« 邪馬台国に憑かれた人…⑨石野博信と「纏向遺跡」論 | トップページ | 「珍説・奇説」とトンデモ本 »

2008年12月13日 (土)

首相の漢字能力検定

恒例の「今年の漢字」が12日の漢字の日に発表された。
「変」である。
3 「今年の漢字」は、漢字能力検定協会が募集し、毎年、漢字の日に清水寺で発表され、森清範貫主が、見事な筆運びで、巨大な和紙に揮毫するのが風物詩になっている。

朝日新聞によれば、「変」の字は、国内の首相交代、オバマ次期大統領の「Change(変革)」、株価の暴落による経済の変動、食の安全に対する意識の変化、地球温暖化による環境変動の深刻化、スポーツ・科学分野での日本人の活躍による時代の変化、などの意味合いが込められており、良くも悪くも変化の多かった1年を象徴する、ということだ。
2位以下は、「金」「落」「食」「乱」「高」……と続くが、「変」が圧倒的な投票数を得た。
ちなみに、昨年は「偽」だった(07年12月13日の項)。

ところで、麻生首相の漢字力について、何かと話題に事欠かない。
WIKIPEDIAで麻生太郎を検索すると、以下のような事例が挙げられている(08年12月13日最終更新)。

踏襲:ふしゅう/頻繁:はんざつ/破綻:はじょう/順風満帆:じゅんぷうまんぽ/低迷:ていまい/詳細:ようさい/未曾有:みぞうゆう/焦眉:しゅうび/物見遊山:ものみゆうざん/有無:ゆうむ/措置:しょち/前場:まえば/詰めて:つめめて/怪我:かいが

まあ、首相としての要件として、漢字能力検定の準2級(高校在学程度)以上でなければならない、などと言う気はないが、一国の最高責任者の評価基準として、国語力は重要なファクターではあるだろうと思う。
首相のお膝元の福岡市内の小学校では、漢字の読めない子に対して、「太郎ちゃん」という呼び方が流行っているという。
由々しき事態と考えるべきではなかろうか。

ところが、産経新聞の「断」というコラム(08年12月13日)で、富岡幸一郎という文芸評論家が、マスコミが「漫画ばかり読んでいて漢字が読めないだのと、箸にも棒にもかからぬ瑣事を針小棒大に“報道”しているのだから、判断の基準は何処にあるのか」と声高にマスコミ批判をしている。
「断」というコラムは、かつての「斜断機」という名物コラムの後継欄であろうが、匿名が記名に変わって、コラムの切れ味が低下しているように思う。
富岡幸一郎をWIKIPEDIAで検索すると、以下のように紹介されている(08年10月19日最終更新)。

富岡 幸一郎(とみおか こういちろう、1957年11月29日 - )は東京都出身の文芸評論家。関東学院大学門学部比較文化学科教授。キリスト教徒。父親は税務会計学・租税法の第一人者である中央大学名誉教授の富岡幸雄。
中央大学附属高等学校、中央大学文学部仏文科卒業。大学在学中の1979年に論文『意識の暗室 埴谷雄高と三島由紀夫』で第22回群像新人文学賞評論部門優秀作を受賞。

首相が、「漫画ばかり読んでいて漢字が読めない」としたら、それは箸にも棒にもかからぬ瑣事であろうか。
それを報道したり、その報道によって支持率が低下していることを、富岡は、「衆愚政治も極まれりの感がする」と書いている。
衆愚?
確かに、TVのバラエティ番組などを見ていると、衆愚という感じがするシーンがあることは否定しない。
しかし、衆愚というならば、漫画ばかり読んでいる人たちに対して用いるべきではないだろうか。
首相が漢字が読めないことを批判する人々を衆愚と表現したら、首相自身に対してはどんな評言を用いるつもりなのだろうか。

「衆愚政治も極まれり」と大衆を批判する富岡幸一郎は、自分を何様のつもりでいるのだろうか。
産経新聞は、国語を大事にする姿勢を持った新聞のはずである。
タカ派のような言い振りが産経新聞が起用している理由なのだろうが、富岡のように国語力を軽視する「文芸評論家」は、「断」欄から外したら如何だろうか。

|

« 邪馬台国に憑かれた人…⑨石野博信と「纏向遺跡」論 | トップページ | 「珍説・奇説」とトンデモ本 »

ニュース」カテゴリの記事

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

思考技術」カテゴリの記事

コメント

お腹立ち、ご尤もに感じます。
・ ・ ・ 意見自体もズレている様な気がしますが、針小棒大の使い方も間違っている様に思います。
総理が読み違えた漢字を、そのまま、あからさまに云ったのであって、無いに等しい様なことを大袈裟に誇張して云った訳ではありません。
云われる (注意される) 方よりも、云う方が悪い、という様に云っているようにも聞こえますが、要するに、富岡幸一郎氏は、総理が漢字の読みを間違えたことが嘆かわしいことだと感じていない、ということだと思います。
思わないのなら、敢えてそこで意見を云ったりしなければ良いのではないでしょうか。

投稿: 重用の節句を祝う | 2008年12月14日 (日) 18時06分

いささか攻撃的な発言をしてしまいましたが、大衆の側に立っていることを自覚する者として、「文芸評論家」という肩書きを付けて、高所から見下ろすような言い方をすることは容認できないところです。
すべての学科の基礎に国語力があるのではないかと思います。ノーベル賞級のことは別として、高校くらいまでは、数学や理科などの成績にも、国語力がかなり影響しているのではないでしょうか。
もちろん、外国語に堪能なことは結構なことでしょうが、母国語が貧弱だとしたら、一流の大人だとは言えないだろうし、そういう人が首相であっていいのか、と思っています。
衆愚と言われても、首相公選制の方がマシではないか、などとも。

投稿: 管理人 | 2008年12月15日 (月) 02時14分

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 首相の漢字能力検定:

« 邪馬台国に憑かれた人…⑨石野博信と「纏向遺跡」論 | トップページ | 「珍説・奇説」とトンデモ本 »