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2008年11月 6日 (木)

岡本正太郎氏の小林説批判…③唐の内政干渉について

小林惠子氏は、『高松塚被葬者考―天武朝の謎 』現代思潮社(8812)において、以下のように述べている(p26~)。

同年(注:天武八年のことか?)四月条以後の「羅紀」を意訳すると、四月に天存ら親唐派の禁門兵の反乱があり、六月には日本からの援軍が文武王の命によって(場所はわからないが)戦い、八月に鎮圧されて天存は殺されるということになる。ここにみえる日本兵は当然、九月帰国の使人であったと考えられる。
天武・新羅文武王末年の唐の政治介入
これらの新羅と日本の行為はただちに唐国に知られたとみえ、「羅紀」では、このように文武王の勝利に終わったようにみえるが、天孫の死に続いて「創造東宮」とある。六六五年(文武王五年)に仁軌立ち会いのもとで、新羅と百済が和平の儀式を執り行った年に王子の政明が立太子している。ふたたび、ここに東宮を創造したとあるのは、天存の死をもって文武王が勝利したように「羅紀」にはあるけれども実際はあらあめて政明(神文王)を立太子させて、文武王の実権を削減する意志を持った唐の介入があったと推量する。
……
新羅では八月に東宮を創造しているが、日本では一○月に新羅使が数々の珍宝をもって来日した記事がみえる。この中で重要なのは、特別に天皇・皇后・太子に金銀・刀・旗の類を貢じたとあることである。
……
ここで問題になるのは旗である。旗が新羅からもたらされたのは、この条以外に見られない。斉明四年七月条に帰属した蝦夷に蛸旗を授けたという記事が見られるが、旗を与えるということは帰服した者になす行為なのではないだろうか。
即ち、八月に唐は文武王に事実上の引退を勧告して政明の東宮を設置し、一○月に新羅朝貢とあるが、実際は唐使が新羅使と共に来日して、天武の引退を勧告し、太子(後に述べるがおそらくは大津皇子)を定めたという事情が旗によってあらわされているとおもう。

このくだりの最後の、「八月に」以降の文章を引用して、岡本氏は、「歴史家というものがこのような姿勢で、人に読ませる文を書いてもよいものか」と厳しく論難している。
その根拠として、岡本氏は、次のように書いている。

文中小林氏は天武十年八月に、唐が新羅文武王に引退を勧告して政明の東宮を設置して、十月に新羅朝貢とある。としていますが、『三国史記』では、天武十年(六八一)に当る新羅文武王二十一年七月一日に遺勅を遺して文武王は亡くなっていますから、八月に唐が引退を勧告したというのは、「天武引退を唐が勧告した」という妄説を立てるための手段にすぎません。

岡本氏の批判は、新羅における政明の東宮設置を天武十年八月としていることによる。
しかし、私の読んだ限りでは、小林氏は、それを「八月に」としているだけであり、必ずしも明瞭ではないが、小林氏の文脈の上からは、天武八年のことと解するのが自然のように思われる。
この判断は、引用の冒頭の「同年」が何年のことなのかにもよるのであるが、天武八年のことと読むのが自然であり、注はその意味である。

『日本書紀』(宇治谷孟・全現代語訳『日本書紀日本書紀〈下)』講談社学術文庫(8808))をみると、以下のようにある。

(天武八年十月) 
十七日、新羅は阿飡金項奈・沙飡薩喿生を遣わして朝貢した。調物は金・銀・鉄・鼎・錦・絹・布・皮・馬・狗・騾・駱駝など十余種であり、また別に献上物があった。天皇・皇后・太子にも金・銀・刀・旗の類を相当数たてまつった。

(天武十年十月)
二十日、新羅が沙喙一吉飡金忠平・大奈末金壱世を遣わして調をたてまつった。金・銀・銅・鉄・綿・絹・鹿皮・細布などの類がそれぞれ数多くあった。別に天皇・皇后・太子にたてまつる金・銀・霞錦(新羅の特産物)・幡・皮などもそれぞれ数多くあった。

天武八年と十年のそれぞれ十月に、非常に良く似た記事が記されている。
これは偶然なのだろうか?
それとも、『日本書紀』の編者が、同じことを重複して記述してしまった、ということなのだろうか?

岡本氏は、小林氏が、「旗を与えるということは帰服した者になす行為」としていることに、「何の根拠もなく」と批判し、天武十年の新羅使が持参した幡を、それと同じ意味としているが、それは間違いである、としている。
「旗」は、四角い形をしたハタの意味で、「幡」は色のついた布に字や模様をかいてたらしたハタ及びひらひらとひるがえるノボリの意味で、旗を与えることが帰服の意味だとしても、幡にまでそれを適用することはできない、というのが岡本氏の趣旨である。

私には、「旗」と「幡」の使い分けに関する知識はないが、『日本書紀』の天武八年十月条は「旗」の字を用い、十年十月条は「幡」の字を用いている。
この使い分けが意味があるものか、否か?
小林氏が、天武八年のこととして記述しているのか、天武十年のこととして記述しているのか?
その辺りが、岡本氏の批判の妥当性を判断する根拠になると思われる。
「旗」の字を重視すれば、天武八年条と解するべきであり、とすればこの箇所に関する岡本氏の批判は妥当性を欠くことになる。

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