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2008年12月12日 (金)

邪馬台国に憑かれた人…⑨石野博信と「纏向遺跡」論

渡辺一衛『邪馬台国に憑かれた人たち』学陽書房(9710)のラストバッターは、纏向遺跡の発掘に携わった橿原考古学研究所の石野博信である。
石野博信は、『大和・纒向遺跡』学生社(0810)の著者紹介欄によれば、以下のような略歴である。

1933年、宮城県に生まれる。関西学院大学文学部卒業。関西大学大学院修了後、兵庫県教育委員会、奈良県立橿原考古学研究所部長、同研究所副所長兼附属博物館々長を経て、徳島文理大学文学部教授・兵庫県立考古博物館々長・奈良県香芝市二上山博物館々長。

橿原考古学研究所の石野らは、1971年に奈良県桜井市の纏向遺跡の発掘を始めた。
間もなく、纏向石塚古墳が発見され、多量の土器が出土した。
纏向石塚古墳は、全長約90mで、弥生時代から古墳時代に移行する発生期の古墳と位置づけられる。
つまり、畿内の弥生時代から古墳時代にかけての土器の編年の年代観の基準を提供する遺跡である。
弥生時代後期から古墳時代前期への時期区分は、纏向の土器を分類した纏向n期という表示をされ、他地域での古墳等との比較検証がなされている。

石塚古墳の近くに、最初の定型化した古墳とされる箸墓古墳がある。
石野らの研究によって、箸墓は、それまで3世紀末の築造と考えられていたが、3世紀半ばに引き上げられることになった。
箸墓は、卑弥呼の墓ではないかとされている古墳であり、3世紀半ばに繰り上がると、248年と推定される卑弥呼の墓であるとして、矛盾を生じないことになる。

1996年4月、大阪府の池上・曽根遺跡の建物跡のヒノキの柱材の伐採年が、年輪年代法によって、紀元前52年と推定された。
同時に出土した土器は弥生中期のものであり、土器編年がそれまで考えられていたものより、50~100年さかのぼるという見方が登場した。
年代観は、さまざまな視点を総合して判断されるものなので、未だ最終的に一致した見解に至っているとは言えないようであるが、畿内の年代観は、次第に繰り上げられる方向にある。

年代観の変化と共に、高地性集落(08年11月29日の項30日の項)の出現時期に関しても見直しが進んでいる。
石野は、全国の高地性集落の出現時期を3期に分けて捉えた。
当初、石野は次のように考えていた。
第1期:倭国大乱
第2期:3世紀の畿内の混乱
第3期:大和朝廷の諸国征服

畿内の土器編年が1世紀近く繰り上げられることによって、高地性集落は、すべて2世紀までの弥生時代のものであった、という見方になってきた。
そうすると、3世紀の邪馬台国と狗奴国との争い、4世紀の大和朝廷の四道将軍の派遣などは、弥生時代の戦乱に比べれば、ずっと穏やかなものだった、という理解になってくる。

纏向遺跡は、それまで何もなかった場所に巨大な集落が出現したことを示している。
この事実をどう理解するか?
石野は、弥生終末期の唐古・鍵遺跡の住民が移転したものとみたが、石野と同じ橿原考古学研究所の寺沢薫は、外部からの強権的な征服を想定している。
北九州を主体とする西からの圧力である。

纏向遺跡の性格はどのようなものであったのか?
最初は、箸墓の建設のために全国から集められた人々の飯場のようなものではないか、と考えられていた。
しかし、運河跡や宮殿跡などが発見されたことにより、日本最初の都市と考えるべきだというように変わってきている。
それと共に、邪馬台国の女王・卑弥呼の都に相応しいという見方が強まってもいる。
箸墓の築造年代については議論が残るところであるが、渡辺は、「やはり箸墓が卑弥呼の墓であると考えるのが妥当であろう」としている。
しかし、纏向遺跡が卑弥呼の都であったのか、箸墓が卑弥呼の墓なのか、畿内説の妥当性については、考古学的にもまだまだ多くの検討課題が残っていると思われるし、何より文献解釈として妥当か否かが問われなければならないのは当然である。

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コメント

日本の古代国家成立過程に興味を持っているものです。
興味を持ったきっかけは、邪馬台国論争です。
そこで考古学者に注文があります。

1.遺物の年代測定法の開発及び確立。
2.土器、鉄製品(青銅含む)などの遺物の分布・交流状態を北九州や畿内に重点を置くだけでなく日本全体でとらえてほしい(日本海側も含めて)。
3.魏志倭人伝を率直に読むこと。方位を自説に都合のよいように曲げないなど。
4.学術研究のために古代天皇陵の調査ができるようもっと宮内庁の上部組織に働きかけてほしい。
5.重箱の隅ばかり突いていては三世紀前後の北東アジアにおける日本の状況はつかめない。
6.マスコミへの調査結果の発表は慎重にしてほしい。
7.邪馬台国の所在地は九州説、畿内説その他観光目的で色々あるが相手の説を率直に聞く態度が望まれる。

当たり前の事を書きましたが、すでに実践されていることと存じます。要はどんどん発掘して考古学成果を出してほしいということです。期待しています。

投稿: キャピバラ | 2013年4月 7日 (日) 07時24分

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