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2008年12月

2008年12月31日 (水)

珍説・奇説の邪馬台国・補遺…③「八幡平」説(鯨統一郎)

邪馬台国の所在地論争をサカナにして、エンターテイメント小説に仕上げたのは、鯨統一郎『邪馬台国はどこですか? 』創元推理文庫(9805)に収録されている表題作である。
この書には、他に、「悟りを開いたのはいつですか?」(ブッダ)、「聖徳太子はだれですか?」、「謀反の動機はなんですか?」(明智光秀)、「維新が起きたのはなぜですか?」、「奇蹟はどのようになされたのですか?」(キリスト)が収載されている。
つまり、歴史上の大きな謎をテーマにした作品集である。

表題作は、第三回創元推理短編賞の応募作で、最終選考まで残り、従来の歴史ミステリーの殻を破るものとして、大きな注目を集めたが、賞の性格上受賞を逃した作品である。
同賞の予備選考委員を担当した橋本直樹氏は、「解説」で、「邪馬台国はどこですか?」を目にした時の感想を、「『判定不能』というなんとも歯切れの悪いものであった」と率直に語っている。

どう歯切れが悪かったのか?
確かに面白いが、歴史ミステリーなのかどうか。
つまり、創元推理短編賞として相応しい作品なのかどうか。
二の足を踏んだ、という次第である。

主人公は、宮田六郎という30歳前後の、自称日本古代史が専門という正体不明の青年。
早乙女静香という某私立大学文学部の助手で、世界史専攻の27歳で女優にも引けをとらない美貌の女性と、掛け合い的に議論をする中でストーリーが展開する。
舞台は、カウンターだけの地下のバー。

話題が邪馬台国になる。
マスターの松永は、静香の上司の三谷教授に位置論を聞かれ、「感じとしては畿内でしょうか」と答える。
静香は九州説である。
この会話に割り込んで、宮田は、自分は東北説だと言う。

邪馬台国論争には、荒巻義雄氏の『新説邪馬台国の謎殺人事件』講談社文庫(9206)によれば、以下のような問題点がある。

A 韓国南岸に比定されている狗邪韓国が、なぜ『魏志倭人伝』では倭国北岸と書かれているか? 
B 帯方郡から狗邪韓国まで七千里とある謎。
C 最大の謎として、『魏志倭人伝』の記載では、距離と方角が現実に全然合わない。
D 邪馬台国まで、水行十日陸行一月とあるのはなぜか。陸行一月は非現実的数字。 
E 帯方郡より邪馬台国までの距離が万二千里あるというのはなぜか。 
F 倭が周旋五千里とあるのはなぜか。
G 『後漢書倭伝』になぜ、奴国が極南界にあると書かれているのか。 
H 倭国はなぜ会稽・東冶の東にあるのか。地図と不一致。
I 邪馬壹国(やまいちこく)が、なぜ後代の書では邪馬臺国(やまたいこく)と書き直されたのか。
J 卑弥呼の鬼道とはなにか。
K 邪馬台国よりさらに千余里海を渡った国はどこか。
L 女王国より以北、二十一か国の所在地は? 
M 日向・神武王朝のことがなぜ書かれていないのか。大倭(やまと)も同じ。 

宮田は、これらの問題点に関して、次々と明解な(?)な説明をしていく。
例えば、Jについては、以下の通りである。

鬼道は占星術。何故ならば、鬼と星は同類。諸星撤次『大漢和辞典』等で鬼の部を引くと鬼の名と星の名が多い。どれが鬼の名で、どれが星の名か区別がつかないくらいだ(井上靖の『十一月』という詩参照)。卑弥呼が「よく衆を惑わす」と書かれているが、「惑わす」は掴むの意味。掴の旁の国の旧字は國であり、中の或に心をつけたものが惑。つまり「惑」の意味は「心を掴む」。卑弥呼は占星術に長け、民衆の心をよく掴んでいた、という意味。 

また、Kについては、以下の通りである。

邪馬台国からさらに千余里海を渡った国は北海道。侏儒(=コビト)国はコロボックル。
「船行一年にして至るべし」とされている裸国、黒歯国はアメリカ(インディアン)。

して、結論は?

邪馬台国=八幡平

八幡平は、ヤマタイとも読める。

まあ、小説ではあるが、あまたある所在地論考でも、上記のA~Mのすべてに答えているものは少ないのではないだろうか。

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2008年12月30日 (火)

珍説・奇説の邪馬台国・補遺…②「南伊豆」説(肥田政彦)

邪馬台国所在地論の1つとして、わが静岡県にも候補地がある。
賀茂郡南伊豆町の南部で、肥田政彦さんという人が唱えたものである。
古田武彦編著『古代史徹底論争-「邪馬台国」シンポジウム以後』駸々堂(9301)に、肥田さんの遺稿として掲載されている。
肥田さんの履歴を、上掲書の執筆者紹介欄から引用する。

昭和4年生まれ。昭和28年大阪大学医学部薬学科を卒業。同大学院修了。昭和38年近畿大学薬学部に勤務、衛生化学・公衆衛生学及び微生物学を担当。同42年助教授になり、後に近畿大学民俗学研究員を兼任。平成3年没。著書に『邪馬壹国(所謂邪馬台国)は焼津・登呂』、『“邪馬壹国西進”箸墓の被葬者は女王壹與』、『卑弥呼は磐長姫、墓は東伊豆町稲取の飯盛山、邪馬壹国は伊豆の下田』、『邪馬壹国(所謂邪馬台国)諸問題の解決』

肥田さんは、「魏志倭人伝」から、邪馬臺国の治所(都)の所在地を推論するための条件になり得る文言を抽出42し、「北部九州説」「南部九州説」「四国説」「大和説」「その他の説」「南伊豆町南部説」の各地説が、その条件に適合するかしないかを表にしてまとめて、その条件のすべてに適合する地として、南伊豆町南部を挙げた。
そして、南伊豆説で考えると、従来、邪馬壹国に関して諸説の出る原因となった以下の2つのポイントが矛盾なく説明できる、としている。
①郡(帯方郡治所)より倭(倭国の治所=邪馬壹国の治所)に至る迄の萬二千餘里についての
②方向の謎について

「魏志倭人伝」の冒頭は、「倭人は、帯方東南大海の中に在り」とある。
つまり、日本列島は、帯方からみて東南の方向にあると認識されていた。
言い換えれば、日本列島に行くには、東南の方向に進行するという認識である。

肥田さんの帯方郡から邪馬壹国の治所への行程図を示す。
確かに、帯方郡から東南の方向に進んでいる、といえる。
邪馬壹国は、山壹國であり、山王朝第二代女王壹の国で、壹が伊豆(イツ)として残ったというのが肥田さんの説明である。
2_3

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2008年12月29日 (月)

珍説・奇説の邪馬台国・補遺…①「エジプト」説(木村鷹太郎)

「邪馬台国論争」には、岩田一平『珍説・奇説の邪馬台国』講談社(0004)に登場している説だけでなく、さまざまな「珍説・奇説」が存在する。
その最たるものが、邪馬台国=エジプト説であろう。
内田吟風のジャワ島説には、「魏志倭人伝」の記述からして、首肯できる部分があることは確かである(08年12月16日の項)。
しかし、エジプトというのは如何なものだろうか?

邪馬台国=エジプト説を唱えたのは、キムタクならぬキムタカこと木村鷹太郎という人である。
WIKIPEDIAによれば、木村鷹太郎の人物像は、以下の通りである(08年3月27日最終更新)。

木村 鷹太郎(きむら たかたろう明治3年9月18日(1870年10月12日) -昭和6年(1931年)7月18日)は主に明治・大正期に活動した日本の歴史学者、哲学者、言語学者、思想家、翻訳家。独自の歴史学説「新史学」の提唱者として知られる。愛媛県宇和島市出身。
東京帝国大学史学科に入学、後に同学哲学科に転じて卒業。陸軍士官学校英語教授職等を務める。日本を世界文明の起源と位置づけ、かつて日本民族が世界を支配していたとする「新史学」を熱烈に唱えた。他にも邪馬台国エジプト説や、仏教・キリスト教批判などの独創的な主張で知られる。異論に対して徹底的に反撃・論破する過激な言論人でもあり、論壇において「キムタカ」と通称されて恐れられ、忌避された。
その研究の多くは存命中から異端学説と見なされてきた。代表的著作に『世界的研究に基づける日本太古史』など、翻訳に『プラトン全集』などがある。

木村鷹太郎の「邪馬台国=エジプト説」については、長谷川亮一という千葉大学の若い歴史学徒が開設している以下のサイトに、批判的な紹介がある。
http://homepage3.nifty.com/boumurou/tondemo/kimura/kim_yama.html
2同サイトによれば、「邪馬台国=エジプト説」の登場は、以下のようであった。

1910(明治43)年7月、ある奇妙な論文が「読売新聞」に掲載された。題は「東西両大学及び修史局の考証を駁す──倭女王卑弥呼地理に就いて」。著者は、当時、バイロンの紹介や『プラトン全集』の翻訳などで知られていた、哲学者で翻訳家の木村鷹太郎(1870~1931)。しかし、その内容は恐るべきものだった。鷹太郎は、その中で、邪馬台国研究史上、最も奇妙な学説、「邪馬台国=エジプト説」を展開していたのである。
この年、京都帝国大学の内藤虎次郎(湖南)教授は「卑弥呼考」を発表して邪馬台国=畿内説を提唱し、一方、ほぼ同時期に東京帝国大学の白鳥庫吉教授は「倭女王卑弥呼考」で邪馬台国=北九州説を主張した。この両者の対立が、現在まで延々と続くいわゆる「邪馬台国論争」に火をつけることになる。鷹太郎は、この両説に真っ向から噛みついたのである。
中略
『魏志倭人伝』は、地中海から東アジアに及ぶ広大な地域を支配していた時代の日本を記録したものなのだという。この記録を携えて西方から移民してきた中国人が、東洋で編纂された歴史書の中に、この記録を混入させたのが『魏志倭人伝』だというのである。
なんか、思い切り頭が痛くなってきたが、鷹太郎はあくまで大真面目である。
そして、このような前提に立った上で、『魏志倭人伝』を読解すると……。

木村鷹太郎の説は、どう考えても荒唐無稽な説というべきだろうが、実は、この木村鷹太郎は、与謝野寛(鉄幹)と晶子の結婚の媒酌人をつとめたほどの人である。
古田武彦氏の研究室に在籍したことがあり、現在はその批判者として活動している原田実氏は、古田武彦編著『古代史徹底論争-「邪馬台国」シンポジウム以後』駸々堂(9301)に、「木村鷹太郎の邪馬台国論をめぐって-遥かなり埃及(エジプト)」という論文を寄稿している。
原田氏は、木村鷹太郎の邪馬台国研究史上の位置づけに関して、以下のように総括している。

地名比定によって邪馬台国をエジプトにさえ持っていくことが可能なら、地名比定に信を置くことの何と危ういことだろう。邪馬台国研究史の宿痾の一つともいうべき地名比定の過剰、木村はそれに対する批判者として研究史に現れる一方、地名比定を自説の傍証に用いることで反面教師としての役割をも示しているのである。
さて、倭人伝の原文尊重、安易な地名比定への批判など、一九七○年代以降に重視されるテーマを先取りしていたというのは、確かに木村の先駆者的側面を示すものである。

そして、木村鷹太郎が他家の説の批判については説得力のある論旨を展開しながら、邪馬台国エジプト説という破天荒な結論となったのは、どこかでつまずいてしまったのであって、そのつまずきの石として、原田氏は以下の3つを挙げている。
①直線的読方への固執
②絶対年代の軽視
③『三国志』全体における倭人伝の位置付けを見失ったこと

結局、邪馬台国=エジプト説は、思考のシミュレーションの1つであり、かつ人の思考がどれほど柔軟に展開し得るかということを示してみせたもの、ということになるのではなかろうか。

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2008年12月28日 (日)

「レジ袋」の有料化について②

地方自治体などの後押しによって、スーパーなどが推進している「レジ袋」の有料化について、それが環境問題に対して貢献するのかどうか疑問であり、エコとか環境という言葉には、「うさん臭さ」がつきまとっているのではないか、という旨記した(08年12月9日の項)。
偶々手にした武田邦彦『偽善エコロジー―「環境生活」が地球を破壊する』幻冬社新書(0805)の冒頭に、「レジ袋を使わない」というエコな暮らしは、ただのエゴに過ぎない、とあり、我が意を得た。
著者の武田邦彦氏の略歴を、同書の紹介欄から引用する。

一九四三年東京都生まれ。東京大学教養学部卒業。工学博士。専攻は資源材料工学。名古屋大学大学院教授を経て、現在、中部大学総合工学研究所教授(副所長)。多摩美術大学非常勤講師を兼任。日本工学アカデミー理事。内閣府原子力安全委員会専門委員。文部科学省科学技術審議会専門委員。著書に『環境問題はなぜウソがまかり通るのか1,2』(洋泉社)、『リサイクル幻想』(文春新書)などがある。『エコロジー幻想』(青春出版社)の一節は、高等学校の国語教科書『新編現代文』(第一学習社)に収録されている。

環境問題の専門家として、立派な履歴の持ち主といっていいだろう。
早速、「レジ袋」についての項目を見てみよう。
冒頭の文章は以下の通りである。

レジ袋は石油の不必要な成分を活用した優れもの
少し前から問題になりかけていましたが、2007年になって急に「レジ袋追放運動」が起こり、最近ではスーパーに行くと、「レジ袋はいりますか」と聞かれたり、時にはレジ袋を使おうとすると怒られそうなことすらあります。
あまりよく考えないで、ただ、業者の尻馬に乗った人から、「環境が大切だってことを知らないのですか!」などとお説教されるのには閉口します。

確かに、こういう風潮は経験しているところである。
武田氏は、レジ袋の追放は、次の3つのことをもたらす、とする。
①レジ袋に使っていた石油の成分を、違う用途にまわさなければならないこと
②レジ袋に代わる買い物袋を製造すること
③ゴミを捨てるときにレジ袋に代わる専用ゴミ袋を作らなければならないこと

石油の成分は、大昔の生物の死骸なので、その構成が現在の私たちの需要と一致していない。
石油化学の発展によって、石油の成分の利用率が高くなり、余分なものとして燃やしてしまう成分は非常に少なくなっている。
レジ袋の成分のポリエチレンは、かつては仕方なく燃やしていたものを、原料として製造するものである。
そのレジ袋を追放すると、レジ袋の原料になっていたエチレンの需要がその分減少するが、石油全体の消費量が減少するわけではない。
他の成分もエチレンと同量減らすことによって初めて石油消費減少の効果が出てくるのである。

また、新しい買い物袋として、エコバッグ(マイバッグ)が推奨されている。
武田氏によれば、エコバッグの原料は、BTX成分(ベンゼン、トルエン、キシレン)であり、石油成分としては希少なもので、用途は豊富にある。
ということは、レジ袋の代わりにエコバッグを買うとする。
エコバッグも永遠に1つで済ますわけには行かないので、1年に1回買い換えるとすると、BTX成分を使ってエコバッグを作り、余った成分は燃やすということになりかねない。

毎日の生活から出てくる生ゴミや小さな紙くずなどを捨てるには、「袋」が必要となる。
レジ袋をリユース(再利用)するのが最も合理的である。
しかし、多くの自治体では、レジ袋のリユースは禁止され、レジ袋と同じ成分でできた専用ゴミ袋の使用が義務付けられている。
私の居住する自治体や周辺の自治体は、みなそういうキマリになっている。
武田氏は、「これほど非合理的なことが起こるとはビックリします」と書いている。

「レジ袋」に関して、以下のようなデータが記載されている。
現在、一次エネルギーの国内供給は、全体で約2万3000TJ(テラジュール)です。石油はそのうち9000TJほどで、全体の約4割を占めています。この9000TJを石油の重量に換算すると、5億4000万トンになります。
レジ袋に遣っている石油重量(消費量)は現在25万トン。仮に、百歩譲って、レジ袋と追放し、専用ゴミ袋とエコバッグを使うことで石油消費量が半分になり、12.5万トンになったとしても、全体のエネルギー量からすると、わずか0.023%の削減にしかなりません。

ちなみに、12.5万トンという量は、多いのか少ないのか?
日本が地球温暖化対策として進めようとしている削減目標の240分の1に相当するという。
つまり、レジ袋の追放と同じことを、240個実行することが必要で、そんなことをしたら生活が破綻してしまう、と武田氏はいう。
つまり、レジ袋の追放などは、個人が勝手に使わないのは別として、社会運動として展開したり、他人に強制するものではない、というわけである。

武田氏の意見に関しては、WIKIPEDIAには、「科学的に不正確な点や誤謬、根拠としているデータが捏造であるとの批判がある」と記されている(08年12月4日最終更新)。
しかし、「環境問題」はなぜか「生活を不便にすることが環境によいことになる」とおいう錯覚を生じやすく、という意見は正鵠を射ていると思う。
(追記)として、環境省リサイクル推進室橋本室長輔佐が、毎日新聞に掲載した以下の内容の文章が掲載されている。

「レジ袋は、原油使用量削減のために取り組んでいるのではない」
「ペットボトルなどのリサイクルに力を費やしたが、1人当たりの家庭用ゴミ排出量はほとんど変わらずゴミの減量効果はなかった。そこで、ゴミ自体を出さないリデュース(発生抑制)への転換の象徴的な存在としてレジ袋に着目した。ライフスタイル転換のきっかけにしようという意味合い」(08年7月17日付夕刊二面)。

