中には、郵政民営化というテーマは出ていなかった、としている。
しかし、宮内氏が、竹中氏などと親しい関係にあったことは公知の事実である。
触法でなければ許されるというのが市場主義なのだろうし、オリックスは、その範囲内で合理的な行動をとったということであろう。
また、日本郵政は「コメントできない」(報道担当)という不可解なコメントである。
あらためて郵政民営化の是非が政治的争点になろうとしている時期なので、きちんと説明責任を果たすべきではないだろうか。

鳩山総務相の発言は、多分に政局的効果を狙ったものだろうが、発言そのものは、多くの人の胸中を代弁しているのではないだろうか。
譲渡金額はオープンにされていないらしいが、総額109億円ということである。
簿価が123億円ということだから、現在の市況を勘案しても、バーゲンセールという批判が出ても止むを得ないのではないか。
郵貯関連のホテルは、250億円を投じたとされるメルバール伊勢志摩が4億円、210億円を投じたとされるメルモンテ日光霧降が7億円の売価だったという。
その売却損は、郵貯利用者や簡保加入者の逸失した得べかりし利益である。

一方で、日本郵政は、株式公開買付によって、郵便物輸送会社「日本郵便輸送」を子会社化したが、同社のもとの筆頭株主は、郵政職員の共済組合で、郵政OBの天下り先でもある日本郵政共済組合だった。
旧株主は、株式売却により約100億円の売却益を得たという。
郵貯・簡保の利用者には得べかりし利益を逸失させ、身内の団体には利益を還元しているというわけである。
http://diamond.jp/series/inside/04_05_001/

そもそも、日本郵政からオリックスへの譲渡の開示が、12月26日という押し詰まった日程で行われていることも不自然な気がする。
多くの国民は、鳩山総務相の発言報道によって、オリックスへの譲渡を知ったのではなかろうか。
余り目立ちたくないという意識がなかったならば幸いであるが。

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2009年1月 8日 (木)

永田寿康元衆議院議員の自殺

ライブドアの粉飾決算事件に関連した衆院の予算委員会における、いわゆる偽メール事件で有名になった永田寿康元衆議院議員が、新春を寿いでいるべき3日に自殺した。
痛ましいことである。
何が永田氏を自殺を決意するまで追い詰めたのか?
命を粗末にすべきではないとは思うが、そういう選択をした人に対して、他人が否定しても仕方がない。
最終的には本人の判断の問題だと思う。
永田氏の履歴を見てみよう。

永田寿康元議員は愛知県名古屋市出身、1969年9月2日生まれの39歳。
慶應義塾志木高等学校、東京大学工学部物理工学科を卒業、
1993年に入省した大蔵省を1999年に退官し、2000年に衆院選で初当選したが
2006年にいわゆる「堀江メール問題」を引き起こし議員辞職していた。

http://gclip.blog57.fc2.com/blog-entry-1145.html

東大工学部から、大蔵省へというのは、完全なエリートコースとはいえないのかも知れない。
エコノミストとして有名な野口悠紀雄氏も、確か工学部から大蔵省への道を歩んだはずである。
野口氏の場合は、もちろん学者としての適性の方があったということだろうが、私の知る限りでは、中央官庁には、東大法学部以下、大学・学部による明瞭な序列があるらしい。
旧大蔵省などは、その典型であろう。

しかし、永田氏が、一般的なレベルでみれば、エリートの道を歩いてきたことは間違いない。
エリートは、とかく脇が甘くなりがちである。
永田氏もその例なのだろうか。

偽メール事件とは、永田元議員が、ホリエモンこと堀江貴文容疑者が、自民党の武部幹事長(当時)の二男に送金を指示した証拠として提示したメールが、ニセモノであったという事件である。
メールがガセだったことにより、武部幹事長周辺への追及は不発となった。
当時の民主党の前原代表は辞任し、永田元議員は議員を辞職して、一件落着となった。
2006年のことである。
また、永田元議員は、偽メール事件以外にも、国政報告会で、創価学会が不正な選挙活動をした、という偽りの発言をしたとして告訴され、千葉簡裁から名誉毀損罪で30万円の罰金の略式命令を受けていた。

