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2008年11月

2008年11月30日 (日)

邪馬台国に憑かれた人…①原田大六と「東遷」論

渡辺一衛『邪馬台国に憑かれた人たち』学陽書房(9710)に登場する研究者のトップバッターは、原田大六である(以下、関連稿においては敬称略)。
原田大六は、WIKIPEDIAでは、以下のように解説されている。

福岡県糸島郡前原町(現前原市)に父・猪之助、母・ユクの長男として生まれる。福岡県立糸島中学校(現在の福岡県立糸島高等学校)在学中に安河内隆教諭の薫陶を受け、考古学に傾倒。中学卒業後、上京、就職、召集、復員の後、故郷に戻り、中山平次郎博士に師事。地域の発掘・調査を通じて、天皇家の故郷は、自分の郷土であると確信を持つに至る。
昭和40年(1965年)、前原市有田で平原遺跡を発見、八咫鏡と平原遺跡出土鏡の近似性を推測、被葬者を天照大神であると推量した著作「実在した神話」を出版し、世に衝撃を与えた。

原田大六は、邪馬台国問題に関する主著『邪馬台国論争』三一書房(6905)において、以下のように「邪馬台国問題の現状(当時)」を批判している。

(戦前・戦中には一般に知る人の少なかった「魏志倭人伝」によって)正しい歴史を知ろうとする傾向は、まことに結構なことであった。しかし、邪馬台国の所在地を、九州と畿内という二つに分けてしまって、それを対立のまま持ち出し、世間に「邪馬台国ブーム」までつくってしまった学者達に、「結構なことでございますね」とは挨拶にもいえないのである。なぜならば、それらのなかには、戦前の歴史をうまく裏返してみせただけのものがあり、科学らしくみせて非科学のとりことなるもの、他人の研究成果を寄せ集めてひとかどの大学者になったつもりでいるものなど、その実態はまことにひどいもので、戦後二十数年の邪馬台国研究に進展はなく、虚構が歴史学の中にいつの間にかもぐりこんで、小説とも歴史ともつかぬものに堕落してしまっているのである。

まことに手厳しいが、宮崎康平『まぼろしの邪馬台国』講談社(6701)などによって、「邪馬台国ブーム」が大衆的に盛り上がっている状況に対し、学者の側から、新規的・進歩的な見解が提示されていないと論難しているのであろう。
原田大六の師事した中山平次郎は、大正から昭和にかけて、北九州の遺跡を調査研究した考古学者だった。
中山は、北部九州の弥生時代の甕棺墓から出土する鏡・剣・玉などの副葬品が、古墳時代の古墳から出土する副葬品と連続していることに着目し、畿内の弥生時代と古墳時代のつながりよりも、北九州の弥生時代と畿内の古墳時代のつながりの方が強いとした。

原田は、徴兵されて中国に出兵したが、敗戦後帰国して兵隊服姿で、1人で福岡市内の6畳間で暮らしていた老考古学者の中山平次郎を訪ね、入門を許される。
毎日のように、マンツーマンの講義を受けたという。
原田は、中山の「九州北部の弥生→畿内の古墳」の連続性の考えを受け継ぎ、弥生時代の北九州勢力が畿内に入って邪馬台国をつくった、という「東遷仮説」を展開した。

京都大学を中心とする畿内説論者は、畿内の弥生時代の勢力が、大和を中心とする邪馬台国をつくった、としている。
原田説は、邪馬台国成立以前の2世紀代まで、倭国の中心は北九州であり、その勢力が、2世紀末に畿内に遷移して大和に邪馬台国をつくったとするものである。
この考えでは、畿内の弥生時代と古墳時代の間には断絶があることになる。
考古学的には、弥生時代の畿内では銅鐸が祭器であり、古墳時代の鏡・剣・玉による信仰体系とは異なっている。

邪馬台国論争の1つの焦点として、「三角縁神獣鏡」の問題がある。
「三角縁神獣鏡」とは、文字通り、銅鏡の縁部の断面形状が三角形の神獣鏡であって、古墳時代の古墳から多数出土している。
「魏志倭人伝」に、卑弥呼が魏の皇帝から鏡を下賜された、という記述があることから、その鏡が「三角縁神獣鏡」であるのか否か、という問題である。
「三角縁神獣鏡」が出土するのは、主として畿内の古墳であり、卑弥呼が下賜された鏡が「三角縁神獣鏡」であるなら、邪馬台国畿内説が有利になる。

もう1つの重要な論点は「高地性集落」である。
瀬戸内海沿岸部や、大和盆地の周辺部に、人が居住するのには適さないような高地に多くの遺跡が残されている。
これらの遺跡は高地性集落と呼ばれているが、戦争のためn見張台や避難場所と考えられている。
つまり、平時に使用されたものではないだろう、ということである。
とすれば、「魏志倭人伝」に記された「倭国大乱」と結びつけて考えるのが自然である。

問題は、高地性集落が、畿内から西へ西遷したのか、北九州から東へ東遷したのか、である。
戦後、高地性集落に関する研究が進んで、東遷説に有利に展開している。
つまり、北九州と畿内との統一は、畿内の勢力が北九州に進出して統一したと考えるよりも、九州の勢力が畿内に進出して統一した、と考える方が合理的である、ということである。

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2008年11月29日 (土)

倭国大乱と卑弥呼共立

日本古代史の通説的立場を代表する書としてしばしば引用させていただいている笹山晴生『日本古代史講義』東京大学出版会(7703)を見てみよう。
邪馬台国は、「第3章 国家の起源」に登場する。
「第1章 日本の原始社会」は、先土器文化の時代から、縄文文化の時代を解説している。
「第2章 農耕社会の形成」は、水稲耕作と金属器を伴う弥生文化の成立と進展を解説している。
そして、第3章は、農業生産の発展の結果として、列島各地に政治集団が形成されてきた弥生中期を経て、弥生後期についてである。

弥生後期には、政治集団相互の激しい抗争が繰り返され、より広汎な地域の政治的連合が形成された。
国家の原初的な形態が整えられた時代と位置づけられる。
東アジアの古代文明の中心は中国であり、日本列島も、中国の動向に大きく左右された。
2世紀後半に入ると、中国では後漢の勢力が衰退し、朝鮮半島における楽浪郡の規制力が失われた。
それまで、楽浪郡を通じて後漢の保護を受けてきた九州北部の政治集団もその影響を受け、九州北部の墓からは、2世紀以後、それまでの豊富な舶載品が消え、鏡も中国製に倣った仿製鏡が増加する。
朝鮮半島から九州北部への文物の輸入が停滞した結果である。

九州北部の停滞に比し、瀬戸内海沿岸地域の岡山平野や大阪平野、あるいは奈良盆地などの地域で、農業生産が著しい発展をみせる。
『三国志』の魏書、東夷伝倭の条、いわゆる「魏志倭人伝」には、2世紀の後半に、倭国で大きな戦乱が起こったことが記されている。
戦乱はいく年も続いたが、卑弥呼と呼ぶ一女子を王に共立することによって、治まった。
この倭国の大乱の様子は、鉄・銅・石製の実用的武器の増加や、高地性集落の出現状況などの考古学的事象とも整合している。

この戦乱を通じて、地域における政治集団の抗争が繰り返され、より大きな地域的政治集団への統合が進み、有力な政治集団を中心とする広汎な政治的統合体の成立が促進された。
西日本各地で弥生式土器の様式が次第に斉一化してくることも、このようなより大きな政治集団の出現を示していると考えられる。

「魏志倭人伝」によれば、倭国大乱のなかで共立された女王卑弥呼が都したのが邪馬台国である。
女王は、奴・伊都・末盧などの九州北部の諸国を含む28国を従えていた。
その邪馬台国は、どにあったのか?
上掲書は、教科書としての立場から、「この邪馬台国については、周知のように、その所在地をめぐって、九州北部(筑後国山門郡・肥後国菊池郡山門郷など)と、畿内の大和とみる説との両説がある」と両論併記である。

そして、この両説のいずれをとるかは、卑弥呼を中心とする政権を、大和を中心に九州北部をも統属下に入れる全国的な政権とみるか、または九州北部を中心とする地域的な政権とみるかの立場の相違を生むことになる、としている。
それは、3~4世紀の統一的政権形成の過程の理解に大きな影響を及ぼすが、いまだに解決をみていない、とする。

「魏志倭人伝」によれば、倭人の社会には身分の別があり、卑弥呼には婢1,000人が侍していた、という。
卑弥呼の時代には、身分階級の分化が進み、各政治集団の首長は、階級的支配者への道を歩み始めていた。
卑弥呼の王権は、自立性をもつこれら政治集団の上にあって相互の対立を回避し、支配者層の共同体的団結を強め、維持していくために存在したと考えられる。

220年に後漢が滅びた後、朝鮮半島は、魏・呉・食の三国鼎立の時代になる。
華北を統一した魏は、238年に遼東の公孫氏を滅ぼして楽浪・帯方の2郡を接収して朝鮮半島における中国の直接支配体制を樹立しようとした。
翌239年、卑弥呼は難升米を帯方郡に送り、魏の皇帝へ朝貢を願った。
帯方太守は難升米を洛陽に送り、明帝は、卑弥呼に「親魏倭王」の金印紫綬を与えた。

245年ごろ、朝鮮半島では韓族の反乱が起き、連合して帯方郡を攻めて、太守弓遵を戦死させた。
日本でも、卑弥呼と南方の狗奴国との間に争いが起きた。
卑弥呼は帯方郡に急を告げ、救援を頼んだ。
247年、帯方太守の使張政は、魏の国王から授けられた詔書と黄幢(軍旗)持って、日本に来て告諭した。
この頃、卑弥呼は死し、男王がたてられたが国内が服さず戦闘がおこり、卑弥呼の宗序で13歳の壱与(台与)を王に立てて収まった。

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2008年11月28日 (金)

御廟山古墳(陵墓参考地)を一般公開

042今朝の朝刊各紙によれば、仁徳天皇陵(大山古墳)などで知られる百舌鳥古墳群にあり、陵墓参考地に指定されている御廟山古墳を、宮内庁と堺市が発掘し、一般公開されることになった。
陵墓参考地とは、被葬者を確定できないものの皇族の墓所の可能性が考えられるものである。

陵墓に関する宮内庁の姿勢は、WIKIPEDIA(08年11月18日最終更新)によれば、以下の通りである。

「陵墓は皇室祭祀の場であり、静安と尊厳を保持しなければならない」という理由で考古学的調査の許可を拒み続けている。また、歴史学的・考古学的信頼度については「たとえ誤って指定されたとしても、祭祀を行っている場所が天皇陵である」としている。

012陵墓参考地も、陵墓に準じて考えられている。
自分の先祖の墓として考えれば、研究調査のためとはいえ、その墓を暴くような行為が気持ちのいいものでないことは当たり前の感情だろう。
だから、私人については、当人の意思が尊重されるべきだと思う。
しかし、私は、皇室は最大の公共財であると考えるものである。
また、古代史の謎を解明するうえで、陵墓の調査は不可欠と考える。
そういう観点から、一般への公開を拒んできた宮内庁の姿勢には疑問を持っていた。

そもそも、上記のWIKIPEDIAにあるように、「誤って指定されている」と考えられるケースも少なくないらしい。
やはり、なるべく正確な比定をして欲しいと思うのも、自然な感覚なのではないだろうか。
宮内庁の姿勢も、「調査の許可を求める考古学界の要望もあり、近年は地元自治体などとの合同調査を認めたり、修復のための調査に一部研究者の立ち入りを認めるケースも出てきている」ということであり、今回の御廟山古墳の一般公開も、そういう方向性に沿ったものであろう。
今後、宮内庁の姿勢がどうなっていくかは分からないが、基本的にはすべてオープン化することが望ましいのではないかと思う。

もちろん、天皇家といえどもプライバシーに係わるようなことまで、すべてを開示すべきだと主張しているわけではない。
しかし、一般人と対比すれば、プライバシーが制限されることも止むを得ないだろう。
皇室祭祀が、公共的なものなのか、私的なものなのか議論が分かれるところだろう。
天皇制には、多かれ少なかれ、宗教的要素が基盤となっているから、オープン化の方向は、宗教的権威を薄くさせる方向に働くことになるだろう。
その結果として、天皇制の基盤が揺らいでしまうかも知れない。
そういうことを考えると、日本人あるいは日本国のアイデンティティの視点からして、それがいいのか、という議論はあると思う。
しかし、自らの歴史がベールに包まれたままで、多くの不自然な謎が残る状態の方が、むしろアイデンティティを揺るがすことになるのではないか。
まして、現在のようなWEB時代において、宗教的神秘性に依存するような体制が永続するとも思えない。
情報公開した上で、その時代の国民がどう考えるかに委ねるしかないのではないだろうか。

巨大な仁徳天皇陵については、小・中学校の社会科の時間のときから、お馴染みである。
ピラミッドなどと同様に、まさに権力の大きさのシンボルのような陵墓である。
022その工事規模と工事費について、試算した事例を紹介したことがある(08年5月2日の項)。
古代工法での仁徳天皇陵の構築には、現代の巨大ダムと同程度の費用が必要だった、というのが私見を交えたラフな結論だった。

御廟山古墳は、その仁徳天皇陵と同じ百舌鳥古墳群の中にあり、4番目の規模である。
今回の調査で、江戸時代前期に新田開発が行われたとき、溜池としても機能していた古墳の壕が拡張され、墳丘が削られたことが判明した。
その結果、全長は、従来考えられていた186mが、約200mだったということである。
032もちろん、高松塚古墳の例を持ち出すまでもなく、発掘調査には慎重な配慮が必要だと思うが、その時代の最善の努力が行われたならば、発掘による状態の変化は止むを得ないことだと思う。
(図および写真は、朝日新聞081128)

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2008年11月27日 (木)

「憑かれた人たち」と「珍説・奇説」

長い「邪馬台国論争」の歴史の中には、ユニークな立論が少なくない。
思考の方法のショーケースのようなものだから、論争史のレビューは、思考技術という観点からも興味深いものがある。
そのような論者や論考をピックアップして整理した著書として、渡辺一衛『邪馬台国に憑かれた人たち 』学陽書房(9710)や、岩田一平『珍説・奇説の邪馬台国』講談社(0004)がある。

『邪馬台国に憑かれた人たち』の著者の渡辺一衛氏は、素粒子論の研究者で元東京医科歯科大学。「思想の科学研究会」に入会すると共に、同人誌「方向感覚」の創設者の1人として発言してきた。べ平連や救援連絡センターなどの市民運動にも係わってきたという異色の履歴の持ち主である。
『珍説・奇説の邪馬台国』の著者の岩田一平氏は、朝日新聞の記者から、週刊朝日の編集部に配置され、同書出版時には副編集長の職にあった。
両書共に、先人の説を紹介しつつ、自分の考えを適宜折り込むというスタイルで書かれている。
ちなみに、両書に取り上げられているのが安本美典氏で、古田武彦氏あるいは「邪馬壹国」説は、いずれにも取り上げられていない。

『邪馬台国に憑かれた人たち』には、9人の研究者が取り上げられている。
「憑かれる」を辞書で引いてみると、次のような説明が載っている。

つか・れる 3憑かれる】
(動ラ下一)
魔性のものに乗りうつられる。何かそれに操られたような状態になる。
「狐に―・れる」「ものに―・れたよう」

用例としては「妄想に取り憑かれる」など、余りいいイメージでないような気もするが、要するに魅力的な対象に惹きつけられた状態を言うのだろう。
つまり、「邪馬台国」は、ある種の人たちにとっては、それだけ魅惑的な存在だということである。
そうだからこそ、長く・熱く・深く・広い論争が続けられているのだろうが。