橋本室長輔佐のいう、ゴミ発生抑制的ライフスタイルへの転換は、私も大いに賛成である。
しかし、レジ袋の追放が、ゴミ発生抑制的ライフスタイルの象徴というのは、大間違いというべきであろう。

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2008年12月27日 (土)

珍説・奇説の邪馬台国…⑩「甘木」説(安本美典)

岩田一平『珍説・奇説の邪馬台国』講談社(0004)の最後に登場するのは、安本美典氏である。
安本氏については、既に、「邪馬台国に憑かれた人」の際にも取り上げている(08年12月1日の項)。
「邪馬台国の会」を主宰し、雑誌「季刊邪馬台国」の編集責任者であること等を考えれば、現在の代表的な邪馬台国論者といえよう。

安本氏の方法論は、数理統計学の駆使にある。
従って、推論は科学的であって、他の人が検証しやすい。
言い換えれば、門外漢にも理解が容易であり、それが多くの安本ファンのベースにあると思われる。
私も安本氏によって古代史の謎解きの妙味を教えられた1人である。

渡辺一衛『邪馬台国に憑かれた人たち』学陽書房(9710)では、安本氏の数理統計学の古代史への応用に関して、「その最も見事な成果が、統計的な方法によって、古代の天皇の在位年数が平均十年ぐらいであるということを示したことであった」としている。
もちろん、代表的な成果の1つであって、それによって天照大神と卑弥呼が同時期と推論する辺りは、それまで直観的に語られていたことに、いわばエビデンスを与えるものであったと評価することができる。

しかし、岩田氏の上掲書に紹介されているように、甘木市の夜須町周辺と奈良の大和郷の地名対比もまた見事な論証だと思う。
安本氏は、『古事記』の神代記に出てくる地名を統計的に分析し、九州が最も多く、山陰がそれに次ぐことを示2し、葦原中国(天上の高天原と地下の黄泉国の中間にある地上の国)を山陰地方とし、高天原を九州地方だとした。
そして、九州で高天原の記述に近いところとして、夜須川の流れる福岡県朝倉郡夜須町と隣の甘木市を想定した。
『古事記』の、高天原で神々が会合した「天の安の河」は夜須川であり、甘木の甘は高天原の天の名残であると考えたのであった。
安本氏が、邪馬台国=甘木説を最初に唱えてから26年後の1992年に、邪馬台国時代に重なるとされる弥生後期の大環濠集落跡である平塚川添遺跡が発掘された。
邪馬台国そのものかどうかは別として、邪馬台国連合の中の有力な国の1つであった可能性は高いと考えられる。

記紀では、天孫の一族は、神武天皇に率いられ、東遷した(神武東征)。
安本氏も、この神武東征も史実の反映であると考え、邪馬台国が、神武天皇に率いられて東遷し、大和朝廷になったとする。
いわゆる「邪馬台国東遷説」である。
2_2安本氏の東遷説は、オリジナルな思考に基づくものであったが、東遷説そのものは、『古寺巡礼』や『風土』などの著作で知られる和辻哲郎などが既に提唱したものであった。
もちろん、和辻説が豊富な知識に基づくものではあっても、その優れた感性に依存したものであったのに対し、安本説は、統計的論拠に基づく点において、現代的であったといえよう。

九州の夜須町周辺と奈良の大和郷とは、北に笠置山が所在するのをはじめ、よく似た位置関係に、同一もしくは類似する地名が分布している。
安本氏は、それはイギリスの清教徒がアメリカに入植した際、故郷にちなんだ地名をつけたように、九州北部にいた邪馬台国の人々が、東遷した地に、故郷にちなんだ命名をしたからで、それがすなわち東遷の証しである、とする。
東遷説は、いわば、九州説と畿内説の諸矛盾を止揚するものともいえる。
九州にあった権力の中心が畿内に遷ったことは事実としても、それが何時のことか、あるいは邪馬台国の勢力が東遷したのか等については、議論が尽くされているわけではない。

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2008年12月26日 (金)

珍説・奇説の邪馬台国…⑨「阿久根」説(張明澄)

「魏志倭人伝」は、漢文で書かれているので、その解読はネイティブの中国人が有利であると考えられる。
実際に、以下のように、多くの中国人による解読が行われている。
張明澄『誤読だらけの邪馬台国』久保書店(9207)
孫栄健『邪馬台国の全解決』六興出版(8205)
謝銘仁『邪馬台国 中国人はこう読む』徳間文庫(9003)

ところが、これらの中国人の読解が一致しているかといえばそうではないので、ややこしい。
有名な「水行十日陸行一月」についても、張明澄氏は、「水行すれば十日、陸行すれば一月」と読むのに対し、謝銘仁氏は、「地勢によって水行したり陸行したりを繰り返した結果であって、十日や一月は、天候や休息、占いによる日程調整などを含めた数字だと解している。

張明澄氏は、WIKIPEDIAで次のように紹介されている(08年11月20日最終更新)。

張明澄(ちょう めいちょう、日本名:小島聖一、1934年3月20日 -2004年11月1日)は、漢学、経済学、中国医学の研究家であり、雲門禅、東派仙道、南華密教、明澄透派の継承者でもある。特に「熱寒」分類による中国医学と、「五術」を日本に伝えたことで知られる。なお、五術家としての名は張耀文と称する。
著書に『誤訳・愚訳 漢文の読めない漢学者たち』『間違いだらけの漢文』 『中国漢方医学体系』『傷寒論の世界』『髪がイキイキ漢方療法』 『密教秘伝西遊記』 『誤読だらけの邪馬台国』『周易の真実』 その他多数がある。

張明澄氏は、文献に沿った解釈をすると、どこを邪馬台国として指しているか、という観点で邪馬台国の所在地を推論した。
つまり、邪馬台国が本当にどこにあったかではなく、「魏志倭人伝」は、邪馬台国がどこにあると書いたか、というように問題を設定した。
「魏志倭人伝」が正しい記述をしているのであれば、そこが邪馬台国である、という立場である。

張氏の推論は以下の通りである。
帯方郡から邪馬台国まで一万二千余里(A)
帯方郡から倭の北岸、対馬国、一大国、末廬国までの距離が計一万余里(B)
末廬国は、佐世保市
(壱岐から一海を渡ること千余里、末廬国に至る。通説は、末廬を呼子町としているが、それだと六百余里程度であり、かつ南に水行も陸行もできる場所を求めると佐世保になる)
邪馬台国までは、末廬から南に向かって<A-B=二千余里>の場所で、末廬国から水行すれば十日、陸行すれば一月の場所

2上記の条件で、張氏が比定したのは、鹿児島県阿久根市であった。
張氏は、水行十日、陸行一月を帯方郡から邪馬台国までの距離とみなす(例えば、古田武彦氏)のは、漢文的にあり得ないという。
出水(イズミ)のズミや邪馬(ジャマ)に通じ、台は高い地の意味で、阿久根の東の出水山系をさしている、というのが張氏の指摘である。

岩田一平『珍説・奇説の邪馬台国』講談社(0004)によれば、地元では、張氏の著書はベストセラーになったが、阿久根に邪馬台国があったということは、さほど信憑性をもって受けとめられていないらしい。
まあ、全国にいくつもの候補地があるのだから、町おこしに役に立つなら幸い、という感じらしい。
ただし、阿久根の名産ボンタンは、文旦と書き、謝文旦という中国人に由来するのだという。
謝文旦は、難破して阿久根に漂着した船の船長で、阿久根港に避難して世話になった御礼に、ボンタンの実を贈ったことが、阿久根のボンタンの始まりだという。
阿久根沖は、海上交通の難所で、難破する船も多かったらしい。
そういうこともあって、阿久根と中国大陸とはネットワークがあった、と考えられる。

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2008年12月25日 (木)

渡辺喜美氏の造反に1票

自民党の渡辺喜美元行革担当大臣が、24日の衆院本会議で、民主党が提出した衆院解散を求める決議案に賛成した(写真は産経新聞12月25日)。
2早期解散は、渡辺氏の持論で、確信犯的造反であるが、党議拘束を無視して、与党としてはただ1人賛成票を投じたことになる。
決議案自身は、自公両党の反対多数で否決された。

自民党内には、「麻生不信任に賛成したということであり、重い処分とするべきだ」という意見もあったようであるが、執行部は、早々と戒告という軽い処分で済ませた。
自民党内に同情論があって、除名などの処分にすると、それらが顕在化しかねない、という思惑もあるのだろうが、何よりも、国民の間に解散を求める動きがあることが、重い処分に踏み切れなかった理由だと思われる。
しかし、党議拘束を破っているのだから、普通に考えれば、自ら離党するか、離党しない場合には除名処分にするのが相当というところだろう。
除名できなかったということは、自民党が崩壊しつつあることの現われではないだろうか。

「派遣切り」などの話題もあって、世の中は重苦しい閉塞感に覆われている。
トヨタ自動車が決算公表を始めてから初めて営業赤字に転落(12月23日の項)するなど、「100年に1度の危機的状況」という言葉は、あながち過大なレトリックではないのかも知れないが、閉塞感の根幹に、総理大臣が連続して任期途中で政権を放り出し、後任もまた総選挙による信任を経ていない、という政治状況があると思う。

現在の衆院の議席は、小泉政権下で、郵政民営化を眼目にして行われたときの結果である。
争点をシングルイシューに絞ったかのような雰囲気の中で、はじめて自民党の候補者に入れた、という知人も結構いた。
私は、刺客などの話題作りなどによる劇場型選挙を、当時から小泉マジックだと思っていた。
結果として獲得した議席数は、大政翼賛会的危うさを秘めていると感じられたし、実際に、安倍・福田・麻生と歴代の政権が、さまざまな問題含みの議案を可決してきた。
だから、早期に衆院解散をして、民意をもう一度問い直すべきだと思う。
渡辺氏の行動をスタンドプレーと見る向きもあるだろうが、政治家としての重い選択だったと考えたい。

自民党政権に愛想を尽かしている人も、それでは民主党でいいのか、ということになると、「どうも……」などという人が多い。
女性の間には、「小沢さんの顔付きが悪代官みたいで……」などという拒否感を示す人もいる。
感覚的な印象を重視することは必要だと思うが、政治的な選択が情緒的過ぎるのも如何かと思う。
そういう人たちは、結果的には現状維持を選択しているといってよい。
現時点で、民主党以外に、例えば社民党や共産党や国民新党などが政権の受け皿になることは考えられないから、現実的な選択肢としては、自公か民主かということになるからである。
もちろん、政治にパーフェクトはないのであって、相対的な選択しかないのだ。

私は、とにかく一度政権交代してみることが必要なのではないかと思う。
権力は腐敗する、といわれる。
それは、水が澱んで腐敗するのと同じことだろう。だから、たまには曝気した方がいい。
参院で与野党逆転しただけでも、自公が衆参両院とも与党だった時とは大きな違いがある。

もちろん、一寸先は闇ともいわれる世界である。
これから先、新党結成なども含め、どう展開していくか分からないし、現下の経済情勢は、政局的な動きをしている場合ではないことも確かだろう。
しかし、解散を先送りしている麻生政権こそ、政局的な動きともいえるのではなかろうか。
「100年に1度の危機」ならば、自民党的発想によって問題解決を図ることなどできるはずがないように思うのだが。

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2008年12月24日 (水)

珍説・奇説の邪馬台国…⑧「筑後山門」説(村山健治)

江戸時代に新井白石は、福岡県の山門郡を邪馬台国の比定地とした。
邪馬台をヤマトと読んで、九州内で音の通じる場所を求めた結果だと思われる。
京大系の学者は、内藤湖南以来近畿説が主流であるのに対して、東大系の学者は、白鳥庫吉以来九州説が多い。
山門は、九州説における有力な候補地として位置づけられてきた場所である。

2_2ところが、上代特殊仮名遣い(08年2月10日の項4月18日の項19日の項20日の項21日の項等)からすると、大和の「ト」は「乙類のト」であるのに対し、山門の「門」は「甲類のト」であって、発音が異なることが明らかにされた。
つまり、邪馬台の音は、山門とは書かない、ということである。
しかし、中国人が、上代特殊仮名遣いを聞き分けていたのか疑問だとする意見もあって、決定打でもないようである。
山門の地名の語源は、「山が相対していて門のようになっているところ」から来るものと考えられ、地形を形容する普通名詞的なものだったようだ。
とすれば、山門をヤマトと発音したとしても、どこの山門か、ということが問題になる。

2_4福岡県の山門郡は、伊都国や奴国として大方の異論のない博多湾沿岸部から50km程度の距離であり、旅行作家として有名な宮脇俊三さんは、「水行十日陸行一月」も要するはずがない、としている。
山門郡瀬高町の東北に、女山(ゾヤマ)という小山がある。
この女山に、「神籠石(コウゴイシ)」と呼ばれる遺構がある。
神籠石は、女山の山腹を囲む石列で、縦横数十センチの石が、延長3kmに及ぶ長さで繋がっている。

神籠石は、北九州を中心に、岡山から四国まで点在し、13ヵ所が確認されている。
誰が何の目的で築造したものか、未だ定説がないようである。
邪馬台国筑後山門説論者の元東洋大学学長の橋本増吉氏は、女山神籠石を、「魏志倭人伝」に、卑弥呼の居所が「城柵厳かに設け」と記述されているのと関連づけて捉えた。
岩田一平『珍説・奇説の邪馬台国』講談社(0004)には、橋本氏の下記の言葉が引用されている。

今日これを「女山」と呼んでいるのも、元来は九州訛で「女王山」といったのが、つまったのではあるまいか。

瀬高町の郷土史家に、村山健治という人がいた(故人)。
誰にも書けなかった邪馬台国』佼成出版社(7810)という著書がある。
瀬高町太神にある「こうやの宮」という神社の木造の神像が握っている刀が、天理市の石上神宮にある七支刀と同じ形をしているという。
七支刀は、幹から6つの枝が伸びる形をしている。
金文字の象嵌が施されているが、一部が判読不能状態でよく読めないが、刀自体に七支刀と刻まれている。
『日本書紀』の神功皇后の条に、百済から七枝(支)刀が献上されたという記述があって、関連づけて考えられている。

村山氏は、七支刀を、「魏志倭人伝」に、魏から卑弥呼が239年に刀二振が下賜された、と記録されているうちの一振だと考えた。
神武天皇が東征の際に、タケミカヅチから賜わった神剣が七支刀で、神武天皇は邪馬台国王だった、というのが村山氏の推論である。
七支刀には、百済王という銘が刻まれていて、百済が成立したのが4世紀中ごろなので、239年下賜という村山説は苦しいが、魏を東晋に置き換え、神武天皇の東征を応神天皇の東征に置き換えることによって矛盾は解消する、というのが村山氏の考えだ。

応神天皇の出自については議論が分かれているが、九州から東遷したとする説も有力説の1つである。
筑後山門にあった勢力が、4世紀に東遷して河内に上陸し、一帯を占拠した。
最初に河内に上陸した王が、神武(応神)に擬せられた人物だった。
上記のように考えれば、村山説も整合性のある議論になってくる。

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2008年12月23日 (火)

トヨタ自動車が営業赤字に

日本を代表するトヨタ自動車が、21年3月期の連結業績予想を下方修正し、1500億円の営業赤字になる見通しである、と発表した。
2_3昨期、一昨期ともに2兆円超の営業利益だったから、まさに劇的な変化ということになる(グラフは産経新聞12月23日)。
昭和16年3月期に決算数値の公表を始めてから、営業赤字は初めてのことだという。
昭和16年といえば、1941年だから、67年前のことになる。
リーマンブラザーズが破綻したころから、「百年に一度の経済危機」が喧伝されているが、単なるレトリックではなかった、ということか?

