藤ノ木古墳の紅花
藤ノ木古墳の石棺から出土した大量の紅花花粉の研究で、この古墳の石棺に納められた2体の被葬者が、穴穂部皇子と宅部皇子の可能性が高いことが分かった、と報じられている(産経新聞081101)。藤ノ木古墳は、奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺字藤ノ木にある古墳で、古墳時代後期にあたる6世紀後半の円墳である。
昭和63(1988)年の発掘調査で、金銅製の靴やガラス玉で装飾された太刀、2人の人骨などが、埋葬当時の状態でみつかった。
法隆寺西院伽藍の西方約350mのところに位置し、直径約50m、高さ約9mである。
金銅製の冠などの豪華な副葬品が発見され、被葬者が誰であるか、論議を呼んできた。
特に、法隆寺に近い場所であることから、聖徳太子との関係に関心が持たれてきた。
副葬品からは支配階級の1人であることは間違いないが、円墳であることから、大王クラスではなく、その一族だったと推測されている。
WIKIPEDIA(081101最終更新)によれば、前園実知雄・奈良芸術短大教授や白石太一郎・奈良大学教授などは、2人の被葬者が、『日本書紀』の次の記事との関連で、聖徳太子の叔父で、蘇我馬子に暗殺された穴穂部皇子と、宣化天皇の皇子とされる宅部皇子の可能性が高い、としている。
(崇峻天皇 泊瀬部天皇紀)
二年夏四月、用明天皇が崩御された。
五月、物部大連の軍兵が、三度も人々を驚かし騒がせた。大連は、はじめは他の皇子たちを顧みず、穴穂部皇子を立てて天皇にしようとした。しかし今になって、狩猟することにかこつけて、自分の都合で立て替えようと思い、こっそり人を穴穂部皇子のもとに遣わして、「願わくば皇子と共に、淡路に狩猟をしたいと思います」といった。しかし謀が漏れた。
六月七日、蘇我馬子宿祢らは、炊屋姫尊を奉じて、佐伯連丹経手・土師連磐村・的臣真噛に詔して、「お前達は兵備を整えて急行し、穴穂部皇子と宅部皇子を殺せ」と命じた。この日の夜中に、佐伯連丹経手らは、穴穂部皇子の宮を囲んだ。兵士はまず楼の上に登って、穴穂部皇子の肩を射た。皇子は楼の下に落ちて、そばの部屋へ逃げこんだ。兵士らは灯をともして皇子を見つけ出して殺した。八日、宅部皇子を殺した。--宅部皇子は宣化天皇の皇子で上女王の父である。しかし詳しくは分からない。--皇子が穴穂部皇子と仲が良かったので殺したのである。
藤ノ木古墳の石棺内から検出された大量の紅花の花粉については、当初、被葬者を覆う布などの染料に使われた痕跡とみられていた。
それが、金原正明・奈良教育大学准教授(環境考古学)の研究で、染料にした花粉はほとんど残らないことが判明し、紅花の生花が供花として納められた可能性が高いことが分かったということである。
紅花は山形県の県花である。江戸時代までは、染料の原料として盛んに栽培されていた。花期は6~7月で、花は、はじめ鮮やかな黄色で、徐々に赤くなる。
名の通り、紅色の染料として衣類を染めるために用いられるほか、防腐剤や食用油としても用いられた(写真はhttp://www.hana300.com/benina.html)。
生花として用いられたとすれば、花期からして夏に埋葬されたことになり、『日本書紀』の記述との整合性から、穴穂部皇子と宅部皇子の可能性が高くなる。
しかし、紅花には防腐剤としての作用もあることから、夏以外の埋葬の可能性も残されており、藤ノ木古墳の被葬者が確定したとまでは言えないようである。
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