珍説・奇説の邪馬台国…⑤「岡山」説(和歌森太郎)
岡山県には大規模な古墳が多い。
全長360mの造山古墳(岡山市)は、河内の大山古墳(伝仁徳天皇陵、08年5月2日の項)、誉田山古墳(伝応神天皇陵)、陵山古墳(伝履中天皇陵)に次ぐ、全国で第4位の規模である。
その他に、作山古墳(総社市)は、全長286mで全国9位の規模であり、吉備の王が河内の大王に比肩できるような権力を持っていたと考えられる。
これらの古墳が築造されたのは、5世紀であって、邪馬台国の時代は、さらに200年以上も前のことになる。
弥生時代の吉備の遺跡からは、壺と壺をのせる器台のセットが発掘されている。
通常の壺や台よりも大型のものは、特殊壺や特殊器台と呼ばれている。
特殊壺や特殊器台は次のように説明されている。
特殊器台は器高が70~80cm程あり、大型のものでは1mを越えるものもある。器体の胴部は文様帯と間帯からなり、文様帯には綾杉文や斜格子文などの直線文や、弧帯文と呼ばれる特殊な文様が描かれる。内面はへラケズリなどによって薄くされ、外面には赤色顔料が塗られ、大変丁寧に作られる。特殊壷は長頚の 壷の胴部に2~3条の突帯が付けられたもので、底部は穿孔され、普通の壷としての機能を失う。
そもそも壷は、大事な米や水などを貯蓄するための器種であり、弥生土器の中で最も貴重な器種の一つである。この大事な壷を飾るために、中期頃から器台が現れる。後期になって器台は、墳丘墓の巨大化に伴い、そこに置かれる供献具として自らを巨大化し、特殊器台となる。吉備地方は弥生時代後期に巨大な墳丘墓が数多く築かれる地域であり、当時全国で一番大きい楯築遺跡があるところでもある。特殊器台の成立と発展には、それを置く場所である墳丘墓の巨大化と密接に関連する。巨大な墳丘墓を築き得た吉備だからこそ、巨大な特殊器台が成立・発展したのだろう。
http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kodai/sagu14.htm
壺と特殊器台が合体して、円筒埴輪になる。
宮山遺跡の特殊器台はかなり新しい形式で、埴輪になる直前のものと考えられている。
この宮山式の特殊器台の破片が、箸墓など、奈良県の初期の大型古墳4ヵ所から見つかっている。
箸墓の築造年代については諸説があるが、次第に遡る傾向にあり、20~30年程度で卑弥呼の時代に到達するとする見方もある。
著名な歴史学者の和歌森太郎氏は、晩年の講演で、「邪馬台国吉備説」に言及していたという。
和歌森氏は、古墳時代は大和から突然変異的に発生したのではなく、弥生時代の成熟の中で生まれたのであり、そういう成熟がうかがえるのは、山陽道から近畿地方の西部摂津、播磨の瀬戸内海沿岸部であり、山陽道の中部から東部にかけての辺りは、邪馬台国の可能性を秘めているのではないか、とする。
余談ではあるが、私は、和歌森太郎氏の『日本史の争点』毎日新聞社(1963)によって、「邪馬台国論争」や「法隆寺論争」などの歴史学における論争というものを知った。
前方後円墳のルーツが、吉備の楯築遺跡だとされる。
楯築遺跡は、1976~79年にかけて発掘され、弥生時代としては広壮な直径40数m、高さ5mの墳丘と、北東と南西に両腕のような突出部が確認されている。
地下からは、弧帯石や特殊器台、高坏などの破片が散乱した状態で発掘され、木槨の中の木棺の内側に、30kgを越す水銀朱の顔料が溜まっていた。
貴重な水銀朱をそれだけの量集められる財力があったことを示している。
楯築遺跡のように、円丘に2本の突出部を持つ墳丘の形は、後の前方後円墳の原型ではないか、とされる。
前方後円墳流行のさきがけが吉備の弥生墳丘墓で、その時期が邪馬台国の時代に重なるとすれば、卑弥呼の都したところが吉備であったのではないか、という推論は十分に可能であろう。
楯築遺跡の周囲の弥生時代の集落跡からは、大量の土器や農具が出土している。
弥生時代から田園地帯だったことを示している。
吉備が弥生時代の米作りの先進地帯だったことは、灰白色の土の色からも分かるという。
灰白色の田は、水量調節が十分にできな乾田で、有機物の分解がよく、稲の生長が早いという。
吉備は、瀬戸内の航路を牛耳る地勢、温暖な気候、米作りの先進技術によって、弥生時代後期に、倭国における有力な地位を確立したのだろう。
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