確かに、世の中では急速に不景気風が強まっていることを実感する。
私の知り合いの経営者も、いっせいにディフェンシブな姿勢を取り始めているようだ。
おそらくミクロ的には正しい対応なのだろうけど、それでは世の中全体(マクロ)的には不景気を促進するだけだろう。
そもそも「百年に一度の危機」というのは、何を指標としているのだろう。

麻生首相も、「百年に一度の危機」を口にしている。
それではどういう対応策を取ろうとしているのか?
先ごろ、21年度予算の財務省原案が示された。
景気下支えのためと税収落ち込みを補填するため、いわゆる「埋蔵金」の活用を図るほか、国債の増発を行うことになっている。
財政再建路線からの転換を意味している、と理解すべきだろう。
果たして、「百年に一度の危機」に対応するため、財政再建路線と決別することは正しい選択なのだろうか?
私には経済の素養が乏しいので、よく分からない、としかいいようがない。

1つの指標として、原油価格を見てみよう(グラフは朝日新聞12月18日)。
2_2ガソリンを入れるたびに単価が下がっていることからも、原油価格が下落しているであろうことは推測できる。
為替が円高になっていることもガソリン価格が低下していることを後押ししており、生活者としては有り難いことではあるが、他人事ながらGSの経営者は大変だろうなあ、と思ってしまう。
もっとも、少し前の水準に戻っただけなのではあるが、乱高下する中で、完全に価格競争になっているのだから、さぞかしシンドイことだろうと察する。
私の友人の中にも、いち早く廃業してしまった人がいる。

WTIというのは、West Texas Intermediateのことであり、その価格が原油の国際価格動向に大きな影響を持っている。
国際取引での単位は1バレル(約159リットル)当たりの米ドル($/bbl)で表記される。
WTI先物は、ニューヨーク・マーカンタイル取引所(NYMEX)においてNYMEX Light Sweet Crudeとして取引が行われている。
WTI価格はこの取引価格で決まり、その価格は世界の原油価格の中で最も有力な指標であるとされる。
実際のWTIの一日あたり産出量は100万バレルに満たないのに対し、WTI先物の一日あたり取引量は100倍の1億バレルを超えている。
このWTI原油価格が、7月ごろをピークとして、急速に下落していることがグラフからも読み取れる。

思えば、ガソリン価格の急騰について記したのは、このブログを書き始めたばかりのころだった(07年8月11日の項)。
その時のグラフを再掲してみよう。
0708092以来、ガソリン価格はさらに騰貴していき、私の住む地域でも180円くらいまで上昇した。
前回給油したときは112円だったが、現在は110円を割っている。

これは現下の不況の1つの側面を示していると思われるが、この不況が、循環的な経済変動の一局面なのか、文明史的とでもいうべき大きな変化の局面に直面しているのか、それは誰にも分からない。
しかし、私は、自動車や石油に象徴されるライフスタイルが、否応なく転換期を迎えているのではないだろうか、という気がする。
私たちの生きた時代は、まさに自動車や石油を代表選手とする時代だった。
私が最初に勤務した会社は、石油化学を業とするものだったし、その会社に入社した同期の人たちは、競って、そして生活費のかなりの部分を投じてクルマを購入した。
どういうクルマに乗るかは、端的にその人の価値観や美意識を反映していたと思う。

しかし、最近の若者は、クルマにさほどの関心を示していないようである。
自動車や石油の時代が幕を下ろそうとしているのだろうか。
いささかの感慨を覚えざるを得ない。
今年の漢字の「変」は、「大変化」の変なのだろうか。

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2008年12月22日 (月)

珍説・奇説の邪馬台国…⑦「宇佐・別府説」説(富来隆)

邪馬台国=宇佐説は、多くの論者が唱えている、と言ってもいいだろう。
私の知る限りでも、推理作家の高木彬光氏、弁護士の久保泉氏と久保田穣氏、『邪馬台国の位置と日本国家の起源』新人物往来社(9609)という大著を著された鷲崎弘朋氏などがいる。
この宇佐説をいち早く提唱したのが、大分大学名誉教授の富来隆さんである。

宇佐八幡神宮は、全国の八幡神社の総元締めである。
2全国には約11万の神社があり、そのうち「八幡神社」が4万600余だという(岩田一平『珍説・奇説の邪馬台国』講談社(0004))。
つまり、神社の1/3は、八幡神社ということになる。
私は、子供のころ、八幡神社を遊び場としていたこともあって、神社の中でも「八幡さん」には特に、親しみがある。

その「八幡さん」の総元締めの性格は、それほど単純ではないらしい。
宇佐八幡神宮の本宮は、三柱を祭る三殿が並列している。
一之御殿に誉田別尊(応神天皇)、二之御殿に比売大神、三之御殿に神功皇后が祭られているが、八幡神の正体をめぐって、鍛冶神、海神、ハタを立てて奉る神、朝鮮半島の外来神ハルマン、渡来系秦氏の氏神、巨石崇拝等の諸説が唱えられてきた。

このような八幡神の複雑な性格の中から、比売大神の巫女としての性格を抽出して、卑弥呼と結びつけ、八幡(ヤワタ)=邪馬台(ヤマタイ)説を唱えたのが、富来隆さんだった。
富来さんは、東京帝国大学の文学部史学科出身で、『卑弥呼』学生社(1970)で、邪馬台国=宇佐説を世に広めた。
既に40年近くも前の記述になるが、同書の奥付の著者略歴は以下の通りである。

大正七年東京に生まれる。昭和十七年九月、東京大学文学部国史科を卒業し、史料編纂所員となる。戦後しばらく大分県臼杵高女に奉職し、ついで東京大学文学部大学院に入学。二十四年、父の死に会して、大分師範教授に奉職。ついで大分大学助教授となり、現在同教授(教育学部、社会学担当)。著書・論文としては、『社会経済思想史-物神性-』『邪馬台・女王国』などのほか、「日本史における地域性-西船・東馬-」「古代社会における聖地」「丹生・旧石器」「「海部考」「「社会理解の方法論的基礎」「など多数。いずれも、歴史社会学を指向したもの。

富来さんのもともとの研究領域は、中世の水軍、ことに豊後の緒方一族だった。
その研究のために、瀬戸内海の潮流や漁村の習俗などを調べているうちに、邪馬台国問題に足を踏み入れたということである。
富来さんの邪馬台国問題へのアプローチの方法は、「魏志倭人伝」を、できるだけスナオに忠実に、そして合理的に正しく読解しよう、というものであった。
その結果が、宇佐・中津平野を指向するものとなった。
「魏志倭人伝」の論理的な読解として、宇佐に至るというのは、弁護士の読解や高木彬光氏、鷲崎弘朋氏などがつとに主張しているところであり、富来さんはその先駆けと位置づけていいだろう。

宇佐神宮の南の駅館(ヤツカン)川の左岸堤にある弥生時代後期の別府(ビユウ)遺跡では、朝鮮式小銅鐸が出土している。
豊国(トヨノクニ)に渡来した秦氏が身につけていたのが、金属の採掘・冶金の技術だったといわれる。
福岡県田川群の香春岳にある採銅所から採掘した銅で鏡が作られ、それを宇佐神宮に納めた。
香春岳山麓の香春神社の祭神は、新羅の国から来た神と伝えられている。
香春岳から豊国にかけては、銅のほかに、鉄や水銀、錫、鉛、石灰などの鉱物資源が豊富で、水銀鉱床からは辰砂の結晶が採掘される。

気象学からアプローチして、邪馬台国大分説を唱えたのが、山口大学名誉教授だった山本武夫さん(故人)である。
山本さんは、朝鮮半島の古代史書『三国史記』から、異常気象の記録を抽出し、紀元1世紀から7世紀の古代において、100~250年のあいだ、東アジアが極端に冷涼な気候だったことを導いた。
倭国が大いに乱れて卑弥呼が共立されたのが184年ごろ、死んだのが248年ごろと推定されており、この寒冷期に一致する。
中国でも、220年に後漢が亡びて戦乱の三国時代になり、朝鮮半島でも朝鮮族が中国の出先機関を襲撃している。
これらの動乱の原因が、気候悪化であった、というのが山本説である。

山本説に基づけば、3世紀に寒さのきつい奈良盆地に、南方的な風俗で描かれている邪馬台国はあり得ない、ということになる。
その点、豊国は、今よりは涼しいが、米も作れれば、蚕も飼えるような気候条件だった。
4世紀にヤマト政権の基礎が固まると、卑弥呼の事績は神格化され、宇佐八幡に比売大神として祀られてもおかしくはない、というのが岩田氏の推論である。

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2008年12月21日 (日)

珍説・奇説の邪馬台国…⑥「四国山上」説(大杉博)

邪馬台国の所在地は、「どこでもアリ」という感じであるが、大杉博さんは、四国山上説を唱えている。
大杉さんのプロフィールは、セイクリットセミナーの講師紹介欄では次のように記されている。

大杉 博(おおすぎ ひろし)
昭和4年岡山県生まれ 
昭和51年から古代史の研究を始め、昭和56年倭国研究所を設立
現在、倭国研究所所長。歴史学名誉博士
「古代ユダヤと日本建国の秘密」「邪馬台国の結論は四国山上説だ」他著書多数

http://holistic-healing.jp/hemp/kousi16-6.html

大杉さんは、あまたの研究者(団体)に対して、「邪馬台国比定地比べ論争」を挑む論争家として知られている。
岩田一平『珍説・奇説の邪馬台国』講談社(0004)によれば、62人と3つの団体に手紙で論争を申し込んだ、とある。
結果は?
無敗だという。
大杉さんのルールは、以下の条件を守らないと「負け」だという。
①地図で比定地を示すこと
②論争内容を公表すること
そして、自説が誤っていると判断したら、研究から手を引く、としている。

大杉さんの挑戦に対する反応について、大杉さん自身が以下のように書いている。

……相手の研究者から何の反応も無いのである。したがって私は、邪馬台国の比定問題はほぼ決着したと考えている
(上掲書)

黙殺という被挑戦者も多かったようだから、邪馬台国問題が「ほぼ決着した」とは考えられないことは当然である。
ともあれ、大杉説の論拠を見てみよう。
四国には、無数の高地性集落がある。
高地性集落とは、以下のように解説されている(WIKIPEDIA08年6月28日最終更新)

高地性集落こうちせいしゅうらく)とは、日本の弥生時代中・後期に、平地より数十メートルも高い山頂部や斜面に形成された集落である。
弥生時代の集落遺跡は、周囲に濠をめぐらして外敵の侵入を防ぐ環濠集落が主たるものであり、これらはコメの生産地となる水田に近い平野部や台地上に形成されていた。それに対して、人間が生活するには適さないと思われる山地の頂上・斜面・丘陵から、弥生時代中期~後期の集落遺跡、すなわち高地性集落の遺跡が見つかっており、「逃げ城」とか「狼煙台」とかの軍事的目的の集落であったとか、その性格をめぐって様々な議論が提起されている。

大杉さんは、邪馬台国は、四国の山上に存在した高地性集落の集合体の国だとする。
そして、邪馬台国とは、おかしな馬と台にしたような国、の意味であるという。
大杉さんは、高校野球で活躍した池田高校のある徳島県三好郡池田町に在住である。
その池田町に、医家(イケ)神社という神社がある。祭神は、大国主神と少彦名神だという。
大杉さんは、医家神社が、延喜式神名帳に阿波国美馬郡12座中の式内大社「倭大国玉神大国敷神社二座」と記された神社ではないか、と考えた。
そして、池田町こそ、神武東征以前に、大国主命が治めた倭国の都だと考えた。
池田町の近傍が、天孫降臨の場所であって、天岩戸も出雲も、阿波にあったのではないか。
大杉さんによれば、記紀神話は、阿波に実在した。

2_2大杉さんは、四国全図を平地と台状になった部分の境をトレースし、山が台状の形をして連なる国の姿が浮かび上がった。
それが邪馬台国ということになる。
この周囲を測ると、400~500kmであった。
まさに「魏志倭人伝」にある「周旋五千余里可り」に一致する。
そして、その周囲に、斯馬国以下奴国までの各国を比定した。

弥生時代の終わりから古墳時代にかけての遺跡から、丹を使った朱塗りの

遺骸や棺が出土している。
丹は、水銀朱(HgS)のことである。
丹は、鮮血を連想するもので、生命の源のシンボルだったのではないか、と考えられる。
2_3中国では、不老不死の薬とされていた。

水銀朱は、水銀と硫黄の化合物(硫化水銀)で、水銀鉱床から産出する。
水銀鉱床は、中央構造線上に帯状に存在する。
徳島の那賀川の中流の阿波水銀鉱床のある辺りは、丹生谷と呼ばれている。
「魏志倭人伝」には、「その山に丹あり」という一節がある。
邪馬台国には、丹を産出する山があった、ということである。
邪馬台国は、弥生時代に水銀鉱山があった地域である、ということが条件であるとも考えられる。
とすれば、阿波はその資格要件を備えた地である、とはいえる。

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2008年12月20日 (土)

珍説・奇説の邪馬台国…⑤「岡山」説(和歌森太郎)

岡山県には大規模な古墳が多い。
全長360mの造山古墳(岡山市)は、河内の大山古墳(伝仁徳天皇陵、08年5月2日の項)、誉田山古墳(伝応神天皇陵)、陵山古墳(伝履中天皇陵)に次ぐ、全国で第4位の規模である。
2その他に、作山古墳(総社市)は、全長286mで全国9位の規模であり、吉備の王が河内の大王に比肩できるような権力を持っていたと考えられる。

2これらの古墳が築造されたのは、5世紀であって、邪馬台国の時代は、さらに200年以上も前のことになる。
弥生時代の吉備の遺跡からは、壺と壺をのせる器台のセットが発掘されている。
通常の壺や台よりも大型のものは、特殊壺や特殊器台と呼ばれている。
特殊壺や特殊器台は次のように説明されている。

特殊器台は器高が70~80cm程あり、大型のものでは1mを越えるものもある。器体の胴部は文様帯と間帯からなり、文様帯には綾杉文や斜格子文などの直線文や、弧帯文と呼ばれる特殊な文様が描かれる。内面はへラケズリなどによって薄くされ、外面には赤色顔料が塗られ、大変丁寧に作られる。特殊壷は長頚の 壷の胴部に2~3条の突帯が付けられたもので、底部は穿孔され、普通の壷としての機能を失う。
そもそも壷は、大事な米や水などを貯蓄するための器種であり、弥生土器の中で最も貴重な器種の一つである。この大事な壷を飾るために、中期頃から器台が現れる。後期になって器台は、墳丘墓の巨大化に伴い、そこに置かれる供献具として自らを巨大化し、特殊器台となる。吉備地方は弥生時代後期に巨大な墳丘墓が数多く築かれる地域であり、当時全国で一番大きい楯築遺跡があるところでもある。特殊器台の成立と発展には、それを置く場所である墳丘墓の巨大化と密接に関連する。巨大な墳丘墓を築き得た吉備だからこそ、巨大な特殊器台が成立・発展したのだろう。

http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kodai/sagu14.htm

壺と特殊器台が合体して、円筒埴輪になる。
宮山遺跡の特殊器台はかなり新しい形式で、埴輪になる直前のものと考えられている。
この宮山式の特殊器台の破片が、箸墓など、奈良県の初期の大型古墳4ヵ所から見つかっている。
箸墓の築造年代については諸説があるが、次第に遡る傾向にあり、20~30年程度で卑弥呼の時代に到達するとする見方もある。

著名な歴史学者の和歌森太郎氏は、晩年の講演で、「邪馬台国吉備説」に言及していたという。
和歌森氏は、古墳時代は大和から突然変異的に発生したのではなく、弥生時代の成熟の中で生まれたのであり、そういう成熟がうかがえるのは、山陽道から近畿地方の西部摂津、播磨の瀬戸内海沿岸部であり、山陽道の中部から東部にかけての辺りは、邪馬台国の可能性を秘めているのではないか、とする。
余談ではあるが、私は、和歌森太郎氏の『日本史の争点』毎日新聞社(1963)によって、「邪馬台国論争」や「法隆寺論争」などの歴史学における論争というものを知った。

前方後円墳のルーツが、吉備の楯築遺跡だとされる。
楯築遺跡は、1976~79年にかけて発掘され、弥生時代としては広壮な直径40数m、高さ5mの墳丘と、北東と南西に両腕のような突出部が確認されている。
地下からは、弧帯石や特殊器台、高坏などの破片が散乱した状態で発掘され、木槨の中の木棺の内側に、30kgを越す水銀朱の顔料が溜まっていた。
貴重な水銀朱をそれだけの量集められる財力があったことを示している。

楯築遺跡のように、円丘に2本の突出部を持つ墳丘の形は、後の前方後円墳の原型ではないか、とされる。
前方後円墳流行のさきがけが吉備の弥生墳丘墓で、その時期が邪馬台国の時代に重なるとすれば、卑弥呼の都したところが吉備であったのではないか、という推論は十分に可能であろう。
楯築遺跡の周囲の弥生時代の集落跡からは、大量の土器や農具が出土している。
弥生時代から田園地帯だったことを示している。
吉備が弥生時代の米作りの先進地帯だったことは、灰白色の土の色からも分かるという。
灰白色の田は、水量調節が十分にできな乾田で、有機物の分解がよく、稲の生長が早いという。
吉備は、瀬戸内の航路を牛耳る地勢、温暖な気候、米作りの先進技術によって、弥生時代後期に、倭国における有力な地位を確立したのだろう。

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2008年12月19日 (金)

珍説・奇説の邪馬台国…④「山陰」説(田中文也)

出雲は、記紀神話の重要な舞台である。
しかし、かつては、めぼしい考古学的な発見が見られなかったことから、神話の理解に関して、さまざまな見方があった。
例えば、以下のようなものである。

「出雲神話は出雲と全く関係のない物語で、すべて大和朝廷に都合のいい筋書に改ざんされたもの。出雲は単に神話の舞台に仕立てあげられたに過ぎない」という意見がひと頃横行した。すなわち、「古代出雲には、自国の神話を後世に伝えるほどの強力な政治勢力も文化もなかった」というのである。出雲最大の古墳は、全長約92メートルの山代二子塚(松江市)。これに対し、吉備の造山古墳は350メートル、河内の仁徳陵に至っては450メートルもある。古墳の大きさは被葬者の権力に比例するだろう。とすれば、二子塚に眠る王さまは、小さな勢力に過ぎないことになる。つまり、6世紀初めごろの出雲には、吉備や大和のような強大な権力は存在しなかったことになる。
http://www.kankou.pref.shimane.jp/more/history/k_kaze1.html

ところが、昭和59年(1984)年8月17日、島根県簸川郡斐川町神庭西谷に位置する荒神谷の広域農道予定地から、それまで国内で発見された総数を上回る358本もの銅剣が出土した。
翌年には、銅剣埋納地からわずか7~8m離れたところから、今度は銅鐸6個と銅矛16本が発見された。
これらの青銅製祭器が古代出雲の地で大量に発見されたことで、それまでの考古学の常識が覆された。

神庭荒神谷遺跡と命名されたこの地から銅鐸と銅矛が同時に出土したことで、私たちが小・中学校の頃教わった「"銅鐸"は近畿、"銅剣・銅矛"は九州」という学説("弥生時代の青銅器二大分布圏")が通用しなくなった。
さらに、平成8(1996)年10月、この遺跡から南東約3.4kmの地点にある加茂岩倉で、39個という大量の銅鐸が見つかり、出雲は全国最多の銅鐸保有国になった。
神庭荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡の存在で、古代の出雲は青銅器王国だったことが明らかとなり、強大な政治勢力が存在したことが想定されている。
http://www.bell.jp/pancho/travel/izumo/kojindani%20iseki.htm