偽メール事件の背景に、何があったのだろうか?
論理的には、メールが偽であった場合と、真であった場合の2つの可能性が考えられる。
経過的には、真であることが立証され得なかったので、偽と判断されたわけである。
もちろん、ある証拠が真であるか偽であるかが争われた場合、証拠を提示しようとする側に挙証責任があることはいうまでもない。

しかし、今でも、いわゆる郵政民営化を争点とした総選挙において、武部幹事長が堀江容疑者を精力的に応援していたTVの映像は、鮮明に思い起こすことができる。
堀江容疑者は、郵政民営化に反対する勢力のシンボル的立場にあった亀井静香氏に対する刺客として擁立されたのだった。
もちろん、だから堀江容疑者から、武部氏の二男への送金が指示された蓋然性が高い、などというつもりはない。
しかし、「そういうことがあるかも知れない」という環境の中で、偽メールが、永田氏の手に、真であるとして渡されたわけである。

メールが偽であるとしたら、誰がどういう目的で、永田氏に渡したのか?
当時の流れの中で、永田氏が、重要な証拠となり得ると判断する物件を入手すれば、それを公然化して追及の武器とするであろうことは、ほぼ100%確信できるだろう。
とすれば、公然化した時点で、偽であることが示されれば、永田元議員および関係者の信用は大いに失墜することも、ほとんど手の内を見るように明白だっただろう。
言い換えれば、永田元議員は、赤子の手をひねるが如くつぶされたわけである。

利害得失のない人間が、わざわざ偽メールを作るようなことはしないだろう。
偽であることが発覚することにより、メリットを得た(得ることが想定できた)人間は誰か?
推理小説じみた憶測をしても仕方がないが、謀略の臭いを感じる人は多いだろう。
永田氏は、一種のスケープゴートだったのではないか。

ライブドア事件は、現在も係争中である。偽メール事件以外にも不透明な部分が多い。
特に、2006年1月18日に、ライブドアと深い関係のあった野口英昭・エイチエス証券副社長(当時)が、沖縄のホテルで謎の死を遂げたことは、背景の不気味さを感じさせるものであった。
偽メール事件も含め、おそらく本当の「真」は、闇に閉ざされてオープンになることはないのだろう。

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2009年1月 7日 (水)

珍説・奇説の邪馬台国・補遺…⑦「宇佐移転」説(澤田洋太郎)

「珍説・奇説」とは、言い換えれば、異端説ということであろう。
異端から学ぶ古代史』彩流社(9410)の著者である澤田洋太郎氏の見解はどうであろうか?
ここでは、澤田洋太郎『天皇家と卑弥呼の系図―日本古代史の完全復元』新泉社(9411)の記述を見てみよう。同書の「著者略歴」によれば、澤田氏の履歴は、以下の通りである。

1951年 東京大学法学部政治学科卒業。同年都立江戸川高校社会科教諭を初めとして高校教師を勤め、1982年都立大学付属高校教頭にて退職。以後、執筆活動にいそしむ。

上掲書「まえがき」には、澤田氏が日本古代史に興味をもち始めたのは、高校の教員をしていたころのことで、最初は、予感として、「邪馬台国は九州のどこかにあり、それを取り巻く“邪馬台国連合”といったものの一部が“東遷”して大和王朝を開いた」といったものがあっただけだった。
54歳のときに高校の教員を辞めた頃、近所にいた推理作家の高木彬光氏のお宅にお邪魔するようになり、高木氏は、澤田氏と古代史論議をする中で、『邪馬台国の秘密 新装版 高木彬光コレクション』光文社文庫(0610)(改稿新版版は、東京文芸社より1976年刊)の続編として、『古代天皇の秘密』角川文庫(8712)の構想がまとまった。
同書は、高木彬光著となっているが、澤田氏が高木氏の構想に沿うように元稿を書き、高木氏が手直しを重ねたものである、という。
つまり、実態は限りなく共著というべき性格のものであった、ということであろう。
澤田氏は、高木氏の手伝いをしながら、「卑弥呼の名のある系図」と「豊後・日田の秘密」という澤田氏独自の問題意識を軸に、古代史に対する考察を深めて、上掲書としてとりまとめた。