「プロローグ」に、渡辺氏の問題意識が示されている。
渡辺氏は、「邪馬台国畿内説」である。
そして、「邪馬台国の所在地問題は、いずれは考古学の進歩によって解決するだろうと思われてきたが、しかしそれがこんなに早く具体化されるとは、予想できないことであった」と、既に所在地問題は決着したかのような書き方である。

もちろん、邪馬台国の所在地問題が、畿内で決着したかと言えば、そうとは言えない。
考古学的な発見が、九州よりも畿内に多いのは、発掘調査の量の問題による部分もある。
渡辺氏は、出雲の加茂・岩倉遺跡で39個の銅鐸が発見されたことなども、畿内説に有利な材料とみているようであるが、その理路も十分には説明されていない。

渡辺氏は、従来の畿内説の大部分は、畿内の弥生時代の勢力がそのまま邪馬台国を作り、それが大和朝廷の始まりであったとしているが、自説はそれとは異なるとする。
その理由は、畿内の弥生時代から古墳時代には、以下の2つの断絶があるからである。
1.銅鐸を祭器とする弥生時代の畿内と鏡信仰の邪馬台国との間の断絶
-銅鐸と鏡が共存して出土することはない
2.3世紀の邪馬台国と4世紀の大和朝廷の間の断絶
-『記紀』などの日本の史書に邪馬台国が登場しない

渡辺氏の主張は、以下の通りである。
①北九州・吉備の鏡信仰による西からの連合軍が、唐古・鍵遺跡を主都とする銅鐸信仰の畿内弥生勢力を打倒して、纏向を新しい都として邪馬台国をつくった。
②邪馬台国は3世紀の間栄えたが、4世紀になって、大和盆地南端から勃興した新興勢力に滅ぼされて大和朝廷が成立した。
③上記の二段階の変化を経て、弥生時代から古墳時代へと古代日本は転生した。

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2008年11月26日 (水)

「邪馬台国論争」と天皇問題

私は、現在の日本の国を、森喜朗元首相が発言したように、「天皇を中心とする神の国」だとは考えないが、かつてはそういう体制だったと思うし、天皇の名において戦争が遂行され、多くの犠牲が払われたことも、歴史的事実として目を逸らしてはならないと思う。
そして、日本国憲法は、「第一章 天皇」であるから、現在の日本においても、国の成り立ちの根本に、天皇という存在があるわけである。

しかし、天皇とはいかなる存在なのか?
天皇家の出自(ルーツ)はどこか?
天皇制について考える場合、最大のポイントになると思うが、歴史学は明確な解答を示していないように思われる(08年4月25日の項)。
関裕二『検証 邪馬台国論争』ベスト新書(0109)の「第二章 邪馬台国論争の顛末」に、「邪馬台国論争と天皇問題」という項目がある。
関氏は、次のように記す。

改めて述べるが、邪馬台国論争は「天皇」を語るうえで、どうしても避けて通れない道である。天皇が『日本書紀』や『古事記』のいうように、ヤマト朝廷誕生のときから日本の王家だったのか否か。あるいは、かりにその歴史が古かったとすれば、いったい彼らはどこにいて、どのように王権を手に入れることができたのか、これらの問題を考えるうえで、邪馬台国解明は大前提になっている。
『日本書紀』には皇祖神・天照大神の名を大日孁貴(オオヒルメノムチ)と書き、この大日孁貴の「孁」の字を分解すると「巫女」となり、大日孁貴はすなわち「大日巫女」ということになる。これが「ヒミコ」そのものを意味しているのではないかとする有力な説があり、とするならば、八世紀の朝廷は、天皇家の始祖を邪馬台国の卑弥呼に比定していたことになる。
そのためであろう、戦前の歴史の教科書は、邪馬台国をあえて伏せてしまっている。天皇家の始祖がヒミコであったとするならば、「神の子・天皇」という図式が崩れる恐れがあったからだ。
しかも、ヒミコは強大な権力をもって君臨したわけではなかった。あくまで「共立」された王であり、このような事実は、建前のうえとはいえ天皇に全権を委ね、絶対の存在とする明治政府に都合のいいはずはなかった。邪馬台国を隠匿したうえで、歴史を神話から始めたわけである。

戦後、古代史が天皇制のタブーから解放され、自由な論議が可能になった。
大和の神武天皇に始まる歴史という拘束が外れ、「日本国家の起源と邪馬台国との関係」が、史学界だけでなく、国民的関心を呼んだ。
邪馬台国と大和朝廷との関係は?
あるいは、縄文時代はどのように弥生時代に移り、弥生時代から古墳時代へはどのように遷移したのか?
巨大古墳の被葬者は誰か?
天皇家は果たして万世一系か?

戦後の象徴天皇制というのは、合理的なような非合理的なような不思議な体制だと思うが、戦前・戦中の皇国史観に比べれば、はるかに拘束力の弱い体制である。
万世一系でないとしたら、現在に至る皇統の起源は、どこに求められるのか?
小泉元首相の私的諮問機関として、「皇室典範に関する有識者会議」が設置され、これからの天皇制のあり方が論議されたとき、神武天皇のY染色体の継承が重要なのだ、という何となく生物学的根拠に基づいたような意見を聞いたことがある。

私は、仮に神武天皇が初代天皇だったとしても、このような意見はナンセンスだと考える。
特定の男性の遺伝的要素を、男系を通じて継承するとはどういう価値を示すものなのか?
神武天皇自体が、天皇という立場の始祖であったとしても、神武天皇が無から生まれたわけではない。
両親の存在があったはずである。
実際に、『記紀』には、神武に至る系譜まで記されている。
神武の遺伝子が突然変異的に貴重なのだとしたら、その突然変異的要素を、遺伝的に存続させることができるのか?
その突然変異が、他の突然変異と比べて優位である基準は何か?
天皇位に就いたことか?
とすれば、それは遺伝的要素と関係がないだろう。

象徴天皇制と国民主権とを、どう折り合いをつけるのか。
難しい課題だと思う。
「皇室典範に関する有識者会議」の論議は、秋篠宮家に、悠仁親王が誕生したことにより、とりあえず棚上げされた。
しかし、皇位継承問題は、いずれ顕在化することが不可避である。
天皇制のあり方を考える上でも、「邪馬台国問題」は現時点でも重要性を失っていないのではなかろうか。

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2008年11月25日 (火)

「邪馬台国論争」の科学性とイデオロギー性

邪馬台国問題については、『日本書紀』との関連や、江戸時代の新井白石、本居宣長などの論議は別としても、明治43(1910)の白鳥庫吉と内藤湖南(虎次郎)の応酬からでも、既に100年に近い時間が流れている。
「邪馬台国論争」自体が、1つの歴史的な対象になっている、ということができよう。

そういう視点で、論争史を振り返ってみる試みも少なくない。
100年の間に累積された論考は膨大なものであり、とても素人が俯瞰し得るものではないが、『研究史 邪馬台国』吉川弘文館(7105)という労作をまとめた佐伯有清氏が、『邪馬台国論争 』岩波新書(0601)を著し、手堅く論争史をレビューしている。

邪馬台国問題を捉える視角は、その時代の思潮と関連する。
そういう観点から、日本近代史と「邪馬台国論争」との係わりを論じたのが、千田稔『邪馬台国と近代日本』NHKブックス(0012)である。
論争史自体が、近現代史のある側面を映し出している鏡だという見かたは斬新だった。
また、論争史を素人向けに分かりやすく整理しているのが、関裕二『検証 邪馬台国論争』ベスト新書(0109)である。

関氏は、「序章 邪馬台国論争と現代史」において、「邪馬台国論争に隠された近代史」という項目を立て、上記千田氏と共通する問題意識を提示している。
なぜ、多くの学者(だけに留まらないが)は、「邪馬台国」に固執してきたのか?
それは、邪馬台国が、たんなる古代史論争でおさまりきれない問題性を有しているからである。
関氏は次のように言う。

邪馬台国はヤマト建国を解き明かす歴史の基礎であり、邪馬台国がどこにあったかは、謎に満ちた天皇家の正体を明かすことにも直結しかねなかった。したがって邪馬台国論争は、近代の思想や政治から強い影響を受け、ますます問題を複雑なものしていったといえないだろうか。

つまり、「邪馬台国論争」は、邪馬台国がどこにあったのか、とか「邪馬壹国」が正しいのかあるいは「邪馬臺国」が正しいのか、というような、「邪馬台国そのもの」に関する論議と、「邪馬台国問題に、どういう思想的立場からアプローチするか」という論議とがあるわけである。
前者を、「邪馬台国論争の科学的側面」とすれば、後者は「邪馬台国論争のイデオロギー的側面」ということができるだろう。

「邪馬台国論争の科学的側面」に関しては、近年の土地開発の増大に伴う考古学的な成果をどう取り入れるかが、キーとなるだろう。
「邪馬台国」が、もともと文献に出てくることからすれば、本質的には史料批判の問題ではあるが、物証としての考古学的な成果は、十分に考慮する必要があるだろう。

また、史料批判は、『記紀』や金石文などの国内史料を、中国あるいは朝鮮半島との史料との対比において、どう解釈するかにポイントがある。
特に、『記紀』自体に内在する諸矛盾の理解や、神代の記述などは、想像力を働かせる要素が大きい。
森羅万象のすべてを文字(言葉)で表すことはできないから、文字(言葉)で書かれたものは、必ず多義性を帯びる。
つまり、いくら厳密な史料批判を行おうと思っても、必ず解釈の幅が存在することは避けられない、というのが史料批判の宿命だと考えられる。
どこかで、ある程度の恣意性を許容せざるを得ないのではないか。

文字(言葉)に比べれば、数値の解釈の幅は小さい。
そこに、安本美典氏などのような数量的アプローチの価値がある。
数値化された結果は、論議の土俵において、共通の素材となりやすい。
しかし、もちろん、数値化し得る事象は、文字(言葉)で表現される事象のごく一部であるから取り扱い得る対象に限界がある。

史料の解釈の幅は、その人の考え方に依存する。
論争の科学的側面としての史料批判と、イデオロギー的側面は可能な限り切り離すべきであろうが、実際には両者は密接に絡み合っている。

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2008年11月24日 (月)

「壹・臺」論争の帰結

『三国志』「魏志倭人伝」に記されている「邪馬台国」は、『三国志』の現存する刊本では、「邪馬壹国」になっている。
一方、通説は、「壹」は「臺」の誤りとみなし、「邪馬臺国」の「臺」を常用漢字の「台」を用いて「邪馬台国」と表記している。
この「邪馬台国」は間違いであるとして、『「邪馬台国」はなかった」と主張したのが、古田武彦氏であった。

もちろん、古田氏以前にも、「邪馬壹国」という表記であることは周知されていた。
例えば、内藤湖南(虎次郎)は、明治43(1910)年に発表した『卑弥呼考』において、「魏志倭人伝」に「邪馬壹国」とあるのは、『梁書』、『北史』、『隋書』などがみな「邪馬臺国」としており、「壹」は「臺」の訛ったものだとしている。
古田氏は、この通説を、根拠なき原文改訂であり、「壹」が「臺」の誤記であることの明証がない限り、「邪馬壹国」とすべきである、とした。
そして、それが「魏志倭人伝」解明のキーであり、「邪馬壹=山倭=やまゐ」として論を展開した。

ところで、「壹・臺」問題は、邪馬台国の位置問題とどう係わるのだろうか?
古田氏のように、「壹」が正しく「臺」は誤りと考えて位置問題を推論するのも1つの立場である。
しかし、安本美典氏やその他の大多数は、「壹」であっても、「臺」であっても、位置論の追究には大きな差異はない、とする立場であろう。
それは、「壹・臺」問題に関しては、位置を追究した結果をもとに、「壹」が妥当なのか、「臺」が妥当なのかを判断しようということでもある。

もちろん、陳寿の原本は、手書きのものであった。
それが何回も繰り返して写本され、現在の一般的な版本は、12世紀に成立した「紹興本」、「紹熙本」などだとされる。
この間の「邪馬台国」の表記は、鷲崎弘朋氏(『邪馬台国の位置と日本国家の起源』新人物往来社(9609)の著者)によれば、以下の通りである。
http://hpcgi3.nifty.com/washizaki/bbs/wforum.cgi?mode=allread&no=167&page=0#167

後漢書:邪馬臺国
幹苑:馬臺
幹苑所引廣志:邪馬嘉国
梁書:祁馬嘉国
隋書:邪馬臺、邪靡堆
北史:邪馬臺、邪馬臺国
通典:邪馬臺国
太平御覧所引魏志:耶馬臺国
太平御覧所引後漢書:邪馬臺国
冊府元亀所引梁書:邪馬臺国
通史:邪馬臺
三国志版本(紹興本・紹熙本など):邪馬壹国
文献通考所引後漢書:邪馬臺国
文献通考所引魏志:邪馬一国
大明一統志:邪馬一国
図書篇:邪馬一国

鷲崎氏は、宋時代に『三国志』が版本として刊行される前に、『三国志』を引用・参照した史書に、「邪馬壹(一)国」とする表記がまったく出現していないこと、『三国志』版本が出版された以降に『三国志』を引用・参照した史書がことごとく「邪馬壹(一)国」となっていることから、陳寿のオリジナルの『三国志』は、「邪馬臺国」であったと結論付けている。
これが、通説・多数派の立場と言っていいだろう。

古田武彦氏は、『三国志』の刊本に出現する「壹」と「臺」の間に、誤記が皆無であった事実により、「邪馬壹国」は「邪馬臺国」の誤りである、とする従来の考え方に対して、真っ向から否定した。
しかし、『三国志』版本以前の写本では、「邪馬臺国」と書かれていたとみるべきではないか、ということになる。
私は、古田氏の、「邪馬臺国」説がヤマトというよみにひきづられたのではないか、という問題提起や、『「邪馬台国」はなかった-解読された倭人伝の謎』と、いささかセンセーショナルなタイトルで著書を出版したことによって、市民層における古代史ファンの活動を喚起した功績を評価するが、「壹・臺」問題については、やはり「邪馬臺国」の方が妥当なように思う。
安本氏が批判したように、古田氏の論証自体に推論上の難点があることは否定できない。
現在の大勢も、「壹」は「臺」の誤りとするところに帰着しているようである。

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2008年11月23日 (日)

母集団と標本

『三国志』の「魏志倭人伝」に書かれている「邪馬壹国」の「壹」の字は、「臺」の誤記なのかどうか?
それを検証するために、古田武彦氏は、『三国志』の中の「壹」と「臺」の字の全数を取り出して調べた(『「邪馬台国」はなかった-解読された倭人伝の謎』朝日新聞社(7111))。
全数について調べたのだろうから、「いわば悉皆調査である」と私は安易に書いてしまったが(11月19日の項)、安本美典氏は、『三国志』中の86個の「壹」の使用例から、検証対象の「邪馬壹国」(1ヶ所)と、同じく固有名詞の「壹与」(3ヶ所)を除いた82例の「壹」は「母集団」なのか、「標本」なのか、と問題提起している(『邪馬一国はなかった』徳間文庫(8809))。

安本氏によれば、これは「母集団」ではなく、「標本」と考えるべきだ、ということである。
それでは、「母集団」は何か?
『三国志』を書いたのと同じ状況のもとで、「著者の陳寿が用いるであろう「壹」の字のすべての集まりを考えるべきだろう」ということである。

なぜならば、論証の構造は次のようである。
ある母集団から取り出した82個の「壹」の字に関して、「臺」の誤記と認められるものは1例もない。
したがって、この「母集団」の中には、「臺」の字の誤記の結果として生じた「壹」の字は含まれていない、と推論できる。
だから、同じ母集団から取り出した「邪馬壹国」の「壹」の字も「臺」の誤記だとは考えられない。