青銅器は、水田稲作と共に、弥生時代を特徴づけるものである。
邪馬台国は弥生時代の終末期に出現し、古墳時代の初頭の頃、倭国の都として魏に認められた。
つまり、邪馬台国は、弥生時代に最も栄えた地域の1つだったといってよい。
とすれば、出雲からの大量の青銅器の出土という事実は、出雲もしくは山陰が、邪馬台国の有力候補地の資格を有することを示しているのではないか。

同じ山陰の鳥取県で、妻木晩田遺跡という弥生時代後期の大規模な遺跡が発見されている。
吉野ヶ里遺跡を超える大規模なものであり、竪穴住居、掘建柱建物跡、墳丘墓(四隅突出型墳丘墓含む)、環濠等が検出されている。
一連の集落は弥生時代後期を中心に中期終わり頃から古墳時代前期初頭にわたって営まれている。
いわゆる倭国大乱(08年11月29日の項)の影響とされる高地性集落であるが、比較的大規模で長期にわたる例は少なく、注目される。

妻木晩田遺跡からは、鉄製の鋤やノミなどの鉄器が多数発見されており、北部九州を除くとずば抜けた多さで、奈良県などより遙かに多い。
「魏志倭人伝」にも、弓矢に鉄鏃が使われているという記載がある。
当時の鉄の産地は、弁辰(朝鮮半島南部)と考えられており、妻木晩田遺跡のように、日本海に面した地域は弁辰からの鉄輸入において優位な立地だったであろう。

山陰の青銅器文化が終わる頃、四隅突出型墳丘墓という形態の墓が、中国地方の山間部から山陰一帯、富山県辺りまで増殖した。
2妻木晩田遺跡からは、17基も発掘されている。
山の尾根一面に巨大なヒトデが張り付いているように見えるが、妻木晩田遺跡ほと四隅突出型墳丘墓が密集した地域は他に見られないという。

岩田一平『珍説・奇説の邪馬台国』講談社(0004)によれば、四隅突出型墳丘墓の分布域は、オオクニヌシの行動範囲と重なっている。
オオクニヌシは、出雲では国土創造神とされており、四隅突出型墳丘墓をシンボルとした連合体が、弥生時代後期に山陰・北陸地方にあった、と考えられる。
オオクニヌシは、その連合体の王として担がれた人物が語り継がれたのだろう、というのが岩田氏の推論である。
妻木晩田遺跡は、その連合体の中でも、有力な国であった、ということだろう。

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2008年12月18日 (木)

珍説・奇説の邪馬台国…③「纏向」説(苅谷俊介)

苅谷俊介さんは、俳優であるが、考古学愛好家としての顔も持つ。
苅谷説は、渡辺一衛『邪馬台国に憑かれた人たち』学陽書房(9710)にも登場した「邪馬台国=大和・纏向遺跡」である(08年12月12日の項)。
苅谷さんには、『まほろばの歌がきこえる-現れた邪馬台国の都』エイチアンドアイ(9903)という著書がある。
岩田一平『珍説・奇説の邪馬台国』講談社(0004)では、纏向遺跡の発掘成果のポイントとして、以下を挙げている。

a.北と南に走る2本の「大溝」。総延長260mで、溝の幅約5m、深さ1.2mで、両岸に護岸の矢板が打たれている。水運用の運河ではないか、という説がある
b.木樋と木槽を組み合わせた導水施設
c.石貼りの井戸
d.神社建築風建物
e.壁立ちの平屋と高床式建物群
f.さまざまな祭具を投棄した多数の穴、西日本を中心に各地から持ち込まれた土器

纏向遺跡に先立つ奈良盆地の遺跡は、纏向から北東約5kmの唐古・鍵遺跡である。
環濠集落で、多数の農具が出土しており、銅鐸の鋳型や高殿の楼閣を描いた土器片も見つかっている。
水田農耕に支えられた典型的な弥生の拠点集落であったと考えられる。
ところが、時期的に唐古・鍵遺跡からバトンタッチをされたかのように出現した纏向遺跡には、田畑の遺構が出ない。
纏向遺跡は、扇状地にあり、川筋が定まらないから、耕地には不適であった。
また、唐古・鍵と纏向では、出土した鋤と鍬の比率が大きく異なっている。
唐古・鍵遺跡=30:70
纏向遺跡=95:5
鋤は土木用で鍬は農耕用と考えられている。

また、纏向遺跡では、出土土器の30%近くが、大和以外の地域のものであった。
同時代の奈良盆地周辺の遺跡では、他地方の土器の割合は10%以下だから、纏向の比率は異例的に高く、しかも東海、山陰・北陸、河内、近江、吉備、関東など広範囲に及んでいる。
上記のようなことから、田畑や庶民の住居がなく、全国各地から集まった人々が大がかりな土木作業に従事したと考えられる。
纏向遺跡の性格はどのようなものだったのか?

岩田氏は、民族学者・梅棹忠夫さんの、「古代都市の中心には神殿がある」という神殿都市ではないか、と推測する。
とすれば、神殿都市に座すのは、「神と交信する神官」である卑弥呼だったか?
苅谷さんによれば、卑弥呼は日妻巫女(ヒメミコ)の音を写したもので、特別な霊力をそなえた太陽神を祭る巫女の聖称である。
初代の日妻巫女は、銅鐸祭りの主宰者として、唐古・鍵遺跡にあった。
その後、纏向が栄えるようになり、弥生の銅鐸祭りはすたれて前方後円墳が築かれるようになる。
この纏向遺跡の新しい祭りを津k佐渡ッ多のが二代目の日妻巫女だ、というのが苅谷さんの推測であり、魏と交流した邪馬台国の卑弥呼だった、とする。

纏向石塚の東300mのところに神社風建築の柱跡が発掘され、高床式建物が建っていたと推測されている。
纏向石塚古墳の東正面に神社風建築の正殿があり、その延長線上に初瀬山があって、春分・秋分の日に山頂から日が昇る。
2また、纏向石塚の前方部の正面が三輪山にあたる。
苅谷さんによれば、纏向石塚は、もともと太陽神を拝むための聖壇で、円盤状だったが、後に方計のでっぱりをつけて前方後円墳のようになった。

苅谷さんは、箸墓も、後円部が250年ごろに作られ、260年以降前方部がつけたされると共に、後円部も改修されたとみる。
250年ごろであれば、卑弥呼が248年前後に死んで、後円部に埋葬されたと考えても矛盾はない。
前方部は、その十数年後に、宗女台与(壱与)ではないか、ということになる。

ヤマトタケルが、「倭(ヤマト)は国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし」と、能煩野(三重県鈴鹿)で詠んだ望郷の歌は有名である。
この「まほろば」の、「ほ」は秀、「ま」は「真」で、「まほろば」はもっともすぐれた場所、という意味になる。
「まほろば」について、苅谷さんは、「魂があの世に抜ける穴の意味」だとしている。
つまり、纏向遺跡の祭祀儀礼の底流には、土着の縄文人の思想があるのではないか、ということである。
卑弥呼の鬼道も、渡来系の道教の一種ということではなく、縄文信仰に由来する秘儀ではなかった、と想像は広がる。

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2008年12月17日 (水)

珍説・奇説の邪馬台国…②「新潟」説(桐生源一)

桐生源一氏は、新潟県栃尾市で1941年に生まれた。
明治時代に創業した書店の跡取りだったが、現在は複写機・文房具販売会社「玉源」を経営している。
栃尾市は、平成の大合併により、2006年1月1日に長岡市に編入されて消滅したが、桐生氏は、その栃尾が邪馬台国の中心だったという説を提唱している。

旧栃尾市は織物の町として知られていた。
第11代垂仁天皇の皇子が栃尾郷高志の国造となり、その妃が守門の天然繭から紬を織ったのがはじまりというから歴史は古い。
また、名水百選に選ばれた「杜々の森」の清水も有名で、この湧水で仕込んだ銘酒「越の景虎-名水仕込大吟醸」は、酒飲みに知られているという。

もちろん、新潟県は、銘酒の宝庫ともいうべき土地柄である。
「魏志倭人伝」に、倭人が「人性酒を嗜む」という記述がある。倭人は生来酒が好きだということだ。
東夷伝の中では、倭以外には、「民族性として酒が好き」というような記述は、弁辰条に、「俗は歌舞・飲酒を喜ぶ」があるくらいである。
特記されるような「酒好き」とは、どのような事情があったのだろうか。

岩田一平氏には、『縄文人は飲んべえだった』朝日文庫(9504)という著書がある。
つまり、縄文人は、倭人伝の記すような「飲んべえ」だったということである。
縄文人は南方系の旧モンゴロイド、弥生時代以降に日本列島に渡来してきたのは、北方系の新モンゴロイドで、この北方系の新モンゴロイドの中に、下戸の遺伝子を持った人がいたのではないか、というのが岩田氏の説である。
縄文人は、どんな酒を飲んでいたのか?

青森市の山内丸山遺跡から、ニワトコを中心とした果実の種子が圧縮されて残っている固まりが出土した。
人為的に果実を搾った後のカスを捨てたのではないか、と考えられ、発酵した果実や酒が好きなショウジョウバエの死体が同時に見つかったことから、縄文酒の物的証拠ではないか、と考えられた。
岩田一平『珍説・奇説の邪馬台国』講談社(0004)には、1998年に、国立歴史民俗博物館の辻誠一郎助教授(当時、古生態学)が、ニワトコの醸造実験に成功したことが記されている。

北陸地方は、古代において、高志(越)と呼ばれた。
高志国のセンターは新潟県の中越地方だったが、高志国と邪馬台国とはどういう関連性を持つか。
古田武彦氏が、「邪馬臺国」ではなく、「邪馬壹国」とすべきだと主張したことについては既に触れた(08年11月18日の項19日の項20日の項)。
「邪馬壹国」をどう発言するか?

ネイティブ新潟人は、「イ」と「エ」の区別がつかない、とネイティブ新潟人の1人である桐生さんは言う。
「邪馬壹国」は、ヤマイツ国であり、新潟人にとってはヤマエツ国ではないか。
10世紀の『和名抄』では、旧栃尾市の辺りは夜麻郡と記されている。
春秋戦国時代、越が呉を倒すが、楚に滅ぼされる。
越の難民は、ボートピープルとなって、各地に流亡した。
南に行った越人は、越南(ベトナム)人となり、北陸に流れ着いた越人は、夜麻越(ヤマエツ)人となった。

「魏志倭人伝」には、卑弥呼の跡を継いだ壱与が、魏に孔青大勾珠などを朝貢したとある。
孔青大勾珠とは何か?
ヒスイの勾玉ではなかったか、と考えられている。
ヒスイは、古代より珍重されてきた鉱石であるが、日本列島における産地は糸魚川付近に限られている。
フォッサマグナの北端であるが、プレートの巨大な圧力によって、岩石が熱や圧力によって変成し、希少岩石が生成するらしい。
三内丸山遺跡から出土した大珠も、糸魚川産のヒスイだった。
壱与は、糸魚川産のヒスイを魏に献上したのではないか。
とすれば、邪馬台国が北陸にあったとしても、不自然ではない。

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2008年12月16日 (火)

珍説・奇説の邪馬台国…①「ジャワ島」説(内田吟風)

岩田一平『珍説・奇説の邪馬台国』講談社(0004)で取り上げているトップバッターは、内田吟風の唱えた「ジャワ島」説である。
内田吟風は、明治40(1907)年生まれで、京都帝国大学史学科を卒業、神戸大学、佛教大学、龍谷大学の各教授を歴任し、神戸大学の名誉教授となっている。
「匈奴史」「北アジア史」「騎馬民族史」の研究家で、東洋学の権威として知られる。

「邪馬台国ジャワ島説」などというと、それこそトンデモ本かという気がする。
しかし、内田氏の主張は真面目なものである。
内田氏の論拠を、岩田氏の解説から引用すると、以下のようなものである。

先ずは、「郡より女王国に至る万二千余里」という距離感。
漢魏の1里は420mほどで、万二千余里だと5000kmあまりとなる。その距離だとスマトラ島やジャワ島、バリ島などのインドネシア辺りである。
また、不弥国から「南へ水行二十日」で投馬国に、さらに「南へ水行十日陸行一月」で邪馬台国に至る、とあるから、不弥国から南に1ヵ月は航行するのであり、不弥国が北九州だとすれば、邪馬台国は九州の範囲には収まらない。
内田氏は、古代中国人は、朝鮮半島から東南アジアの熱帯の島々までにいた海洋民族を「倭」と呼んでいたのだ、とする。
「倭」が、日本列島のことをさすようになったのは『隋書』以降のことである、というのである。

東晋の法顕という僧が著したインドへの留学を記した『仏国記』という書物がある。
法顕は、インドからの帰途、獅子国(スリランカ)から90日ほどかけて耶婆提(ヤバテイ)国に寄航した。
この耶婆提がジャワ島のことを指していたと考えられている。
内田氏は、耶婆提も邪馬台もサンスクリット語のYavadvipaの漢字音訳と推論した。

国語学者の大野晋氏が「日本語とタミル語の同祖説」を提唱したことがある。
タミルはスリランカ北部で、海路で9000kmも離れていることから、大野説に対しては、否定的な見解が多い。
しかし、古代人の交流の範囲は、われわれが漠然と考えるよりは、ずっと広範囲だったようだ。
例えば、法顕の乗った船は200人乗りという大型船だったらしい。
古代アジアの海洋民は、立派な船で航行していたのであり、その船に乗って交易活動をしていた「倭人」の商圏は、東南アジアから中国、朝鮮半島、日本列島に、そしてインドにつながっていた。
『魏志倭人伝」の一支国(壱岐島)の説明で、「南北に市糴す」という表現がある。
市糴とは交易のことであり、東南アジアの多島海では、今も「南北に市糴」してている人々がいる。

弥生時代の頃、東南アジアのフィリピンやベトナム、シャム湾あたりでは、稲・雑穀を栽培し、青銅器をつくり、甕棺で埋葬するサフィン文化が栄え、南インドでも同じ頃甕棺葬が広まったらしい。
そして、やはり同じころ、朝鮮半島南部や九州北部でも、甕棺葬が大流行している。
これらの流行が、東アジア~南インド沿岸の地域で同期して起きていることは、海の道でこれらの地域がつながっていたことを示していると考えられる。

内田氏の「邪馬臺・耶婆提・Yavadvipa考」という論文の結びの言葉として、次の文が引用されている。

邪馬台国に関する熱帯南洋記述を無視または等閑視して、邪馬台国を、無批判的に日本乃至日本内の一地に速断比定し、従ってまた更に中国史籍の邪馬台国記事を以て我国上古の皇統・神道・庶民生活の史料とし、さらにこれによって日本書紀等の所述を批判改変、否定するが如き従来の学説に対しては根本的な再検討が必要と信ずる。

どうしても、「倭」は日本列島のことであり、邪馬台国は日本列島内にあった、という先入観にとらわれて考え勝ちであるが、耳を傾けるべき言葉なのかも知れない。

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2008年12月15日 (月)

大腸の内視鏡検査体験

先日の定期健康診断で、潜血陽性反応だったので、再検査をしてきた。
健康診断には、今年から特定健康診断が加わり、いわゆるメタボリック・シンドローム(メタボ)に該当するか否かが判断されることになった。
メタボの要件は、肥満(腹囲とBMI(体重/身長)の2乗の値)と代謝異常に関する数値(高血圧、高脂血、高血糖)とで判断される。
私の父は早く脳溢血で亡くなっており、母も高血圧だったので、遺伝的に代謝系がウィークポイントである。
それも含め、メタボ該当を覚悟していたが、腹囲84.5cmということで、辛うじて非該当の判断となった。

日本人の疾病は、社会経済的状況によって変化してきており、最近は、悪性新生物(いわゆるガン)、心疾患、脳血管疾患が3大死因で、全体の60%程度を占めている。
これらの疾病は、かつては40~60歳位の働き盛りに多い疾病であることから「成人病」といわれていた。
現在は、食生活や運動などの生活習慣と密接に関連していることを重視し、「生活習慣病」と呼ばれるようになっている。
それと共に、成人病検査に相当する検査が特定健康診断と呼ばれることになり、医療保険者に対して、「特定健診:糖尿病等の生活習慣病に関する健康診査」および「特定保健指導:特定健診の結果により健康の保持に努める必要がある者に対する保健指導」の実施が義務づけられたわけである。

循環器系に関しては、以前から覚悟していたのであるが、消化器系に関しては、正直なところ余り心配していなかった。
まあ、油断していたということになるだろうか。
潜血陽性であったこと、主治医が消化器の専門医であったことから、一度は内視鏡検査をしておこうと判断した。
朝から大量の下剤(クエン酸?)を飲み、腸内を洗浄して準備をする。
下剤の効果はテキメンであり、腸内が洗浄されたことが排便の様子からもよく分かった。

検査前に、予備知識を得るためのビデオを見て、いよいよ検査である。
弛緩剤(?)の入った点滴をしながら、内視鏡を大腸内に入れていく。
もちろん、本人にはどんな様子かは分からないが、60cmとか90cmとか言う声が聞こえるので、想像はできる。
腸の皺を伸ばすために、空気を入れるためだろうが、お腹が張った感じがするし、腸が屈曲している部分では僅かではあるが痛みもある。

小1時間程度だったのだろうか。
覚醒剤(?)と止血剤を加えた点滴が終了するのを待つ。
2点滴終了後しばらく休息して、説明を受ける。
結果は、7mm程度と4mm程度の小さいポリープが2つあった。
7mmの方は切除し、4mmの方は焼いて処置したとのことであった。
最終的な判断は病理検査を待つしかないが、医師の心証的には大丈夫のような感じであった。
摘出した組織の写真である。

