珍説・奇説の邪馬台国…③「纏向」説(苅谷俊介)
苅谷俊介さんは、俳優であるが、考古学愛好家としての顔も持つ。
苅谷説は、渡辺一衛『邪馬台国に憑かれた人たち』学陽書房(9710)にも登場した「邪馬台国=大和・纏向遺跡」である(08年12月12日の項)。
苅谷さんには、『まほろばの歌がきこえる-現れた邪馬台国の都』エイチアンドアイ(9903)という著書がある。
岩田一平『珍説・奇説の邪馬台国』講談社(0004)では、纏向遺跡の発掘成果のポイントとして、以下を挙げている。
a.北と南に走る2本の「大溝」。総延長260mで、溝の幅約5m、深さ1.2mで、両岸に護岸の矢板が打たれている。水運用の運河ではないか、という説がある
b.木樋と木槽を組み合わせた導水施設
c.石貼りの井戸
d.神社建築風建物
e.壁立ちの平屋と高床式建物群
f.さまざまな祭具を投棄した多数の穴、西日本を中心に各地から持ち込まれた土器
纏向遺跡に先立つ奈良盆地の遺跡は、纏向から北東約5kmの唐古・鍵遺跡である。
環濠集落で、多数の農具が出土しており、銅鐸の鋳型や高殿の楼閣を描いた土器片も見つかっている。
水田農耕に支えられた典型的な弥生の拠点集落であったと考えられる。
ところが、時期的に唐古・鍵遺跡からバトンタッチをされたかのように出現した纏向遺跡には、田畑の遺構が出ない。
纏向遺跡は、扇状地にあり、川筋が定まらないから、耕地には不適であった。
また、唐古・鍵と纏向では、出土した鋤と鍬の比率が大きく異なっている。
唐古・鍵遺跡=30:70
纏向遺跡=95:5
鋤は土木用で鍬は農耕用と考えられている。
また、纏向遺跡では、出土土器の30%近くが、大和以外の地域のものであった。
同時代の奈良盆地周辺の遺跡では、他地方の土器の割合は10%以下だから、纏向の比率は異例的に高く、しかも東海、山陰・北陸、河内、近江、吉備、関東など広範囲に及んでいる。
上記のようなことから、田畑や庶民の住居がなく、全国各地から集まった人々が大がかりな土木作業に従事したと考えられる。
纏向遺跡の性格はどのようなものだったのか?
岩田氏は、民族学者・梅棹忠夫さんの、「古代都市の中心には神殿がある」という神殿都市ではないか、と推測する。
とすれば、神殿都市に座すのは、「神と交信する神官」である卑弥呼だったか?
苅谷さんによれば、卑弥呼は日妻巫女(ヒメミコ)の音を写したもので、特別な霊力をそなえた太陽神を祭る巫女の聖称である。
初代の日妻巫女は、銅鐸祭りの主宰者として、唐古・鍵遺跡にあった。
その後、纏向が栄えるようになり、弥生の銅鐸祭りはすたれて前方後円墳が築かれるようになる。
この纏向遺跡の新しい祭りを津k佐渡ッ多のが二代目の日妻巫女だ、というのが苅谷さんの推測であり、魏と交流した邪馬台国の卑弥呼だった、とする。
纏向石塚の東300mのところに神社風建築の柱跡が発掘され、高床式建物が建っていたと推測されている。
纏向石塚古墳の東正面に神社風建築の正殿があり、その延長線上に初瀬山があって、春分・秋分の日に山頂から日が昇る。
また、纏向石塚の前方部の正面が三輪山にあたる。
苅谷さんによれば、纏向石塚は、もともと太陽神を拝むための聖壇で、円盤状だったが、後に方計のでっぱりをつけて前方後円墳のようになった。
苅谷さんは、箸墓も、後円部が250年ごろに作られ、260年以降前方部がつけたされると共に、後円部も改修されたとみる。
250年ごろであれば、卑弥呼が248年前後に死んで、後円部に埋葬されたと考えても矛盾はない。
前方部は、その十数年後に、宗女台与(壱与)ではないか、ということになる。
ヤマトタケルが、「倭(ヤマト)は国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし」と、能煩野(三重県鈴鹿)で詠んだ望郷の歌は有名である。
この「まほろば」の、「ほ」は秀、「ま」は「真」で、「まほろば」はもっともすぐれた場所、という意味になる。
「まほろば」について、苅谷さんは、「魂があの世に抜ける穴の意味」だとしている。
つまり、纏向遺跡の祭祀儀礼の底流には、土着の縄文人の思想があるのではないか、ということである。
卑弥呼の鬼道も、渡来系の道教の一種ということではなく、縄文信仰に由来する秘儀ではなかった、と想像は広がる。
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