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2008年12月 8日 (月)

丸岡秀子さんの「ひとすじの道」

7日(日)に、丸岡秀子さんの記録映画『丸岡秀子・ひとすじの道』を観た。
みしま女性史サークルという会が主催で、三島市とJA三島函南が共催団体である。
三島市は、「男女共同参画推進講座」として実施しているのだが、なぜJAが共催団体なのか、映画を観るまで疑問だったのだが、丸岡さんが、JAの前身の産業組合中央会という組織で働いていたことがある、ということだった。

みしま女性史サークルは、去年は『ベアテの贈りもの』という映画を上映した(07年12月2日の項)。
戦後史の一面を知ることができ、誘っていただいたことを有り難いと思ったが、どうも、「男女共同参画推進講座」というものにはいささか違和感がある。
どこの市町村にも、「男女共同参画推進室」のような組織があって、同じような「講座」を実施しているらしい。
私も趣旨に反対ということではないが、「男女共同参画推進」という呼称に馴染めない。
そして、会場に来ている人の95%ほどが中高年の女性であることも、如何なものかと思う。
趣旨的には、むしろ男性だとか、若い女性などが「講座」の対象者ではないだろうか。

女性史サークルが主催しているのであるから、男性の参会者が少ないのは当然かも知れない。
歴史に関心を深めるのは、ある程度年を重ねてからのことが多いともいえよう。
だから、女性史というようなジャンルに集う人は、必然的に中高年女性が多数派になってしまうだろう。
結果的に、主催者からすれば、想定していた観客層ということだと思う。
しかし、市の事業としてみたらどうだろうか。
おそらくは、このような「講座」は、啓蒙活動として行われているのだと思う。
配布されたアンケート用紙には、「この講座で男女共同参画の趣旨が理解できましたか」というようなQがあったことからも啓蒙が狙いであるといっていいだろう。
しかし、「男女共同参画」が、講座によって推進されるものなのかどうか。

私自身は、映画を観に行くという意識はあったが、講座を受講するという意識はほとんどなかった。
去年も同じ体験をしているのにも拘わらず、である。
まあ、結果的に、映画を観て、男女共同参画に理解が深まればいい、とも言えるのだろうが。

違和感を感じることの1つは、とかくこういう事業においては「性差」を無くすことが善だという値観観が前提になっているような気がすることである。
私は、事実としての「性差」は存在していると考える。
それを前提として、「性差」が不合理な差別に繋がることをどうして解消するか、が課題なのではないかと思う。
滑稽としか言いようのない事例が、実際に発生している。
最初聞いたときは、ジョークだと思ったのだが、「トイレの表示を、男は青、女は赤とするのは、おかしい」という指摘から、トイレの表示の色を、男女同一色にした自治体や機関があったということだ。
結果は?
もちろん、混乱を招いただけで、結局は元の青と赤に戻したという。
バカな主張をする人もどうかとは思うが、それを受け入れてしまう担当者の判断力を疑わざるを得ない。

話を丸岡さんに戻すと、丸岡秀子という名前は知っていたが、その活動や生涯を詳しく知っていたわけではなかった。
映画の前に、折井美耶子さんという人が講演した。折井さんの父は、丸岡さんと同じ職場に勤務していたことがあるらしい。親子2代の縁だという。
折井さんの話で、昭和12(1937)年に刊行された丸岡さんの『日本農村婦人問題』という著書を知った。
もちろん、私の生まれる前のことである。

今日は、いわゆる「太平洋戦争」開戦の日であるが、それが昭和16(1941)年だから、戦争の前である。
敗戦によって、日本の制度や価値意識は大きく転換したが、昭和12年といえば、現代とはまったく様相が異なっていただろう。
当時、婦人問題といえば、女工哀史などで知られる勤労婦人のことが中心だった。
丸岡さんは、信州佐久の農村の出身だったから、農村婦人が受忍せざるを得なかった労苦を目の当たりにして育った。
勤労婦人の給源は農村にあり、勤労婦人の問題と農村婦人の問題は一体的に捉えなければならない、というのが丸岡さんの問題意識で、その視点から書かれた書だということである。

丸岡さんは、奈良女子高等師範学校(現:奈良女子大学)を卒業し、三重県の亀山女子師範学校(現:三重大学)に2年間在職した後上京する。
そこで、大原社会問題研究所員だった丸岡重堯氏と結婚するが、長女出産後に重堯氏が急逝してしまう。
生活を支える必要もあって、産業組合中央会(現:JA)に勤務した。
産業組合中央会の発行していた「家の光」という雑誌がある。
一時期は、最大の発行部数を誇っていた雑誌で、若き日の五木寛之氏などもライターとして、生計を立てていたはずである。
調査部にいた丸岡さんは、農村婦人の実態を、全国の農村を訪ね歩いて、「家の光」に掲載した。
それに着目して、出版をすすめたのが、田村俊子さんだった。「田村俊子賞」で知られる作家である。

丸岡さんの時代に、女子高等師範に入学するというのは、抜群の知的能力だったのだろう。
丸岡さんの生家は大きな造り酒屋で、現在も継続営業中で、秀子にちなんで、「菊秀」という銘柄の酒が造られているという。
生家の姓は井出という。
映画で初めて知ったのだが、政治家の井出一太郎や、直木賞・大仏次郎賞などを受賞した作家の井出孫六などは、実弟である。
政治的な意識や文筆のDNAというようなことがあるのだろうと思う。

余談になるが、開戦の日に関連して、「太平洋戦争」という呼称について、私見を記しておきたい。
私たちの世代は、子供の頃から、「大東亜戦争」ではなく「太平洋戦争」と呼ぶのが「正しい」と教えられてきた。
67年前の今日、つまり昭和16(1941)年午前2時(日本時間)に、日本陸軍はマレー北部に上陸し、午前3時19分に日本海軍はハワイの真珠湾攻撃を開始した。
とかく真珠湾攻撃だけが取り上げられがちで、「太平洋戦争」という名称も、そういう意識の一面ではないかと思うが、マレー上陸作戦が同時的に行われたのであって、アジアでの戦争という視点を軽視してはならないのではなかろうか。
「大東亜戦争」という呼称が、日本政府が正式に決定した戦争の名前であって、それが改訂された事実はない、と主張する人もいる。
しかし、「大東亜戦争」という呼び方には、戦争遂行者の価値観が染み付いていることも否定できないだろう。
太平洋における、あるいは太平洋を挟んでの戦争であると同時に、東アジアを戦場とし、東アジアの諸国に多大な被害を発生させたことを意識するために、「東亜・太平洋戦争」という名称がより適切ではないか、と思う。

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