まあ、あと何年生きるのか分からないが、最近言われるように、単に長寿であるということではなく、健康長寿でなければならないことを実感した日であった。
そのためには、運動と栄養が2輪である。
頭では分かっているのであるが、生活習慣を確立するのはなかなか難しい。

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2008年12月14日 (日)

「珍説・奇説」とトンデモ本

岩田一平『珍説・奇説の邪馬台国』講談社(0004)にも、「邪馬台国論争」をめぐる何人かの論者が紹介されている。
「珍説・奇説の……」というタイトルからすると、いわゆるトンデモ説を紹介したもののように感じられるだろう。
実際に、「奇説珍説博物館」というサイトがあって、山本弘ト学会会長に関連した資料が集められている。
ちなみに、トンデモ本におけるトンデモという概念は、以下のように説明されている(WIKIPEDIA:08年11月27日最終更新)。

飛躍した論理で、論証もされていない仮説、考証のずさんなフィクションなどを含む。具体的には疑似科学やオカルトなどを含む。例えば、UFO、超能力、超常現象、ユダヤ陰謀論に関するもの。こうした背景には、と学会メンバーが自分たちの「観察対象」となる人たちを指して「トンデモさん」、そうした人たちの論理を「トンデモ説」と呼ぶなどこの言葉をそちらの意味に近い形で転用していることがある。

また、トンデモ本は、「ト学会」という会の活動と切り離せない。「ト学会」については、以下のように説明されている(08年11月11日最終更新)。

と学会(とがっかい)は、世間のトンデモ本やトンデモ物件を品評することを目的としている日本の会の一つである。当人達が学会を自称しているだけで、日本学術会議が認定した団体ではない。1992年に設立。

古代史関係では、かつて古田武彦氏の研究室の助手を務め、後に『東日流外三郡誌』の評価などをめぐって古田氏と対立することになった原田実氏が「ト学会」のメンバーとして活動している。
岩田氏の「珍説・奇説……」は、トンデモ説の紹介本ではない。
中にはトンデモに近いと思われる説もあるが、「珍説・奇説」は、むしろ「アイデアに富んだ」という意味で用いられていると理解すべきだろう。
実際に、「おわりに」において、「さまざまなアイデアが自由に論じられてきたことは、これはこれでよかったのではないか」と書いていることからも、そう理解すべきだろう。

そして、「なぜ邪馬台国が問題になるのか」に対しては、「日本国のルーツにかかわっているからだ」としている。
九州説と大和説(畿内説)に対しては、次のように解説している。

もし、九州に邪馬台国があったとすれば、三世紀には倭人の国はまだ、初期ヤマト王権に統合されていなかったと言える。諸国連合のひとつ、九州を中心としたそれが魏と外交関係を結んでいたと考えられる。倭国の中心が九州にあったとすれば、その後、中心は東のヤマトに移動(東遷)したということになる。
いっぽう、大和に邪馬台国があったとすれば、三世紀すでに倭人の国ではヤマトを中心に統一国家の歩みがはじまっていたと見られる。その縄張りは北部九州から近畿地方におよんでいたことになる。大和説をとれば、邪馬台国は初期ヤマト王権につながる可能性が高い。

岩田氏は、邪馬台国問題の面白さについて、次のように言う。

ヒロインがいて謎があるから、これをミステリーと言わずして何がミステリーであろうか。
加えて、「邪馬台国探し」には、冒険ゲームの趣がある。

「魏志倭人伝」という資料には限界があって、「魏志倭人伝」だけでは、邪馬台国問題は解決しない。
だから、その不完全なところを埋めるために、考古学、民俗学、古気象学、音韻学……などの諸学が動員されてきた。
邪馬台国問題は、学際思考を養うための教材でもあると言えるのではなかろうか。

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2008年12月13日 (土)

首相の漢字能力検定

恒例の「今年の漢字」が12日の漢字の日に発表された。
「変」である。
3 「今年の漢字」は、漢字能力検定協会が募集し、毎年、漢字の日に清水寺で発表され、森清範貫主が、見事な筆運びで、巨大な和紙に揮毫するのが風物詩になっている。

朝日新聞によれば、「変」の字は、国内の首相交代、オバマ次期大統領の「Change(変革)」、株価の暴落による経済の変動、食の安全に対する意識の変化、地球温暖化による環境変動の深刻化、スポーツ・科学分野での日本人の活躍による時代の変化、などの意味合いが込められており、良くも悪くも変化の多かった1年を象徴する、ということだ。
2位以下は、「金」「落」「食」「乱」「高」……と続くが、「変」が圧倒的な投票数を得た。
ちなみに、昨年は「偽」だった(07年12月13日の項)。

ところで、麻生首相の漢字力について、何かと話題に事欠かない。
WIKIPEDIAで麻生太郎を検索すると、以下のような事例が挙げられている(08年12月13日最終更新)。

踏襲:ふしゅう/頻繁:はんざつ/破綻:はじょう/順風満帆:じゅんぷうまんぽ/低迷:ていまい/詳細:ようさい/未曾有:みぞうゆう/焦眉:しゅうび/物見遊山:ものみゆうざん/有無:ゆうむ/措置:しょち/前場:まえば/詰めて:つめめて/怪我:かいが

まあ、首相としての要件として、漢字能力検定の準2級(高校在学程度)以上でなければならない、などと言う気はないが、一国の最高責任者の評価基準として、国語力は重要なファクターではあるだろうと思う。
首相のお膝元の福岡市内の小学校では、漢字の読めない子に対して、「太郎ちゃん」という呼び方が流行っているという。
由々しき事態と考えるべきではなかろうか。

ところが、産経新聞の「断」というコラム(08年12月13日)で、富岡幸一郎という文芸評論家が、マスコミが「漫画ばかり読んでいて漢字が読めないだのと、箸にも棒にもかからぬ瑣事を針小棒大に“報道”しているのだから、判断の基準は何処にあるのか」と声高にマスコミ批判をしている。
「断」というコラムは、かつての「斜断機」という名物コラムの後継欄であろうが、匿名が記名に変わって、コラムの切れ味が低下しているように思う。
富岡幸一郎をWIKIPEDIAで検索すると、以下のように紹介されている(08年10月19日最終更新)。

富岡 幸一郎(とみおか こういちろう、1957年11月29日 - )は東京都出身の文芸評論家。関東学院大学門学部比較文化学科教授。キリスト教徒。父親は税務会計学・租税法の第一人者である中央大学名誉教授の富岡幸雄。
中央大学附属高等学校、中央大学文学部仏文科卒業。大学在学中の1979年に論文『意識の暗室 埴谷雄高と三島由紀夫』で第22回群像新人文学賞評論部門優秀作を受賞。

首相が、「漫画ばかり読んでいて漢字が読めない」としたら、それは箸にも棒にもかからぬ瑣事であろうか。
それを報道したり、その報道によって支持率が低下していることを、富岡は、「衆愚政治も極まれりの感がする」と書いている。
衆愚?
確かに、TVのバラエティ番組などを見ていると、衆愚という感じがするシーンがあることは否定しない。
しかし、衆愚というならば、漫画ばかり読んでいる人たちに対して用いるべきではないだろうか。
首相が漢字が読めないことを批判する人々を衆愚と表現したら、首相自身に対してはどんな評言を用いるつもりなのだろうか。

「衆愚政治も極まれり」と大衆を批判する富岡幸一郎は、自分を何様のつもりでいるのだろうか。
産経新聞は、国語を大事にする姿勢を持った新聞のはずである。
タカ派のような言い振りが産経新聞が起用している理由なのだろうが、富岡のように国語力を軽視する「文芸評論家」は、「断」欄から外したら如何だろうか。

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2008年12月12日 (金)

邪馬台国に憑かれた人…⑨石野博信と「纏向遺跡」論

渡辺一衛『邪馬台国に憑かれた人たち』学陽書房(9710)のラストバッターは、纏向遺跡の発掘に携わった橿原考古学研究所の石野博信である。
石野博信は、『大和・纒向遺跡』学生社(0810)の著者紹介欄によれば、以下のような略歴である。

1933年、宮城県に生まれる。関西学院大学文学部卒業。関西大学大学院修了後、兵庫県教育委員会、奈良県立橿原考古学研究所部長、同研究所副所長兼附属博物館々長を経て、徳島文理大学文学部教授・兵庫県立考古博物館々長・奈良県香芝市二上山博物館々長。

橿原考古学研究所の石野らは、1971年に奈良県桜井市の纏向遺跡の発掘を始めた。
間もなく、纏向石塚古墳が発見され、多量の土器が出土した。
纏向石塚古墳は、全長約90mで、弥生時代から古墳時代に移行する発生期の古墳と位置づけられる。
つまり、畿内の弥生時代から古墳時代にかけての土器の編年の年代観の基準を提供する遺跡である。
弥生時代後期から古墳時代前期への時期区分は、纏向の土器を分類した纏向n期という表示をされ、他地域での古墳等との比較検証がなされている。

石塚古墳の近くに、最初の定型化した古墳とされる箸墓古墳がある。
石野らの研究によって、箸墓は、それまで3世紀末の築造と考えられていたが、3世紀半ばに引き上げられることになった。
箸墓は、卑弥呼の墓ではないかとされている古墳であり、3世紀半ばに繰り上がると、248年と推定される卑弥呼の墓であるとして、矛盾を生じないことになる。

1996年4月、大阪府の池上・曽根遺跡の建物跡のヒノキの柱材の伐採年が、年輪年代法によって、紀元前52年と推定された。
同時に出土した土器は弥生中期のものであり、土器編年がそれまで考えられていたものより、50~100年さかのぼるという見方が登場した。
年代観は、さまざまな視点を総合して判断されるものなので、未だ最終的に一致した見解に至っているとは言えないようであるが、畿内の年代観は、次第に繰り上げられる方向にある。

年代観の変化と共に、高地性集落(08年11月29日の項30日の項)の出現時期に関しても見直しが進んでいる。
石野は、全国の高地性集落の出現時期を3期に分けて捉えた。
当初、石野は次のように考えていた。
第1期:倭国大乱
第2期:3世紀の畿内の混乱
第3期:大和朝廷の諸国征服

畿内の土器編年が1世紀近く繰り上げられることによって、高地性集落は、すべて2世紀までの弥生時代のものであった、という見方になってきた。
そうすると、3世紀の邪馬台国と狗奴国との争い、4世紀の大和朝廷の四道将軍の派遣などは、弥生時代の戦乱に比べれば、ずっと穏やかなものだった、という理解になってくる。

纏向遺跡は、それまで何もなかった場所に巨大な集落が出現したことを示している。
この事実をどう理解するか?
石野は、弥生終末期の唐古・鍵遺跡の住民が移転したものとみたが、石野と同じ橿原考古学研究所の寺沢薫は、外部からの強権的な征服を想定している。
北九州を主体とする西からの圧力である。

纏向遺跡の性格はどのようなものであったのか?
最初は、箸墓の建設のために全国から集められた人々の飯場のようなものではないか、と考えられていた。
しかし、運河跡や宮殿跡などが発見されたことにより、日本最初の都市と考えるべきだというように変わってきている。
それと共に、邪馬台国の女王・卑弥呼の都に相応しいという見方が強まってもいる。
箸墓の築造年代については議論が残るところであるが、渡辺は、「やはり箸墓が卑弥呼の墓であると考えるのが妥当であろう」としている。
しかし、纏向遺跡が卑弥呼の都であったのか、箸墓が卑弥呼の墓なのか、畿内説の妥当性については、考古学的にもまだまだ多くの検討課題が残っていると思われるし、何より文献解釈として妥当か否かが問われなければならないのは当然である。

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2008年12月11日 (木)

邪馬台国に憑かれた人…⑧大和岩雄と「偽書」論

大和岩雄のWIKIPEDIA紹介記事を見てみよう。

大和 岩雄おおわ いわお1928年 - )は長野県出身の編集者、出版事業家、古代史研究家。大和書房(だいわしょぼう)および青春出版社の創業者。
長野県上伊那郡高遠町(現在の伊那市)にて、江戸時代から続く呉服商の家庭に生まれる。生家が没落したため、高等小学校卒業後、名古屋市の三菱重工業に旋盤工として就職する予定であったが、1942年、官費で学べる長野師範学校(信州大学教育学部)に入学し、1948年に卒業すると長野県下伊那郡大鹿村立鹿塩中学校に赴任、国語と音楽を教えていた。1948年12月に退職し、長野市に移住。ここで山本茂美主宰の人生誌「葦」に参加。第4号以降、同誌の編集長となる。営業部員に小澤和一がいた。
……
1960年、社の経営権を小澤に譲渡。創刊まもない「青春の手帖」誌と共に新たな出版社を設立。1963年7月、大和書房と改名。1964年、不治の病で死を間近にした女子大生とその恋人との往復書簡集「愛と死をみつめて」を出してミリオンセラーとなる。
……

大和書房といえば、古代史ファンには、「東アジアの古代文化」という雑誌の版元として知られている。
このような地道な出版活動を長年続けているのも、大和岩雄自身が本格的な古代史研究家であるからであろう。
また、私には、数多くの吉本隆明の著作の版元としての認識もあった。
しかし、『愛と死をみつめて』の出版社だったことはすっかり忘却していた。
この純愛書簡集が出たのは、大学に入ってまだ間もない頃であった。
純真素朴な状態だったから、素直に感動した記憶が残っている。
吉永小百合と浜田光夫のコンビで映画化もされ、大ベストセラーになった。

それはともかく、渡辺一衛『邪馬台国に憑かれた人たち』学陽書房(9710)では、古代史研究家としての大和を、『古事記』偽書説の検証者として取り上げている。
偽書とは何だろうか?
WIKIPEDIA(08年11月24日最終更新)の解説は以下の通りである。

偽書(ぎしょ)とは、製作者や製作時期などの由来が偽られている文書・書物のこと。主として歴史学において(つまりはその文献の史的側面が問題とされる場合に)用いられる語である。単に内容に虚偽を含むだけの文書は偽書と呼ばれることはない。

『古事記』は、本居宣長以来、最重要文献として位置づけられてきた。
『古事記』の成立は、序文によれば、和銅5(712)年であり、『日本書紀』はその8年後の養老4(720)に成っているから、『古事記』の方が『日本書紀』に先行して完成したことになる。
内容的には、神代篇についてみると、『日本書紀』には一書という形で多くの伝承が併記されているが、『古事記』は、それらを適当に編集したような内容である。
表記についてみると、『古事記』の方が音表文字の数が少なく統一されているのに対し、『日本書紀』は1つの音にいろいろな漢字が充てられている。

そこで、『古事記』は、平安朝初期に作られたものではないか、という説が登場する。
既に触れた鳥越憲三郎などである(08年12月3日の項)。
この立場では、太安万侶が書いたとされている序文は偽作だということになる。
つまり、上記の定義のうちの、制作者や製作時期に疑問符が付けられたということである。
しかし、『古事記』の字音仮名の使い方は、上代特殊仮名遣い(08年2月9日の項2月10日の項4月18日の項等)における甲類・乙類の違いがきちんと守られていることも分かっている。
とすれば、奈良時代の作であると考えるのが順当ではなかろうか。

大和は、『日本古代試論』(1974)などで、『古事記』偽書説について検討し、以下のような結論を導出している。
『古事記』が和銅5年に成立したとする序文は後世の偽作で、現在のようなかたちにまとめられたのは平安時代初期であるが、現存の『古事記』以前に「原古事記」ともいうべき異本があった。
それが、平安時代初期に、多氏の手によって現在のようにまとめられた。
言い換えれば、本文の内容は、古い伝承に基づいたもとであり、『日本書紀』などをもとにして創作されたものではない、ということである。

『古事記』はともかくとして、偽書か否かで見解が分かれている書に、『先代旧事本紀(旧事紀)』がある。
渡辺によれば、『先代旧事本紀』は、江戸時代までは最古の史書として位置づけられていたが、『大日本史』を編纂した徳川光圀にはじまる水戸学と、本居宣長らの国学によってである、としている。
『先代旧事本紀』については、偽書説が多数派のようであるが、重要な古典として捉えている学者もいる。

古田武彦氏と安本美典氏の間で、偽書か否かが激しく争われた『東日流外三郡誌』は、客観的にみると安本氏の「偽書説」が優位であろうが、それにしても不可解と思われることがある。
偽書の由来や構成などに、歴史の真実の一部が埋め込まれている、というようなことも考えられるのではなかろうか。

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2008年12月10日 (水)

「定額給付金」をめぐって

麻生内閣の支持率が急降下しているらしい。
例えば、読売新聞の12月調査では、20.9%の支持率で、前月に比べほぼ半分である。
読売といえば、どちらかと言えば、自民党あるいは保守勢力に好意的な立場とみていいだろう。
世論調査に、そういう社のスタンスが反映するものかどうか、社説などとの関係もあるから、無関係ということもないだろうと思う。
それにしても、この水準は、政権維持を危うくする数字である。
いよいよ「自民党の終わりの始まり」だろうか?
「自民党をぶっ壊す」と言った小泉純一郎氏の発言は、時限爆弾だったということだろうか?
それにしても、いち早く引退表明してしまった小泉氏の風見鶏ぶりは、さすが、と評価すべきなのだろうか?