もし、82個の「壹」の字を「母集団」として考えてしまうと、検証対象の「邪馬壹国」の「壹」はその母集団には属さないことになってしまう。
それでは、論証の構造そのものが成り立たない。
だから、82個の「壹」の字は、「母集団」ではなく「標本」として考えなければならない、ということになる。
その場合の「母集団」は、上記したように、陳寿が用いるであろう「壹」の字のすべてである。

それでは、「邪馬壹国」、「壹与」を含む86個を「母集団」とは考えられないだろうか?
しかし、「邪馬壹国」の「壹」が誤記なのかどうかを検証しようとしている判断基準に、「邪馬壹国」を入れたら、誤記かどうかの判断にならない。
だから、確かに、82個の「壹」の字は「標本」と考えるしかない、ということになる。

私たちは、「標本」調査よりも、全数を対象にした悉皆調査の方が、信頼性が高いはずだ、と考えがちである。
もちろん、一般的にはそう言えるだろう。
しかし、こんな事例もあるから、悉皆調査だから必ずしも的確であるとは言えないという。

例えば、日本の小学6年生の学力調査について考えてみよう。
悉皆調査は、日本中の小学6年生について、学力テストを実施して、その結果を判断する。
標本調査は、何らかの基準で抽出した小学6年生の学力テスト結果によって判断する。
標本調査には、誤差がつき物だから、悉皆調査の方が精度が高いだろう、と普通は考える。

しかし、次のようなケースがないとは限らない。
例えば、成績の悪い子供を、テスト当日休ませてしまう。
あるいは、テストの事前に、特別な対策を講じる。
そうすると、データそのものが変質してしまうことになる。
変質したデータからは、実際の状況を判断する推論は得られない。
上記のような事例は、むしろ標本調査ならば防ぐことができるだろう。
誰が標本になるか分からなければ、対策のとりようがないからである。
http://d.hatena.ne.jp/trivial/20071208/1197047240

あるいは、労働状態について調べる場合を考える。
悉皆調査である国勢調査に、国民の労働状態についての調査項目がある。
悉皆調査であるから、データとしては完璧なものと考えられる。
同様に、毎月の労働状態を、総務省統計局が「労働力調査」によって調査している。「労働力調査」は「国勢調査」に対しては「標本調査」ということになる。

当然のことではあるが、この2つの調査結果が一致するわけではない。
その場合に、無条件で悉皆調査の方が信頼度が高いと判断できるだろうか?
標本調査の「労働力調査」の場合、作為が働いたとは言えないとしても、失業者のいる世帯を「標本」として調査することが難しいかも知れない。
あるいは、悉皆調査に未回答が多ければ、その分の誤差が生じるのは避けられない。
また、両調査とも、「完全失業者」とは、「1.仕事を少しもしなかった/2.仕事を探していた」に該当する人と規定しているが、「仕事を少ししていたが、仕事を探していた」人が、「仕事を探していた」と回答すれば、完全失業者に区分されてしまう。
「仕事をしたいと思っていても、具体的な求職活動をしていない人」が、「仕事を探していた」と回答すれば、調査の趣旨からは「非労働力人口」に区分されるべき人が、やはり「完全失業者」に区分されてしまう。
定義や回答方法の理解については、悉皆調査よりも標本調査の方が高くなるとも考えられ、一概に悉皆調査の方が精度が高いとはいえない、ということもある、ということである。
http://column.onbiz.yahoo.co.jp/ny?c=al_l&a=025-1205833526

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2008年11月22日 (土)

帰無仮説-「否定の否定」の論理

古田武彦氏は、「邪馬台国問題」を追究するに際し、『三国志』のいわゆる「魏志倭人伝」において「邪馬臺国」という表記ではなく、「邪馬壹国」という表記になっていることに着眼し、この「壹」が「臺」の誤記であるかどうかを検証しようとした。
そのために、紹熙本『三国志』全体の「壹」と「臺」を全部抜き出して、それらが、それぞれ「壹」と「臺」とを取り違えているケースがあるかどうかチェックした。

『三国志』の中に、「壹」は86個あった。86個から、「邪馬壹国」(1個)と卑弥呼のあとをついだ女王「壹与」(3個)を除くと、計82例があったことになる。
また、「臺」は56個あった。これらの82個の「壹」と56個の「臺」の字について、壹を臺に、臺を壹に取り違えた事例は皆無であった。
だから、「邪馬壹国」という表記は、誤記の結果として記されたものではない。
古田氏の推論は、以上のようであった。

ところで、この推論は正しいものと言えるだろうか?
私は、「古田氏は、『「邪馬台国」はなかった-解読された倭人伝の謎』において、『三国志』全部の「台」と「壱」について統計をとった。いわば悉皆調査である。」と書いた(11月19日の項)。
全部の「壹」と「臺」を対象にしているのだから、悉皆調査を行った、として間違いないように思える。
悉皆調査とは、国勢調査のように、母集団のすべてを調査するものである。
一般的には、母集団から少数のサンプル(標本)を抽出して調査する標本調査よりも高い精度が得られるはずである。

『三国志』の「壹」と「臺」の字のすべてを取り出して調べることは、「壹」と「臺」の誤記を検証するという目的に照らした場合、果たして悉皆調査をしたことになるのだろうか?
そして、調べたすべての「壹」と臺」に誤記がなかったとして、「邪馬壹国」の表記は、絶対に誤記ではないはずだ、と言い切れるのだろうか?

推計学を研究方法の基礎とする安本美典氏は、そうではないのだ、という(『邪馬一国はなかった』徳間文庫(8809))。
古田氏は、「あやまりであるという、必要にして十分な論証を示すことができない限り、現存テキストの表記にしたがうべきだ」としているが、A(邪馬壹国)かB(邪馬臺国)か、どちらが正しいか分からない場合、Bであることの必要にして十分な論証が示されなければ、Aをとるべし、とは言えない。
Aをとるべし、とするためには、Aであることが必要にして十分に論証されるか(論証1)、Bではあり得ないことが、必要にして十分に論証されなければならない(論証2)。

問題は、一般に、論証1のスタイルが困難だということである。
あり得そうな命題が、間違いないものだ、と論証するにはどうしたらいいか?
例えば、アリバイ(不在証明)というものがある。
容疑者Xが、犯罪が起きた時刻に、犯罪が行われたのとは別の場所にいたことが証明されれば、容疑者Xは犯人ではない、ということになる。
しかし、明白なアリバイがない場合、Xが犯罪を犯していないことは、どうしたら証明できるだろうか?

Xが犯罪を犯したことの証明は、比較的容易であろう。
例えば、現場における指紋や、DNA鑑定などによって、通常はそこに居るはずのないXの存在が確認されれば、Xの容疑はかなり確定的なものとなる。
しかし、Xが犯罪を犯していないことの証明は難しい。

よく問題になるのは、「痴漢行為」である。
女性が、「この人(X)は痴漢です」と告発する。
しかしXは、痴漢行為を行っていないと主張する。
目撃者がいたとしても、痴漢行為のような場合、極端な例を除いて、断定するようなケースは余り想定できない。
エコノミストとして有名なU元教授の場合も、ひょっとしたら、時の政策に批判的な立場だったU教授に対して、国家の権力が冤罪的な容疑を被せた可能性だって否定できない。

推計学(推測統計学)では、論証の難しい命題を「否定の否定」という、一種の弁証法として立論する。
つまり、証明したい命題(P)と両立し得ないような命題(Q)を設定し、Qが成立する可能性が確率的にみて否定されるような結果が得られれば、Pを認めようということである。
論証は、否定されるべき命題を否定するということであるから、否定されるべき命題は「帰無仮説」といわれる。
つまり、「帰無仮説」を否定することによって、それに対立する命題を論証するという手続きである。

「邪馬壹国」の「が正しいという命題を証明することは、一般的にいって難しいだるう。
だから、「邪馬壹国」は間違いであった、という命題を確率的に否定し、邪馬壹国であった可能性が高い、というのが推計学の立場である。
そういう観点からすると、古田氏の命題の立て方と検証の仕方がそもそもおかしいのではないか?
安本美典氏は、推計学の方法論からして、古田氏の論証は成立しない、と否定したわけである。

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2008年11月21日 (金)

紫香楽宮跡から門籍木簡が出土

11月19日の各紙は、滋賀県甲賀市教育委員会が、甲賀市の宮町遺跡(紫香楽宮跡)から、食品名の記された木 簡および門籍木簡が出土したと発表したことを報じている。
2出土木簡の文字は鮮明で、肉眼でも十分に判読出来る状態だった(写真は甲賀市教育委員会発表資料から)。

調査地は、宮町遺跡の中央で、紫香楽宮の中心区画である「朝堂地区」から、北東方向に約150m離れた位置である。
甲賀市教育委員会の発表資料によれば、この地区からは、今までに、「造大殿所」、「御炊殿」、「皇后宮職」などと書かれた木簡や、「御厨」と書かれた墨書土器が出土している。
出土土器についても、他の地域に比べて質量ともに優位であることから、調査地の近辺に王権に関係する部署が存在したのではないか、と考えられている。

紫香楽宮跡地の地形は、宮町盆地の中央を南北に貫流する浅い谷状地形が埋没すると推定されており、この谷状地形の断面観察では、堆積層の上層で中世の遺物が、中層で平安時代後期の遺物が出土し、下層からは奈良時代中ごろ(8世紀中葉)の遺物が出土している。
下層の厚みは、0.2~0.3m程度である。

紫香楽宮を造営する際、谷状地形のままだと盆地の平坦部が東西に分断されて土地利用に制約が生ずるはずであるが、発掘調査の結果、東西両方の平坦地に建物跡が展開しており、宮域を一体的に利用するため、谷を紫香楽宮造成の際の土で埋め立てたと推定される。
その時期は、紫香楽宮期のごく最初の段階であり、上層から中層に堆積する後世の遺物は、紫香楽宮が廃都になった後、埋められた谷が、徐々に自然地形に回帰したということである。 

藤原氏の血族として初めて皇位に就いた聖武天皇は、複雑な人間関係に取り囲まれていた。
藤原宇合の嫡男・広嗣が反旗を翻したことは、大きな衝撃だったと想像される(08年6月26日の項)。
天平12(740)年10月26日、藤原広嗣追討の最中に、東国への行幸をはじめる(08年6月27日の項)。
紫香楽宮は、その彷徨の過程で造営された。
そのため、紫香楽宮がどのような構造と機能を備えていたのかについては、謎が多い。

栄原永遠男『天平の時代』集英社(9109)によれば、聖武天皇は紫香楽宮に心惹かれ、この地に浄土を作り出そうと傾注していた。
それは、仏教に深く帰依していた光明皇后やその背後にある藤原氏に、聖武天皇が取り込まれてしまったかと思わせるものでもあった。
それに危機感を抱いたのが元正太上天皇であった。
聖武天皇の後継者について、聖武天皇自身は藤原氏系の皇子を思い描いていたが、元正太上天皇は、安積親王の擁立を考えていた。
元正太上天皇は、聖武天皇と藤原氏を切り離そうとして、聖武天皇に難波遷都を働きかけた。
そして、聖武天皇が難波に行幸する途上で、安積親王が急逝してしまう(08年7月1日の項)。

2安積親王の死の真相は今となっては想像するしかないが、藤原氏の手が係わっていた可能性が高いと考えるのが合理的だろう。
安積親王を失った元正太上天皇の思惑は挫折し、745年に紫香楽宮への遷都が実現する(地図は中日新聞081119)。

今回の調査で、食品との関係を示す木簡がまとまって出土したことは、以前に出土した「御炊殿」の木簡や「御厨」の墨書土器などと合わせて、調査地区に食料の保管や炊事関係の部署が存在していたことを窺わせる。
つまり、聖武天皇の御在所に関わる部署があったということである。

また、門籍木簡が出土したことは、紫香楽宮において、門籍制が機能していたことを示している。
門籍制とは、官人ごとに通行すべき門を指定し、その官人の官位姓名を記した門籍を門につけておいて、通行の際にチェックするものであった。
セキュリティ用のIDカードということだろう。

木簡には、「外西門」と書かれている。
門は、区画施設を示すものであるから、紫香楽宮には複数の区画施設が存在し、朝堂地区や御在所地区が区画されていた可能性が高まった。
つまり、紫香楽宮は朝堂や御在所を中心とする地区が、複数の区画施設によって区画され、その外側に「京」が広がっていたと推定される。
紫香楽宮は、離宮と考えられてきたが、都市としての機能を備えていたということになる。

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2008年11月20日 (木)

壹と臺の調査

「邪馬台国論争」の焦点は、もちろんその所在地がどこであったか、である。
しかし、その前提として、「邪馬台国」という名称が、「邪馬壹国」なのか「邪馬臺国」なのか、ということが問題とされたのだった。
「壹」か「臺」か。
古田氏と安本氏の討論においても重要な論点であったが、古田氏や安本氏だけでなく、古代史研究者やアマチュアファンが、「壹」派と「臺」派に分かれるという事態を招いた。
もちろん、圧倒的多数は、伝統的な「臺」派であったといえるだろう。
一方の、古田氏を頂点とする「壹」派の論者は、確信的な熱気において、「臺」派に勝っていたともいえそうである。

古田武彦氏は、『「邪馬台国」はなかった-解読された倭人伝の謎』朝日新聞社(7111)の「はじめに」に、次のように書いている。

偶然は、人を思いがけないところへ導くものである。
わたしは二十代・三十代を通して、夢にも思いはしなかった--古代史の草むら深くわけ入って、古い書物の中に書かれている、人のだれも通ったことのない道を通る、そしてある日、思索のもやが晴れ、突然そこに三世紀女王国の壮麗な都のありかを眼前にする--そのようなことがわたし自身におこるとは、およそ想像したこともなかったのである。

一方、安本美典氏は、『邪馬一国はなかった』徳間文庫(8809)の冒頭に、やはり次のように書いている。

私は、どうして、古代史の森にふみこんだのだろう。
私の大学での専攻は、心理学であった。しかし、これまでに書いた本の数は、心理学関係の本よりも、古代史関係の本の数の方が多いほどである。
……
私は、大学における数年の専攻で、その後一生の専攻が決定されるとは思わない。またいろいろなことに、興味を持ち続けたいと思う。まして現在は、学際的(interdisciplinary)な研究が、強く求められている時代である。

つまり、2人とも、古代史の研究は、当初の想定の外にあったということである。
しかし、その両者が、多くのファンを獲得するカリスマ的存在になるのだから、不思議なものである。
私は、古田氏の講演も、安本氏の講演も、それぞれ1回だけ聴いたことがある。
会場の雰囲気はかなり異なるところもあるが、両氏を師と仰ぐ人たち(それは、反対派に対しては厳しい姿勢となって現れる)の多さが印象に残っている。

古田氏は、親鸞研究において、親鸞や直弟子たちの自筆本について、真筆か偽作かと判断が分かれている場合、A教授が真筆と筆跡鑑定すると、A教授の系列の若い学者は、A教授の鑑定に従った論文報告を出し、B教授が偽筆と筆跡鑑定すると、B教授系列の若い学者は、B教授の鑑定に従う傾向があることを経験した、という。
まさに、東大の白鳥庫吉のあとを継ぐ九州説、京大の内藤湖南のあとを継ぐ近畿説、と大きく色分けされて学界を二分している。
これに対し、古田氏は、恩師の村岡典嗣氏の説いた「師の説に、な、なづみそ=先生の説にけっしてとらわれるな)」という本居宣長の言葉を、学問の神髄を示すものと考えてきた。
とすれば、東大VS京大というような学閥が顕在化している「邪馬台国論争」は、それだけで興味の対象になる、ということである。

