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2008年11月14日 (金)

『まぼろしの邪馬台国』

「邪馬台国論争」は、実に息の長い論争である。
江戸時代の新井白石や本居宣長なども言及しているが、近代史学においては、明治末に白鳥庫吉・東大教授と内藤湖南(虎次郎)・京大教授という東西の碩学が論争したことが有名である。
それからでも、既に100年になる。
この間、アカデミズムの巨頭からアマチュア史学者まで、数多くの邪馬台国論が論じられ、著作が出版されているが、どうも万人を納得させる決定打は得られていないようである。

しかし、論争史そのものが、推論の集積であって、思考技術の練習問題として格好の材料ではないかと思われるし、推理小説の謎解きに挑戦するような面白さがある。
そんなこともあって、いつか(老後に)邪馬台国論争を俯瞰してみようと、「邪馬台国関連本」を買い集めていた時期があった。

そして「邪馬台国関連本」が書架に溢れるようになっていたのを知っていた妻が、TVの宣伝を見て、『まぼろしの邪馬台国』という映画を観に行きたい、と声をかけてきた。
原作の宮崎康平『まぼろしの邪馬台国』講談社(6701)は、一世を風靡したベストセラーである。
出版された頃はまだ邪馬台国などに関心のないときだったので、しばらく後になってからのことだとは思うが、私も読んだことがあったので、映画を観にいくことにはすぐに賛成した。
康平氏の著書を読んで、康平氏の執念には脱帽する思いがしたことは覚えているが、推論として、「なるほど!」と膝を打ったような記憶はない。

宮崎康平氏の略歴を、『新装版まぼろしの邪馬台国』講談社文庫(0808)の奥付により見てみよう。

1917年、長崎県生まれ。早稲田大学文学部卒業。文学の道を目指し東宝文芸課に入るが、兄の戦死により帰郷。島原鉄道代表取締役となる。30代前半で失明。失明後、慰留されるも島原鉄道の職を辞す。1957年島原鉄道の強い要請で常務取締役として復職。鉄道建設の際の土器出土に興味を示し、考古学を志す。1965年「まぼろしの邪馬台国」を「九州文学」に連載開始。1967年、同書で第1回吉川英治賞を夫婦で受賞。1970年代の邪馬台国ブームを全国に巻き起こす。1980年逝去。

夫人も一緒に受賞しているのは、康平氏が盲目であったため、康平氏の邪馬台国探究を夫人が献身的に助けたことによる。
康平氏が盲目になってしまったことは、もちろん大きなハンディキャップではあったが、邪馬台国探しにとっては武器にもなり得た。
記紀を音を頼りに解読するという方法が、漢字の表意性による誤読から解放される、ということにおいて優位であったのだ。
漢字の表意性とは、「天(アマ)」という字から、天上を想像してしまう、というようなことである。

映画の配役は、康平役が竹中直人、和子役が吉永小百合である。
康平はワンマンで粗野な社長であると同時に、知的好奇心が旺盛で(読書範囲は、三国志や記紀はもとより、ドストエフスキーやマルクスなどに及ぶ)、かつ子供に深い愛情を注ぐ人物として描かれているが、粗野で強圧的な印象が強く残る。
だから、吉永小百合演ずる和子が、康平の言うがままに、同棲生活(康平が別離した妻と正式に離婚が成立していないので結婚できない)を始めてしまうのがどうも納得的ではない。
この辺りは、映画では必ずしも十分な説明をしていないが、そういうリアリティは追求していないのだろう。

後に、息子の計らいで離婚が成立し、正式に結婚する。
その間の和子(吉永小百合)の献身ぶりは、竹中直人と吉永小百合というキャラクターにより、余計そう感じさせられるのかも知れないが、驚異的というような姿で演出されている。
見終わって、妻に「少し見習ったら……」と言おうとしたら、「私にはとてもムリ……」と先制されてしまった。

それにしても、吉永小百合という女優は、年を重ねるに連れ、魅力を増して来るように感じられる。
私とは同年代であり、高校の頃から小百合演ずる青春映画を観てきた。
その頃は、何だかあかぬけない感じがして、いわゆるサユリストの心情が理解できなかったが、この映画などを観ると、小百合ファンが多いのも肯ける。

