邪馬台国に憑かれた人…③小林行雄と「同笵鏡」論
『邪馬台国に憑かれた人たち』の3番目は、小林行雄である。
小林についても、WIKIPEDIA(最終更新08年11月14日)をみてみよう。
小林 行雄(こばやし ゆきお、1911年8月18日 -1989年2月2日)は、日本の考古学者。京都大学名誉教授。文学博士、日本学士院恩賜賞受賞者。
兵庫県神戸市に生まれる。1932年、神戸高等工業学校(現神戸大学工学部)を卒業し、副手に就任。後に依願退職し、近畿地方を中心に発掘調査に携わる。1935年、京都帝国大学文学部助手。1945年に海軍に招集され、戦後は1953年に京都大学文学部講師、1954年には日本学士院恩賜賞を受賞。1974年、京都大学文学部教授に昇進し、1975年に退官、名誉教授。
赫々たる履歴であるが、現神戸大学工学部卒業とは意外な感じである。
いわゆる「考古学京都学派」を代表する1人と言ってもいいだろう。
京都大学考古学教室のホームページには、以下のように記されている。
本専修のもとになる考古学講座は、大正5(1916)年、濱田耕作(1881-1938)が設立した。我国最初の考古学講座である。その後、梅原末治(1893-1983)、有光教一(1907-)、小林行雄(1911-1989)、樋口隆康(1919-)、小野山節(1931-)、山中一郎(1945-)が教授を務め、徹底した資料の観察と客観的記述にもとづく学風が築かれた。巷間では「考古学京都学派」の用語も流布しているが、歴代教授は各々きわめて個性的で、関心事や研究方法も異なる。徹底した資料観察という「学風」が共通し、一連の研究テーマを継承・深化した「学流」はあっても、「学派」「学閥」は作らなかったと言える。
小林行雄は、京大系の正統学者として、邪馬台国畿内説の立場である。
弥生時代末に、畿内勢力が北九州地域を支配下におさめて邪馬台国をつくった、とする。
小林の業績の中で、最も有名なものは、「三角縁神獣鏡の同笵関係」である。
同笵とは、同じ鋳型で作られたものを意味する。
実際は、同じ原鏡から鋳型をいくつも作って鋳造するので、同笵鏡よりも同型鏡と呼ぶ方が妥当だとする見解もある。
同笵鏡が異なる古墳から出土するという事実をどう解釈するか?
小林は、それを古墳被葬者の間の権力関係を示すものとして、詳しく検討した。
その成果は、例えば図のように纏められており、この古墳間の関係をもとに、推論を展開している。
同笵関係の最も多いのは、椿井大塚山古墳(京都府)で、次いで湯迫車塚古墳(岡山県)である。
これらは、最初期の前方後円墳で、椿井大塚山古墳の被葬者から各地の王へ分与され、備前車塚古墳の被葬者者へ最も多く贈られたのだろう、というのが小林の見解だった。
岡村秀典『三角縁神獣鏡の時代』吉川弘文館(9905)では、次のように小林の推論を整理している。
椿井大塚山の首長の背後には、より強力な大和の権力者、すなわち政権の中枢にある倭王の存在が想定されるが、椿井大塚山古墳が位置するのは、木津川・淀川の水路をつうじて大和を瀬戸内海と結びつける航路の起点にあたり、その首長は、倭王の委嘱をうけて、各地の首長にたいして三角縁神獣鏡を配布する任務を帯びていたと考えられたのである。
そして、同笵鏡理論で重要なこととして、次の2点を挙げている。
①地方における最古の古墳は、いずれも椿井大塚山と三角縁神獣鏡の同笵鏡を有する関係にあること。
つまり、地方における古墳の出現は、同笵鏡の分配に示される倭政権との政治的関係によると考えられること。
②同笵鏡の分布範囲の広がりが、近畿を中心とする倭政権の段階的な伸長を示していると考えられること。
「考古学京都学派」は、三角縁神獣鏡が、卑弥呼が中国から贈られた鏡である、という前提に立っている。
しかし、三角縁神獣鏡は、中国では1枚も発見されていず、舶載鏡であることを否定する見解も多い。
畿内に多数出土する三角縁神獣鏡が、魏鏡ではなく日本製だとしたら、当然邪馬台国の所在地問題にも影響してくる。
魏鏡説論者は、中国から1枚も出土していない事実を、卑弥呼のために特鋳したというような説明を試みているが、いささか苦しいように感じられる。
三角縁神獣鏡の理解は、大和朝廷の起源や進展をどう捉えるかという問題と深く係わっている。
別の機会に改めて検討してみたい。
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