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2008年12月16日 (火)

珍説・奇説の邪馬台国…①「ジャワ島」説(内田吟風)

岩田一平『珍説・奇説の邪馬台国』講談社(0004)で取り上げているトップバッターは、内田吟風の唱えた「ジャワ島」説である。
内田吟風は、明治40(1907)年生まれで、京都帝国大学史学科を卒業、神戸大学、佛教大学、龍谷大学の各教授を歴任し、神戸大学の名誉教授となっている。
「匈奴史」「北アジア史」「騎馬民族史」の研究家で、東洋学の権威として知られる。

「邪馬台国ジャワ島説」などというと、それこそトンデモ本かという気がする。
しかし、内田氏の主張は真面目なものである。
内田氏の論拠を、岩田氏の解説から引用すると、以下のようなものである。

先ずは、「郡より女王国に至る万二千余里」という距離感。
漢魏の1里は420mほどで、万二千余里だと5000kmあまりとなる。その距離だとスマトラ島やジャワ島、バリ島などのインドネシア辺りである。
また、不弥国から「南へ水行二十日」で投馬国に、さらに「南へ水行十日陸行一月」で邪馬台国に至る、とあるから、不弥国から南に1ヵ月は航行するのであり、不弥国が北九州だとすれば、邪馬台国は九州の範囲には収まらない。
内田氏は、古代中国人は、朝鮮半島から東南アジアの熱帯の島々までにいた海洋民族を「倭」と呼んでいたのだ、とする。
「倭」が、日本列島のことをさすようになったのは『隋書』以降のことである、というのである。

東晋の法顕という僧が著したインドへの留学を記した『仏国記』という書物がある。
法顕は、インドからの帰途、獅子国(スリランカ)から90日ほどかけて耶婆提(ヤバテイ)国に寄航した。
この耶婆提がジャワ島のことを指していたと考えられている。
内田氏は、耶婆提も邪馬台もサンスクリット語のYavadvipaの漢字音訳と推論した。

国語学者の大野晋氏が「日本語とタミル語の同祖説」を提唱したことがある。
タミルはスリランカ北部で、海路で9000kmも離れていることから、大野説に対しては、否定的な見解が多い。
しかし、古代人の交流の範囲は、われわれが漠然と考えるよりは、ずっと広範囲だったようだ。
例えば、法顕の乗った船は200人乗りという大型船だったらしい。
古代アジアの海洋民は、立派な船で航行していたのであり、その船に乗って交易活動をしていた「倭人」の商圏は、東南アジアから中国、朝鮮半島、日本列島に、そしてインドにつながっていた。
『魏志倭人伝」の一支国(壱岐島)の説明で、「南北に市糴す」という表現がある。
市糴とは交易のことであり、東南アジアの多島海では、今も「南北に市糴」してている人々がいる。

弥生時代の頃、東南アジアのフィリピンやベトナム、シャム湾あたりでは、稲・雑穀を栽培し、青銅器をつくり、甕棺で埋葬するサフィン文化が栄え、南インドでも同じ頃甕棺葬が広まったらしい。
そして、やはり同じころ、朝鮮半島南部や九州北部でも、甕棺葬が大流行している。
これらの流行が、東アジア~南インド沿岸の地域で同期して起きていることは、海の道でこれらの地域がつながっていたことを示していると考えられる。

内田氏の「邪馬臺・耶婆提・Yavadvipa考」という論文の結びの言葉として、次の文が引用されている。

邪馬台国に関する熱帯南洋記述を無視または等閑視して、邪馬台国を、無批判的に日本乃至日本内の一地に速断比定し、従ってまた更に中国史籍の邪馬台国記事を以て我国上古の皇統・神道・庶民生活の史料とし、さらにこれによって日本書紀等の所述を批判改変、否定するが如き従来の学説に対しては根本的な再検討が必要と信ずる。

どうしても、「倭」は日本列島のことであり、邪馬台国は日本列島内にあった、という先入観にとらわれて考え勝ちであるが、耳を傾けるべき言葉なのかも知れない。

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