邪馬台国に憑かれた人…②安本美典と「神話伝承」論
渡辺一衛『邪馬台国に憑かれた人たち』学陽書房(9710)で、次に登場するのが安本美典である((以下、関連稿においては敬称略)。
安本美典については、既に何回か触れている(安本美典氏の『数理歴史学』、「季刊邪馬台国」、「古田史学」VS「安本史学」、統計的方法をめぐって、壹と臺の調査、帰無仮説-「否定の否定」の論理、母集団と標本、「壹・臺」論争の帰結)。
WIKIPEDIA(08年10月6日最終更新)の安本美典の項では、以下のように紹介されている。
安本 美典(やすもと びてん、1934年 - )は、心理学者・日本史研究家(古代史)。文章心理学、計量比較言語学、日本古代史の分野で著書及び論文がある。日本行動計量学会会員。満州に生まれ、帰国後は岡山県高梁市で育つ。京都大学文学部(心理学)卒。京都大学大学院文学研究科(心理学)修了。旧労働省退官後、日本リサーチセンターに入社、産業能率短期大学助教授を経て、産能大学教授(2004年3月定年退職)。文学博士(京都大学)。心理学・実験心理学専攻。
日本古代史の分野では「邪馬台国=甘木・朝倉説」を30数年来主張し続けている。「邪馬台国の会」主宰。『季刊邪馬台国』責任編集者。古代史研究は「数理文献学」(Mathematical Philology)の手法に基づくとする。
上記の履歴の中で、日本リサーチセンターに在籍したことが触れられている。
日本のシンクタンクの草分けの1つであるが、私もリサーチを職としていた時期もあったりした関係で、安本の議論には特に親近感を覚えたのだった。
渡辺は、安本の古代史に関する議論の中で、「とくに注目すべき仕事は、やはりその専門とする数理統計学を古代史に応用したことであろう」としているが、確かに、目から鱗が落ちるような鮮やかさだった。
渡辺は、安本の数理統計学の古代史への応用に関して、「その最も見事な成果が、統計的な方法によって、古代の天皇の在位年数が平均十年ぐらいであるということを示したことであった」としている。
私は、安本の仕事の中で、「古代天皇の在位年数平均十年説」を、「最も見事な成果」とすることには必ずしも賛成ではないが、「古代天皇の在位年数平均十年説」によって、「卑弥呼=天照大神」という帰結を導き出した理路には、率直に感銘したことを記憶している。
私は、安本が評価されるべきは、各種の論点をバランス良く、最も整合的に理解しようとする態度ではないか、と思う。
それは、リサーチャー出身という履歴も関係していたのではないのだろうか。
初期の一般向けの解説書『神武東遷』中公新書(6811)において、大和朝廷と北九州の関係について、以下のような数多くの根拠を挙げて、大和朝廷の起源が北九州にあったことを指摘している。
①記紀ともに、神武東征の伝承を記し、その大すじは、一致していること。
②神武天皇の時代は、それほど古い時代ではなく、三世紀末と考えられ、記憶の残りうる可能性は、十分に考えられること。
③記紀の神話は、地域的には、九州を中心としており、九州に生育したと考えられること(たとえば、記紀の神話では、九州地方の地名が、統計的には、もっとも多くあらわれる。そして、そこで神々は、具体的な行動をおこなっている。
④「卑弥呼=天照大御神」「邪馬台国=高天の原=北九州」と考えられる。そのとき、北九州に都していたことになる卑弥呼(天照大御神)が、記紀では、皇室の始祖とされていること。
⑤記紀の神話には、天皇家の祖先は、出雲へは海路で、日向には、陸路で行かなければならない場所(すなわち北九州)にいたと判断される記事のみえること。
⑥氏族の地域的分布から、貴族の中心地が、九州から大和に、移動したと考えられること。そして、大伴、中臣、物部など各氏の発祥地が、九州らしいこと。
⑦三輪氏や磯城氏や宇陀氏のように、大和発生と考えられる豪族は、後世、地祇として、神武東征に加わった天神、天孫と伝えられる氏族と区別されていること(これは、皇室の大和発生説からは、かなり説明がむずかしいように思われる)。
⑧宇佐、壱岐、対馬、松浦など、九州の辺縁の地の、古い氏族が、天孫とされていること。
⑨九州と大和の地名の名づけかたの一致からも、大きな集団の移動のあったことが、推定されること。
⑩畿内には、固有地名としてのヤマトはなく、九州のヤマト、あるいは、邪馬台(ヤマト)の名を移したと考えられること。
⑪大和朝廷と北九州勢力との、大規模な闘争を思わせる伝承の存在しないこと。
⑫わが国は、西から東へ開けていった。その古代の大勢からみても、無理のないこと。
⑬神武伝承は、作られたものとしては、理由のとぼしいこと。高天の原を、空想の生んだ天上の場所であるとし、皇室が、大和に発生したとすれば、天孫が、天から大和に降臨したとする方が、皇室の権威をましうるかと思われる。それを無視して、作られた物語りとしては、理解しにくい西辺の九州に降臨したとしていること(日向が日に向かうという意味に解することができるので、そこを日の神の子孫の発祥地としたのであるとする意見がある。これについては、植村氏が、くわしく反論しておられる)。
⑭高天の原を、大和の反映であるとすれば、大和を去って、九州に降臨し、今一度大和にむかうことになり、やはり、不自然であること(記紀には、天孫の子といわれる饒速日(ニギハヤヒ)の命が、神武天皇よりもっまえに、大和に下ったことを伝えている。もし、高天の原が大和であるならば、祖国である高天の原から、おなじ高天の原である大和に降ったことになる。これも不自然である)。
⑮もともと、六、七世紀ごろには、長編の神話や神武伝承などを、創作しうる文化的な基盤は、存在しなかったと考えられること。
⑯記紀の古代伝承の表現形式は、現代の歴史記述などの表現形式とは、異なっている。しかし、史的事実を伝える表現形式として、古代諸民族に、ふつうにみられるものであること。
⑰神武伝承などは、『イリアス』や『オデュッセイア』にくらべれば、はるかに神話性のすくない伝承であること。
⑱殷墟やトロヤ遺跡の発掘などをはじめ、世界各国の、神話伝承と史的事実との結びつきを示す数多くの事例をながめるとき、記紀の伝承のなかにも、あるていどの史実がふくまれていると考えるほうが、妥当のように思われること。
⑲文献学的には、大和朝廷の大和発生を、積極的に示した古文献は存在せず、実証主義的文献批判学の立場から、消極的に想定されているにとどまること。
以上のような論拠を示しつつ、安本は、大和朝廷の起源を九州にあるとしている。
上記で挙げられている論拠は、現在では当たり前のことと考えられることも少なくない。
例えば、神話がある程度の史実を反映したものではないか、というような考えは、当然のこととされるのではないだろうか。
しかし、津田左右吉以来、記紀の神話的部分は、造作されたものであって、歴史学の対象からは峻別すべきであるという認識が一般的だった時点において、神話的部分に、数理統計学の手法を適用して、納得的な結果を得たことは、大きな功績とすべきだろう。
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