そして、古田氏は、2つの「学説山脈」に分かたれているように見える「邪馬台国論争」に向かって、「蟷螂の斧」をふるってみようと決心した、と述べる。
そして、自らの邪馬台国問題に取り組む指針を、子供にもよくわかる簡明さと、文献の基礎部分を徹底的に追跡するという確実さにおいた。

その指針に基づき、紹熙本『三国志』全体の「壹」と「臺」を全部抜き出し、それらが、それぞれ「壹」と「臺」とを取り違えているケースがあるかどうかを検査した。
『三国志』の中に、「壹」は86個、「臺」は56個あり、「壹」の字は、倭人伝中の「邪馬壹国」(1個)と卑弥呼のあとをついだ女王「壹与」(3個)以外の82例については、一切「臺→壹」の誤記が生じていないことが確認された。
また、「臺」の字にも、「壹→臺」という誤記は全く起きていないことが判明した。

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2008年11月19日 (水)

統計的方法をめぐって

古田武彦氏と安本美典氏の論争の論点は多岐に渡っている。
野呂邦暢氏が司会を務めた「中央公論歴史と人物/昭和55年7月号」の『熱論「邪馬台国」をめぐって』をみてみよう。
冒頭で、野呂氏は、自分の立場を、古代史に関心のある一般読者の代表と位置づけ、古田氏と安本氏の研究活動が、古代史ファンの注目を集めているところである、としている。
そして、古田武彦氏が、『「邪馬台国」はなかった-解読された倭人伝の謎』朝日新聞社(1971)で、『三国志』「魏志倭人伝」を詳しく検討して、一般に使われている「邪馬台(臺)国」の「臺」は、実は「壹」とすべきである、としたのに対し、安本美典氏が、『邪馬壹国はなかった』新人物往来社(8001)を書いて応えているところから、論議を導入している。

そして、二人の方法論や論理について、概括的な話を聞いたあと、以下のようなテーマで論議が進んでいる。
・「邪馬臺国」か「邪馬壹国」か
・「臺」は貴字であったか
・「魏晋朝短里」をめぐって
・邪馬台(壱)国の所在

野呂氏は、この討論記録の後に、「司会を終えて-息詰まる七時間」という文を書いている。
討論が行われたのは、神田駿河台の山の上ホテル。昭和55(1980)年4月26日で、始まったのが午後2時、終わったのが午後10時だった。
途中、夕食のための休憩1時間の中休みをとったので、実質7時間にわたる白熱した論戦だった、としている。
そして、この論争が、のっけから緊迫した空気で始まり、息苦しささえ感じた、という感想を記している。
二人の議論は、必ずしも噛み合っているとはいえないのだが、野呂氏はそれを、「安本氏の要求する『客観』の基準と、古田氏の考える『明証』の基準は、初めからくいちがっているように感じられた」として、そもそも、ものさしが違うのだ、と総括している。
編集部が付記しているように、この稿を書かれた直後の5月7日に急逝している。

上記の議論の流れから分かるように、最初の論点は、いわゆる邪馬台国の表記を、邪馬壹国とすべきか、邪馬臺国とすべきか、という点であった。「壹・臺論争」である。
まあ、一般人にとっては、「壹」でも「臺」でも、そんなことはどうでもいい、ということではあろう。
しかし、「邪馬台国」という表記は、広く長く使われてきたものであり、それが間違いである、というのは、古代史に関心を持つ人にとっては、大きな関心事にならざるを得ない。

安本氏は、討論において、古田氏の「壹」の主張の論拠を次の3点に要約している。
①金石文の字形
②「台」と「壱」の統計
③「台」という字が「神聖至高の文字」であること

そして、安本氏のフィールドである統計の問題から切り込む。
古田氏は、『「邪馬台国」はなかった-解読された倭人伝の謎』において、『三国志』全部の「台」と「壱」について統計をとった。いわば悉皆調査である。
そして、86個の「壱」と56個の「台」があったが、書き誤りは1つもみられなかった。
だから、「壹と臺は字形が似ているから誤ったのであろう」という推論が成り立たないとした。

この「統計的判断」について、数量的アプローチを専門とする安本氏の批判が行われる。
古田氏が、「両字の分量と分布は統計的処理に十分な状況であった」と書いているのに対し、「『十分な』とはどういう意味か?」と問い質す。その「『十分な』という言葉は、統計的概念なのか否か?」と。
統計学においては、「十分な」ということについて、明確な基準がある。
古田氏の立論が、その統計学の基準に則っているのか否か。

これに対し、古田氏は、自分の立場の根本は、安易に原文改訂をしないことが文献処理上の原則であることで、それをいわば公理とするものである。
そして、自らの指針として、次の2つを掲げる。
①簡明率直な方法であること
②基礎的で確実な方法であること
それは、「たとえば小・中学生に対してさえも、説得力をもち、ハッキリと理解されるものでなければならない」としている。
だから、古田氏の文章中の「統計」や「十分」を近代統計学の述語として理解するのではなく、古田氏の示した文脈において理解してほしい、と応えている。

これに対し、安本氏は、「小・中学生にもわかる」ということと、「科学的な実証、学問的な検証」とが両立する保証があるのか、と問う。
もし、「小・中学生にもわかる」推論を是とするならば、邪馬台国問題は、中学生が扱うのが一番いいのか?
天動説と地動説で考えてみれば、小・中学生にとっては、天動説の方が分かりやすいかも知れないではないか?

これに対し、古田氏は、論証過程は非常に複雑でも、本質的には小・中学生にもわかる簡明さを備えているべきだ、とする。
読み返してみれば、この部分において、既に、両者の間には、根本的な差異があるように思われる。
それは、ロジックの問題というよりも、感性の問題のようでもある。

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2008年11月18日 (火)

「古田史学」VS「安本史学」

安本美典氏と激しい論争を展開してきたのが、古田武彦氏だった。
古田氏の立場をWIKIPEDIA(08年9月29日最終更新)でみてみよう。

1969年、『史学雑誌』に邪馬壹国説を発表。1970年に教職を離れ、以後研究に専念する。九州王朝説を中心とする独自の古代史像を提示し、学界の通説に再検討を迫る。多くの支持者・賛同者を集めるとともに、自説を巡って安本美典や歴史学者と論争を繰り広げた。一時は高校教科書の脚注に仮説(邪馬壹国説)が掲載されたこともある。賛同者・読者の会として「市民の古代研究会」が組織され、雑誌『市民の古代』が刊行された。
……
後年、『東日流外三郡誌』の存在を知り、その内容を高く評価。同書に対して偽書である証拠が提出されてからも、「発見者」であり所蔵者の和田喜八郎支持の姿勢を貫いた。それをきっかけとして市民の古代研究会の分裂を招くにいたり、運営に当たっていた関西の主流派は古田より離れた。
……
また、市民の古代研究会はのちに解散し、雑誌は終刊となる。古田を支持して脱退した人々は「古田史学の会」「多元的古代研究会」など複数の研究会を結成し、連合して年刊の雑誌『新・古代学』を発行している。

「古田史学の会」という研究会が存在するように、古田氏の主張は、「古田史学」と呼ばれることが多い。
とすれば、「邪馬台国の会」を主宰する安本氏の主張も、「安本史学」と呼んで差し支えないだろう。
「古田史学」と「安本史学」は、共に多くのアマチュア・シンパを抱えており、宿命のライバルともいえる。

古田武彦氏の一般向けの古代史の著書は、『「邪馬台国」はなかった-解読された倭人伝の謎』朝日新聞社(7111)が最初である。
宮崎康平氏『まぼろしの邪馬台国』講談社(6701)などによって、邪馬台国がブームになっている中で、「邪馬台国はなかった」と主張したのだから、反響は大きかっただろう。
続けて、同じ朝日新聞社という影響力の大きな版元から、『失われた九州王朝-天皇家以前の古代史』を1973年に、『盗まれた神話-記・紀の秘密』を1975年に出版し、一気に読者を広げた。
朝日新聞社から出されたこの3著は、後に「古田三部作」などと称されるが、以来現在に至るまで精力的に執筆活動を続け、膨大な量の著書が刊行されている。

古田氏の「邪馬台国はなかった」というのは、三国志のいわゆる『魏志倭人伝』における邪馬台国の表記の「台」の字が、旧字の「臺」ではなく「壹」になっているのであるから、これをかってに改変せずに、邪馬壹国のまま表記すべし、というものであった。
つまり、「邪馬台(臺)国はなかった」ということである。
「壹」の字は常用漢字表にはないので、「一」や「壱」が使われることもある。

この古田氏の著書のタイトルを逆用して、『邪馬壹国はなかった』新人物往来社(8001)という著書を出版したのが、安本美典氏だった。
現在は、『邪馬一国はなかった』徳間文庫(8809)として出版されている。
この文庫版の解説を書いている三上喜孝氏(山形大学人文学部准教授)は、「これまで古代史研究は、才能あるふたりの学者の対決によって発展することが、しばしばであった」とし、江戸時代の本居宣長と上田秋成、明治時代の内藤虎次郎と白鳥庫吉、喜田貞吉と関野貞などの論争を挙げている。

三上氏は、戦前・戦中に皇国史観によって呪縛されていた歴史の研究が解放され、昭和四十年代には古代史ブームがおこって、学者のみならず市民が歴史研究に積極的に参加するようになり、邪馬台国論争が百家争鳴の時代を迎えた、とし、その百家争鳴の中で、安本美典氏と古田武彦氏が、論争に鎬をけずることになった、とする。
そして、両氏の立場が、特異であり、かつ良く似たものだとする。
つまり、両氏はともに、もともとは古代史の専門家ではなく、安本氏が心理学の専攻、古田氏が親鸞の研究家だった。
そして、その方法が、安本氏が数理文献学、古田氏が厳密な史料批判という点において、従来の研究とは一線を画し、新しい魅力的な仮説を提示した。
そして、学界よりも市民に支持されるという面においても共通的であった。
三上氏は、安本・古田両氏の対決も、かつての名対決に劣らず邪馬台国論争史に大きな足跡を残すものとなるだろう、と評価しているが、最後に「本書(『邪馬一国はなかった』)は、一つの巨大なドグマとの戦いの記録であるばかりでなく」と書いているので、安本氏の著書の解説だから当然のことではあろうが、安本氏に軍配を上げている。

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2008年11月17日 (月)

「季刊邪馬台国」

「季刊邪馬台国」という雑誌がある。昭和54(1979)年に創刊された。
ブームは去ったとはいえ、「邪馬台国」という名前を冠した雑誌が、30年にわたって継続的に出版されているということは、幅広くかつ根強いファン層がいることを示している。
もちろん、「季刊邪馬台国」のコンテンツがすべて邪馬台国に関連しているわけではない。
古代史に関する一種の総合誌といった方が適切だろう。

「季刊邪馬台国」の発行元は、福岡市にある梓書院という出版社である。
そして、現在の編集責任者が安本美典氏である。安本氏を中心にした「邪馬台国の会」という古代史愛好家の集まりがあり、その機関紙としての性格もあるように見受けられる。
http://yamatai.cside.com/index.htm

初代の編集長は、諫早市に在住した作家の野呂邦暢氏だった。野呂氏は、古代史に造詣の深い作家で、下関在住だった、同じく古代史に独特の視角を持っていた作家の長谷川修氏との間で交換された書簡を中心に、陸封魚の会編『野呂邦暢・長谷川修往復書簡集』葦書房(9205)という本が出版されている。
野呂邦暢氏は、昭和55(1980)年の5月7日、享年42歳という若さで逝去した。
書架にあったバックナンバーを見ると、4号(8004)までが野呂氏の編集発行で、5号(8007)は田村武志という人の編集発行になっている。

この号の「編集後記」には、後に古代史における有力な論客となる奥野正男氏の論文『邪馬台国九州論-鉄と鏡による検証』が、「季刊邪馬台国」誌の創刊記念論文の最優秀作に選ばれたことなどと共に、宮崎康平氏に続いて同誌編集人の野呂邦暢氏が急逝されたことが記されている。
「晴天の霹靂とはまさにこのことです」という言葉があって、編集部が仰天している様子が如実に伝わってくる。
田村氏の後を、安本氏が引き継いで現在に至っている。

上掲書簡集に収載されている年譜によれば、野呂氏は、亡くなる直前の4月26日に、後に宿命のライバルとして死闘ともいうべき論戦を展開することになる安本美典氏と古田武彦氏の、7時間に及んだという討論の司会をしている。
この討論は、中央公論社から出ていた「歴史と人物」誌の同年7月号に収録されている。

安本美典氏は、京都大学文学部出身ではあるが、いわゆるアカデミズムの史学とは別の世界の人だった。
文章心理学からスタートし、産業能率大学(元短大)に籍を置いて、文章心理学の立場から、プレゼンテーションなど、ビジネスに関連する著書なども出されていたはずである。
氏の古代史に対する論考は、アカデミズムやアマチュアが、性格やレベルは別にして、共に唯我独尊的になりがちであるのに対して、普遍性を目指したものだった。
自然認識の近代的方法として大きな力を発揮した数理的アプローチを、人間の心や、人間の心の産物に適用する試みが、『数理歴史学-新考邪馬台国』筑摩書房(7003)に示されていた。

季刊邪馬台国の創刊が1979年で、野呂氏が亡くなられたのが1980年だから、野呂氏が編集長を務めたのはほんの短い期間だったことになる。
それから早くも30年近くの時間が過ぎたわけである。黄泉の国の野呂氏は、その後の論争の状況、特に安本氏と古田氏の応酬をどのように見ているだろうか。

野呂氏が諫早市在住だったことや発行元の梓書院が福岡市にあることなどから推測されるように、「季刊邪馬台国」の基本的な路線は、邪馬台国九州説である。
邪馬台国論争が多くの人の関心を集めるのは、「日本国家の起源」をどう考えるか、ということに関連してくるからではないかと思う。
邪馬台国が存在したとされる3世紀段階において、日本列島はどのような状況であったのか?

