岡本正太郎氏の高松塚被葬者論…①古代尺について
岡本正太郎氏には、『高松塚古墳と大津皇子-古代尺度が解く千三百年の謎』梓書院(8706)というタイトルの著書がある。
タイトルから分かるように、岡本氏は、被葬者を大津皇子に比定している。
そして、その論拠は、サブタイトルに示されているように、尺度論が中心である。
岡本氏の結論は、「はじめに」に記されている。
①設計は皇太子設計
②尺度からは西暦688年
③葬方位制度からは嫡長子
688年は、天武天皇と大津皇子の2人が亡くなっている。
高松塚の被葬者を大津皇子ではないか、とする見解に対しては、大津皇子は謀反人であり、高松塚のような立派な墓に葬られるはずがない、という反対意見がある。
岡本氏は、この否定論を乗り越えたとしている。
岡本氏は、古代の尺度について、冒頭で次のように書いている。
古代史では、古代尺として高麗尺と唐尺が一般的ですが、古代にはこの他に日本古来の尺度や他の渡来尺は存在しなかったのでしょうか。分析学、放射線科学までが応用される現代考古学において、全く調査解明のメスが入れられず、江戸・明治の文献や研究がそのまま通用する、という古代史の盲点ともいえるのがこの古代尺の分野です。
そして高麗尺は、文献・遺構・遺物のいずれにも存在しないことは明らかで、実在しないまぼろしの尺度である、と論じている。
どれでは、なぜ高麗尺が使用されていた、とする見解が通用していたのであろうか?
新井宏『まぼろしの古代尺-高麗尺はなかった』吉川弘文館(9206)も、タイトルの示すように、高麗尺の存在を否定しているが、次のように記している。
日本の歴史で、はじめて「尺度」が具体性をもって登場してきたのは「大化改新」の税制や墓制を定めた詔勅のなかである。これを契機に、それまでの「尋」や「高麗尺」から唐制移入による「唐尺」に統一が進んだ。したがって「唐尺」以降の尺度の変遷については、かなり詳細にわかっている。
ところが、大化前代に存在したといわれる「高麗尺」については、後代になって律令の解釈をまとめた『令集解』と『政事要略』に測量法として現れているのみで、「厳密にいえば、この尺度で作られたと証明できる建物も物も、今のところ見つかっていない」といわれている。ただ法隆寺の建物測量結果や飛鳥寺の発掘調査結果あるいは平城京の地割復元などから、「唐尺」の1.2倍の「高麗尺」が半ば定説化しているだけである。
つまり、『令集解』で高麗法と称する測量法に言及されているものの、明確にこの尺度で作られたとし得るものは存在を知られていない、ということである。
岡本氏は、建物や古墳などを測量する場合、何を測っているかについて、以下の区分けを明確にしなければならない、とする。
①内法測定法
②柱心・心測定法
③外法測定法
④これらの混用
そして、②柱心・心測定法は、江戸を中心に適用されてきたとされるものの、江戸城内の殿舎が内法測定法による京間を単位としていることからして、まだ350年ほどしか経っていないものだとする。
つまり、それ以前は、京間建築と考えなければならないが、考古学者が「高麗尺」や「天平尺」としているものは、柱心・心の測定法により算出していると批判している。
近世の尺度割出方法で、古代建築の尺度を算出しており、それでは柱の太さによって、柱心・心の長さが変化するので、造営尺を割り出すことは不可能だということである。
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