安本美典氏の『数理歴史学』
私が、日本古代史、特に邪馬台国論争に興味を持ったのは、安本美典氏の著作を読んでからである。
生まれ故郷のJRローカル線の駅前の、今は廃業してしまった書店で、偶然手にしたのが、安本美典『数理歴史学-新考邪馬台国』筑摩書房(7003)であった。
何で、大して棚もない小さな書店にこの本が置かれていたのか、何故私がそれを手にしたのか、など今考えると不思議な気がする。
この書を手にしたとき、私は社会人になって間もない頃だった。
仕事というものに向き合うことになったわけであるが、振り返ってみると、方法論というものを探し求めていたように思う。
私に与えられた業務は、ある化学製品の用途開発に係わることだった。
塗料とか接着剤とか構造材とかへの応用可能性を検討することがテーマであった。
条件を変えてテスト片を作り、繰り返し測定を行うわけであるが、もともと手抜き人間だった私は、少しでも合理的に結果を得られる方法がないものだろうかと考えていた。
実験計画法がその有力な手段だったが、その基礎となる推計学に関心を持った。
そういう心的状態のとき、安本氏の著書のタイトルが目に入ったのだった。
それまでの私は、「数理」と「歴史学」とを結びつけて考えるというようなことはなかったと思う。
理系と文系という二分論では考えていなかったとは思うが、数理は理系、歴史学は文系というような先入観はもちろん拭えなかっただろう。
だから、「数理歴史学」という言葉に、好奇心のアンテナが反応したのだと思う。
不思議なことで、図書館や古書店などで書棚を見ているとき、自分が関心を持っているテーマの著書が目に飛び込んで来ることがある。
人は、自分に関心のあるものしか見分けないとすれば、それは別に不思議でも何でもないのだが。
たとえば、群衆の中でも、自分の知り合いはすぐ目につく。
一般人には見分けがつかないサルの顔も、サルの研究者たちには、それぞれが個性を持ったものとして識別される。
要するに、関心のある事象に関しては、他と異なるものとして識別してしまうようで、それが背表紙の列の中の特定の一冊を抽出する力になるのだと思う。
「数理歴史学」というタイトルに目を向けたのは、おそらくそういうような心的なメカニズムが作用したのだと思う。
安本氏は、1934年生まれだから、この書が出版されたときには、まだ30代半ばだった。
「はじめに」に、次のように書いている。
ひとつの新しい時代が、やってきつつある。いわゆる科学的思考というものが、自然に対してだけではなく、人間に対しても、そしてまた、人間がつくったものに対しても適用され、有効性を示しはじめつつある時代である。
……
この本は、数理科学的な方法による歴史の研究法についてのべたものである。とくに、わが国の古代史を、あらたな基礎のうえに築くことを意図したものである。
……
この本では、具体的な個々の分析技術の紹介をおこなうことよりも、研究の基礎を深くたずねたいと思った。たしかな基礎にもとづいてこそ、より多くの実りが期待できると考えたからである。
このように、方法について明晰な自覚を持って書かれた書に接した初めての体験だったと思う。
安本氏の説くことは、まったく説得的だった。
私は、安本氏のファンになり、目につく範囲で安本氏の著作を手にするようになった。
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コメント
集団的自衛権と数理
安本先生の業績はスカラー量である言語の出現頻度をカウントすることであった。スカラー量とは我々が実感できる非空間量であり、たとえばお金である。日本人は、500円のものをお店の棚から持ってきて、店員さんにあずけ、1000円札をだしてX=1000-500円としておつりを期待する。
しかしこの演算は間違いであり我々は死ぬまで-500円玉というものを手に持つことができない。
正確な記述は1000=品物+500円ということが現象を正確に反映しているのであって、品物をレジの店員に渡した所からがことの出発点であり、店員が1000円に応じて、品物と500円玉を渡したところで契約が成立するのである。その契約内容の不備を危惧するのであればX=1000-500円をやればよいということである。
つまりマイナスの貨幣が存在しないのでこういったものをスカラー量と呼ぶ。
それではなぜ、人々はマイナスを使い出したのかというと、ザックリというとデカルト座標系(X-Yグラフ)が開発されたあたりだと思う。そのグラフは空間の位置把握の数学的道具として考え出され今でも威力を持っている。前後左右を±X±Yという2変数に集約し、演算の利便性を獲得したからだ。こういった複数変数と±を用い空間を描写する量をベクトル量という。こういった物理量の確定を基礎にして、物理学が展開してきたが、アインシュタインの大きな誤謬により積み上げられる量(スカラー量)である時間がベクトル量のごとく流布され、タイムマシンが可能だというトンデモ本も出回っている。
翻ってスカラー量とベクトル量で集団的自衛権を考えると、中立はゼロでマイナスに行けばいくほど戦争に突入することを意味し、プラスに行けばいくほど平和で国際交流が豊かになるとする。そうすると、どんなに戦争の危険性を排除しても中立に向かうが平和にはならないのが国際社会の一方の実態であるし、平和側の関係の諸国にも交流規模の大小があり中立に近いモードと親密平和なモードがあるのだろう。
戦争を全く否定する者は、後者の空間にしか住まず、前者の空間の広がり自体を否定しているわけで、戦争/平和は中立を原点としたベクトル空間の話と考えるべきであろう。我々は数学が考えなくていいんじゃないというところまで考えて、驚くべき有益性を次々生み出してきたことを思い起こすと拡張という作業は重要な概念であるとしみじみ感じる。戦争モードに次世代を巻き込む恐れも心配すると中立を超えさせない抑止力が重要であり次世代に対しむやみな実戦リスクを残さないための一歩として集団的自衛権の方向性は必要であると思われる。
投稿: ハリケン | 2014年7月17日 (木) 21時48分
私も安本美典氏の『数理歴史学』を購入し、読もうとしています。はじめまして。私は歴史学について色々勉強しているのですが、統計学を専門としている方々に、現代的な意義はどういうものがあるのですか?と別に否定はしていないものの興味津々に聞いてきます。ですが、この裏には現代社会への貢献ありきの学問がその人の頭の中にあるんだなぁと思います。私も色々と統計学に興味があり、色々勉強してきており、どうにかして歴史学と統計学(数理?)を接合したいなぁとか思っていました。そんなときに、偶然みつけたのが安本美典氏の『数理歴史学』でした。
読みましたら、色々とコメントさせていただけたら、嬉しく思います。
よろしくお願い申し上げます。
投稿: ひろ | 2017年7月17日 (月) 20時09分