« 「レジ袋」の有料化について② | トップページ | 珍説・奇説の邪馬台国・補遺…②「南伊豆」説(肥田政彦) »

2008年12月29日 (月)

珍説・奇説の邪馬台国・補遺…①「エジプト」説(木村鷹太郎)

「邪馬台国論争」には、岩田一平『珍説・奇説の邪馬台国』講談社(0004)に登場している説だけでなく、さまざまな「珍説・奇説」が存在する。
その最たるものが、邪馬台国=エジプト説であろう。
内田吟風のジャワ島説には、「魏志倭人伝」の記述からして、首肯できる部分があることは確かである(08年12月16日の項)。
しかし、エジプトというのは如何なものだろうか?

邪馬台国=エジプト説を唱えたのは、キムタクならぬキムタカこと木村鷹太郎という人である。
WIKIPEDIAによれば、木村鷹太郎の人物像は、以下の通りである(08年3月27日最終更新)。

木村 鷹太郎(きむら たかたろう明治3年9月18日(1870年10月12日) -昭和6年(1931年)7月18日)は主に明治・大正期に活動した日本の歴史学者、哲学者、言語学者、思想家、翻訳家。独自の歴史学説「新史学」の提唱者として知られる。愛媛県宇和島市出身。
東京帝国大学史学科に入学、後に同学哲学科に転じて卒業。陸軍士官学校英語教授職等を務める。日本を世界文明の起源と位置づけ、かつて日本民族が世界を支配していたとする「新史学」を熱烈に唱えた。他にも邪馬台国エジプト説や、仏教・キリスト教批判などの独創的な主張で知られる。異論に対して徹底的に反撃・論破する過激な言論人でもあり、論壇において「キムタカ」と通称されて恐れられ、忌避された。
その研究の多くは存命中から異端学説と見なされてきた。代表的著作に『世界的研究に基づける日本太古史』など、翻訳に『プラトン全集』などがある。

木村鷹太郎の「邪馬台国=エジプト説」については、長谷川亮一という千葉大学の若い歴史学徒が開設している以下のサイトに、批判的な紹介がある。
http://homepage3.nifty.com/boumurou/tondemo/kimura/kim_yama.html
2同サイトによれば、「邪馬台国=エジプト説」の登場は、以下のようであった。

1910(明治43)年7月、ある奇妙な論文が「読売新聞」に掲載された。題は「東西両大学及び修史局の考証を駁す──倭女王卑弥呼地理に就いて」。著者は、当時、バイロンの紹介や『プラトン全集』の翻訳などで知られていた、哲学者で翻訳家の木村鷹太郎(1870~1931)。しかし、その内容は恐るべきものだった。鷹太郎は、その中で、邪馬台国研究史上、最も奇妙な学説、「邪馬台国=エジプト説」を展開していたのである。
この年、京都帝国大学の内藤虎次郎(湖南)教授は「卑弥呼考」を発表して邪馬台国=畿内説を提唱し、一方、ほぼ同時期に東京帝国大学の白鳥庫吉教授は「倭女王卑弥呼考」で邪馬台国=北九州説を主張した。この両者の対立が、現在まで延々と続くいわゆる「邪馬台国論争」に火をつけることになる。鷹太郎は、この両説に真っ向から噛みついたのである。
中略
『魏志倭人伝』は、地中海から東アジアに及ぶ広大な地域を支配していた時代の日本を記録したものなのだという。この記録を携えて西方から移民してきた中国人が、東洋で編纂された歴史書の中に、この記録を混入させたのが『魏志倭人伝』だというのである。
なんか、思い切り頭が痛くなってきたが、鷹太郎はあくまで大真面目である。
そして、このような前提に立った上で、『魏志倭人伝』を読解すると……。

木村鷹太郎の説は、どう考えても荒唐無稽な説というべきだろうが、実は、この木村鷹太郎は、与謝野寛(鉄幹)と晶子の結婚の媒酌人をつとめたほどの人である。
古田武彦氏の研究室に在籍したことがあり、現在はその批判者として活動している原田実氏は、古田武彦編著『古代史徹底論争-「邪馬台国」シンポジウム以後』駸々堂(9301)に、「木村鷹太郎の邪馬台国論をめぐって-遥かなり埃及(エジプト)」という論文を寄稿している。
原田氏は、木村鷹太郎の邪馬台国研究史上の位置づけに関して、以下のように総括している。

地名比定によって邪馬台国をエジプトにさえ持っていくことが可能なら、地名比定に信を置くことの何と危ういことだろう。邪馬台国研究史の宿痾の一つともいうべき地名比定の過剰、木村はそれに対する批判者として研究史に現れる一方、地名比定を自説の傍証に用いることで反面教師としての役割をも示しているのである。
さて、倭人伝の原文尊重、安易な地名比定への批判など、一九七○年代以降に重視されるテーマを先取りしていたというのは、確かに木村の先駆者的側面を示すものである。

そして、木村鷹太郎が他家の説の批判については説得力のある論旨を展開しながら、邪馬台国エジプト説という破天荒な結論となったのは、どこかでつまずいてしまったのであって、そのつまずきの石として、原田氏は以下の3つを挙げている。
①直線的読方への固執
②絶対年代の軽視
③『三国志』全体における倭人伝の位置付けを見失ったこと

結局、邪馬台国=エジプト説は、思考のシミュレーションの1つであり、かつ人の思考がどれほど柔軟に展開し得るかということを示してみせたもの、ということになるのではなかろうか。

|

« 「レジ袋」の有料化について② | トップページ | 珍説・奇説の邪馬台国・補遺…②「南伊豆」説(肥田政彦) »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

日本古代史」カテゴリの記事

思考技術」カテゴリの記事

邪馬台国」カテゴリの記事

コメント

木村鷹太郎の復刻に協力したのは、現在大和ミュージアム館長の戸高一成氏。
戸高氏の編纂した木村の書籍は三冊で、いずれも悪名高い八幡書店から刊行されている。
また戸高氏が雇われ社長を務めていた戦記物の出版社、今日の話題社は八幡書店に合併されている。
さらに戸高氏がオカルトに関与したのは、76年の「地球ロマン」という雑誌で、同誌の編集長と八幡書店の編集長とは同一人物。そのうえ次の号で感想を述べていたのがSF作家の荒巻義雄で、90年から刊行された荒巻の架空戦記「紺碧の艦隊」のブレーンが戸高氏だった‥‥とのこと。

大和ミュージアムの展示物も眉唾物になってきましたな。

投稿: 通りすがりさん | 2013年10月 5日 (土) 20時54分

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 珍説・奇説の邪馬台国・補遺…①「エジプト」説(木村鷹太郎):

« 「レジ袋」の有料化について② | トップページ | 珍説・奇説の邪馬台国・補遺…②「南伊豆」説(肥田政彦) »