九州説ならば、邪馬台国という「国」の名前が付いていても、現在の国家の概念からはほど遠い、地方権力があった、というだけである。
これに対し、畿内説ならば、畿内に中心を持つ政治権力が、九州にまでその勢威を及ぼしていたということになり、3世紀の歴史像がまったく異なることになる。

アカデミズムの世界でそういうことがあっていいものかとは思うが(あるいは当然なのか?)、東京大学出身の学者は白鳥庫吉以来九州説に立つことが多く、京都大学出身の学者は、畿内説を採用する傾向がある。
学者になる過程でのさまざまな環境が作用している結果なのだろうが、アマチュアの世界からみると、まさに学閥のように見えることは否定できない。

安本氏は、京都大学出身であるにもかかわらず(?)九州説である。
九州にあった邪馬台国の勢力が、後に奈良県に遷ったといういわゆる「東遷説」の立場である。
京都大学の本流ともいうべき畿内説と激しく対立しているのは、氏がアカデミックな史学に身を置かなかったから可能になったとも思われる。
私は専門的な学者に敬意を表するにやぶさかではないが、邪馬台国論争のような場合、結果的にではあるのかも知れないが、学閥的な主張になってしまうことには違和感を覚えざるを得ない。

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2008年11月16日 (日)

安本美典氏の『数理歴史学』

私が、日本古代史、特に邪馬台国論争に興味を持ったのは、安本美典氏の著作を読んでからである。
生まれ故郷のJRローカル線の駅前の、今は廃業してしまった書店で、偶然手にしたのが、安本美典『数理歴史学-新考邪馬台国』筑摩書房(7003)であった。
何で、大して棚もない小さな書店にこの本が置かれていたのか、何故私がそれを手にしたのか、など今考えると不思議な気がする。

この書を手にしたとき、私は社会人になって間もない頃だった。
仕事というものに向き合うことになったわけであるが、振り返ってみると、方法論というものを探し求めていたように思う。
私に与えられた業務は、ある化学製品の用途開発に係わることだった。
塗料とか接着剤とか構造材とかへの応用可能性を検討することがテーマであった。
条件を変えてテスト片を作り、繰り返し測定を行うわけであるが、もともと手抜き人間だった私は、少しでも合理的に結果を得られる方法がないものだろうかと考えていた。
実験計画法がその有力な手段だったが、その基礎となる推計学に関心を持った。

そういう心的状態のとき、安本氏の著書のタイトルが目に入ったのだった。
それまでの私は、「数理」と「歴史学」とを結びつけて考えるというようなことはなかったと思う。
理系と文系という二分論では考えていなかったとは思うが、数理は理系、歴史学は文系というような先入観はもちろん拭えなかっただろう。
だから、「数理歴史学」という言葉に、好奇心のアンテナが反応したのだと思う。

不思議なことで、図書館や古書店などで書棚を見ているとき、自分が関心を持っているテーマの著書が目に飛び込んで来ることがある。
人は、自分に関心のあるものしか見分けないとすれば、それは別に不思議でも何でもないのだが。
たとえば、群衆の中でも、自分の知り合いはすぐ目につく。
一般人には見分けがつかないサルの顔も、サルの研究者たちには、それぞれが個性を持ったものとして識別される。
要するに、関心のある事象に関しては、他と異なるものとして識別してしまうようで、それが背表紙の列の中の特定の一冊を抽出する力になるのだと思う。

「数理歴史学」というタイトルに目を向けたのは、おそらくそういうような心的なメカニズムが作用したのだと思う。
安本氏は、1934年生まれだから、この書が出版されたときには、まだ30代半ばだった。
「はじめに」に、次のように書いている。

ひとつの新しい時代が、やってきつつある。いわゆる科学的思考というものが、自然に対してだけではなく、人間に対しても、そしてまた、人間がつくったものに対しても適用され、有効性を示しはじめつつある時代である。
……
この本は、数理科学的な方法による歴史の研究法についてのべたものである。とくに、わが国の古代史を、あらたな基礎のうえに築くことを意図したものである。
……
この本では、具体的な個々の分析技術の紹介をおこなうことよりも、研究の基礎を深くたずねたいと思った。たしかな基礎にもとづいてこそ、より多くの実りが期待できると考えたからである。

このように、方法について明晰な自覚を持って書かれた書に接した初めての体験だったと思う。
安本氏の説くことは、まったく説得的だった。
私は、安本氏のファンになり、目につく範囲で安本氏の著作を手にするようになった。

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2008年11月15日 (土)

音韻と表意文字

日本語の文字表記は、万葉仮名として始まったと言っていいだろう。
神代文字と呼ばれる文字が存在した、という説もあるが、否定的な見解が多いようである。

神代文字(じんだいもじ、かみよもじ)とは、漢字が伝来する以前に古代日本で使用されていたとされる日本固有の文字の総称である。江戸時代にはその実在を信じていた学者も少なからず存在したが、近代以降の日本語学界をはじめとするアカデミックの世界では、現存する神代文字は古代文字などではなく、すべて近世以降に捏造されたものであり、漢字渡来以前の日本に固有の文字は存在しなかったとする説が広く支持されている。その一方で、古史古伝や古神道の信奉者の間では、神代文字存在説は現在も支持されているが、神代を語れぬ伊勢派が作り出した偽作であるとして排する者もいる。WIKIPEDIA(081030最終更新)

万葉仮名については次のように解説されている。

万葉仮名(まんようがな)とは仮名の一種で、主として上代に日本語を表記するために漢字の音を借用して用いられた文字のことである。『萬葉集』(万葉集)での表記に代表されるため、この名前がある。真仮名(まがな)、借字ともいう。仮借の一種。
楷書ないし行書で表現された漢字の一字一字を、その義(漢字本来の意味)に拘わらずに日本語の一音節の表記のために用いるというのが万葉仮名の最大の特徴である。WIKIPEDIA(081107最終更新)

ただし、『万葉集』の表記には、一字一音節以外の他の表記法も採られているから、藤井游惟氏は、漢字の音読み一字が一音に相当する表記法は、「借音仮名」と呼ぶべきである、としている(『白村江敗戦と上代特殊仮名遣い―「日本」を生んだ白村江敗戦その言語学的証拠』東京図書出版会(0710)/08年4月18日の項)。
以下では、基本的に「借音仮名」という言葉を用いることにする。

宮崎康平氏は、盲目になるという不幸に見舞われたが、その不幸を利点として生かすべく努力した。
借音仮名を見た場合、私たちは、漢字の表意性に引きずられて解釈しがちである。
漢字の表意性は、情報伝達力の重要な要素であるから(07年12月14日の項)、それはやむを得ないことである。
しかし、上代の借音仮名の場合には、漢字の意味は捨象されているので、なまじ漢字の意味を連想すると、言葉の解釈を誤る可能性が高い。

盲目の康平氏は、もっぱら耳からの入力を頼りに、読解の努力を続けた。
それは、借音仮名の場合、とりあえず意味を考慮しないということに通ずる。
例えば、以下のように書いている(『新装版まぼろしの邪馬台国』講談社文庫(0808)/p41~)。

(マの地縁の説明)
アマ--アは広いとか大きいことを表す語で、天は広い畑、広大な耕地を意味する(天、天草、甘木。ところが記紀でアマに天をあてられたため、多くの場合、空と勘違いされ、今日まで取り返しのつかぬ、おびただしい誤訳を生んでいる)。カマ--川岸の耕地(釜、鎌、鎌田、釜崎)。クマ--川ぞいの耕地(熊、隈、熊谷、熊田、熊木、雑餉、佐久間)。コマ--クマにほぼ々(駒、駒沢、駒田)。シマ--もとは島嶼のことではなく、湿地にのぞんだ耕地、高地(島、宇和島、淡島、鹿島、杵島、田島)。スマ--砂浜や洲にのぞんだ畑(須磨、高知県の宿毛はこのスとクマが合体した地形上の地名と思われる)。ソマ--杣。セマの転音もあるが、小盆地の畑。タマ--田圃と畑の入り乱れた耕地(玉の字をあてる場合が多い。豊玉、玖玉、玉川。ツマ--舟がかりのできる比較的平坦な土地(妻、津間、薩摩)。ハマ--水辺の畑(浜、大浜、小浜、浜田)。ヤマ--入り江にのぞんだ耕地(山、大山津見神のヤマ、邪馬台国のヤマ、ここでいうヤマは山岳のヤマではない。山岳の山はユマまたはヨマの変化した音で、数字の四または八に関係のある、いよいよとか、いや増すといった意味のマの重なりを意味しているように解される。もと山はミネ、タケといった)。

地名には、その場所をそう呼んだ何らかの理由があるはずである。
その大半は、現在では分からなくっているのかも知れない。しかし、(すべて正しいかどうかは別として)康平氏の説いているような語源が、地名の由来を解く鍵であることはことは間違いないだろう。
康平氏が、自分の耳で聞いた音を武器とし得た背景には、このような該博な知識が存在したわけである。

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2008年11月14日 (金)

『まぼろしの邪馬台国』

「邪馬台国論争」は、実に息の長い論争である。
江戸時代の新井白石や本居宣長なども言及しているが、近代史学においては、明治末に白鳥庫吉・東大教授と内藤湖南(虎次郎)・京大教授という東西の碩学が論争したことが有名である。
それからでも、既に100年になる。
この間、アカデミズムの巨頭からアマチュア史学者まで、数多くの邪馬台国論が論じられ、著作が出版されているが、どうも万人を納得させる決定打は得られていないようである。

しかし、論争史そのものが、推論の集積であって、思考技術の練習問題として格好の材料ではないかと思われるし、推理小説の謎解きに挑戦するような面白さがある。
そんなこともあって、いつか(老後に)邪馬台国論争を俯瞰してみようと、「邪馬台国関連本」を買い集めていた時期があった。

そして「邪馬台国関連本」が書架に溢れるようになっていたのを知っていた妻が、TVの宣伝を見て、『まぼろしの邪馬台国』という映画を観に行きたい、と声をかけてきた。
原作の宮崎康平『まぼろしの邪馬台国』講談社(6701)は、一世を風靡したベストセラーである。
出版された頃はまだ邪馬台国などに関心のないときだったので、しばらく後になってからのことだとは思うが、私も読んだことがあったので、映画を観にいくことにはすぐに賛成した。
康平氏の著書を読んで、康平氏の執念には脱帽する思いがしたことは覚えているが、推論として、「なるほど!」と膝を打ったような記憶はない。

宮崎康平氏の略歴を、『新装版まぼろしの邪馬台国』講談社文庫(0808)の奥付により見てみよう。

1917年、長崎県生まれ。早稲田大学文学部卒業。文学の道を目指し東宝文芸課に入るが、兄の戦死により帰郷。島原鉄道代表取締役となる。30代前半で失明。失明後、慰留されるも島原鉄道の職を辞す。1957年島原鉄道の強い要請で常務取締役として復職。鉄道建設の際の土器出土に興味を示し、考古学を志す。1965年「まぼろしの邪馬台国」を「九州文学」に連載開始。1967年、同書で第1回吉川英治賞を夫婦で受賞。1970年代の邪馬台国ブームを全国に巻き起こす。1980年逝去。

夫人も一緒に受賞しているのは、康平氏が盲目であったため、康平氏の邪馬台国探究を夫人が献身的に助けたことによる。
康平氏が盲目になってしまったことは、もちろん大きなハンディキャップではあったが、邪馬台国探しにとっては武器にもなり得た。
記紀を音を頼りに解読するという方法が、漢字の表意性による誤読から解放される、ということにおいて優位であったのだ。
漢字の表意性とは、「天(アマ)」という字から、天上を想像してしまう、というようなことである。

映画の配役は、康平役が竹中直人、和子役が吉永小百合である。
康平はワンマンで粗野な社長であると同時に、知的好奇心が旺盛で(読書範囲は、三国志や記紀はもとより、ドストエフスキーやマルクスなどに及ぶ)、かつ子供に深い愛情を注ぐ人物として描かれているが、粗野で強圧的な印象が強く残る。
だから、吉永小百合演ずる和子が、康平の言うがままに、同棲生活(康平が別離した妻と正式に離婚が成立していないので結婚できない)を始めてしまうのがどうも納得的ではない。
この辺りは、映画では必ずしも十分な説明をしていないが、そういうリアリティは追求していないのだろう。

後に、息子の計らいで離婚が成立し、正式に結婚する。
その間の和子(吉永小百合)の献身ぶりは、竹中直人と吉永小百合というキャラクターにより、余計そう感じさせられるのかも知れないが、驚異的というような姿で演出されている。
見終わって、妻に「少し見習ったら……」と言おうとしたら、「私にはとてもムリ……」と先制されてしまった。

それにしても、吉永小百合という女優は、年を重ねるに連れ、魅力を増して来るように感じられる。
私とは同年代であり、高校の頃から小百合演ずる青春映画を観てきた。
その頃は、何だかあかぬけない感じがして、いわゆるサユリストの心情が理解できなかったが、この映画などを観ると、小百合ファンが多いのも肯ける。

康平氏は、略歴にみるように早稲田大学での出身で、森繁久弥と仲が良かったという。
学生時代を送った昭和10年代は、早稲田の教授だった津田左右吉が、神代史の研究において、記紀神話の虚構性に言及し、教授の座を追われたりした古代史の暗黒時代ともいえる時期である。
康平氏は、その津田左右吉に教えを受けたのだった。
そのことが、古代史への関心の大きな要因となった。

康平氏の作詞作曲になる「島原の子守唄」という歌がある。
森繁久弥が歌って全国に広まった。映画の中にも挿入されていたが、しみじみと心に染みるいい歌だと思う。
また、康平氏は、歌手のさだまさしのデビューのきっかけを作ったともされる。
映画の中での康平氏は、労働組合との団交で強圧的な態度に出たり、周囲に暴力を振るったりと、品格という言葉とは縁遠いように描かれている。
しかし、上記のような話を総合すると、実際の康平氏は、竹中直人が演ずるところの映画の中の康平よりも、もっと品格のある人物ではなかったかと思われる。
実際に、単行本の口絵の康平氏の写真は、温厚な雰囲気を感じさせ、竹中直人の印象とは大分異なる。
とすれば、和子夫人の献身も理解できなくはない。

ところで、康平氏の邪馬台国の比定地は、結果として、長崎県北高来郡、南高来郡、西彼杵郡および長崎市、諫早市、島原市を結ぶその周辺であった。
そこは、康平氏の故郷である。
邪馬台国の比定地は、畿内、北九州の2大説を中心に、全国の各地(というよりもジャワ・スマトラやエジプトなどの海外まで)に及んでおり、かつては村興しのテーマといえるような事態もあって、「邪馬台国誘致運動」などと皮肉を言われることもあった。

彼自身、「ふるさとを愛するのあまり、なんでもこじつけたがる郷土史家にありがちなドグマ(独断)と受け取られはしないだろうか」と自問している。
『まぼろしの邪馬台国』は、邪馬台国探しというミステリーの要素と、盲目の夫とそれを献身的にサポートする妻という夫婦愛の要素が重なり合ってベストセラーになったのだろう。
しかし、映画では、邪馬台国探しには余り重点が置かれていない。

いささか手詰まり感もあるのだろうが、最近では、邪馬台国論争はやや下火になったように感じられる。
とはいえ、新材料探しにはウノメタカノメで、1997年に天理市柳本町の纏向遺跡で、33面の三角縁神獣鏡と1面の画文帯神獣鏡が副葬当時に近い状態で発見された時には、邪馬台国論争に決着をつけるものとフィーバーしたことは記憶に新しい。
しかし、卑弥呼の墓であることを決定的に証拠づけるもの(例えば「親魏倭王」の金印など)でも出土しない限り、論争が決着することはないだろう。
外野席にいるアマチュアにとっては、その方が、楽しみの要素が残されていることにもなって好ましいとも言えるのではあるが。

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2008年11月13日 (木)

岡本正太郎氏の高松塚被葬者論…⑤大津皇子について

岡本正太郎氏は、高松塚の被葬者を、大津皇子に比定している。
大津皇子は、天武天皇が崩御した直後、草壁皇子の擁立をめざす鸕野(持統)皇后によって、電光石火ともいうべき素早さで、謀反の疑いにより処刑された。
『万葉集』の大来皇女の歌によって、二上山に移葬されたのではないか、と考えられている。
古代史における悲劇のヒーローの1人であり、私も含めファンは多い。

大津皇子の死の経緯等については、既に何度か触れている(07年8月27日の項8月31日の項9月1日の項08年1月30日の項2月3日の項5月21日の項8月26日の項10月29日の項)。
岡本氏は、「第九章 粟津家系図について」(p163~)で、岡本氏と大津皇子との不思議な因縁を披瀝している。
それは、岡本氏のご子息のお嫁さんの家系が、大津皇子の末裔だったということである。
お嫁さんの叔父さんにあたる人の話では、大津皇子の子の粟津王が、配流の地名の豊原姓を立てて、近江に居住したのが始まりで、その子孫にあたるのだという。
奇しくも結婚式は、大津皇子の千三百年忌の年だったという。
大津皇子の研究家としては、望外の喜びだっただろうと想像に難くない。

そのお嫁さんの実家(粟津家)の本家に、粟津家家系図というものが伝わっていて、粟津彰司氏が、その系図を研究されているということで、従来の文献と次の2点において、大きく異なった内容だという。
①大海人軍の司令官
『日本書紀』では、大海人軍の総司令官は、和蹔にいた高市皇子である。
これに対し、『粟津家文書』では、「大津皇子和蹔という所にて諸軍に下知せらる」となっているという。
これは、岡本氏によれば、嫡子であった大津皇子を三子としたために、司令官の大津皇子を高市皇子に書き換えたためである。

壬申の乱の年(672年)、『日本書紀』は大津皇子を9歳の子供としている(天智2(663)年生まれ)が、近江からの脱出に山部王の名を名乗っていると考えられ、近江軍の総司令官の山部王と近似した年代であったはずである、という推論である。
それは、『懐風藻』が大津皇子を天武天皇の長子としている記述とよく適合している、というのが岡本氏の見解である。

②草壁皇子非皇太子説
『粟津家文書』には、草壁皇子の経歴を「長岡天皇とも云う、浄広位皇太子、人王四十二代文武天皇・人王四十四代元正天皇両帝の御父なり。御母持統天王の勅による、大津皇子を殺ふ。その罪に依り三年を歴二十八歳にて薨去さる」と記されているという。
岡本氏は、この「持統天王の勅」という言葉が問題だとする。
なぜならば、天皇が亡くなったならば、皇太子が政治を行うのが習慣であり、草壁皇子が皇太子だったとすれば、勅を出すのは草壁皇子であるはずだ、ということである。
にもかかわらず、草壁皇子がその勅を受けたというのは、どういうことか?

