加藤周一さんを悼む/追悼(4)
12月5日、加藤周一さんが亡くなった。89歳だった。
例によって、加藤さんをWIKIPEDIAで検索してみよう。
加藤 周一(かとう しゅういち、1919年9月19日 -2008年12月5日)は評論家である。血液型はO型。医学博士。専門は血液学。
上智大学教授、エール大学講師、ブラウン大学講師、ベルリン自由大学、ブリティッシュ・コロンビア大学教授、立命大学国際関係学部客員教授、立命館大学国際平和ミュージアム館長を歴任。
東京府豊多摩郡渋谷町金王町(現在の東京都渋谷区澁谷)出身。父は埼玉県の地主の次男で第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]を経て東京帝国大学医学部に青山胤通に師事した後、医院を開業した。渋谷町立常盤松尋常小学校(現在の渋谷区立常盤松小学校)から旧制府立一中(現在の都立日比谷高校)、旧制第一高等学校を経て1943年に東京帝国大学医学部卒業。学生時代から文学に関心を寄せ在学中に中村真一郎・福永武彦らと「マチネ・ポエティク」を結成し、その一員として韻律を持った日本語詩を発表、他に文学に関する評論、小説を執筆。新定型詩運動を進める。
終戦直後、日米「原子爆弾影響合同調査団」の一員として被爆の実態調査のために広島に赴き原爆の被害を実際に見聞している。
1947年、中村真一郎・福永武彦との共著『一九四六・文学的考察』を発表し注目される。また同年、『近代文学』の同人となる。1951年からは医学留学生としてフランスに渡り医学研究に従事する一方で、日本の雑誌や新聞に文明批評や文芸評論を発表。帰国後にマルクス主義的唯物史観の立場から「日本文化の雑種性」などの評論を発表し、1956年にはそれらの成果を『雑種文化』にまとめて刊行した。
1960年、カナダのブリティッシュ・コロンビア大学に招聘され日本の古典の講義をおこなった。これは1975年に、『日本文学史序説』としてまとめられている。以後、国内外の大学で教鞭をとりながら執筆活動を続けている。
典型的な秀才だといっていいだろう。
原爆調査団の一員に加わったり、医学留学生としてフランスに行ったり、ということからすれば、医学者としても優れた存在だったと認められていることが分かる。
しかし、現在、加藤さんを、医学の徒として評価する人は殆どいないのではないか。
多くの人は、文芸評論家として、そして護憲論者(「九条の会」)として、評価しているのではないかと思う。
昨日、事実を公平にみるためには、幅広い視野と柔軟な思考が必要で、それを担保するのが教養ではないか、と書いたばかりである。
この場合の「教養」というのは、加藤さんのような存在をイメージしていた。
最近は、「知識人」という言葉は、必ずしも尊敬すべき対象として使われていないようである。
しかし、私は、加藤さんのような人こそ、畏敬すべき真の知識人なのだと思う。
それは何も外国の大学で教壇に立った、というようなことではない。
記憶を辿ると、加藤さんの文章に自覚的に接したのは、筑摩書房から出ていた雑誌「展望」に掲載された『詩仙堂志』ではないかと思う。
「著作集」の初出欄を見ると、1964年11月号とある。
石川丈山について論じた文章で、後に一休宗純を論じた『狂雲森春雨』と富永仲基を論じた『仲基後語』と併せて『三題噺』として出版された。
『詩仙堂志』を読んだ時の印象は、余り定かではないが、何となくペダンティックだなあ、というようなことだったのではないだろうか。
加藤さんが社会的にデビューしたのは、上記の履歴にあるように、中村真一郎・福永武彦との共著『一九四六・文学的考察』だろう。
無名だった加藤さんらの「マチネ・ポエティク」に活動の場を提供したのが、伝説的な雑誌「世代」の伝説的な編集長だった遠藤麟一朗だった(08年5月28日の項)。
まさに慧眼の編集長だった。
私が加藤さんのファンになったのは『羊の歌―わが回想』岩波新書(6808)以来である。
『羊の歌』は、最初、「朝日ジャーナル」に連載された。
「朝日ジャーナル」は、私たちの世代にとっては、思い出の深い週刊誌だった。
下村満子さんが編集長だった時代があり(1990~1992年)、何かの研究会の折にご一緒した下村さんに、「朝日ジャーナルには胸がキュンとします」と話したら、「良く分かる」というような答えがあった。
先ごろ亡くなった筑紫哲也氏が編集長だった時代もある。
一時期、『羊の歌』は、私の愛読書ともいうべき存在だった。
それまで、ロジカルな批評家という印象の強かった加藤さんが、実際は「情」の人でもあることを知ったのだった。
もちろん、文芸の世界に生きている人だから、「情」に通じているのは当然ともいえる。
しかし、「理」と「情」とが高いレベルで共存できる人はそれほど多くはないだろう。
加藤さんは、まさにその稀有な事例ではないかと思う。
世の中には、二律背反のように捉えられる事象がある。
「理」と「情」もその一種だろう。
「理系」とか「文系」という分け方もある。
しかし、加藤周一という存在は、そのような区分けが、いかに本質的なものとはいえないか、ということを身を以て示してきた。
私にとっては、憧れのロールモデルである。
『羊の歌』に、次のような一節がある。
私はしばしば京都へ行った。私は彼女を愛していると思っていた。あるいは、愛していると思うことと、愛していることとは、つまるところ同じことだと思っていた。そして「愛している」という言葉に意味があるとすれば、それは相手のために私が何をすることができるのか、そのことの量に応じてだろうと考えていたのである。
「愛する」というような、およそ分析の対象の外にあるような事象についても、分析的に迫ろうとする姿勢が窺えるのではないかと思う。
特に、量によって測ろうというところは、自然科学に馴染んだ人の発想ではないかという気がした。
文学藝術についていえば、昔芥川龍之介は、『人生は一行のボードレールにも若かず』といったことがある。私はその説に全く反対である。しかし一行のボードレールも知らずに過ごす人生は、さぞ空しかろう、と私は考えていたし、今でもそう考える。
確かにその通りではないだろうか。
もちろん、必ずしもボードレールでなければならないということではないだろう。ボードレールは、ある種の人間の精神のあり方の象徴だと思う。
そして、ボードレールの読み方あるいはそこから何を汲み取るかは、人によりそれぞれだろう。
また、ボードレールを知ったことが、その人を幸せにする保証など何もない。
にも拘わらず、人はボードレールを求めてしまうのだと思う。
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