邪馬台国の所在地論に限れば、澤田氏の推論のあらすじは、以下の通りである。
①末盧国=東松浦半島説は誤りである
ほとんどの説が、魏使が最初に上陸した地点である末盧国を、佐賀県の東松浦半島としているが、魏使が上陸したのは、遠賀川河口の西方の神湊である。
当時の航海技術からして、冬の玄界灘を渡ることは無理で、夏の航路となるが、壱岐からほぼ真東に進み、神湊に着く、というのが自然であり、『魏志』の「海を渡る一千里」という距離にも適合する。

②伊都国=糸島半島説は誤りである
末盧国が東松浦半島でないとすれば、通説の「伊都国=糸島半島」説も成り立ち難い。
高木説では、魏使は、神湊に上陸したあと、「しばらく」東南に道をとり、やがて東北東に向かい、現在の北九州市から行橋市付近の伊都国に到着した、という見解をとっている。
「魏志倭人伝」に、末盧国から伊都国へは東南の方向に行く、と記されているから、少なくとも「しばらく」の間は東南の方向に向かわないと具合が悪い、ということである。
しかし、神湊から高木説の北九州市方面に行くならば、海路で行く方が自然である。
末盧国からの行程は「草木茂りて盛ん、行くに前人を見ず」とあり、舟では行けない行程であると解するべきで、とすれば、伊都国は内陸部にあったとしなければならない。

伊都国はどこか?
末盧国=神湊とし、そこから東南の方向に位置するとして、東南方向に線を引く。
伊都国は、「郡使が往来するに常に駐るところ」であり、「女王国より以北は、特に一大率をおき諸国を検察す。諸国はこれを畏れ憚る。常に伊都に治す」とあるから、交通の要路にあることが条件である。
現在の福岡市から東に、豊前・中津市へ至る道路と、遠賀川の河口から豊後・日田市に通じる道路を引くと、この3本の線が一点で交わる。
3_2 その交点の地名は、「糸田」である。
糸田は、末盧国の東南であるし、諸国を検察するに好適であり、舟では行くことができない。
つまり、伊都国の備えるべき条件を、すべて満たしていることになる。

澤田氏は、この陸の伊都国の出先的な場所として、「海の伊都国」ともいうべき地点があるのではないか、として小倉区に「到津」を見出している。
読みは、「イトウツ」である。
奴国は、高木説を採用する。豊前・中津で、伊都国の東南であり、中津は「ナの国の港」である。
不弥国も、高木説を採用する。豊前・長洲で、海(ウミ)に面した場所である。
さらに、神湊の西隣の玄海町の海岸地帯は「松原」という地名であり、これが「末盧」であった。

澤田氏は、邪馬台国連合の主流は、筑紫から豊の国へ移転した、とする。
それは2世紀末の倭国大乱の際で、松浦半島にあった末盧国は神湊近くの松原に、怡土郡の糸島にあった伊都国を内陸の糸田に、福岡の那の津にあった奴国を中津に、大移動させた。
それでは、3世紀における「邪馬台国」の位置はどこか?
邪馬台国は、上記の旁国の移動と同じように、筑紫から宇佐へ移転したのであり、結論的には「宇佐」説ということになる。

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2009年1月 6日 (火)

珍説・奇説の邪馬台国・補遺…⑥「田川郡・京都郡」説(坂田隆)

日本古代史に対する強力な論者の1人として、坂田隆氏がいる。
坂田隆氏は、古田武彦編著『古代史徹底論争-「邪馬台国」シンポジウム以後』駸々堂(9301)所収)に、「考古学から探る邪馬壹国」という論文を寄稿している。
その<執筆者紹介>欄によれば、以下のような履歴(当時)である。

昭和23年生まれ。仏教大学文学部卒業、京都大学大学院工学研究科修了。現在、大阪府立東豊中高校教諭。著書に『古代天皇家の謎』、『邪馬壹国の論理と数値』(以上、新人物往来社)、『卑弥呼をコンピュータで探る』、『分割された古代天皇系図』、『卑弥呼と倭姫命』(以上、青弓社)。論文に「『盗まれた神話』批判」(『鷹陵史学』7)。

履歴から分かるように、はじめ坂田氏は工学系の学問を学び、その素養の上に日本史学を学んだ。
数理に明るいことにおいて、安本美典氏の好敵手ともいえ、安本氏の推論の批判者でもある。
上掲書において、坂田氏は、邪馬壹国の所在地を定める方法は、次の2つであるとしている。
A.『三国志』に記された里数・日数・方向を検討すること
B.考古学を用いること  