さらに言えば、私のように、最初から全く支持していなかった人間にとっては、「期待通りの内閣」ということになるのだろうか?
不支持が増加している要因として、読売新聞は以下を挙げている。
①追加景気対策を盛り込む第2次補正予算案の延長国会への提出を見送ったこと
②定額給付金の所得制限をめぐる首相発言の揺らぎ。約2兆円の巨費を投じる政策で、閣内不統一も露呈した
③「医師は社会的常識が欠落している人が多い」といった首相の失言や、漢字の誤読

③の要因に関しては、「医師が社会的常識が欠落していることは、患者の常識」というような意見もあり、あながち見当外れとも言えないようである。
しかし、一国の最高責任者としては、当然、もう少しTPOをわきまえて発言すべきであろう。
漢字の誤読については、マンガ愛好家を自認する総理大臣の、国語力を露呈したものと考えざるを得ない。
麻生氏は、「新聞は読まない」と語っているようである。
以下のようなブログ記事がある。

9月30日付の「総務大臣麻生太郎の あっ、そうだろう!」で
麻生は、「私は、新聞はできるだけ見るだけにして読まないようにしています」と記している。
理由は、「新聞を読むと情勢判断を誤るから」。

http://ameblo.jp/seijika/entry-10005274669.html

「新聞を見るだけにして読まない」というのは、マンガ愛好家らしい発言ではある。
しかし、実は「読めない」のではないか、という人すらいる。
一時期、「空気読めない」の表記として「KY」が流行ったことがある(08年2月14日の項2月17日の項)
最近は、「KY=漢字読めない」ということらしい。

あるいは、新聞記事に情勢判断が左右されるとしたら、その見識を疑うべきということではないだろうか。
かつて、産経新聞が「新聞を疑え」と逆説的なコピーを掲げたことがある。
新聞記事を批判的に読むべきなのは、言うまでもないことだと思う。
そして、産経新聞は、まさに批判的に読む訓練をするのに格好の材料である。

産経新聞は、オピニオンが明瞭なメディアである。
多くの場合、朝日新聞とは対蹠的な見解が載せられ、自ら比較検証記事も掲載している。
朝日の見解と産経の見解とを対比してみれば、「ものの見方・考え方」の訓練になると思う。
新聞は、判断を得る材料ではなく、判断をするための材料を得る媒体である。
麻生氏は、新聞を読まないで、マンガを読んで判断するというのだろうか?
だとしたら、トンチンカンな(としか思えない)発言も、むべなるかな、というものであろう。

②の定額給付金については、そもそも、政策論として如何なものかと思う。
本質的には選挙対策としてのバラマキというものなのだろうが、世論調査でも、施策として評価しない、とする人の方が、2/3以上に上っている。
http://vote.nifty.com/individual/4891/19924/index.html
これでは、選挙対策としても逆効果というものだろう。

しかし、2兆円というのはとてつもない巨費である。
平均的な世帯は、1人12,000円程度の給付金になるという。
給付金といっても、もともとは自分たちの納税したお金だから、何となく「給付する」と言われるのも釈然としないが、多くの労力をかけて集めた税金を、また労力をかけて配分しようとすること自体が不可解である。
最初から、その分徴税しなければ良かったのではないか、ということにならないか。
しかも、所得制限を設けるか否かでムダな時間を費やした。
最終的には市町村の判断に委ねるということのようで、そのガイドラインが、年収1,500万円らしい。

年収1,500万円の人の割合がどの位なのか正確には分からないが、その区分けをして給付するための費用が800億円にもなるらしい。
http://ohyama.way-nifty.com/days/2008/11/post-e4d4.html
まったくもって何をしようとしているのか、という気がするのは私だけではないだろう。
同じ2兆円を使うのならば、もっと有効な方策があるはずである。
例えば、「医師・作家。1948年6月28日 東京生まれ。1974年、東京医科歯科大学医学部卒業。」という自己紹介文のある鎌田實さんのブログには、以下のように書かれている。

そもそも、1兆5000億円を医療に、5000億円を介護・福祉に使い、2兆円を有意義に使えば、医療崩壊も介護崩壊も防ぐことができるはずだ。
そうすれば、2200億円の社会保障費の抑制は継続していいのだ。
財政再建の旗を振り下ろし、2兆円を無駄にバラまくのと、財政再建を継続しながら、緊急経済対策として2兆円を安心の国づくりのために使うのとでは、大きな違いだ。
http://kamata-minoru.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-73d0.html

「医師の中にも社会常識豊かな人がいる」などと言うと叱られてしまうだろうけど、おおいに傾聴すべき意見ではないだろうか。

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2008年12月 9日 (火)

「レジ袋」の有料化について

私の住んでいる地域でも、スーパーのいわゆる「レジ袋」の有料化が進んでいる。
どうやら地方自治体と、環境・省エネというようなことで協定を結び、それに基づいて実施しているらしい。
というのは、同じ系列のスーパーでも、市町によって、現時点で無料の店もあれば既に有料化している店もあるからである。
買い物袋を持参せず、「レジ袋」が必要だと言うと、1枚5円で販売する。
店内での案内放送で、「地球環境……」とか「省エネ……」とか「温暖化防止……」というようなことがしきりに言われている。
しかし、「レジ袋」の有料化が、果たして地球を救うことになるのだろうか?
そんなことはあるまい、と思う。

「レジ袋」を有料化するということは、有料化によって、使用を抑制するという効果を期待したものだろう。
今まで無料だったものが、有料になれば、一般には使用量は減少するはずだ。
需要と供給は価格の関数である、というのがミクロ経済学の出発点である。
「レジ袋」もこの経済原則によって、使用量は減ることになるだろう。
「レジ袋」を、買い物を持って帰る時にしか使わない人ばかりであれば、社会全体で省資源化を推進したということになるはずである。
しかし、「レジ袋」の使用量の減少によって、他の何か(例えばゴミ袋、あるいはまとめ買いするためのガソリン)の使用量が増えるかも知れない。いわゆる代替効果である。
総体として、環境への負荷が小さくなるかどうかは、もっと吟味が必要ではないだろうか。

実際、我が家では、「レジ袋」は、必ず何かに再利用している。
「レジ袋」は、軽くてかさばらず、水に強く柔軟で、何でも入れやすい。とても便利な収納用品である。
だからこそ、暮らしの中に定着してきたといえるだろう。
少数のサンプルではあるが、まわりの人に聞いても、「レジ袋」をそのまま捨ててしまうという人は皆無であった。
利用法としては、「買い物袋として再利用する」「生ゴミを入れる」「犬のフンを始末する」「ゴミ箱の内袋にする」「濡れた折り畳み傘を入れる」などがある。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20080722/165960/?P=4

多くの自治体では、指定の「ゴミ袋」ある。
だから、ゴミを出す時には、「ゴミ袋」に入れて、所定の場所に置く。つまり、「レジ袋」を直接ゴミ出しに使うわけではない。
しかし、家の中で発生する雑多なゴミ、特に台所から出てくる生ゴミは、一度「レジ袋」にいれ、ゴミを出す日に「ゴミ袋」に入れて出している。

仮に、今後「レジ袋」が手に入らず、「ゴミ袋」だけであったら、結局は「ゴミ袋」を現在の「レジ袋」の代用として使うことになるだろう。
つまり、我が家においては、石油を原料とするポリエチレン(?)の袋の使用量は、殆ど変わらないということになると思われる。
そもそも、「レジ袋」に使用する石油資源の量など、世の中全体の石油消費量からすれば、ごく微少であろう。
それを減らしたからと言って、地球温暖化防止への寄与度など、ほとんど無視し得る程度だと思われる。
要は、精神運動なのである。
http://openblog.meblog.biz/article/1312663.html
どうも、エコとか環境という言葉には、うさん臭さがつきまとっている。

スーパーなどで使う自分用の買い物袋を「エコバッグ」というらしい。
環境への負荷を減らしたり、省資源を志すことは重要だと思う。
そういうライフスタイルを実践しようとも思っている。
しかし、現在の「レジ袋」有料化の動きには、違和感を覚える。
あたかも「レジ袋」を無償で提供しないことが「正義」であり、買い物袋を持ってこない輩は、省資源意識の乏しい蒙昧な人間である、というような雰囲気である。
もちろん、蒙昧であることも否定はしないが、こういう「空気」によって、世論が動いていくことに、大きな危惧を感じるのである。

故山本七平氏の『「空気」の研究 』文春文庫(8310)を紹介したことがある(08年4月28日の項)。

われわれが「空気」に順応して判断し決断しているのであって、総合された客観情勢の論理的検討の下に判断を下して決断しているのでないことを示している。だが通常この基準は口にされない。それは当然であり、論理の積み重ねで説明することができないから「空気」と呼ばれているのだから。従ってわれわれは常に、論理的判断の基準と空気的判断の基準という、一種の二重基準(ダブルスタンダード)のもとに生きているわけである。そしてわれわれが通常口にするのは論理的判断の基準だが、本当の決断の基準となっているのは、「空気が許さない」という空気的判断の基準である。

「レジ袋」有料化は善である、とする「空気」があることは誰もが感じるであろう。
それは必ずしも論理的判断を伴っているわけではない。
私は、「空気」が論理的判断を覆ってしまうような状況を「否」とするものである。
「レジ袋」の有料化にそういう「空気」の危惧を感じるのは私だけなのであろうか?

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2008年12月 8日 (月)

丸岡秀子さんの「ひとすじの道」

7日(日)に、丸岡秀子さんの記録映画『丸岡秀子・ひとすじの道』を観た。
みしま女性史サークルという会が主催で、三島市とJA三島函南が共催団体である。
三島市は、「男女共同参画推進講座」として実施しているのだが、なぜJAが共催団体なのか、映画を観るまで疑問だったのだが、丸岡さんが、JAの前身の産業組合中央会という組織で働いていたことがある、ということだった。

みしま女性史サークルは、去年は『ベアテの贈りもの』という映画を上映した(07年12月2日の項)。
戦後史の一面を知ることができ、誘っていただいたことを有り難いと思ったが、どうも、「男女共同参画推進講座」というものにはいささか違和感がある。
どこの市町村にも、「男女共同参画推進室」のような組織があって、同じような「講座」を実施しているらしい。
私も趣旨に反対ということではないが、「男女共同参画推進」という呼称に馴染めない。
そして、会場に来ている人の95%ほどが中高年の女性であることも、如何なものかと思う。
趣旨的には、むしろ男性だとか、若い女性などが「講座」の対象者ではないだろうか。

女性史サークルが主催しているのであるから、男性の参会者が少ないのは当然かも知れない。
歴史に関心を深めるのは、ある程度年を重ねてからのことが多いともいえよう。
だから、女性史というようなジャンルに集う人は、必然的に中高年女性が多数派になってしまうだろう。
結果的に、主催者からすれば、想定していた観客層ということだと思う。
しかし、市の事業としてみたらどうだろうか。
おそらくは、このような「講座」は、啓蒙活動として行われているのだと思う。
配布されたアンケート用紙には、「この講座で男女共同参画の趣旨が理解できましたか」というようなQがあったことからも啓蒙が狙いであるといっていいだろう。
しかし、「男女共同参画」が、講座によって推進されるものなのかどうか。

私自身は、映画を観に行くという意識はあったが、講座を受講するという意識はほとんどなかった。
去年も同じ体験をしているのにも拘わらず、である。
まあ、結果的に、映画を観て、男女共同参画に理解が深まればいい、とも言えるのだろうが。

違和感を感じることの1つは、とかくこういう事業においては「性差」を無くすことが善だという値観観が前提になっているような気がすることである。
私は、事実としての「性差」は存在していると考える。
それを前提として、「性差」が不合理な差別に繋がることをどうして解消するか、が課題なのではないかと思う。
滑稽としか言いようのない事例が、実際に発生している。
最初聞いたときは、ジョークだと思ったのだが、「トイレの表示を、男は青、女は赤とするのは、おかしい」という指摘から、トイレの表示の色を、男女同一色にした自治体や機関があったということだ。
結果は?
もちろん、混乱を招いただけで、結局は元の青と赤に戻したという。
バカな主張をする人もどうかとは思うが、それを受け入れてしまう担当者の判断力を疑わざるを得ない。

話を丸岡さんに戻すと、丸岡秀子という名前は知っていたが、その活動や生涯を詳しく知っていたわけではなかった。
映画の前に、折井美耶子さんという人が講演した。折井さんの父は、丸岡さんと同じ職場に勤務していたことがあるらしい。親子2代の縁だという。
折井さんの話で、昭和12(1937)年に刊行された丸岡さんの『日本農村婦人問題』という著書を知った。
もちろん、私の生まれる前のことである。

今日は、いわゆる「太平洋戦争」開戦の日であるが、それが昭和16(1941)年だから、戦争の前である。
敗戦によって、日本の制度や価値意識は大きく転換したが、昭和12年といえば、現代とはまったく様相が異なっていただろう。
当時、婦人問題といえば、女工哀史などで知られる勤労婦人のことが中心だった。
丸岡さんは、信州佐久の農村の出身だったから、農村婦人が受忍せざるを得なかった労苦を目の当たりにして育った。
勤労婦人の給源は農村にあり、勤労婦人の問題と農村婦人の問題は一体的に捉えなければならない、というのが丸岡さんの問題意識で、その視点から書かれた書だということである。

丸岡さんは、奈良女子高等師範学校(現:奈良女子大学)を卒業し、三重県の亀山女子師範学校(現:三重大学)に2年間在職した後上京する。
そこで、大原社会問題研究所員だった丸岡重堯氏と結婚するが、長女出産後に重堯氏が急逝してしまう。
生活を支える必要もあって、産業組合中央会(現:JA)に勤務した。
産業組合中央会の発行していた「家の光」という雑誌がある。
一時期は、最大の発行部数を誇っていた雑誌で、若き日の五木寛之氏などもライターとして、生計を立てていたはずである。
調査部にいた丸岡さんは、農村婦人の実態を、全国の農村を訪ね歩いて、「家の光」に掲載した。
それに着目して、出版をすすめたのが、田村俊子さんだった。「田村俊子賞」で知られる作家である。

丸岡さんの時代に、女子高等師範に入学するというのは、抜群の知的能力だったのだろう。
丸岡さんの生家は大きな造り酒屋で、現在も継続営業中で、秀子にちなんで、「菊秀」という銘柄の酒が造られているという。
生家の姓は井出という。
映画で初めて知ったのだが、政治家の井出一太郎や、直木賞・大仏次郎賞などを受賞した作家の井出孫六などは、実弟である。
政治的な意識や文筆のDNAというようなことがあるのだろうと思う。

余談になるが、開戦の日に関連して、「太平洋戦争」という呼称について、私見を記しておきたい。
私たちの世代は、子供の頃から、「大東亜戦争」ではなく「太平洋戦争」と呼ぶのが「正しい」と教えられてきた。
67年前の今日、つまり昭和16(1941)年午前2時(日本時間)に、日本陸軍はマレー北部に上陸し、午前3時19分に日本海軍はハワイの真珠湾攻撃を開始した。
とかく真珠湾攻撃だけが取り上げられがちで、「太平洋戦争」という名称も、そういう意識の一面ではないかと思うが、マレー上陸作戦が同時的に行われたのであって、アジアでの戦争という視点を軽視してはならないのではなかろうか。
「大東亜戦争」という呼称が、日本政府が正式に決定した戦争の名前であって、それが改訂された事実はない、と主張する人もいる。
しかし、「大東亜戦争」という呼び方には、戦争遂行者の価値観が染み付いていることも否定できないだろう。
太平洋における、あるいは太平洋を挟んでの戦争であると同時に、東アジアを戦場とし、東アジアの諸国に多大な被害を発生させたことを意識するために、「東亜・太平洋戦争」という名称がより適切ではないか、と思う。

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2008年12月 7日 (日)

加藤周一さんを悼む/追悼(4)

12月5日、加藤周一さんが亡くなった。89歳だった。
例によって、加藤さんをWIKIPEDIAで検索してみよう。

加藤 周一かとう しゅういち、1919年9月19日 -2008年12月5日)は評論家である。血液型はO型。医学博士。専門は血液学。
上智大学教授、エール大学講師、ブラウン大学講師、ベルリン自由大学、ブリティッシュ・コロンビア大学教授、立命大学国際関係学部客員教授、立命館大学国際平和ミュージアム館長を歴任。
東京府豊多摩郡渋谷町金王町(現在の東京都渋谷区澁谷)出身。父は埼玉県の地主の次男で第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]を経て東京帝国大学医学部に青山胤通に師事した後、医院を開業した。渋谷町立常盤松尋常小学校(現在の渋谷区立常盤松小学校)から旧制府立一中(現在の都立日比谷高校)、旧制第一高等学校を経て1943年に東京帝国大学医学部卒業。学生時代から文学に関心を寄せ在学中に中村真一郎・福永武彦らと「マチネ・ポエティク」を結成し、その一員として韻律を持った日本語詩を発表、他に文学に関する評論、小説を執筆。新定型詩運動を進める。
終戦直後、日米「原子爆弾影響合同調査団」の一員として被爆の実態調査のために広島に赴き原爆の被害を実際に見聞している。
1947年、中村真一郎・福永武彦との共著『一九四六・文学的考察』を発表し注目される。また同年、『近代文学』の同人となる。1951年からは医学留学生としてフランスに渡り医学研究に従事する一方で、日本の雑誌や新聞に文明批評や文芸評論を発表。帰国後にマルクス主義的唯物史観の立場から「日本文化の雑種性」などの評論を発表し、1956年にはそれらの成果を『雑種文化』にまとめて刊行した。
1960年、カナダのブリティッシュ・コロンビア大学に招聘され日本の古典の講義をおこなった。これは1975年に、『日本文学史序説』としてまとめられている。以後、国内外の大学で教鞭をとりながら執筆活動を続けている。

