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2008年11月 1日 (土)

小林惠子氏の高松塚被葬者論…⑧高松塚に関する史料

小林惠子氏は、『高松塚被葬者考―天武朝の謎 』現代思潮社(8812)において、高松塚に関する記録をレビューしている。

江戸時代までは、史料的にはさしてみるべきものはないようである。村人たちによって、皇陵として細々と奉祭が続けられていたことが伝承されている。

江戸時代になると、松下見林の『全王廟陵記』(元禄9(1969))が世に出、『延喜式』(諸陵寮)に文武陵とある安占岡陵を、高松塚に比定する方向性が示された。
2_2元禄10年に、幕府による皇陵の探索が始まるが、高松塚は所伝がないことから皇陵から外された。
しかし、不分明陵とされたものについてもさらに検分が続けられ、高松塚については、与力玉井与左衛門・中条五左衛門が担当し、以下のような報告書が書かれたという。
①高松塚は文武陵と考えられる。
②高さ2間半、根回り27間で一里塚のようであり、平芝山の中で切り崩した残りのようである。
③塚の上に松が15本ある。自然木の枝を伐っても祟りがあるといわれる。
④周囲の竹垣は27間と見積もられる。

上記では、松が15本ある、とされているが、嘉永7(1854)年の津久井清影『聖蹟図志』の絵図では、松が3~4本生えている図になっている(上掲書より引用)。
この絵図では、高松塚は、檜隈安占岡上、文武天皇陵とされている。
安政2(1855)年、文武陵は現在の天武・持統陵とされ、天武・持統陵は丸山古墳とされて、高松塚は皇陵から外されることになった。

小林氏は、皇陵から外された高松塚は、天皇陵に間違いない、とする。
その論拠は以下の通りである。
第一に、壁画の従者たちがすべて南向きに歩いて行く様子として描かれており、被葬者に南向きの意識があった可能性がある。
南面している陵墓は、天子南面の思想からして、陵墓である可能性が高いと考えられる。
また、高松塚の名の通り、松が植えられていたことが特徴であるが、中国では陵墓には必ず木が植えられ、その中に必ず松があったという。
つまり、南面と松からして、高松塚は天皇陵であると考えられる。

天皇陵にしては規模が小さい、という意見があるが、大化薄葬令には王以上の墳丘は方9尋とあるが、1尋を180cmとすると、高松塚の規模(直径20m)は王以上を超えている。
また、高松塚からは鏡と刀と玉という三種の神器が出土している。これについては、梅原猛氏も、皇位継承のしるしとしている(08年9月14日の項15日の項)。
2_3三種の神器意識がいつから生じたのか、高松塚出土の鏡・刀・玉が三種の神器であるのか否か等について議論があるが、小林氏は、出雲勢力が大和勢力に統合された時代あたりから、三種の神器の意識が生まれた、とする。
天武は渡来人であった、というのが小林氏の持論であり、天武は土着勢力を懐柔するために、日本古来の風俗習慣を尊重しなければならなかった。
そして、「高松塚の場合、持統朝以前の三種の神器意識をもって、被葬者の天皇という身分を表明するために、三種の品を入れた」としている。

壁画については、梅原猛氏の「地下の朝賀」説がある(08年9月21日の項)。
朝賀説にも異論はあるが、小林氏は、従者が朝賀の儀式に持つ物と同様の物を持っているということは、被葬者が天皇であることを意味している、とする。
朝賀の調度品とは図に示すようなものである(上掲書)。
『続日本紀』の大宝元年正月の記事は有名であるが(08年9月9日の項)、平成20年6月28日の新聞は、藤原宮跡で、この時に幢幡(ドウバン:旗)を立てたとみられる支柱跡が見つかったことを報じている。

『続日本紀』の記載を再引しよう。

春正月一日、天皇は大極殿に出御して官人の朝賀を受けられた。その儀式の様子は、大極殿の正門に烏形の幢(先端に烏の像の飾りをつけた旗)を立て、左には日像(日の形を象どる)・青竜(東を守る竜をえがく)・朱雀(南を守る朱雀をえがく)を飾った幡、右側に月像・玄武(北を守る鬼神の獣頭をえがく)・白虎(西を守る虎をえがく)の幡を立て、蕃夷(ここでは新羅・南嶋など)の国の使者が左右に分れて並んだ。こうして文物の儀礼がここに整備された。

2_4もちろん、藤原宮跡の支柱跡が『続日本紀』大宝元年正月の朝賀に用いられた幢幡のためのものとは断言できないが、木下正史東京学芸大学特任教授(考古学)は、「出土遺構と続日本紀との符合から、大宝元年の朝賀の儀の跡と見て間違いないだろう。本格的律令国家成立をうたい上げた世紀の祭典が目の前によみがえるような痛快な発見だ」としている(朝日新聞080628)。

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