そして、『三国志』の読解には、次の2つがあるとする。
a.だから発想:史料に「東南」と書いてあるの「だから」東南に行くべきだ
b.けれども発想:史料に「東南」と書いてある「けれども」東南には行かない
坂田氏は、史料読解の態度としては、「だから発想」が正しく、自分は「だから発想」に立って、ただただ『三国志』倭人伝に忠実に従って、邪馬壹国を求める、とする。

しかし、『三国志』によって邪馬壹国を求めても、その地が考古学的遺物に恵まれていなければ、邪馬壹国とはできない。『三国志』を忠実に読解して邪馬壹国を求め、その地の考古学的遺物が優れていれば、そこが邪馬壹国である。
つまり、史料読解が必要条件、考古学的知見が十分条件、ということになろうか。

2それでは、坂田氏の読解は、どこに導くであろうか?

坂田氏は、『三国志』倭人伝の行路記事で最も肝要な部分は、末盧国から伊都国への方向を述べた部分であ る、とする。

東南陸行五百里、伊都国に到る 

新井白石以来の多数派説は、「末盧国=唐津市、伊都国=糸島郡」と比定するものであった。
しかし、唐津市から糸島郡への方向は「北東」であって、『三国志』と一致しない。
だから、「末盧国=唐津市、伊都国=糸島郡」説は棄却されなければならない。

次に、坂田氏は、邪馬壹国の位置について、不弥国との関係をみる。
『三国志』には、「郡より女王国に至る万二千余里」とある。帯方郡から、不弥国までの里数を合計すると、余を1~7の平均の4だとみると、12,300里になる。
もちろん、厳密に「余=4」ではないが、「不弥国~邪馬壹国」は、約100里で、約8kmの距離ということになる。
問題の「水行十日陸行一月」を、帯方郡からの日数とする説に従えば、そのほとんどが不弥国までの行程で費やされていることになり、邪馬壹国は、不弥国のすぐ南に位置していることになる。

末盧国から邪馬壹国までの位置関係をまとめると、図のようになる。
それでは、末盧国はどこか?
2_2従来の多数派説は、「末盧国=唐津市あたり」としているが、そうすると、邪馬壹国は佐賀県小城郡・佐賀郡あたりになって、「女王国の東、海を渡る千余里」という記述に合致しない。
つまり、、「末盧国=唐津市あたり」を前提としたすべての説は棄却されなければならない。

坂田氏は、「末盧国=福岡県遠賀郡近辺」だとする。
それは、『三国志』には、「末盧国」は、一大国から千余里のところとしているが、方向は示されていないが、「一大国=壱岐」から東に千余里とすると、遠賀郡付近になるからである。
32その東南へ約40kmの位置、つまり福岡県田川郡・京都郡が、邪馬壹国の所在地である。
東に瀬戸内海が広がり、千余里渡れば山口県で、「女王国の東、海を渡る千余里」を満たしている。

考古学的遺物(例えば、弥生時代終末期の鉄製の刀の分布)からしても、田川郡・京都郡は、集中地域である。
つまり、「邪馬壹国=田川郡・京都郡」は、考古学的にも十分な裏づけを持っている、と言ってよい。

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2009年1月 5日 (月)

珍説・奇説の邪馬台国・補遺…⑤「博多湾沿岸周辺」説(古田武彦)

邪馬台国に関する諸説として、やはり古田武彦氏の論説は外すわけにはいかないだろう。
古田氏の立場や主張は、古田史学と称され(08年11月18日の項)、一時ほどではないにしても、現時点でも大きな影響力を持っているし、古田氏の考えをベースに独自の見解を発表している論者は少なくない(室伏志畔氏-07年9月22日の項、砂川恵伸氏-08年1月15日の項、藤田友治氏-08年6月4日の項など)。

古田氏の邪馬台国問題への登場は、1969年に『史学雑誌』に「邪馬壹国」を発表したことに始まる。
当時、古田氏は、高校で国語科や社会科を教える教師の職にあったが、既に親鸞の研究家として知られていた。
『邪馬壹国』において、古田氏は、次のような問題提起を行った(「邪馬壹国の原点」/『よみがえる卑弥呼』駸々堂(8710)所収)。

