「レジ袋」の有料化について
私の住んでいる地域でも、スーパーのいわゆる「レジ袋」の有料化が進んでいる。
どうやら地方自治体と、環境・省エネというようなことで協定を結び、それに基づいて実施しているらしい。
というのは、同じ系列のスーパーでも、市町によって、現時点で無料の店もあれば既に有料化している店もあるからである。
買い物袋を持参せず、「レジ袋」が必要だと言うと、1枚5円で販売する。
店内での案内放送で、「地球環境……」とか「省エネ……」とか「温暖化防止……」というようなことがしきりに言われている。
しかし、「レジ袋」の有料化が、果たして地球を救うことになるのだろうか?
そんなことはあるまい、と思う。
「レジ袋」を有料化するということは、有料化によって、使用を抑制するという効果を期待したものだろう。
今まで無料だったものが、有料になれば、一般には使用量は減少するはずだ。
需要と供給は価格の関数である、というのがミクロ経済学の出発点である。
「レジ袋」もこの経済原則によって、使用量は減ることになるだろう。
「レジ袋」を、買い物を持って帰る時にしか使わない人ばかりであれば、社会全体で省資源化を推進したということになるはずである。
しかし、「レジ袋」の使用量の減少によって、他の何か(例えばゴミ袋、あるいはまとめ買いするためのガソリン)の使用量が増えるかも知れない。いわゆる代替効果である。
総体として、環境への負荷が小さくなるかどうかは、もっと吟味が必要ではないだろうか。
実際、我が家では、「レジ袋」は、必ず何かに再利用している。
「レジ袋」は、軽くてかさばらず、水に強く柔軟で、何でも入れやすい。とても便利な収納用品である。
だからこそ、暮らしの中に定着してきたといえるだろう。
少数のサンプルではあるが、まわりの人に聞いても、「レジ袋」をそのまま捨ててしまうという人は皆無であった。
利用法としては、「買い物袋として再利用する」「生ゴミを入れる」「犬のフンを始末する」「ゴミ箱の内袋にする」「濡れた折り畳み傘を入れる」などがある。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20080722/165960/?P=4
多くの自治体では、指定の「ゴミ袋」ある。
だから、ゴミを出す時には、「ゴミ袋」に入れて、所定の場所に置く。つまり、「レジ袋」を直接ゴミ出しに使うわけではない。
しかし、家の中で発生する雑多なゴミ、特に台所から出てくる生ゴミは、一度「レジ袋」にいれ、ゴミを出す日に「ゴミ袋」に入れて出している。
仮に、今後「レジ袋」が手に入らず、「ゴミ袋」だけであったら、結局は「ゴミ袋」を現在の「レジ袋」の代用として使うことになるだろう。
つまり、我が家においては、石油を原料とするポリエチレン(?)の袋の使用量は、殆ど変わらないということになると思われる。
そもそも、「レジ袋」に使用する石油資源の量など、世の中全体の石油消費量からすれば、ごく微少であろう。
それを減らしたからと言って、地球温暖化防止への寄与度など、ほとんど無視し得る程度だと思われる。
要は、精神運動なのである。
http://openblog.meblog.biz/article/1312663.html
どうも、エコとか環境という言葉には、うさん臭さがつきまとっている。
スーパーなどで使う自分用の買い物袋を「エコバッグ」というらしい。
環境への負荷を減らしたり、省資源を志すことは重要だと思う。
そういうライフスタイルを実践しようとも思っている。
しかし、現在の「レジ袋」有料化の動きには、違和感を覚える。
あたかも「レジ袋」を無償で提供しないことが「正義」であり、買い物袋を持ってこない輩は、省資源意識の乏しい蒙昧な人間である、というような雰囲気である。
もちろん、蒙昧であることも否定はしないが、こういう「空気」によって、世論が動いていくことに、大きな危惧を感じるのである。
故山本七平氏の『「空気」の研究 』文春文庫(8310)を紹介したことがある(08年4月28日の項)。
われわれが「空気」に順応して判断し決断しているのであって、総合された客観情勢の論理的検討の下に判断を下して決断しているのでないことを示している。だが通常この基準は口にされない。それは当然であり、論理の積み重ねで説明することができないから「空気」と呼ばれているのだから。従ってわれわれは常に、論理的判断の基準と空気的判断の基準という、一種の二重基準(ダブルスタンダード)のもとに生きているわけである。そしてわれわれが通常口にするのは論理的判断の基準だが、本当の決断の基準となっているのは、「空気が許さない」という空気的判断の基準である。
「レジ袋」有料化は善である、とする「空気」があることは誰もが感じるであろう。
それは必ずしも論理的判断を伴っているわけではない。
私は、「空気」が論理的判断を覆ってしまうような状況を「否」とするものである。
「レジ袋」の有料化にそういう「空気」の危惧を感じるのは私だけなのであろうか?
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