それを岡本氏は、次のように推測する。
a 『日本書紀』の天武12(683)年2月朔に、「大津皇子始聴朝政」とあるのは、大津皇子が皇太子の政務をとったことを示している。
b 『日本書紀』の編者は、大津皇子と記された部分を、高市皇子もしくは草壁皇子に書き換えたが、書き換える必要がないとして誤って残した
c 飛鳥で大津皇子と書いたと思われる木簡の削り屑6点が出土しており、原資料の都合の悪い大津皇子を削ったものと考えられる
d 和蹔における高市皇子の行為は大津皇子の行為だったと考えられる。とすれば、この部分で4箇所の大津皇子名が削除されたと考えられる。
e 残りの2箇所は、8月25日の近江の群臣の処罰記事を、大津皇子から高市皇子に書き換えた部分、大津皇子の立太子記事を草壁皇子に書き換えた天武10(681)年2月1日の記事、と考えられる

『日本書紀』の「吉野の盟約」の記事(天武8(679)年5月6日)では、草壁皇子「尊」と表記されているが、『続日本紀』の天平宝字2(758)年の淳仁天皇の勅に「日並知皇子命、天下未だ天皇と称せず。尊号を追崇するは古今の恒典なり」とあって、それまでは日並知皇子命であって、日並知皇子尊ではなかったということになる。
「尊」号は、天皇または皇太子にのみ使用されるものであり、草壁皇子は「尊」号の使用されないただの皇子だったと推察される。
『日本書紀』では、草壁皇子の立太子は天武10年(681)年で、吉野の盟約の時点では皇太子ではなかった。
にもかかわらず、皇太子の扱いをしているのは、元正天皇が「草壁皇子が皇太子だった」と主張しなければならない何らかの理由があったのではないか。

その理由を、岡本氏は次のように推測している。
吉野の盟約は、皇太子候補の大津皇子に対する忠誠を、権力欲の強かった鸕野皇后(持統)とその子の草壁皇子に誓わせるものであった。
それでなければ、「兄弟仲良くする」という程度のことに、「此の盟の如くならずば、身命亡び、子孫絶えむ」「盟に違はば、忽ちに朕が身を亡はむ」などという大袈裟な(極限的な)言葉が使用される理由が分からない。
もし、草壁皇子が皇太子候補だったとすれば、鸕野皇后の性格をよく知っていた天武がそれほど心配する必要はなかったはずである。

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2008年11月12日 (水)

岡本正太郎氏の高松塚被葬者論…④年代と被葬者の推定

岡本正太郎氏の高松塚についての見解は、以下の通りである(『高松塚古墳と大津皇子-古代尺度が解く千三百年の謎』梓書院(8706)。

岡本氏は、築造時期と被葬者を以下のように要約する(pp117~118)。
1.年代
①秋山日出雄氏の見解
・古墳の築造形式からは横口式で牽牛子塚と中尾山古墳の間位置する石槨構造

②有坂隆道氏の見解
・四神図が薬師寺本尊台座のものより古い
・壁画に持統期に盛んだった仏教色がなく、正確な星宿図より見て、天文の盛んだった天武期のものと考えられる
・天武11年をはじめとする朱鳥元年7月2日までの服装に関する多くの停止・解除令から見て、この壁画は天武13年閏4月5日から朱鳥元年7月2日までの僅か2年間のものである。余裕を持たせても天武11年から持統初年までの期間である
・天智陵造営時に破壊された窯と同じ須恵器と、藤原宮調査時に出た土器形式のものとを使用していた生活面を基盤に墳丘の築造がされているので、高松塚の築造は藤原京造営時の直前に近く、天武末年に比定される

③岡本氏の見解
・高松塚の尺度は和尺(20.2cm)で、その使用年限が推古期以前、天武期、元明から聖武期で、有坂見解の天武末年と一致する

2.被葬者
①網干善教氏の見解
・帝/后/皇太子/皇子の星を配し、天位にたとえる紫微垣、紫微宮の構成を表している高松塚古墳の被葬者は、それにふさわしい地位の人物

②有坂隆道氏の見解
・星宿といい、日月、四神のいずれもが“治天下”の思想で、四神旗、日月旗は共に天子行幸の旗印であったので、墓室に日月、四神を描くことは天皇葬送の場合のものである

③岡本氏の見解
・高松塚の5尺1寸の方形2個(これだけなら天皇割)と、長辺5尺1寸に短辺3尺の程域形1個の位階は、皇太子割になる

a マルコ山古墳(皇子元老割)…岡本氏は、川嶋皇子に比定
5尺1寸の方形1個と長辺が5尺1寸、短辺2.85尺の程域形2個
b 阿武山古墳(臣下の元老割)…藤原鎌足説が有力
5尺の方形1個と、長辺5尺に短辺2尺9寸の程域形2個
・皇太子割の規格は、壁画や銀装太刀金具、金箔漆塗木棺の出土などから推定される「天皇に準じた位階」に適合する

上記の年代と位階から、岡本氏は、朱鳥元年に亡くなった天武帝と大津皇子、余裕をみて持統3年の草壁皇子に被葬者候補を絞る。
そして、天武帝と草壁皇子は、葬地と年齢で除外され、大津皇子が残る、としている。
大津皇子は、葬地が二上山とされているが、二上山は阿弥陀仏来迎の山と信じられた信仰の山で(当麻寺の来迎図/07年8月29日の項)、この山に持統帝が大津皇子を葬るということは、大津皇子が無実で、その罪滅ぼしの意味があり、天皇葬送の礼を尽くした高松塚の壁画に共通する。

大津皇子の年齢について、岡本氏は、『日本書紀』の壬申の乱の記述において、高市皇子と大津皇子が近江を抜け出して戦争に参加し、高市皇子よりも大津皇子が合流した時にだけ天武帝が喜んだこと、大津皇子が近江軍の総帥だった山部王に間違えられたことから、大津皇子は少なくとも青年だった、と推定されるとしている。
大津皇子の名前は、娜の大津(博多)で生まれたから、とされているが、少年期を過ごした土地の名前と考える方が妥当ではないか。
天武崩御時の、高市、大津、草壁の年齢については、砂川恵伸氏の論考がある。
砂川氏は、天武の没年に、大津皇子25歳、草壁皇子15歳と推定しており、論拠はまったく異なるが、岡本氏の見解と同じ結果である(08年2月5日の項)。

また、天武12年2月1日に「大津皇子始めて朝政を聴く」とあり、大津皇子が皇太子の役割を果たしていたことが示される一方で、天武10年に「草壁皇子を皇太子に立てる」としながら、11年や14年の記事では、皇太子と書かれず単に草壁皇子とされていて、明白に皇太子と記されているのは朱鳥元年8月以降である。
これらの『日本書紀』の記述は、編者が、皇太子だった大津皇子を殺害したことを、最小限の削除と訂正によって隠蔽しようとしたためと考えられる、としている。

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2008年11月11日 (火)

岡本正太郎氏の高松塚被葬者論…③古墳の基本設計

岡本正太郎氏は、『高松塚古墳と大津皇子-古代尺度が解く千三百年の謎』梓書院(8706)において、終末期古墳の設計について述べている(p89~)。
それは、大化薄葬令の規定である「王以上、上臣、下臣の長さ9尺、幅5尺」と「大仁以下、長さ9尺、幅4尺」と津田菊太朗氏の「津田程域割理論」とを組み合わせたものである。

2津田程域割理論とは、「古代のあらゆる設計に、中国がその神仏思想(道教、儒教、陰陽五行説)から、中国本土を表す、最も尊い天子の図形(呂氏春秋、爾雅釈地、淮南子、の各天下図)とした正方形と、その土地が形成する矩形(程域形)が使用されている」というものである(p90)。
大和の程域角は飛鳥の酒舟石に刻まれている約58度前後である。いささか分かり難いが、図のように説明されている。

程域理論を薄葬令にあてはめると、「王以上、上臣、下臣」の規格は、短辺3尺・長辺5尺(程Photo域比0.6)の程域形3個を併せた規格(=短辺5尺・長辺9尺)となり、「大仁以Photo_3下」の規格は、短辺2.25尺・長辺4尺の程域形を4個併せた規格(=短辺4尺・長辺9尺)となる。

高松塚は、短辺5.1尺、長辺13.2尺である。
これは、図のように、5.1尺の正方形 2個と短辺5.1尺、長辺5.1尺の程域形とを組み合2_2わせた形ということになる。
高松塚の場合、1寸の差があるが、岡本氏は、これは皇族と臣下の差であるとする。
つまり、高松塚は、正方形の天皇割2事、程域形の臣下割1個の天皇に準ずる太政大臣及び皇太子の図形と考えられる、というのが、古墳の設計規格からみた岡本氏の見解である。

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2008年11月10日 (月)

岡本正太郎氏の高松塚被葬者論…②古墳と尺度

岡本正太郎氏は、『高松塚古墳と大津皇子-古代尺度が解く千三百年の謎』梓書院(8706)において、建築、田制、里程、塔、仏像等の尺度について検討した後、「古代尺度と古墳」と題する章を設けている。
岡本氏は、古墳で問題にされるのは、築造年代や被葬者像であるが、それが確定的に判定された例はほとんどない、としている。高松塚もその1つということになる。

古墳判定には、葬制がキーファクターで、大化2(646)年に出された大化薄葬令で規格が定められており、これを手掛かりに調べれば、年代や被葬者の位階が明らかになると考えられるにも拘わらず、この規格で作られた古墳が発見されていない、という問題がある。
これについては、「大化薄葬令は施行されなかった」とか、「条文は書紀編者の創作」などの見解があるが、岡本氏は、“ものさし”が誤っているのだから、薄葬令に適合する古墳が見つからないのは当然だとする。

岡本氏は、終末期古墳の測定値を拾い上げ、岡本氏の推定と通説とを対比している。
例えば以下のようである。
高松塚石室高
実測値 113.4cm
推定 5.6尺/尺度 20.2cm(和尺)/復元値 113.12cm/誤差 0.28cm
通説 5尺/尺度 29.5cm/復元値 147.5cm/誤差 34.1cm

高松塚木棺長
実測値 202cm
推定 10尺/尺度20.2cm(和尺)/復元値 202cm/誤差 0
通説 6.8尺/尺度 29.5cm/復元値 200.6cm/誤差 1.4cm

マルコ山石室高
実測値 143.3cm
推定 5.6尺/尺度 25.25cm(持統尺)/復元値 141.4cm/誤差 1.9cm
通説 5尺/尺度 29.7cm/復元値 148.5cm/誤差 5.2cm

マルコ山石室長
実測値271.3cm
推定 10.8尺/尺度 25.25cm(持統尺)/復元値 272.7cm/誤差 1.4cm
通説 9尺/尺度29.7cm/復元値267.3cm/誤差 4cm

牽牛子塚東室石室高
実測値 130cm
推定 5.6尺/尺度 23.086cm(晋前尺)/復元値 129.28cm/誤差 0.72cm
通説 4尺/尺度 29.31cm/復元値 117.24cm/誤差12.76cm
牽牛子塚古墳東室石室長
実測値 211cm/推定 9.1尺/尺度 23.086cm/復元値 210.08cm/誤差 0.92cm
通説 9尺/尺度29.31cm/復元値263.79cm/誤差 52.79cm

上記は岡本氏の検証のごく一部であるが、結論として、岡本氏は次のように述べている(p58)。

このように、筆者が復元した設計規格(即ち尺度の長さと規格寸法)と、通説尺による推定規格寸法を比較いたしますと、前者は一○尺と九尺一寸という整然とした規格寸法を示すのに対して、通説尺では一貫した規格寸法を復元することは不可能です。

ここで、一寸という中途半端と思える規格について、岡本氏は、例えば、石室規格について、大化薄葬令で「王以上、上臣、下臣は内室長九尺、幅五尺」とされているものに、一寸を加えた「王以上」の規格寸法であるとしている。
これらの検証から、岡本氏は、幅が五尺一寸、高さが五尺六寸の古墳として、以下の3古墳を抽出している。
高松塚古墳
草壁皇子説、高市皇子説、忍壁皇子説、川嶋皇子説、などがあり、筆者(岡本氏)は皇太子大津皇子説
マルコ山古墳
草壁皇子説、高市皇子説、忍壁皇子説、川嶋皇子説、がある
牽牛子塚古墳
忍壁皇子と妃飛鳥皇女説、川嶋皇子と妃泊瀬部皇女説、などがある

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2008年11月 9日 (日)

岡本正太郎氏の高松塚被葬者論…①古代尺について

岡本正太郎氏には、『高松塚古墳と大津皇子-古代尺度が解く千三百年の謎』梓書院(8706)というタイトルの著書がある。
タイトルから分かるように、岡本氏は、被葬者を大津皇子に比定している。
そして、その論拠は、サブタイトルに示されているように、尺度論が中心である。

岡本氏の結論は、「はじめに」に記されている。
①設計は皇太子設計
②尺度からは西暦688年
③葬方位制度からは嫡長子
688年は、天武天皇と大津皇子の2人が亡くなっている。

高松塚の被葬者を大津皇子ではないか、とする見解に対しては、大津皇子は謀反人であり、高松塚のような立派な墓に葬られるはずがない、という反対意見がある。
岡本氏は、この否定論を乗り越えたとしている。

岡本氏は、古代の尺度について、冒頭で次のように書いている。

古代史では、古代尺として高麗尺と唐尺が一般的ですが、古代にはこの他に日本古来の尺度や他の渡来尺は存在しなかったのでしょうか。分析学、放射線科学までが応用される現代考古学において、全く調査解明のメスが入れられず、江戸・明治の文献や研究がそのまま通用する、という古代史の盲点ともいえるのがこの古代尺の分野です。

そして高麗尺は、文献・遺構・遺物のいずれにも存在しないことは明らかで、実在しないまぼろしの尺度である、と論じている。
どれでは、なぜ高麗尺が使用されていた、とする見解が通用していたのであろうか?