江戸時代前期以来、三国志の魏志倭人伝中の、白眉をなす中心国名「邪馬壹国」に対して改定の手が加えられてきた。すなわち、これを「大和」<のちには山門>に当りうると考えられた「邪馬臺国」へと直し、あたかもこれが研究上ゆるぎなき基礎文面であるかのごとく使用してきた。これは不当である。

古田氏は、「邪馬壹国」を発表後、1970年に教職を離れ、研究に専念し、1971年に刊行した『「邪馬台国」はなかった』朝日新聞社(7111)をはじめとして、次々に著作を刊行し、九州王朝説を中心とする独自の古代史像を提示した。
それらは、学界の通説に再検討を迫るもので、多くの支持者・賛同者を集め、「市民の研究会」が組織され、1979年より雑誌『市民の古代』が刊行された。

古田氏が中心になって、1991年の8月1日から6日にかけて、東方史学会主催「古代史討論シンポジウム・『邪馬台国』徹底論争-邪馬壹国問題を起点として-」というシンポジウムが開催された。
その記録が、3冊の著書として公刊されている。
古田氏は、そのシンポジウムにおけるもっとも印象的な発言は、木佐敬久氏の次の発言であった、としている(「古代史の論理」/古田武彦編著『古代史徹底論争-「邪馬台国」シンポジウム以後』駸々堂(9301)所収)。
その発言の要旨は、次の通りである。

「魏志倭人伝」には、正始8(247)年に帯方郡治から張政という人物が倭国へ来たことが記されている。
張政は、卑弥呼の死や国内の紛争や壱与の擁立を経て帰国した。それは晋書倭国伝などによると泰始2(266)年であるから、張政は20年間、倭国に滞在していたことになる。
「魏志倭人伝」は、その報告に基づくものであって、軍事用の使用目的に耐えるものであるはずで、とすれば、行路記事について、以下のように考えるべきだ。
①「南」と「東」と、方角をまちがえていた、などということはありえない
②「里程」も、「5~6倍のいつわり」を書いていた、などということはありえない
③特に、帯方郡治から倭国の都までの総日程は、軍事行動上重要であって、必ずその総日程が書かれているはずだ

木佐氏の問いは、古田氏が『「邪馬台国」はなかった』以来、提起してきた解読に対応するものである、と古田氏は言う。
結論的に古田氏は、次のようにいう(「古代史の論理」)。
①倭人伝の方角に狂いはない
②倭人伝の「里程」は、真実(リアル)だ。倭人伝では、魏・西晋朝の短里(1里=約77m)が使われている
③倭人伝の「里程」記事中の「方四百余里」(対海国)と「方三百里」(一大国)の各半周を「里程」中に加算すると、「部分里程の総和=総里程(一万二千余里」という根本の公理が満足される
④「水行十日・陸行一月」は「帯方郡治と邪馬壱国との間の総日程である
⑤「部分里程の総和=総里程」からして、部分里程最終着地「不弥国が、最終目的地「邪馬壱国」の玄関に当る。それは、博多湾岸とその周辺領域である

古田氏は、弥生後期の大和は、金属的出土物に関しては、ほとんど「裸の地帯」ともいうべきであって、卑弥呼の居する「邪馬壹国」の所在地としては不適である、という。
そして、「倭国の都」は、九州に求めるべきで、九州における最大の鏡(漢式鏡)の密集地であり、同時に銅矛・鉄鏃等の鋳型や実物の集中地である筑前中域に求めざるを得ないだろう、とする(「邪馬壹国の原点」)。

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2009年1月 4日 (日)

珍説・奇説の邪馬台国・補遺…④「朝鮮半島」説(山形明郷)

「魏志倭人伝」における「倭」は、地域的には日本列島のことを指す、ということが暗黙の前提になっている。
もちろん、邪馬台国の所在地について、内田吟風の「ジャワ島」説や木村鷹太郎の「エジプト」説などの列島外説もあるが、これらは一種のトンデモ説と捉えられていると考えるべきだろう。
しかし、東アジア史を根本から再検討し、倭は古代における朝鮮半島を指していた、とする議論がある。
山形明郷『邪馬台国論争 終結宣言』星雲社(9505)で追究されている議論である。
議論の内容は、以下のサイトにおいて、概要が示されている。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~takao-3/