典型的な秀才だといっていいだろう。
原爆調査団の一員に加わったり、医学留学生としてフランスに行ったり、ということからすれば、医学者としても優れた存在だったと認められていることが分かる。
しかし、現在、加藤さんを、医学の徒として評価する人は殆どいないのではないか。
多くの人は、文芸評論家として、そして護憲論者(「九条の会」)として、評価しているのではないかと思う。

昨日、事実を公平にみるためには、幅広い視野と柔軟な思考が必要で、それを担保するのが教養ではないか、と書いたばかりである。
この場合の「教養」というのは、加藤さんのような存在をイメージしていた。
最近は、「知識人」という言葉は、必ずしも尊敬すべき対象として使われていないようである。
しかし、私は、加藤さんのような人こそ、畏敬すべき真の知識人なのだと思う。

それは何も外国の大学で教壇に立った、というようなことではない。
記憶を辿ると、加藤さんの文章に自覚的に接したのは、筑摩書房から出ていた雑誌「展望」に掲載された『詩仙堂志』ではないかと思う。
「著作集」の初出欄を見ると、1964年11月号とある。
石川丈山について論じた文章で、後に一休宗純を論じた『狂雲森春雨』と富永仲基を論じた『仲基後語』と併せて『三題噺』として出版された。
『詩仙堂志』を読んだ時の印象は、余り定かではないが、何となくペダンティックだなあ、というようなことだったのではないだろうか。

加藤さんが社会的にデビューしたのは、上記の履歴にあるように、中村真一郎・福永武彦との共著『一九四六・文学的考察』だろう。
無名だった加藤さんらの「マチネ・ポエティク」に活動の場を提供したのが、伝説的な雑誌「世代」の伝説的な編集長だった遠藤麟一朗だった(08年5月28日の項)。
まさに慧眼の編集長だった。

私が加藤さんのファンになったのは『羊の歌―わが回想』岩波新書(6808)以来である。
『羊の歌』は、最初、「朝日ジャーナル」に連載された。
「朝日ジャーナル」は、私たちの世代にとっては、思い出の深い週刊誌だった。
下村満子さんが編集長だった時代があり(1990~1992年)、何かの研究会の折にご一緒した下村さんに、「朝日ジャーナルには胸がキュンとします」と話したら、「良く分かる」というような答えがあった。
先ごろ亡くなった筑紫哲也氏が編集長だった時代もある。

一時期、『羊の歌』は、私の愛読書ともいうべき存在だった。
それまで、ロジカルな批評家という印象の強かった加藤さんが、実際は「情」の人でもあることを知ったのだった。
もちろん、文芸の世界に生きている人だから、「情」に通じているのは当然ともいえる。
しかし、「理」と「情」とが高いレベルで共存できる人はそれほど多くはないだろう。
加藤さんは、まさにその稀有な事例ではないかと思う。
世の中には、二律背反のように捉えられる事象がある。
「理」と「情」もその一種だろう。
「理系」とか「文系」という分け方もある。
しかし、加藤周一という存在は、そのような区分けが、いかに本質的なものとはいえないか、ということを身を以て示してきた。
私にとっては、憧れのロールモデルである。

『羊の歌』に、次のような一節がある。

私はしばしば京都へ行った。私は彼女を愛していると思っていた。あるいは、愛していると思うことと、愛していることとは、つまるところ同じことだと思っていた。そして「愛している」という言葉に意味があるとすれば、それは相手のために私が何をすることができるのか、そのことの量に応じてだろうと考えていたのである。

「愛する」というような、およそ分析の対象の外にあるような事象についても、分析的に迫ろうとする姿勢が窺えるのではないかと思う。
特に、量によって測ろうというところは、自然科学に馴染んだ人の発想ではないかという気がした。

文学藝術についていえば、昔芥川龍之介は、『人生は一行のボードレールにも若かず』といったことがある。私はその説に全く反対である。しかし一行のボードレールも知らずに過ごす人生は、さぞ空しかろう、と私は考えていたし、今でもそう考える。

確かにその通りではないだろうか。
もちろん、必ずしもボードレールでなければならないということではないだろう。ボードレールは、ある種の人間の精神のあり方の象徴だと思う。
そして、ボードレールの読み方あるいはそこから何を汲み取るかは、人によりそれぞれだろう。
また、ボードレールを知ったことが、その人を幸せにする保証など何もない。
にも拘わらず、人はボードレールを求めてしまうのだと思う。

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2008年12月 6日 (土)

邪馬台国に憑かれた人…⑦金錫亭と「古代朝日関係」論

「地政学的に」というべきなのか、古代より朝鮮半島と日本列島とは深い係わりをもってきた。
このブログでも、その断片について、何回か記してきた(大化改新と朝鮮半島の動向藤井游惟氏の倭王朝加羅渡来説大和政権の朝鮮半島進出行動天皇家のルーツとしての「騎馬民族征服説」伽耶とはどういう国だったのか「任那日本府」問題任那史観古代韓日交渉史金達寿氏の内なる皇国史観伽耶・倭国連動論韓神と紀元節と古代史)。

渡辺一衛『邪馬台国に憑かれた人たち』学陽書房(9710)では、古代における朝鮮半島と日本列島との関係を、金錫亭『古代朝日関係史―大和政権と任那』勁草書房(6910)を中心に考察している。
金錫亭は、記紀をベースとして捉えられてきた日本古代史を、朝鮮半島の側から見直したもので、金達寿や李進熙などの在日朝鮮人に対して、大きな刺激を与えた。

金錫亭の基本的な認識の枠組みは、古代の日本は、高句麗・百済・新羅の三国の移住民により、3つに分かれた植民地だったというものである。
今では、弥生時代以来、日本列島が、渡来人に大きな影響を受けてきたことは当然のこととされているが、1970年頃においては、かなり衝撃的であったようである。
稲作や金属器などが、単に文明や文化として伝わるということは考えられず、それを担う人が渡来したことは、当たり前のことである。
その渡来人とそれまでの縄文人とが、どういう関係にあったのか?
渡辺は、次のように述べる。

少なくとも日本列島の近畿以西は、弥生時代以来朝鮮半島からの移住民によって開拓され、支配される国々になったのであろう。そこでは日本原住民つまり縄文人は、熊襲、隼人などと呼ばれて、その多くは滅ぼされたり、同化する運命におかれた。

「菊池山哉と『天ノ朝』論」(08年12月4日の項)のところで、天之日矛の伝承について触れた。
天之日矛の伝承は、但馬、播磨、淡路、近江、若狭などに残るが、金錫亭は、これらの諸地域は、新羅系の移住民の住む場所だったとする。
また、垂仁紀に登場する都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)は、大加羅国の王子とされており、天之日矛が新羅系であるのに対し、伽耶系の移住民を代表しているとみなせる。
これらは、邪馬台国時代の話ということになる。

金錫亭は、邪馬台国については九州説の立場であり、大和朝廷による統一は6世紀以後であるとする。
そして、記紀に書かれている、新羅や百済から大和朝廷に朝貢したというような記事は、日本列島内の新羅系や百済系の国々から、畿内政権に対する朝貢であった、とみる。
公開土王碑などに記されている倭の朝鮮半島への出兵も、倭国内の新羅系や百済系からの援軍で、大和朝廷の出兵ということではない、ということになる。

渡辺は、畿内にあった邪馬台国が、3世紀には日本列島の西半分を君臨支配していたとみる立場なので、記紀に書かれている朝鮮半島との交渉史は、書かれている通りに解釈していい、とする。
しかし、この辺りの事情は、もう少し吟味が必要ではないかと思う。

もちろん、金錫亭の見方が、朝鮮半島サイドに偏りすぎていることも確かであろう。
公開土王碑改竄説の李進熙は、金錫亭から影響を受けているとされるが、現時点では、改竄否定説の方が有利とみるべきであろう。
純粋に客観的な視点などというものはあり得ないとしても、歴史に向き合う場合、可能な限り事実を公平にみるべきだと考える。
特に、朝鮮半島との関係については双方共に感情論になりがちである。
言うは易く、実行は難しい問題の典型であるが、やはり幅広い視野と柔軟な思考が必要ということになるだろう。
最近は死語になってしまったようでもあるが、それを担保するのが教養というものだと思う。
専門性は高いにこしたことはないが、そのためにも広い裾野が必要なのではないだろうか。

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2008年12月 5日 (金)

邪馬台国に憑かれた人…⑥前澤輝政と「狗奴国」論

前澤輝政は、『近藤徳太郎―織物教育の先覚者』中央公論事業出版(0512)という著書の著者紹介欄に、以下のように解説されている。

1925年足利市生まれ。足利工業学校染織科卒、早稲田大学政治経済学部卒、同大学院文学研究科修了。文学博士。宇都宮短期大学、いわき明星大学教授を歴る。考古学、古代史。栃木県文化財保護審議会委員長などを歴任。著書に『新編足利の歴史』『日本古代国家成立の研究』(国書刊行会)、『概説東国の古墳』(三一書房)、『足利学校─その起源と変遷』(毎日新聞社)など。

渡辺一衛『邪馬台国に憑かれた人たち』学陽書房(9710)では、前澤の「三遠式銅鐸の盛行地域について-狗奴国考-」(1983)という論文が取り上げられている。
狗奴国は、「魏志倭人伝」で、卑弥呼の邪馬台国と争ったとされている国である。

倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹エン史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。卑弥呼以て死す。大いにチョウを作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、國中服せず。
http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html

つまり、卑弥呼は、狗奴国との争いを要因として死んだと解釈される。
しかし、「以て」が、何を「以て」なのか、理解が分かれるところである。
狗奴国の位置については、次のように記されている。

南、邪馬壱國(邪馬台國)に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。官に伊支馬有り。次を彌馬升と日い、次を彌馬獲支と日い、次を奴佳テと日う。七萬余戸ばかり有り。女王國より以北はその戸数・道里は得て略載すべきも、その余の某國は遠絶にして得て詳らかにすべからず。次に斯馬國有り。次に己百支國有り。次に伊邪國有り。次に郡支國有り。次に彌奴國有り。次に好古都國有り。次に不呼國有り。次に姐奴國有り。次に対蘇國あり。次に蘇奴國有り。次に呼邑國有り。次に華奴蘇奴國有り。次に鬼國有り。次に為吾國有り。次に鬼奴國有り。次に邪馬國有り。 次に躬臣國有り。次に巴利國有り。次に支惟國有り。次に烏奴國有り。次に奴國有り。此れ女王の境界の尽くる所なり。その南に狗奴國有り。男子を王となす。その官に狗古智卑狗有り。女王に属せず。郡より女王國に至ること萬二千余里。

この部分の「次に○○國有り」の読み方を解くくだりが、宮崎康平『まぼろしの邪馬台国 第2部 伊都から邪馬台への道 』講談社文庫(0808)のクライマックスともいえる(08年11月14日の項)。
宮崎は、盲目であるが故の聴覚の鋭敏さで、上記の国の名の音をもとに、その場所を比定していったのである。

前澤の上記論文のテーマである「三遠式銅鐸」がつくられたのは、3世紀で、邪馬台国と狗奴国とが対立した時代である。
前澤は、近畿式銅鐸は邪馬台国がつくり、三遠式銅鐸は狗奴国がつくった、と考えた。
三遠式銅鐸が近畿式銅鐸よりも早く消滅したのは、狗奴国が邪馬台国に滅ぼされたからだ、ということになる。

前澤は、天竜川東岸地域が「久努(クノ)」と呼ばれ、三遠式銅鐸の出土する西岸が「引佐(イナサ)」と呼ばれる地域であり、「久努」が狗奴国の名につながる土地だとする。
『古事記』には、「出雲国の伊那佐の小浜で」国譲りの交渉が行われ、大国主命の子・建御名方神が、科野国の州羽の海まで逃げて降伏したという話がある。
前澤は、この伝承のイナサは、浜松の「引佐」ではないか、とする。科野の州羽の海が諏訪湖であることは間違いなのとすれば、建御名方神が出雲から信州に逃げるのよりも、浜松から信州に逃げる方がずっと合理的である。
天竜川は、諏訪湖から流出しているからである。

狗奴国は、邪馬台国を脅かすほどの国力を持っていた。
邪馬台国畿内説の立場からすると、狗奴国に相応しいのは東海地方である。
理由はともあれ、「南」は「東」のこと、というのが、そもそも畿内説の立場である。
三種の神器の1つに、草薙剣がある。
名古屋市熱田区にある熱田神宮に祀られている。
草薙剣については、さまざまな問題があるが、渡辺は、草薙剣が三種の神器のひとつに選ばれたのは、この剣が狗奴国の宝剣であって、邪馬台国の八咫鏡と並ぶものであったからではないか、とする。
そして、この神宝が熱田神宮にあるということは、狗奴国が東海地方にあったことを裏付ける材料の1つではないか、と推論している。

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2008年12月 4日 (木)

邪馬台国に憑かれた人…⑤菊池山哉と「天ノ朝」論

菊池山哉についてのWIKIPEDIA(080522最終更新)の紹介記事は、以下のようである。

菊池 山哉(きくち さんさい、1890年10月29日 -1966年11月17日)は東京府出身の郷土史家、土木技師、政治家(東京市会議員)。本名、菊池武治。
部落史研究としては被差別部落民を異民族起源とする説を唱え、賛否両論を呼んだが現在この説は退けられている。

私の生まれ育った静岡県などでは、「部落」という言葉は、単に集落を意味するだけだった。
だから、被差別部落のことについては、例えば島崎藤村の『破戒』などを通じて知ってはいたが、現実に深刻な問題として受け止めたのは、京都の大学に入ってからのことだった。
菊池山哉は、東京府中の生まれで、工学院大学の前身の工手学校に入学し、卒業後東京府の技手になった。
八王子方面の担当になって、山奥の集落を、人々が「筋が違う」といって毛嫌いしていることから、被差別部落の問題に関心を持つようになった。

菊池は、関東各地の村々を訪ね、被差別部落の研究を続け、大正12年に『穢多族に関する研究』を刊行したが、直ちに発禁になったという。
菊池の被差別部落に関する基本認識は、次のようなものであった。
現代の日本人の祖先は、縄文時代人である。その縄文時代以来の日本原住民の東北の蝦夷が、大和朝廷によって征服され、その俘囚が日本各地に配流された。それが被差別部落の端緒である。
言い換えれば、差別されてきた人々こそが、純粋な日本原住民ということである。

部落問題は、現代社会においても重要なテーマであるが、被差別民や、その集住地である被差別部落の起源に関しては未だに定説がなく、論争が続いている。
明治4(1871)年に、明治政府によって、「穢多非人等ノ稱被廃候條 自今身分職業共平民同様タルヘキ事」との布告(解放令)が出されたが、多くの村々では、村民が穢多非人と同列に扱われることに抵抗を示し、解放令発布直後から、2年以上もの間、解放令反対一揆が続発した。

部落解放運動は、反体制運動と密接に関連してきた。
大正デモクラシー期に、被差別部落の地位向上と人間の尊厳の確立を目的として、大正11(1922)年3月3日、全国水平社の創立大会が、京都市の岡崎公会堂で行われた。
結成メンバーは、西光万吉、阪本清一郎、駒井喜作らで、日本最初の人権宣言といわれる水平社創立宣言が採択された。
宣言には、「人の世に熱あれ、人間に光りあれ」「全國に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ。吾々が穢多である事を誇る時が来たのだ。」と謳われた。

1917年にロシア革命が起きた直後であり、社会主義運動が、部落解放運動に大きな影響を与えたことは、上記の宣言からも窺える。
しかし、昭和に入ると、ファシズムの台頭や内部分裂などによって、水平社の運動は下火になり、1942年1月20日に、消滅することになってしまった。
戦後、元水平社のメンバーなどにより、部落解放全国委員会が京都で設立され、1955年に部落解放同盟と改称した。
部落解放同盟をめぐっては、さまざまな論議があるが、ここでは割愛する。

邪馬台国問題に話を戻すと、渡辺一衛『邪馬台国に憑かれた人たち』学陽書房(9710)では、菊池の『蝦夷と天ノ朝の研究』や『天ノ朝と大和朝』という著書に記されている、「大和朝と天ノ朝の断絶」という主張に注目している。
「天ノ朝」とは、記紀神話の高天原であり、それは邪馬台国である、という認識である。

菊池は、高天原は、大和から遠くない場所だったはずだと考える。
なぜならば、神話の中で、神々は比較的自由に高天原と地上の間を往来しているようにみえるからである。
そして、高天原は「高海(タカマ)」であって、近江(オウミ:淡海)に通ずるのではないか、ということである。
つまり、「天ノ朝」は、近江にあり、そこが邪馬台国である。

菊池は、記紀神話に登場する人物を、「天ノ……」で始まるかどうかを基準として、「天ノ朝=邪馬台国」の人物か、大和朝の人物かが区分けできるとしている。
菊池は、『古事記』の国生み神話の記述の順序から、それが北九州からやってきた氏族の伝承であると考えた。
つまり、「天ノ朝」は北九州系であるということである。

垂仁紀や応神紀に、新羅の王子・天之日矛が登場する。
菊池は、天之日矛も、天ノ朝の人物であって、渡来人ではないとした。
渡辺は、天之日矛は、記紀の系譜では、田道間守の4代前の祖先であるから、垂仁天皇と同時代ではあり得ず、天ノ朝=邪馬台国時代の人物であり、その時代に渡来した後の新羅(当時は辰韓)地方の王族だったのではないか、と推測している。

第9代開花天皇の子・日子坐王は、神武以来の天皇家の家系の中で、「命」がつかず「王」と呼ばれる最初の人物である。
それを、菊池は、日子坐王は、開花天皇の子ではなく「天ノ朝」の人物なのだとする。
「天ノ朝」と天皇家とを関係づけるように改変されたのではないか、ということである。

伊勢神宮を建立したとされる倭姫命は、記紀では垂仁天皇の皇女で、母は比婆須比売命とされている。
しかし、斎部広成の『古語拾遺』には、倭姫王の母は狭穂姫となっており、渡辺は、伊勢斎王になった年齢の考証から、『古語拾遺』の方が正しいのではないか、と推測している。
そのどちらも、日子坐王の子の丹波の道の主の王の娘であり、倭姫命は、「天ノ朝=邪馬台国」の家系の人だったということになる。
それを、渡辺は、天照大神=卑弥呼を奉戴する資格があり、かつそうしなければならない運命だった、とする。
この辺りの論考は、いささか入り組んでいて分かり難いが、「天ノ朝=邪馬台国」と大和朝とが断絶しているという認識は、傾聴すべきであろう。

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2008年12月 3日 (水)

邪馬台国に憑かれた人…④鳥越憲三郎と「出雲神話」論

邪馬台国に憑かれた人たち』学陽書房(9710)は、小林行雄の次に、鳥越憲三郎を取り上げ、邪馬台国から大和朝廷への遷移を論じている。
鳥越憲三郎は、WIKIPEDIAの見出し項目にはなっていないようであるが、以下のような履歴記事がある。

鳥越 憲三郎氏(とりごえ・けんざぶろう=大阪教育大名誉教授、古代史)(2007年3月)23日午前9時、腎不全のため兵庫県宝塚市の病院で死去、93歳。岡山県出身。
……
東南アジアや中国、韓国、日本などの民族が、中国の長江を発祥とする説を唱えるなどし、2004年度の大阪文化賞を受賞した。

http://www.shikoku-np.co.jp/national/okuyami/article.aspx?id=20070323000459

『日本書紀』では、初代神武天皇と10代崇神天皇が、共にハツクニシラススメラミコトと呼ばれている。
神武天皇は「始馭天下之天皇」であり、崇神天皇は「御肇国天皇」である。
これはどういうことか?
天皇家の始祖は、どちらなのか?

