岡本正太郎氏の高松塚被葬者論…⑤大津皇子について
岡本正太郎氏は、高松塚の被葬者を、大津皇子に比定している。
大津皇子は、天武天皇が崩御した直後、草壁皇子の擁立をめざす鸕野(持統)皇后によって、電光石火ともいうべき素早さで、謀反の疑いにより処刑された。
『万葉集』の大来皇女の歌によって、二上山に移葬されたのではないか、と考えられている。
古代史における悲劇のヒーローの1人であり、私も含めファンは多い。
大津皇子の死の経緯等については、既に何度か触れている(07年8月27日の項、8月31日の項、9月1日の項、08年1月30日の項、2月3日の項、5月21日の項、8月26日の項、10月29日の項)。
岡本氏は、「第九章 粟津家系図について」(p163~)で、岡本氏と大津皇子との不思議な因縁を披瀝している。
それは、岡本氏のご子息のお嫁さんの家系が、大津皇子の末裔だったということである。
お嫁さんの叔父さんにあたる人の話では、大津皇子の子の粟津王が、配流の地名の豊原姓を立てて、近江に居住したのが始まりで、その子孫にあたるのだという。
奇しくも結婚式は、大津皇子の千三百年忌の年だったという。
大津皇子の研究家としては、望外の喜びだっただろうと想像に難くない。
そのお嫁さんの実家(粟津家)の本家に、粟津家家系図というものが伝わっていて、粟津彰司氏が、その系図を研究されているということで、従来の文献と次の2点において、大きく異なった内容だという。
①大海人軍の司令官
『日本書紀』では、大海人軍の総司令官は、和蹔にいた高市皇子である。
これに対し、『粟津家文書』では、「大津皇子和蹔という所にて諸軍に下知せらる」となっているという。
これは、岡本氏によれば、嫡子であった大津皇子を三子としたために、司令官の大津皇子を高市皇子に書き換えたためである。
壬申の乱の年(672年)、『日本書紀』は大津皇子を9歳の子供としている(天智2(663)年生まれ)が、近江からの脱出に山部王の名を名乗っていると考えられ、近江軍の総司令官の山部王と近似した年代であったはずである、という推論である。
それは、『懐風藻』が大津皇子を天武天皇の長子としている記述とよく適合している、というのが岡本氏の見解である。
②草壁皇子非皇太子説
『粟津家文書』には、草壁皇子の経歴を「長岡天皇とも云う、浄広位皇太子、人王四十二代文武天皇・人王四十四代元正天皇両帝の御父なり。御母持統天王の勅による、大津皇子を殺ふ。その罪に依り三年を歴二十八歳にて薨去さる」と記されているという。
岡本氏は、この「持統天王の勅」という言葉が問題だとする。
なぜならば、天皇が亡くなったならば、皇太子が政治を行うのが習慣であり、草壁皇子が皇太子だったとすれば、勅を出すのは草壁皇子であるはずだ、ということである。
にもかかわらず、草壁皇子がその勅を受けたというのは、どういうことか?
それを岡本氏は、次のように推測する。
a 『日本書紀』の天武12(683)年2月朔に、「大津皇子始聴朝政」とあるのは、大津皇子が皇太子の政務をとったことを示している。
b 『日本書紀』の編者は、大津皇子と記された部分を、高市皇子もしくは草壁皇子に書き換えたが、書き換える必要がないとして誤って残した
c 飛鳥で大津皇子と書いたと思われる木簡の削り屑6点が出土しており、原資料の都合の悪い大津皇子を削ったものと考えられる
d 和蹔における高市皇子の行為は大津皇子の行為だったと考えられる。とすれば、この部分で4箇所の大津皇子名が削除されたと考えられる。
e 残りの2箇所は、8月25日の近江の群臣の処罰記事を、大津皇子から高市皇子に書き換えた部分、大津皇子の立太子記事を草壁皇子に書き換えた天武10(681)年2月1日の記事、と考えられる
『日本書紀』の「吉野の盟約」の記事(天武8(679)年5月6日)では、草壁皇子「尊」と表記されているが、『続日本紀』の天平宝字2(758)年の淳仁天皇の勅に「日並知皇子命、天下未だ天皇と称せず。尊号を追崇するは古今の恒典なり」とあって、それまでは日並知皇子命であって、日並知皇子尊ではなかったということになる。
「尊」号は、天皇または皇太子にのみ使用されるものであり、草壁皇子は「尊」号の使用されないただの皇子だったと推察される。
『日本書紀』では、草壁皇子の立太子は天武10年(681)年で、吉野の盟約の時点では皇太子ではなかった。
にもかかわらず、皇太子の扱いをしているのは、元正天皇が「草壁皇子が皇太子だった」と主張しなければならない何らかの理由があったのではないか。
その理由を、岡本氏は次のように推測している。
吉野の盟約は、皇太子候補の大津皇子に対する忠誠を、権力欲の強かった鸕野皇后(持統)とその子の草壁皇子に誓わせるものであった。
それでなければ、「兄弟仲良くする」という程度のことに、「此の盟の如くならずば、身命亡び、子孫絶えむ」「盟に違はば、忽ちに朕が身を亡はむ」などという大袈裟な(極限的な)言葉が使用される理由が分からない。
もし、草壁皇子が皇太子候補だったとすれば、鸕野皇后の性格をよく知っていた天武がそれほど心配する必要はなかったはずである。
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