著者の山形氏は、宇都宮市在住の在野の古代東アジア史研究家である。
上掲書の冒頭に付された、栃木県婦人ペンクラブ会長・吉田利枝氏の「書評」を引用しよう。

「正史二十五王朝史」総冊実に二百八十九冊・三千六百六十八巻に上る驚異の大冊原書に加え、「戦国策」「国語」「春秋左伝」「十八史略」「高麗史」「三国史記」等々、更に、現・人民中国編集委員会が発行する「月刊・人民中国」そして、李鐘恒氏をはじめとする現・朝鮮半島内学者と共に、在日朝鮮公民として亦斯界で活躍される全浩天氏諸兄の関係著作論文、その入手に苦労されたであろう往年の「大満州国地図」「中国歴史地図」をも机辺にされ、これら厖大、広範な古文献、多彩な諸資料を丹念に解読・精読を重ね更にこれら叙述内容への精緻な比較・照合・検索・検証に亦精魂を傾けられ、待望久しかった私どもは、この程漸くにして上梓完成されたこの珠玉の大著に見えることができた。

上掲書には、山形氏が参照した『史記』以下の浩瀚な「参考文献」のリストが提示されているが、すべて中国から取り寄せた原書とのコメントが付いており、山形氏の漢文に関する素養が卓絶したものであることが窺える。
2_4山形氏は、従来の史家は、『倭人傳』と訣別出来かねていることが問題で、それは『倭人傳』を『日本古傳』と誤解していること、この傳記を解釈する際の既成の史的知識に原因がある、としている。

山形氏は、上記の吉田氏が紹介しているような広範な文献を精査した結果、既成の史的知識に関して、次の3項において誤認があるとする。
①古代朝鮮の所在地
②漢帝の植民市、楽浪・帯方の所在
③前三韓、馬韓・辰韓・弁韓の所在

山形氏によれば、『魏志倭人傳』は、「中国遼東半島方面から今日の朝鮮半島方面の古代の或時期の史実の残片と、南2_5支南方方面の土着人の国情習俗などの傳風聞を巧みに混淆させて綴られた雑記文の一種で」、「『半島古傳風聞雑録』とでも言えようか」ということになる。
そして、帯方郡と楽浪郡の所在地について、従来の定説は誤りで、正しい位置図を示している。

2_3邪馬台(蓋馬)国の所在地については、「鴨緑江北岸・渾江口より遡ること9kmの古馬嶺村周辺から、麻天嶺の中間地域」ということになる。
山形氏の学識と努力には、率直に敬意を表したいと思う。残念ながら、私には批判的に捉える能力に欠けているが、山形氏の著作に示されている読解は、象牙の塔のアカデミストを凌駕する力業ではないかと思う。
素人的な素朴な疑問として言えば、「邪馬台国」は、「魏志倭人伝」に記された名前であることからして、「魏志倭人伝」を疑って、邪馬台国論争を「終結」できるのか、という気がすることを付言しておきたい。

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2009年1月 3日 (土)

モデルなき人口減少社会に向かって

私たちの生きている社会は、これから人口の自然減が続くものと予測されている。
もちろん戦争や自然災害、あるいは伝染病の猛威などによって、一時的に人口が減少した社会はあった。
しかし、継続的に自然減が続く時代というのは、世界史的にも未曾有の体験ではないだろうか。

人口減少社会とは、総人口が減少する社会であるが、それは、人口構成の劇的に変化していく社会である。
子供のころ、人口構成はピラミッド型になると教えられた。
年齢が上がるに従い、死亡する人が増えるのは当然だから、なるほどと思った。
しかし、出生数の劇的な変化によって、ピラミッドの形は既に大きく崩れている。
それが、これからさらに加速していくのである。

2 2005年の人口構成と2055年の予測とを対比してみよう。
労働力人口と非労働力人口の比率がドラスティックに変化することが瞭然である。

松谷明彦『「人口減少経済」の新しい公式 「縮む世界」の発想とシステム』日本経済新聞社(0405)は、人口減少社会へ、どういう対応が可能かを問うた書である。
奥付の著者紹介欄によれば、松谷氏の略歴は以下の通りである。

