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2008年11月 5日 (水)

岡本正太郎氏の小林説批判…②高市皇子に関する認識

高市皇子が、『日本書紀』が記述し、通説も是認している天武天皇の皇子ではなく、天智天皇の皇子だった、というのは、小林惠子氏の「壬申の乱」認識の眼目といえる(08年10月26日の項27日の項28日の項)。
その論拠として、『扶桑略記』の天智条に、「三人即位一人不載系図」とあって、それは三人即位して一人系図に載っていないということであり、大友と元明が即位したとして、系図に載らない一人とは高市皇子のことではないのか、としている(27日の項)。
これに対し、岡本氏は、次のように批判する。

天智天皇の子で即位したのは、持統・元明・大友(弘文)の三天皇で、明治以前までは大友皇子だけが天皇と認められていなかったのは、周知の事実である。
持統を削って、高市を入れたのか。

この批判はもっともなものであろうが、小林説は、そもそも持統朝の実相は、高市皇子が実権を握っていた高市朝とみている(08年10月30日の項)のだから、持統と高市を入れ替えた、ということであろう。
また、小林氏が、次のように記載している箇所(『高松塚被葬者考―天武朝の謎 』現代思潮社(8812)pp14~16)に疑問を呈している。

『書紀』では高市は、天武と胸形君徳善の娘との間に草壁・大津につづく第三子として記載されている((08年10月26日の項)。しかし、年令は『書紀』には見えないが『公卿補任』より見て当時一九才位であり、一一~二才と推定される草壁・大津にくらべて、はるかに年長である。高市がもし卑母の出あろうとも年者である彼が第三子となっているのが第一の疑問である。例えば大友皇子は卑母の出であっても天智の第一となっている。
さらに大津のように母が天智の娘であり、天智の手許で育てられていたと思われるものと違って、母方が一豪族であってバックが弱いにも拘らず、また一才と言えば成人であり、『書紀』には父とある天武の有力な片腕となってしかるべきであるのに、天武の吉野追放のときに行を共にしていないのは何故であろうか。

岡本氏は、先ず、皇子の順位は、年齢順ではなく、皇位継承順位とでも言える年齢以外の基準である、とする。
例えば、『官職難儀』に次のようにある。
 天武天皇第九皇子三品忍壁親王
 天武天皇第二皇子二品穂積親王
 天武天皇第三皇子一品舎人親王

これについて、『高階系図』でも忍壁皇子を第九皇子とし、『清原系図』では舎人皇子を第二皇子と記している。
『清原系図』は、舎人皇子の薨年齢六一歳としているので、それから生まれ年を計算すると天武3(774)年になるが、この年には忍壁皇子が石上神宮で神宝を磨いている。
つまり、第二(三)皇子の舎人皇子よりも、第九皇子の忍壁皇子の方が年長であることは明らかである。

高市皇子が第三皇子として記されているのは、ある時点における皇位継承順位のような年齢以外の順位によるものである。
小林氏が例示した大友皇子を第一皇子と記した記述は、大友皇子が皇位継承順位第一の皇子であったからで、だからこそ天皇に即位したのである。

また、天武の吉野追放の時に、高市が行を共にしていないのは、大津皇子と高市皇子が近江朝に任官していたからで、それをもって天武と高市の親子を否定する根拠とすることはできない。
壬申の乱の時に、高市皇子が比較的楽に近江から脱出できたの比べ、大津皇子が、山部王と名を偽ってようやく脱出できたのは、それだけ重要な嫡子だったからである。

岡本氏は、小林氏が、壬申の乱で大海人と高市が対面した時、大海人が「自分には幼少の子供しかいない」と語りかけているが、高市は一九才で当時としては立派な大人である、として高市が天武の子でない根拠の1としていることについては次のように説く。
この時に、大海人と話し合ったのは、和蹔で全軍の指揮をとっていた大津皇子だった。
つまり、岡本氏も、この部分の『日本書紀』の記述を否定する立場ということになる。
これについては、改めて検討することとしたい。

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