新井宏『まぼろしの古代尺-高麗尺はなかった』吉川弘文館(9206)も、タイトルの示すように、高麗尺の存在を否定しているが、次のように記している。

日本の歴史で、はじめて「尺度」が具体性をもって登場してきたのは「大化改新」の税制や墓制を定めた詔勅のなかである。これを契機に、それまでの「尋」や「高麗尺」から唐制移入による「唐尺」に統一が進んだ。したがって「唐尺」以降の尺度の変遷については、かなり詳細にわかっている。
ところが、大化前代に存在したといわれる「高麗尺」については、後代になって律令の解釈をまとめた『令集解』と『政事要略』に測量法として現れているのみで、「厳密にいえば、この尺度で作られたと証明できる建物も物も、今のところ見つかっていない」といわれている。ただ法隆寺の建物測量結果や飛鳥寺の発掘調査結果あるいは平城京の地割復元などから、「唐尺」の1.2倍の「高麗尺」が半ば定説化しているだけである。

つまり、『令集解』で高麗法と称する測量法に言及されているものの、明確にこの尺度で作られたとし得るものは存在を知られていない、ということである。
岡本氏は、建物や古墳などを測量する場合、何を測っているかについて、以下の区分けを明確にしなければならない、とする。
①内法測定法
②柱心・心測定法
③外法測定法
④これらの混用

そして、②柱心・心測定法は、江戸を中心に適用されてきたとされるものの、江戸城内の殿舎が内法測定法による京間を単位としていることからして、まだ350年ほどしか経っていないものだとする。
つまり、それ以前は、京間建築と考えなければならないが、考古学者が「高麗尺」や「天平尺」としているものは、柱心・心の測定法により算出していると批判している。
近世の尺度割出方法で、古代建築の尺度を算出しており、それでは柱の太さによって、柱心・心の長さが変化するので、造営尺を割り出すことは不可能だということである。

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2008年11月 8日 (土)

岡本正太郎氏の小林説批判…⑤文献改ざんと論理矛盾

岡本正太郎氏は、『「高松塚被葬者考」批判』(「古代文化を考える第20号」(8907)所収)において、小林惠子『高松塚被葬者考―天武朝の謎 』現代思潮社(8812)の次の文章(p21)にも、批判の矢を向けている。

大海人は(壬申の)乱後ただちに高市の軍勢を接収したと思うが、それを可能ならしめたのは唐人や新羅の外国軍勢であったと思う。郭務悰は天武二年(六七三)に大海人の即位を見届けてから帰国していると思われるからである。

小林氏は、大海人が吉野に引きこもる前から新羅と唐人にと新羅援軍を要請しており、それが大海人の勝利の大きな要因だったとしている。
そして、『日本書紀』が、郭務悰らの帰国を、大友(天武)元(672)年として記述しているのを、小林氏が、それは翌年のことであって、本当の天武元年である、としていることについては既に触れた(08年11月4日の項)。
この主張についての論拠は明瞭ではないが、この章の「結」の部分では、小林氏は次のように書いている(p55)。

壬申の乱そのものが、白村江の戦いの後、連合した天武と新羅文武王対、天智朝を応援する唐国との戦いであった。

つまり、小林氏は、壬申の乱について、唐(郭務悰)は、大海人を支援したと書く一方で、唐が支援したのは天智朝で、大海人と新羅が連合して天智朝を倒した、と書いているわけである。
小林氏は、郭務悰らを唐人と書いて、唐国とは書いていない。
したがって、唐国は天智朝を支援し、郭務悰ら(唐人)は大海人(天武)を支援したいう趣旨と解せないことはない。
しかし、岡本氏は、郭務悰は唐国を代表して来日しているのであり、それは皇帝の信書を奉呈していることからもそう理解すべきである、として、唐国・唐人別行動説を否定している。
そして、郭務悰の天武二年帰国説を、文献の無断改訂ではないか、と論じている。

壬申の乱については諸説があり、その一部はこのブログでも紹介してきた(研究史原因論争砂川恵伸説国体論との関係関裕二説林青梧説)。
研究史を総括した星野良作『研究史 壬申の乱・増補版』吉川弘文館(7801)では、国体論の呪縛が解けた戦後に本格的な研究が展開されてきたが、「明確な結論を得ていない部分が少なくない」としている。
現時点でも新しい視点に基づいた論考が発表されており、全体像については未だ確定していない、と考えるべきであろう。

ところで、天武2年8月条に次の記述がある。

耽羅の使人に詔して曰はく、「天皇、新たに天下を平けて、初めて即位す。是に由りて、唯賀使を除きて、以外は召したかはず。」

この部分を、砂川恵伸氏は、「天武は武力によって新王朝を創始したのだから、新王朝への祝賀使は受け入れるが、それ以外は受け入れない、と言っているのであり、天武には、易姓の意識があった」と解釈している(08年1月23日の項)。
この記載について、小林氏は、以下のように解釈している(上掲書p21)

ということは、即位以前の政情不安定な時には儀礼以外の使人、つまり外国の勢力を必要としていたと解読される。

岡本氏は、この小林氏の解釈に対し、天武は小国の耽羅に負担を掛けさせない配慮だとし、軍隊とは何の関係もない、と否定している。
岡本氏は、小林氏が何の根拠もなく文献改ざんし、「交戦中の唐と新羅の軍隊が、日本に来て天武帝の革命を成功させた」とする一方で、「唐は、唐の意志に反して日本国王になった天武を攻める意志を持っていた」というように支離滅裂な考察をしている、と厳しく批判している。

小林氏は数多くの著作を著され、特に日本古代史を東アジアの状況との係わりで捉えられ、通説にない発想で、そういう考え方もできるのか、と啓発されることも少なくない。多数の読者を擁するのも、その独特のスタンスによるものだろう。
私如きがどうこう言えるものではないが、ここで管見した範囲においては、確かに、天武と唐(郭務悰)の関係に関しては論理矛盾だし、『日本書紀』の読解も他の人には論理的な検証が不能ではないか、と思われる。
岡本氏が、文献改ざんと批判するのも的を射ているのではないだろうか。

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2008年11月 7日 (金)

岡本正太郎氏の小林説批判…④天変地異の讖緯説による解釈

小林惠子氏は、『高松塚被葬者考―天武朝の謎 』現代思潮社(8812)において、讖緯説について、次のように書いている(p30)。

『書紀』及び『三国史記』の場合は、天変地異を政変と結びつけた讖緯説により暗示して、事件を明確に記すのを政治的配慮により伏せる傾向にある。しかし、当時の知識人であったなら、暗黙のうちに了解したであろうことは疑いない。この意味をもって、『書紀』にある天変地異の記事と中国のそれとを対比しながら事実を追っていきたい。
『書紀』の天武十三年(六八四)一○月から一一月にかけて、異常な記事が集中していることに気がつく。まず一○月一四日、全国的に大地震があり、伊豆の温泉は埋もれて出ず土佐国では津波があり、東方に鼓のような音がして、伊豆方面に新しい島が生まれたとある。

さらに、十一月に記されている天文事象の記述を、中国史書の記述と対比しつつ、それが暗示する政治的意味を考察している。
結論的に、小林氏は次のように書いている(p33)。

以上述べた天文異変から一三年一一月に起きた事件を意訳すると、天皇から人心が離れ、親王以下諸臣の力が強くなって、下克上の様相になり、実情を知った唐は一一月二一日から三日にかけて新羅とともに侵入した。反天武派も一緒になって反乱をおこしたので、天武は東北方面に逃亡途上、戦乱の中に殺されたということになる。

「意訳すると」という言葉が曲者で、『日本書紀』の記述は、例えば以下のようである。

二十一日、昏時(午後八時頃)七つの星が、一緒に東北の方面に流れおちた。二十三日、日没時(夕方六時頃)に星が東の方角におちた。大きさは瓫(ホトキ:湯や水を入れる口が小さくて胴の太い瓦器)くらいであった。戌(夜八時頃)になると、大空がすっかり乱れて、雨のように隕石が落ちてきた。
この月、天の中央にぼんやりと光る星があり、昴星(モウショウ:すばる)と並んで動いていた。月末になってなくなった。

このような記述を、唐が新羅とともに侵入し、反天武派も同調し、天武は東北方面に逃亡途上で殺された、と「意訳」するのであるから、理解し難い。
小林氏は、一○一四日の地震の項では、「本当にあった地震と、つぎにくる政変の予兆としての両方の意味をもつものと解釈したい」とし、一一月二一日の「七星が共に東北地方に流れ落ちた」の項では、「(七星が)流星になったということは、現実にはありえないから、天文異変にかこつけて、非常に大きな政変を暗示していることは間違いない」としている。
流星は人の死を意味し、北斗七星は帝王を表象するから、天皇が東北地方で死んだという呪術的暗示だということである。

このような解釈に関しては、ロジカルな批判は意味をなさない、というよりも不可能のように思われる。
岡本正太郎氏は、斉藤国治『星の古記録』岩波新書(8206)に、次のような記事があることを指摘する。

パングレの『彗星誌一七八三/八四』は古代の彗星記録のコレクションとしての労大作であるが、そこに次のような文章がある。
「ブノワ三世のクリスマス(六八四年一二月二五日)と主御公現の祝日(六八五年一月六日)との間に、夜プレアデスの近くに、ごく暗い星を認めた。それはちょうど雲に覆われた月のようであった。」

岡本氏は、『日本書紀』の彗星の記事と、上記の星は同一天体であるとする。その理由は以下の通りである。
①天武十三年十一月は西暦六八四年十二月一二日から六八五年一月一○日までで、パングレの記事の期間を含んでいる。
②プレアデスは昴で、七個以上の星がかたまって見えるおうし座の星団の名で、両者の記事は天球上の同じ場所を指している。
③『日本書紀』は、星の形を「孛(ハイ)す」としているが、尾のない彗星または四方に光芒が出て見かけの大きさをもつ天体のことで、パングレの「雲に覆われた月のよう」に相当する。

つまり、『日本書紀』の記述は、ヨーロッパの記録と整合しているものであり、実際の観測による記述であることを裏付けている。
小林氏の讖緯説による解釈は、全く的外れで、「天武が東北方面に逃亡途上に殺された」というのは、何の根拠もない創作だ、ということである。
小林氏の讖緯説は、多分に恣意的解釈のように思われる。
ここは岡本氏の批判に軍配を上げたい感じである。

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2008年11月 6日 (木)

岡本正太郎氏の小林説批判…③唐の内政干渉について

小林惠子氏は、『高松塚被葬者考―天武朝の謎 』現代思潮社(8812)において、以下のように述べている(p26~)。

同年(注:天武八年のことか?)四月条以後の「羅紀」を意訳すると、四月に天存ら親唐派の禁門兵の反乱があり、六月には日本からの援軍が文武王の命によって(場所はわからないが)戦い、八月に鎮圧されて天存は殺されるということになる。ここにみえる日本兵は当然、九月帰国の使人であったと考えられる。
天武・新羅文武王末年の唐の政治介入
これらの新羅と日本の行為はただちに唐国に知られたとみえ、「羅紀」では、このように文武王の勝利に終わったようにみえるが、天孫の死に続いて「創造東宮」とある。六六五年(文武王五年)に仁軌立ち会いのもとで、新羅と百済が和平の儀式を執り行った年に王子の政明が立太子している。ふたたび、ここに東宮を創造したとあるのは、天存の死をもって文武王が勝利したように「羅紀」にはあるけれども実際はあらあめて政明(神文王)を立太子させて、文武王の実権を削減する意志を持った唐の介入があったと推量する。
……
新羅では八月に東宮を創造しているが、日本では一○月に新羅使が数々の珍宝をもって来日した記事がみえる。この中で重要なのは、特別に天皇・皇后・太子に金銀・刀・旗の類を貢じたとあることである。
……
ここで問題になるのは旗である。旗が新羅からもたらされたのは、この条以外に見られない。斉明四年七月条に帰属した蝦夷に蛸旗を授けたという記事が見られるが、旗を与えるということは帰服した者になす行為なのではないだろうか。
即ち、八月に唐は文武王に事実上の引退を勧告して政明の東宮を設置し、一○月に新羅朝貢とあるが、実際は唐使が新羅使と共に来日して、天武の引退を勧告し、太子(後に述べるがおそらくは大津皇子)を定めたという事情が旗によってあらわされているとおもう。

このくだりの最後の、「八月に」以降の文章を引用して、岡本氏は、「歴史家というものがこのような姿勢で、人に読ませる文を書いてもよいものか」と厳しく論難している。
その根拠として、岡本氏は、次のように書いている。

文中小林氏は天武十年八月に、唐が新羅文武王に引退を勧告して政明の東宮を設置して、十月に新羅朝貢とある。としていますが、『三国史記』では、天武十年(六八一)に当る新羅文武王二十一年七月一日に遺勅を遺して文武王は亡くなっていますから、八月に唐が引退を勧告したというのは、「天武引退を唐が勧告した」という妄説を立てるための手段にすぎません。

岡本氏の批判は、新羅における政明の東宮設置を天武十年八月としていることによる。
しかし、私の読んだ限りでは、小林氏は、それを「八月に」としているだけであり、必ずしも明瞭ではないが、小林氏の文脈の上からは、天武八年のことと解するのが自然のように思われる。
この判断は、引用の冒頭の「同年」が何年のことなのかにもよるのであるが、天武八年のことと読むのが自然であり、注はその意味である。

『日本書紀』(宇治谷孟・全現代語訳『日本書紀日本書紀〈下)』講談社学術文庫(8808))をみると、以下のようにある。

(天武八年十月) 
十七日、新羅は阿飡金項奈・沙飡薩喿生を遣わして朝貢した。調物は金・銀・鉄・鼎・錦・絹・布・皮・馬・狗・騾・駱駝など十余種であり、また別に献上物があった。天皇・皇后・太子にも金・銀・刀・旗の類を相当数たてまつった。

(天武十年十月)
二十日、新羅が沙喙一吉飡金忠平・大奈末金壱世を遣わして調をたてまつった。金・銀・銅・鉄・綿・絹・鹿皮・細布などの類がそれぞれ数多くあった。別に天皇・皇后・太子にたてまつる金・銀・霞錦(新羅の特産物)・幡・皮などもそれぞれ数多くあった。

天武八年と十年のそれぞれ十月に、非常に良く似た記事が記されている。
これは偶然なのだろうか?
それとも、『日本書紀』の編者が、同じことを重複して記述してしまった、ということなのだろうか?