政策研究大学院大学教授。専門はマクロ経済学、社会基盤学、財政学。1945年生まれ、大阪市出身。東京大学経済学部経済学科・同経営学科卒業。大蔵省主計局主計官、大臣官房審議官などを歴任。1997年より現職。2004年東京大学より博士(工学)の学位取得

松谷氏は、2015年の大晦日の様子から筆を起こす。
「今年もまた企業の売上高は前年を下回った。そうした状況がもう何年も続いている。」
昨年の金融危機以来の不況感の強まりは、今年が「もう何年も続く年」の始まりとなることを示しているのであろうか。
経済成長率から経済縮小率へ。
しかし、松谷氏は、規模の縮小はあっても、「経営が悪化する企業はほとんどなく、景気の現状(2015年)を不況だと言う人もいない。」と続けている。

世界でも比類なき高齢社会を迎えた日本。
そういう時代に、まさに高齢者の仲間入りをするわけで、身を以て時代の変動を経験できることを幸せだと思えるように生きたい。
先の「東亜・太平洋戦争」の末期に生まれた私たちは、もちろん戦争そのものの記憶はない。
しかし、戦後の窮乏の時代を、幼心に刻み込んで育った。

戦後復興から、高度成長の時代へ。
そして、バブルとその崩壊。構造改革と市場主義。
その市場主義の限界が露呈している現在、それでは「大きな政府」を期待するべきだろうか?

松谷氏は、外国人労働力を活用しても、労働力人口の減少は避けられず、経済のボトルネックは、需要不足から供給不足へシフトする、とする。
つまり、日本経済の縮小は、どうあっても避けることはできないものなのだ、という認識を出発点とすべきだというのである。
そういう社会において、日本が引き続き豊かな社会であり続けるためには、なにをなすべきなのか?

結論として、松谷氏は、人口の減少高齢化が日本経済にもたらす問題には克服できない問題は1つもなく、逆に、「経済規模のわりには貧しい国民生活」から脱却するための好機なのだという。
小泉内閣以来、「構造改革なくして成長なし」ということが、一種の公理のように唱えられているが、成長を目指した構造改革は、間違いだということである。
成長のための条件が失われているのであり、「縮小」を前提として、豊かさを追求すべきなのだ、とする。
現下の日本経済は閉塞感に包まれているが、見方を変えれば明るい未来が見えてくるのかも知れない。

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2009年1月 2日 (金)

人口減少社会の到来とグローバル市場主義モデルの終焉

世界は、「100年に1度の危機」を迎えているといわれる。
IT技術と連動した金融工学の発展により、金融派生商品という実体のない「商品」が、グローバル化した市場で、マネーを吸引し、あげくは金融危機と呼ばれる状況を招来し、それが実体経済の不況へ拡大している。
それは、明らかに循環的な景気変動というよりも、構造的な変化を示していると考えられる。

とりわけわが国は、、「人口減少社会」という、今までに経験したことのない社会に直面している。
つまり、二重の意味で文明史的な転換点に位置しているということができる。
そういう時代に、マンガを読む(見る?)時間が足りないなどという人が総理大臣の座にいるという巡り合わせは、まことに皮肉なことではある。
それを云々するよりも、ここは、何よりも、自分自身の認識力を鍛えなければならないと考えるべきだろう。

Photo_2超長期的な人口動態をみた場合、私たちの生きている時代は、きわめて特異的な性格を持っているということができる(07年8月17日の項)。
人口規模の超長期的な推計グラフを再掲してみよう。
わが国は、これから先、急激に人口が減っていくことが想定されている。
人口が減少するという事象は、歴史的にも初めてのことである。
厚生労働省が、12月31日に発表した平成20年の人口動態統計も、人口減少社会の到来していることを裏付けている。
2日本在住の日本人人口は、出生数がわずかに増えたものの、死亡数が大幅に増えて、自然減が過去最大の51,000人になる見通しである。 

自然減は、平成19年に続き2年連続で、日本社会は本格的な人口減少社会に入ったといことになる(グラフは、産経新聞09年1月1日)。

出生数は、出産適齢期の女性人口と合計特殊出生率(1人の女性が生涯に産む子供の平均数の推計値)の積で決まる。
合計特殊出生率は、長期的に低落傾向にあるが、平成20年は、19年の1.34よりわずかに上昇して1.36程度となる見通しである。