康平氏は、略歴にみるように早稲田大学での出身で、森繁久弥と仲が良かったという。
学生時代を送った昭和10年代は、早稲田の教授だった津田左右吉が、神代史の研究において、記紀神話の虚構性に言及し、教授の座を追われたりした古代史の暗黒時代ともいえる時期である。
康平氏は、その津田左右吉に教えを受けたのだった。
そのことが、古代史への関心の大きな要因となった。

康平氏の作詞作曲になる「島原の子守唄」という歌がある。
森繁久弥が歌って全国に広まった。映画の中にも挿入されていたが、しみじみと心に染みるいい歌だと思う。
また、康平氏は、歌手のさだまさしのデビューのきっかけを作ったともされる。
映画の中での康平氏は、労働組合との団交で強圧的な態度に出たり、周囲に暴力を振るったりと、品格という言葉とは縁遠いように描かれている。
しかし、上記のような話を総合すると、実際の康平氏は、竹中直人が演ずるところの映画の中の康平よりも、もっと品格のある人物ではなかったかと思われる。
実際に、単行本の口絵の康平氏の写真は、温厚な雰囲気を感じさせ、竹中直人の印象とは大分異なる。
とすれば、和子夫人の献身も理解できなくはない。

ところで、康平氏の邪馬台国の比定地は、結果として、長崎県北高来郡、南高来郡、西彼杵郡および長崎市、諫早市、島原市を結ぶその周辺であった。
そこは、康平氏の故郷である。
邪馬台国の比定地は、畿内、北九州の2大説を中心に、全国の各地(というよりもジャワ・スマトラやエジプトなどの海外まで)に及んでおり、かつては村興しのテーマといえるような事態もあって、「邪馬台国誘致運動」などと皮肉を言われることもあった。

彼自身、「ふるさとを愛するのあまり、なんでもこじつけたがる郷土史家にありがちなドグマ(独断)と受け取られはしないだろうか」と自問している。
『まぼろしの邪馬台国』は、邪馬台国探しというミステリーの要素と、盲目の夫とそれを献身的にサポートする妻という夫婦愛の要素が重なり合ってベストセラーになったのだろう。
しかし、映画では、邪馬台国探しには余り重点が置かれていない。

いささか手詰まり感もあるのだろうが、最近では、邪馬台国論争はやや下火になったように感じられる。
とはいえ、新材料探しにはウノメタカノメで、1997年に天理市柳本町の纏向遺跡で、33面の三角縁神獣鏡と1面の画文帯神獣鏡が副葬当時に近い状態で発見された時には、邪馬台国論争に決着をつけるものとフィーバーしたことは記憶に新しい。
しかし、卑弥呼の墓であることを決定的に証拠づけるもの(例えば「親魏倭王」の金印など)でも出土しない限り、論争が決着することはないだろう。
外野席にいるアマチュアにとっては、その方が、楽しみの要素が残されていることにもなって好ましいとも言えるのではあるが。

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コメント

初めまして、いつも書かれていることには関心を寄せられることが多く、印象強く読ませて頂いています。
私は今、五十を少し出た年齢ですが、小学校時代の授業で世の ‘邪馬台国論争’ のことは教えられました。
こちらの文章で、その昭和40年代どころか、江戸時代より続く 日本の古代史の命題 である ということが分かります。
医学の進歩により不治の病がなくなり、科学の進歩では人類が宇宙に行く様になった今日、邪馬台国については尚、不明なままであるということは、はっきり云って歯がゆいことです。
考古学上でも、日本の歴史をより明確にするのにも、この論争の決着を得て漸く前進への道筋が立つのではないかという思いを、私は持ちます。

投稿: 重用の節句を祝う | 2008年11月15日 (土) 12時00分

有り難うございます。
お目に止まって幸いです。このようなコメントをいただくと、何より励みになります。
邪馬台国については、文字通り汗牛充棟という次第ですが、多くは思い込みが先行しているような気がしています。
いつの日か、自分なりの考えを整理できればと思っていますが、とりあえずは諸家の論議を楽しみたいと考えています。

投稿: 管理人 | 2008年11月15日 (土) 23時17分

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