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2008年12月27日 (土)

珍説・奇説の邪馬台国…⑩「甘木」説(安本美典)

岩田一平『珍説・奇説の邪馬台国』講談社(0004)の最後に登場するのは、安本美典氏である。
安本氏については、既に、「邪馬台国に憑かれた人」の際にも取り上げている(08年12月1日の項)。
「邪馬台国の会」を主宰し、雑誌「季刊邪馬台国」の編集責任者であること等を考えれば、現在の代表的な邪馬台国論者といえよう。

安本氏の方法論は、数理統計学の駆使にある。
従って、推論は科学的であって、他の人が検証しやすい。
言い換えれば、門外漢にも理解が容易であり、それが多くの安本ファンのベースにあると思われる。
私も安本氏によって古代史の謎解きの妙味を教えられた1人である。

渡辺一衛『邪馬台国に憑かれた人たち』学陽書房(9710)では、安本氏の数理統計学の古代史への応用に関して、「その最も見事な成果が、統計的な方法によって、古代の天皇の在位年数が平均十年ぐらいであるということを示したことであった」としている。
もちろん、代表的な成果の1つであって、それによって天照大神と卑弥呼が同時期と推論する辺りは、それまで直観的に語られていたことに、いわばエビデンスを与えるものであったと評価することができる。

しかし、岩田氏の上掲書に紹介されているように、甘木市の夜須町周辺と奈良の大和郷の地名対比もまた見事な論証だと思う。
安本氏は、『古事記』の神代記に出てくる地名を統計的に分析し、九州が最も多く、山陰がそれに次ぐことを示2し、葦原中国(天上の高天原と地下の黄泉国の中間にある地上の国)を山陰地方とし、高天原を九州地方だとした。
そして、九州で高天原の記述に近いところとして、夜須川の流れる福岡県朝倉郡夜須町と隣の甘木市を想定した。
『古事記』の、高天原で神々が会合した「天の安の河」は夜須川であり、甘木の甘は高天原の天の名残であると考えたのであった。
安本氏が、邪馬台国=甘木説を最初に唱えてから26年後の1992年に、邪馬台国時代に重なるとされる弥生後期の大環濠集落跡である平塚川添遺跡が発掘された。
邪馬台国そのものかどうかは別として、邪馬台国連合の中の有力な国の1つであった可能性は高いと考えられる。

記紀では、天孫の一族は、神武天皇に率いられ、東遷した(神武東征)。
安本氏も、この神武東征も史実の反映であると考え、邪馬台国が、神武天皇に率いられて東遷し、大和朝廷になったとする。
いわゆる「邪馬台国東遷説」である。
2_2安本氏の東遷説は、オリジナルな思考に基づくものであったが、東遷説そのものは、『古寺巡礼』や『風土』などの著作で知られる和辻哲郎などが既に提唱したものであった。
もちろん、和辻説が豊富な知識に基づくものではあっても、その優れた感性に依存したものであったのに対し、安本説は、統計的論拠に基づく点において、現代的であったといえよう。

九州の夜須町周辺と奈良の大和郷とは、北に笠置山が所在するのをはじめ、よく似た位置関係に、同一もしくは類似する地名が分布している。
安本氏は、それはイギリスの清教徒がアメリカに入植した際、故郷にちなんだ地名をつけたように、九州北部にいた邪馬台国の人々が、東遷した地に、故郷にちなんだ命名をしたからで、それがすなわち東遷の証しである、とする。
東遷説は、いわば、九州説と畿内説の諸矛盾を止揚するものともいえる。
九州にあった権力の中心が畿内に遷ったことは事実としても、それが何時のことか、あるいは邪馬台国の勢力が東遷したのか等については、議論が尽くされているわけではない。

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