一方で、死亡数は高齢化の進展で増え続けている。
出産適齢期の女性人口が減り、合計特殊出生率も大きな変動が見込めないので、出生数は伸び悩む。
高齢化のさらなる進展によって、死亡数は増え続け、自然減は拡大し続ける見通しである。

人口は、一国の総需要を決めるもっとも基本的な要因である。
私たちは、経済規模が拡大するのが当然だと思える社会を生きてきたが、人口減少社会の到来によって、経済の量的な規模も自ずから制約される。
現在の日本社会は、金融資本主義という経済モデルからの転換と同時に、人口増大社会から人口減少社会への転換という課題を背負っているわけである。

私たちは、量的拡大ではなく質的充実を志向すべき時代を迎えているといえよう。
どのような社会観をもってこれからの時代を生きていくか、自分に対する今年の課題としたい。

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2009年1月 1日 (木)

今年もどうぞよろしくお願いします

2009年、明けましておめでとうございます。
昨年は、9月のリーマン・ショックや、去年2兆円の営業利益を上げたトヨタ自動車が、この3月期には営業赤字に転落する見通しを発表するなど、多事多難ともいうべき大「変」な年でした。
日経平均株価は、1年間に実に6448円、率にすると42.12%と、過去最大の下落率を示し、金融危機から実体経済へ、ダメージが広がっているようです。

北京オリンピックなど、既に遙かに遠い出来事のような気がします。
総理大臣が連続して政権を放擲したことに象徴されるように、日本丸はまさに漂流状態にあると言わざるを得ないでしょう。
昨日と今日と、時間的には連続していますが、暦には明確な区切りがあります。
景気に「気」が関係するものならば、年があらたまることによって、新しい気運が生まれてくることに期待したいと思います。

Rimg00692そんな気持ちもあって、知人の「毎年、大晦日の落日を見ることにしている」という言葉を聞き、昨日は海に沈む夕陽を眺めてきました。
その太陽が、地球の裏側を回って、というか地球が半回転して、今朝の初日になって現れた瞬間は、神々しい気持ちに浸ることができました。

いま、「100年に1度の危機」ということが喧伝されています。
確かに、アメリカのビッグ3が瀕死の状態に陥っていることや日本の自動車メーカーのなりふり構わぬ不況対策を見ていると、深刻な危機的状況であり、景気対策的な発想でいいのか、という気がします。
Rimg0089_22ことに、ノーベル賞を、益川俊英、小林誠、南部陽一郎(米国籍)(以上物理学)、下村脩(化学)と、4人の日本人が受賞したことを見ても、日本人の創造力は、きわめて高いものだと思われ、その創造力を働かせて、もっと長期的な視点をもって、問題解決に取 り組むべきではないでしょうか。

この100年の間、日本および日本人は、さまざまな危機を切り抜けてきて今日を迎えているわけです。
「100年に1度」というフレーズに触れて、100年前がどんな時代だったのかを調べてみました。
「ザ20世紀」というサイトで、1909年の項をみると、この年の重大ニュースとして、次の2つが挙げられています。

伊藤博文、ハルピンで暗殺
10月26日、伊藤博文がロシアの大蔵大臣と会談するために降り立った清国のハルピン駅で韓国人の安重根〔アン・チュングン〕にピストルで暗殺された。安重根はその場で逮捕された。韓国では「義士」とされている。 
日本政府は7月にすでに韓国併合の方針を閣議決定していたが、この事件を契機に併合を急いだ。
大日本製糖疑獄事件
日露戦争の財政確立のために砂糖消費税引き上げが問題になった時に、議員を買収して引き上げ阻止をはっかったというもの。4月11日から検挙が始まり、逮捕者は日糖の旧重役のほとんどと代議士24人に及んだ。
伊藤博文の暗殺は、歴史の転換点を象徴するものでしょうし、大日本製糖疑獄事件は、100年前も変わらないことをやっていたんだなあ、という気にさせられます。
2009年はどんな年になるのか、楽しみでもあり、不安でもあり、といったところでしょうか。

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