岡本正太郎氏の小林説批判…郭務悰と壬申の乱
小林惠子氏の論説は、博識で多様な資料に言及しているが故に、というべきであろうが、論理の筋道(理路)を辿り難いと感じるのは私だけではないだろう。
当然のことながら、小林説を否定している論者もいる。
以下では、偶々目にした岡本正太郎氏の『「高松塚被葬者考」批判』(「古代文化を考える第20号」(8907)所収)と題する論文をみてみたい。
岡本氏は、小林氏が、『高松塚被葬者考―天武朝の謎 』現代思潮社(8812)において、以下のように書いている箇所に疑問を呈する。
(大海人皇子は)六七二年(壬申)六月、近江京に不穏な動きがあるという口実をもって、吉野を出て兵を募りながら、美濃国の不破(岐阜県不破郡関ヶ原)に入る。ここにいわゆる、壬申の乱が始まった。
大海人は吉野に入る前から、新羅と唐人に援軍を要請していたが、彼が吉野を出ると時を同じくして、西南の要衝である筑紫大宰府と吉備地方は、それぞれ郭務悰率いる唐人の軍勢と新羅軍によって押さえこみに成功する。
岡本氏は、以下のように批判する。
郭務悰は、天智10(671)年11月に合計2000人で比智嶋に到着しているが、大友元(672)年の3月30日に帰国している。
壬申の乱が始まったのは、大友元年6月だから、郭務悰等は、壬申の乱に参戦することはあり得ない。
注:岡本氏が郭務悰の帰国を3月30日としているのは、5月30日の間違いと思われる。
『日本書紀』の、天武即位前紀の記述は以下の通りである(宇治谷孟・全現代語訳『日本書紀日本書紀〈下)』講談社学術文庫(8808))。
十二月、天智天皇はお崩(カク)れになった。
元年春三月十八日、朝廷は内小七位安曇連稲敷を筑紫に遣わして、天皇のお崩れになったことを郭務悰らに告げさせた。郭務悰らはことごとく喪服を着て、二度挙哀(コアイ:声をあげて哀悼を表わす礼)をし、東に向かっておがんだ。
二十一日、郭務悰らは再拝して、唐の皇帝の国書と信物(その地の産物)とをたてまつった。
夏五月十二日、鎧・甲・弓矢を郭務悰らに賜わった。この日郭務悰らに賜わったものは、合わせて絁千六百七十三匹・布二千八百五十二端・綿六百六十六斤であった。二十八日に、高麗は前部富加朴らを遣わして、調をたてまつった。三十日、郭務悰らは帰途についた。
小林氏は、『白村江の戦いと壬申の乱 補訂版―唐初期の朝鮮三国と日本』現代思潮社(8805)において、郭務悰が帰国したのは、大友元(672)年ではなくて、天武2(673)年であり、それが本当の天武元年であるとしている。
『日本書紀』は、郭務悰に関する3月、5月の記事は、故意に大友元(672)年と天武元(673)年を混同して記載しているのである、という。
3月条は、『日本書紀』の記載通りの即位前紀で壬申年のことであり、5月条は、翌年の当時の天武元(673)年の出来事であったのを同じく壬申年に記載したのである、とするのである。
つまり、郭務悰らは、672年の壬申の乱を通じて滞在していた、というのが小林説である。
この小林氏の、郭務悰673年帰国説は、少なくともこの箇所からだけでは説明不足であることを否めない。
『日本書紀』の記述を素直に読めば、郭務悰らが5月に帰途についた後に、大海人が挙兵したと考える方が自然であろう。
小林氏も唐国と近江朝とが親和的であることを認めており、唐国と郭務悰らの唐人とを区別して考えなければならない、としている(p176)。
しかし、上記の『日本書紀』の記述にあるように、郭務悰は、唐の皇帝の国書をたてまつっているのであるから、唐国の意向と反対の政治的動きをしたとは考え難いのではなかろうか。
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