2代綏靖天皇から第9代の開花天皇までの8代の天皇については、記紀には事跡がほとんど記されていないので、「欠史八代」として実在性が疑われてきた。
つまり、ハツクニシラスと呼ばれたのは、元々は崇神天皇で、神武天皇の事跡は、あとから付加されたものではないか、ということである。
「欠史八代」の天皇の実在性に論及したのが、鳥越憲三郎『神々と天皇の間』朝日新聞社(1970)である。

安本美典は、古代の天皇の系譜は正しいが、在位年数は信用できないとして、統計的手法によって古代天皇の在位時期を推定した(08年12月1日の項)。
安本の推定した崇神天皇の時代は、4世紀後半であった。
鳥越も、古代天皇の寿命が不自然に長いのは、神武の即位年を辛酉年に定めたからで、それを合理化するためならば、架空の天皇を挿入すればよかったものをそうしなかったのは、系譜はそのままにしたからだ、とした。
記紀の記述では、神武天皇から孝安天皇天皇までの6代の天皇は、大和盆地の南端の畝傍山のほとりから西南の葛城山麓にかけて転々としていた。
鳥越は、崇神以前を葛城王朝としている。

これらの天皇の記事をどの程度の信憑性をもって読むかについてはさまざまであろうが、大和朝廷の始祖が、大和盆地の南部から徐々に中原に進出してきたとみるわけである。
それは、これらの天皇の妃が、はじめは磯城氏、鴨氏、葛城氏など、大和盆地南部の豪族の出身であり、次第に春日氏、物部氏など北部の氏族も加わるようになることからも推測される。
崇神・垂仁朝になると、大和北部の豪族との姻戚関係はさらに緊密になり、大和盆地だけでなく、列島全体の大王、倭王になっていく、と渡辺は論じている。

記紀の神話では、出雲が大きな役割を果たしている。
一方、「出雲国風土記」には、記紀の「出雲神話」に対応する記述がほとんどない。
これはどういうことか?
鳥越は、「出雲神話」について、以下のように考えた。
鳥越の『出雲神話の誕生 』講談社学術文庫(0610)の内容は、次のように紹介されている。

記紀神話の三分の一以上を占める出雲神話。しかしその出典たる『出雲国風土記』には、記紀とは異なる舞台、神々の美しく雄大な詩が綴られていた。それらを抹殺し、出雲国を強大な国であるかのように仕立てあげた大和朝廷の策略とは、どのようなものだったのか。国引き説話や大神の麗しい物語が、支配者によってねじまげられ、被支配者たちに受け入れられていく過程を解き明かす。

鳥越は、「出雲神話」は、大和朝廷によって作られたものであって、出雲の伝承ではない、とした。
大和朝廷は、自己の支配権が、広く日本全土に及んだことを示すために、大和盆地での出来事を比較的新しく支配地域になった出雲や日向を舞台として構成したのであろう、ということである。

渡辺は、「葦原中国」が出雲というのはありえず、上記のような推論は正しい、としているが、この辺りは、出雲における考古学的な成果と併せてどう考えるか、まだまだ議論を要するところだと思う。

渡辺は、邪馬台国畿内説であるから、次のように考えている。
強大になった「葛城王朝」が邪馬台国を倒して、崇神・垂仁朝をつくった。
「葛城王朝」は、実際は王朝と呼ぶべくもない大和の一豪族で、崇神天皇のときはじめて倭国の大王としての地位を奪ったので「ハツクニシラス」大王と名乗った。
つまり、崇神以前の9代の系譜は、崇神以後に連続しており、その祖先であった。
だから、「欠史八代」の系図を、事跡なしで述べたのだろう。

上記のように考えれば、崇神・垂仁朝には、邪馬台国の継承者としての側面と、新しい王朝としての側面とがあることになる。
この継承と断絶の両面があり、断絶の側面があることが、記紀に邪馬台国が登場しないことの理由であろう、というのが渡辺の推論である。
つまり、邪馬台国畿内説ではあるが、大和朝廷は邪馬台国の正統な継承者ではなく、むしろ簒奪者であったらしい、ということである。

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2008年12月 2日 (火)

邪馬台国に憑かれた人…③小林行雄と「同笵鏡」論

邪馬台国に憑かれた人たち』の3番目は、小林行雄である。
小林についても、WIKIPEDIA(最終更新08年11月14日)をみてみよう。

小林 行雄(こばやし ゆきお、1911年8月18日 -1989年2月2日)は、日本の考古学者。京都大学名誉教授。文学博士、日本学士院恩賜賞受賞者。
兵庫県神戸市に生まれる。1932年、神戸高等工業学校(現神戸大学工学部)を卒業し、副手に就任。後に依願退職し、近畿地方を中心に発掘調査に携わる。1935年、京都帝国大学文学部助手。1945年に海軍に招集され、戦後は1953年に京都大学文学部講師、1954年には日本学士院恩賜賞を受賞。1974年、京都大学文学部教授に昇進し、1975年に退官、名誉教授。

赫々たる履歴であるが、現神戸大学工学部卒業とは意外な感じである。
いわゆる「考古学京都学派」を代表する1人と言ってもいいだろう。
京都大学考古学教室のホームページには、以下のように記されている。

本専修のもとになる考古学講座は、大正5(1916)年、濱田耕作(1881-1938)が設立した。我国最初の考古学講座である。その後、梅原末治(1893-1983)、有光教一(1907-)、小林行雄(1911-1989)、樋口隆康(1919-)、小野山節(1931-)、山中一郎(1945-)が教授を務め、徹底した資料の観察と客観的記述にもとづく学風が築かれた。巷間では「考古学京都学派」の用語も流布しているが、歴代教授は各々きわめて個性的で、関心事や研究方法も異なる。徹底した資料観察という「学風」が共通し、一連の研究テーマを継承・深化した「学流」はあっても、「学派」「学閥」は作らなかったと言える。

小林行雄は、京大系の正統学者として、邪馬台国畿内説の立場である。
弥生時代末に、畿内勢力が北九州地域を支配下におさめて邪馬台国をつくった、とする。
小林の業績の中で、最も有名なものは、「三角縁神獣鏡の同笵関係」である。
同笵とは、同じ鋳型で作られたものを意味する。
実際は、同じ原鏡から鋳型をいくつも作って鋳造するので、同笵鏡よりも同型鏡と呼ぶ方が妥当だとする見解もある。

2_2同笵鏡が異なる古墳から出土するという事実をどう解釈するか?
小林は、それを古墳被葬者の間の権力関係を示すものとして、詳しく検討した。
その成果は、例えば図のように纏められており、この古墳間の関係をもとに、推論を展開している。
同笵関係の最も多いのは、椿井大塚山古墳(京都府)で、次いで湯迫車塚古墳(岡山県)である。
これらは、最初期の前方後円墳で、椿井大塚山古墳の被葬者から各地の王へ分与され、備前車塚古墳の被葬者者へ最も多く贈られたのだろう、というのが小林の見解だった。

岡村秀典『三角縁神獣鏡の時代』吉川弘文館(9905)では、次のように小林の推論を整理している。

椿井大塚山の首長の背後には、より強力な大和の権力者、すなわち政権の中枢にある倭王の存在が想定されるが、椿井大塚山古墳が位置するのは、木津川・淀川の水路をつうじて大和を瀬戸内海と結びつける航路の起点にあたり、その首長は、倭王の委嘱をうけて、各地の首長にたいして三角縁神獣鏡を配布する任務を帯びていたと考えられたのである。

そして、同笵鏡理論で重要なこととして、次の2点を挙げている。
①地方における最古の古墳は、いずれも椿井大塚山と三角縁神獣鏡の同笵鏡を有する関係にあること。
つまり、地方における古墳の出現は、同笵鏡の分配に示される倭政権との政治的関係によると考えられること。
②同笵鏡の分布範囲の広がりが、近畿を中心とする倭政権の段階的な伸長を示していると考えられること。

「考古学京都学派」は、三角縁神獣鏡が、卑弥呼が中国から贈られた鏡である、という前提に立っている。
しかし、三角縁神獣鏡は、中国では1枚も発見されていず、舶載鏡であることを否定する見解も多い。
畿内に多数出土する三角縁神獣鏡が、魏鏡ではなく日本製だとしたら、当然邪馬台国の所在地問題にも影響してくる。
魏鏡説論者は、中国から1枚も出土していない事実を、卑弥呼のために特鋳したというような説明を試みているが、いささか苦しいように感じられる。
三角縁神獣鏡の理解は、大和朝廷の起源や進展をどう捉えるかという問題と深く係わっている。
別の機会に改めて検討してみたい。

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2008年12月 1日 (月)

邪馬台国に憑かれた人…②安本美典と「神話伝承」論

渡辺一衛『邪馬台国に憑かれた人たち』学陽書房(9710)で、次に登場するのが安本美典である((以下、関連稿においては敬称略)。
安本美典については、既に何回か触れている(安本美典氏の『数理歴史学』「季刊邪馬台国」「古田史学」VS「安本史学」統計的方法をめぐって壹と臺の調査帰無仮説-「否定の否定」の論理母集団と標本「壹・臺」論争の帰結)。

WIKIPEDIA(08年10月6日最終更新)の安本美典の項では、以下のように紹介されている。

安本 美典(やすもと びてん、1934年 - )は、心理学者・日本史研究家(古代史)。文章心理学、計量比較言語学、日本古代史の分野で著書及び論文がある。日本行動計量学会会員。満州に生まれ、帰国後は岡山県高梁市で育つ。京都大学文学部(心理学)卒。京都大学大学院文学研究科(心理学)修了。旧労働省退官後、日本リサーチセンターに入社、産業能率短期大学助教授を経て、産能大学教授(2004年3月定年退職)。文学博士(京都大学)。心理学・実験心理学専攻。
日本古代史の分野では「邪馬台国=甘木・朝倉説」を30数年来主張し続けている。「邪馬台国の会」主宰。『季刊邪馬台国』責任編集者。古代史研究は「数理文献学」(Mathematical Philology)の手法に基づくとする。

上記の履歴の中で、日本リサーチセンターに在籍したことが触れられている。
日本のシンクタンクの草分けの1つであるが、私もリサーチを職としていた時期もあったりした関係で、安本の議論には特に親近感を覚えたのだった。
渡辺は、安本の古代史に関する議論の中で、「とくに注目すべき仕事は、やはりその専門とする数理統計学を古代史に応用したことであろう」としているが、確かに、目から鱗が落ちるような鮮やかさだった。

渡辺は、安本の数理統計学の古代史への応用に関して、「その最も見事な成果が、統計的な方法によって、古代の天皇の在位年数が平均十年ぐらいであるということを示したことであった」としている。
私は、安本の仕事の中で、「古代天皇の在位年数平均十年説」を、「最も見事な成果」とすることには必ずしも賛成ではないが、「古代天皇の在位年数平均十年説」によって、「卑弥呼=天照大神」という帰結を導き出した理路には、率直に感銘したことを記憶している。

私は、安本が評価されるべきは、各種の論点をバランス良く、最も整合的に理解しようとする態度ではないか、と思う。
それは、リサーチャー出身という履歴も関係していたのではないのだろうか。
初期の一般向けの解説書『神武東遷』中公新書(6811)において、大和朝廷と北九州の関係について、以下のような数多くの根拠を挙げて、大和朝廷の起源が北九州にあったことを指摘している。

①記紀ともに、神武東征の伝承を記し、その大すじは、一致していること。
②神武天皇の時代は、それほど古い時代ではなく、三世紀末と考えられ、記憶の残りうる可能性は、十分に考えられること。
③記紀の神話は、地域的には、九州を中心としており、九州に生育したと考えられること(たとえば、記紀の神話では、九州地方の地名が、統計的には、もっとも多くあらわれる。そして、そこで神々は、具体的な行動をおこなっている。
④「卑弥呼=天照大御神」「邪馬台国=高天の原=北九州」と考えられる。そのとき、北九州に都していたことになる卑弥呼(天照大御神)が、記紀では、皇室の始祖とされていること。
⑤記紀の神話には、天皇家の祖先は、出雲へは海路で、日向には、陸路で行かなければならない場所(すなわち北九州)にいたと判断される記事のみえること。
⑥氏族の地域的分布から、貴族の中心地が、九州から大和に、移動したと考えられること。そして、大伴、中臣、物部など各氏の発祥地が、九州らしいこと。
⑦三輪氏や磯城氏や宇陀氏のように、大和発生と考えられる豪族は、後世、地祇として、神武東征に加わった天神、天孫と伝えられる氏族と区別されていること(これは、皇室の大和発生説からは、かなり説明がむずかしいように思われる)。
⑧宇佐、壱岐、対馬、松浦など、九州の辺縁の地の、古い氏族が、天孫とされていること。
⑨九州と大和の地名の名づけかたの一致からも、大きな集団の移動のあったことが、推定されること。
⑩畿内には、固有地名としてのヤマトはなく、九州のヤマト、あるいは、邪馬台(ヤマト)の名を移したと考えられること。
⑪大和朝廷と北九州勢力との、大規模な闘争を思わせる伝承の存在しないこと。
⑫わが国は、西から東へ開けていった。その古代の大勢からみても、無理のないこと。
⑬神武伝承は、作られたものとしては、理由のとぼしいこと。高天の原を、空想の生んだ天上の場所であるとし、皇室が、大和に発生したとすれば、天孫が、天から大和に降臨したとする方が、皇室の権威をましうるかと思われる。それを無視して、作られた物語りとしては、理解しにくい西辺の九州に降臨したとしていること(日向が日に向かうという意味に解することができるので、そこを日の神の子孫の発祥地としたのであるとする意見がある。これについては、植村氏が、くわしく反論しておられる)。
⑭高天の原を、大和の反映であるとすれば、大和を去って、九州に降臨し、今一度大和にむかうことになり、やはり、不自然であること(記紀には、天孫の子といわれる饒速日(ニギハヤヒ)の命が、神武天皇よりもっまえに、大和に下ったことを伝えている。もし、高天の原が大和であるならば、祖国である高天の原から、おなじ高天の原である大和に降ったことになる。これも不自然である)。
⑮もともと、六、七世紀ごろには、長編の神話や神武伝承などを、創作しうる文化的な基盤は、存在しなかったと考えられること。
⑯記紀の古代伝承の表現形式は、現代の歴史記述などの表現形式とは、異なっている。しかし、史的事実を伝える表現形式として、古代諸民族に、ふつうにみられるものであること。
⑰神武伝承などは、『イリアス』や『オデュッセイア』にくらべれば、はるかに神話性のすくない伝承であること。
⑱殷墟やトロヤ遺跡の発掘などをはじめ、世界各国の、神話伝承と史的事実との結びつきを示す数多くの事例をながめるとき、記紀の伝承のなかにも、あるていどの史実がふくまれていると考えるほうが、妥当のように思われること。
⑲文献学的には、大和朝廷の大和発生を、積極的に示した古文献は存在せず、実証主義的文献批判学の立場から、消極的に想定されているにとどまること。

以上のような論拠を示しつつ、安本は、大和朝廷の起源を九州にあるとしている。
上記で挙げられている論拠は、現在では当たり前のことと考えられることも少なくない。
例えば、神話がある程度の史実を反映したものではないか、というような考えは、当然のこととされるのではないだろうか。
しかし、津田左右吉以来、記紀の神話的部分は、造作されたものであって、歴史学の対象からは峻別すべきであるという認識が一般的だった時点において、神話的部分に、数理統計学の手法を適用して、納得的な結果を得たことは、大きな功績とすべきだろう。

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