岡本氏は、小林氏が、「旗を与えるということは帰服した者になす行為」としていることに、「何の根拠もなく」と批判し、天武十年の新羅使が持参した幡を、それと同じ意味としているが、それは間違いである、としている。
「旗」は、四角い形をしたハタの意味で、「幡」は色のついた布に字や模様をかいてたらしたハタ及びひらひらとひるがえるノボリの意味で、旗を与えることが帰服の意味だとしても、幡にまでそれを適用することはできない、というのが岡本氏の趣旨である。

私には、「旗」と「幡」の使い分けに関する知識はないが、『日本書紀』の天武八年十月条は「旗」の字を用い、十年十月条は「幡」の字を用いている。
この使い分けが意味があるものか、否か?
小林氏が、天武八年のこととして記述しているのか、天武十年のこととして記述しているのか?
その辺りが、岡本氏の批判の妥当性を判断する根拠になると思われる。
「旗」の字を重視すれば、天武八年条と解するべきであり、とすればこの箇所に関する岡本氏の批判は妥当性を欠くことになる。

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2008年11月 5日 (水)

岡本正太郎氏の小林説批判…②高市皇子に関する認識

高市皇子が、『日本書紀』が記述し、通説も是認している天武天皇の皇子ではなく、天智天皇の皇子だった、というのは、小林惠子氏の「壬申の乱」認識の眼目といえる(08年10月26日の項27日の項28日の項)。
その論拠として、『扶桑略記』の天智条に、「三人即位一人不載系図」とあって、それは三人即位して一人系図に載っていないということであり、大友と元明が即位したとして、系図に載らない一人とは高市皇子のことではないのか、としている(27日の項)。
これに対し、岡本氏は、次のように批判する。

天智天皇の子で即位したのは、持統・元明・大友(弘文)の三天皇で、明治以前までは大友皇子だけが天皇と認められていなかったのは、周知の事実である。
持統を削って、高市を入れたのか。

この批判はもっともなものであろうが、小林説は、そもそも持統朝の実相は、高市皇子が実権を握っていた高市朝とみている(08年10月30日の項)のだから、持統と高市を入れ替えた、ということであろう。
また、小林氏が、次のように記載している箇所(『高松塚被葬者考―天武朝の謎 』現代思潮社(8812)pp14~16)に疑問を呈している。

『書紀』では高市は、天武と胸形君徳善の娘との間に草壁・大津につづく第三子として記載されている((08年10月26日の項)。しかし、年令は『書紀』には見えないが『公卿補任』より見て当時一九才位であり、一一~二才と推定される草壁・大津にくらべて、はるかに年長である。高市がもし卑母の出あろうとも年者である彼が第三子となっているのが第一の疑問である。例えば大友皇子は卑母の出であっても天智の第一となっている。
さらに大津のように母が天智の娘であり、天智の手許で育てられていたと思われるものと違って、母方が一豪族であってバックが弱いにも拘らず、また一才と言えば成人であり、『書紀』には父とある天武の有力な片腕となってしかるべきであるのに、天武の吉野追放のときに行を共にしていないのは何故であろうか。

岡本氏は、先ず、皇子の順位は、年齢順ではなく、皇位継承順位とでも言える年齢以外の基準である、とする。
例えば、『官職難儀』に次のようにある。
 天武天皇第九皇子三品忍壁親王
 天武天皇第二皇子二品穂積親王
 天武天皇第三皇子一品舎人親王

これについて、『高階系図』でも忍壁皇子を第九皇子とし、『清原系図』では舎人皇子を第二皇子と記している。
『清原系図』は、舎人皇子の薨年齢六一歳としているので、それから生まれ年を計算すると天武3(774)年になるが、この年には忍壁皇子が石上神宮で神宝を磨いている。
つまり、第二(三)皇子の舎人皇子よりも、第九皇子の忍壁皇子の方が年長であることは明らかである。

高市皇子が第三皇子として記されているのは、ある時点における皇位継承順位のような年齢以外の順位によるものである。
小林氏が例示した大友皇子を第一皇子と記した記述は、大友皇子が皇位継承順位第一の皇子であったからで、だからこそ天皇に即位したのである。

また、天武の吉野追放の時に、高市が行を共にしていないのは、大津皇子と高市皇子が近江朝に任官していたからで、それをもって天武と高市の親子を否定する根拠とすることはできない。
壬申の乱の時に、高市皇子が比較的楽に近江から脱出できたの比べ、大津皇子が、山部王と名を偽ってようやく脱出できたのは、それだけ重要な嫡子だったからである。

岡本氏は、小林氏が、壬申の乱で大海人と高市が対面した時、大海人が「自分には幼少の子供しかいない」と語りかけているが、高市は一九才で当時としては立派な大人である、として高市が天武の子でない根拠の1としていることについては次のように説く。
この時に、大海人と話し合ったのは、和蹔で全軍の指揮をとっていた大津皇子だった。
つまり、岡本氏も、この部分の『日本書紀』の記述を否定する立場ということになる。
これについては、改めて検討することとしたい。

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2008年11月 4日 (火)

岡本正太郎氏の小林説批判…郭務悰と壬申の乱

小林惠子氏の論説は、博識で多様な資料に言及しているが故に、というべきであろうが、論理の筋道(理路)を辿り難いと感じるのは私だけではないだろう。
当然のことながら、小林説を否定している論者もいる。
以下では、偶々目にした岡本正太郎氏の『「高松塚被葬者考」批判』(「古代文化を考える第20号」(8907)所収)と題する論文をみてみたい。

岡本氏は、小林氏が、『高松塚被葬者考―天武朝の謎 』現代思潮社(8812)において、以下のように書いている箇所に疑問を呈する。

(大海人皇子は)六七二年(壬申)六月、近江京に不穏な動きがあるという口実をもって、吉野を出て兵を募りながら、美濃国の不破(岐阜県不破郡関ヶ原)に入る。ここにいわゆる、壬申の乱が始まった。
大海人は吉野に入る前から、新羅と唐人に援軍を要請していたが、彼が吉野を出ると時を同じくして、西南の要衝である筑紫大宰府と吉備地方は、それぞれ郭務悰率いる唐人の軍勢と新羅軍によって押さえこみに成功する。

岡本氏は、以下のように批判する。
郭務悰は、天智10(671)年11月に合計2000人で比智嶋に到着しているが、大友元(672)年の3月30日に帰国している。
壬申の乱が始まったのは、大友元年6月だから、郭務悰等は、壬申の乱に参戦することはあり得ない。
注:岡本氏が郭務悰の帰国を3月30日としているのは、5月30日の間違いと思われる。
『日本書紀』の、天武即位前紀の記述は以下の通りである(宇治谷孟・全現代語訳『日本書紀日本書紀〈下)』講談社学術文庫(8808))。

十二月、天智天皇はお崩(カク)れになった。  
元年春三月十八日、朝廷は内小七位安曇連稲敷を筑紫に遣わして、天皇のお崩れになったことを郭務悰らに告げさせた。郭務悰らはことごとく喪服を着て、二度挙哀(コアイ:声をあげて哀悼を表わす礼)をし、東に向かっておがんだ。
二十一日、郭務悰らは再拝して、唐の皇帝の国書と信物(その地の産物)とをたてまつった。
夏五月十二日、鎧・甲・弓矢を郭務悰らに賜わった。この日郭務悰らに賜わったものは、合わせて絁千六百七十三匹・布二千八百五十二端・綿六百六十六斤であった。二十八日に、高麗は前部富加朴らを遣わして、調をたてまつった。三十日、郭務悰らは帰途についた。

小林氏は、『白村江の戦いと壬申の乱 補訂版―唐初期の朝鮮三国と日本』現代思潮社(8805)において、郭務悰が帰国したのは、大友元(672)年ではなくて、天武2(673)年であり、それが本当の天武元年であるとしている。
『日本書紀』は、郭務悰に関する3月、5月の記事は、故意に大友元(672)年と天武元(673)年を混同して記載しているのである、という。
3月条は、『日本書紀』の記載通りの即位前紀で壬申年のことであり、5月条は、翌年の当時の天武元(673)年の出来事であったのを同じく壬申年に記載したのである、とするのである。
つまり、郭務悰らは、672年の壬申の乱を通じて滞在していた、というのが小林説である。 

この小林氏の、郭務悰673年帰国説は、少なくともこの箇所からだけでは説明不足であることを否めない。
『日本書紀』の記述を素直に読めば、郭務悰らが5月に帰途についた後に、大海人が挙兵したと考える方が自然であろう。
小林氏も唐国と近江朝とが親和的であることを認めており、唐国と郭務悰らの唐人とを区別して考えなければならない、としている(p176)。
しかし、上記の『日本書紀』の記述にあるように、郭務悰は、唐の皇帝の国書をたてまつっているのであるから、唐国の意向と反対の政治的動きをしたとは考え難いのではなかろうか。

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2008年11月 3日 (月)

藤ノ木古墳の紅花

藤ノ木古墳の石棺から出土した大量の紅花花粉の研究で、この古墳の石棺に納められた2体の被葬者が、穴穂部皇子と宅部皇子の可能性が高いことが分かった、と報じられている(産経新聞081101)。
042藤ノ木古墳は、奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺字藤ノ木にある古墳で、古墳時代後期にあたる6世紀後半の円墳である。
昭和63(1988)年の発掘調査で、金銅製の靴やガラス玉で装飾された太刀、2人の人骨などが、埋葬当時の状態でみつかった。
法隆寺西院伽藍の西方約350mのところに位置し、直径約50m、高さ約9mである。

金銅製の冠などの豪華な副葬品が発見され、被葬者が誰であるか、論議を呼んできた。
特に、法隆寺に近い場所であることから、聖徳太子との関係に関心が持たれてきた。
副葬品からは支配階級の1人であることは間違いないが、円墳であることから、大王クラスではなく、その一族だったと推測されている。

WIKIPEDIA(081101最終更新)によれば、前園実知雄・奈良芸術短大教授や白石太一郎・奈良大学教授などは、2人の被葬者が、『日本書紀』の次の記事との関連で、聖徳太子の叔父で、蘇我馬子に暗殺された穴穂部皇子と、宣化天皇の皇子とされる宅部皇子の可能性が高い、としている。

(崇峻天皇 泊瀬部天皇紀)
二年夏四月、用明天皇が崩御された。
五月、物部大連の軍兵が、三度も人々を驚かし騒がせた。大連は、はじめは他の皇子たちを顧みず、穴穂部皇子を立てて天皇にしようとした。しかし今になって、狩猟することにかこつけて、自分の都合で立て替えようと思い、こっそり人を穴穂部皇子のもとに遣わして、「願わくば皇子と共に、淡路に狩猟をしたいと思います」といった。しかし謀が漏れた。
六月七日、蘇我馬子宿祢らは、炊屋姫尊を奉じて、佐伯連丹経手・土師連磐村・的臣真噛に詔して、「お前達は兵備を整えて急行し、穴穂部皇子と宅部皇子を殺せ」と命じた。この日の夜中に、佐伯連丹経手らは、穴穂部皇子の宮を囲んだ。兵士はまず楼の上に登って、穴穂部皇子の肩を射た。皇子は楼の下に落ちて、そばの部屋へ逃げこんだ。兵士らは灯をともして皇子を見つけ出して殺した。八日、宅部皇子を殺した。--宅部皇子は宣化天皇の皇子で上女王の父である。しかし詳しくは分からない。--皇子が穴穂部皇子と仲が良かったので殺したのである。

藤ノ木古墳の石棺内から検出された大量の紅花の花粉については、当初、被葬者を覆う布などの染料に使われた痕跡とみられていた。
それが、金原正明・奈良教育大学准教授(環境考古学)の研究で、染料にした花粉はほとんど残らないことが判明し、紅花の生花が供花として納められた可能性が高いことが分かったということである。

紅花は山形県の県花である。
2江戸時代までは、染料の原料として盛んに栽培されていた。花期は6~7月で、花は、はじめ鮮やかな黄色で、徐々に赤くなる。
名の通り、紅色の染料として衣類を染めるために用いられるほか、防腐剤や食用油としても用いられた(写真はhttp://www.hana300.com/benina.html

生花として用いられたとすれば、花期からして夏に埋葬されたことになり、『日本書紀』の記述との整合性から、穴穂部皇子と宅部皇子の可能性が高くなる。
しかし、紅花には防腐剤としての作用もあることから、夏以外の埋葬の可能性も残されており、藤ノ木古墳の被葬者が確定したとまでは言えないようである。

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2008年11月 2日 (日)

小林惠子氏の高松塚被葬者論…⑨被葬者と築造者

小林惠子氏は、『高松塚被葬者考―天武朝の謎 』現代思潮社(8812)において、高松塚は、持統5年から末年にかけての約5年間に完成されたものであるとしている(08年10月31日の項)。
この間に亡くなった天皇かそれに近い人物としては、大津、草壁、高市が挙げられる。
しかし、陵墓が死直後に造られるものではなく、殯宮期間があることを想定すると天武もノミネートしなければならない、とする。

1.石槨内の状態
小林氏は、石槨の内部が散乱状態で、棺が破壊され、遺骨が外力を受けて棺外に飛び出し、玉類が槨内全面に散らばった状態だったこと、高松塚が「祟りのある古墳」という伝承を持っていることから、高松塚の槨内は、最初から死者を冒涜するために破壊された状態であった、とする。
それは、墓の主人の霊を亡きものにしようという意図によるものである。

2.頭蓋骨がないこと
高松塚の遺骨は、外力を受けてかなり破損している。
遺骨の鑑定結果からは、筋骨の発達が著しく、鎖骨と中足骨の長さからして、腕が長く、足の大きい人物であったとされる。
死亡原因は、慢性疾患や長期臥床後の死亡は考えられず、急死の可能性が大である。
推定死亡年齢は、30歳以上であるが、熟年者(40~50歳)もしくはそれ以上の可能性が大である。
小林氏は、死亡年齢が熟年かそれ以上という鑑定結果から、28歳で亡くなった草壁と24歳で亡くなった大津は除外される、とする。
高市と天武は、いずれも上記の条件に該当する。

小林氏は、高松塚の被葬者の場合、白骨化した遺骸から丁寧に、顔面頭骨、下顎骨を含めた頭骨を切り離したと推定されるが、その意味は次のようなものではなかったか、とする。
古代人には、生から死への死、死から死体の損亡による未来永劫にわたる真の死、という二重の死生観がった。
「律」では、謀反した者は斬首で、計画した者は絞殺となっており、謀反を起こした者は計画した者より重罪であることが定められている。
高松塚の遺骸に頭骨がないということは、死体が棺に納められてからかなりの期間を経て白骨化した時期に、死者の再生を否定するために、頭骨だけが捨て去られたのではないか。
つまり、高松塚は、死者に恨みを持つ者が入念に仕立て上げた呪いの墳墓である。

3.壁画
高松塚の石槨は非常に小さいので、棺を入れると、壁画は棺の上に位置してはいるが、狭いために誰も壁画を見ることができない構造になっている。
つまり、最初から壁画が見られることを予想していない、と考えられる。
小林氏は、高松塚壁画に、天子の象徴である北斗七星が描かれていないということは、被葬者が天皇であることを否定するとともに、その再生をも拒絶するという二重の意味が込められている、とする。
そして、その意図を死者に知らしめるために、入念な二八宿を描かせている、と。
天皇になっていない人間に対してその身分を否定する必要はないので、高松塚の被葬者は天皇である、ということになる。

4.玄武と青竜
壁画には、四神、日月、星宿、人物像が描かれている(08年9月16日の項)。
四神のうち、玄武はもっとも人工的な損傷が甚だしいが、一方で特に入念に描かれている。四神の中でも、玄武・朱鳥が重要であるとされているが、玄武が損傷されているということは、重要なものの破壊ということで、被葬者の未来永々にわたる命運に対する痛撃である、とする。
そして、玄武は北方を意味し、高松塚の壁画において、玄武の損傷がもっともひどいのは、被葬者が親新羅、築造者がアンチ新羅ということではないか。

以上からすると、被葬者は親新羅で天武系の人間ということになり、天武以外にはあり得ない。
とすれば、築造者は反新羅で天智系ということになり、天智の子(であると小林氏がする)高市皇子をおいてない、ということになる。
持統4~5年からは、高市が最も実権を握った時期であり、実力者でなければ高松塚ほどの古墳は築き得なかった。
高松塚に朱鳥が描かれていないのは、一時実権を握った大津の朱鳥ごのみへの高市の否定である、とする。

青竜には、首に赤い×印が付けられている。薬師寺の台座の青竜と同様である。
薬師寺は天武の追悼寺であり、その薬師寺の青竜と高松塚が同じ印を付けていることからしても、高松塚が天武の墳墓であることを物語っている。

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2008年11月 1日 (土)

小林惠子氏の高松塚被葬者論…⑧高松塚に関する史料

小林惠子氏は、『高松塚被葬者考―天武朝の謎 』現代思潮社(8812)において、高松塚に関する記録をレビューしている。

江戸時代までは、史料的にはさしてみるべきものはないようである。村人たちによって、皇陵として細々と奉祭が続けられていたことが伝承されている。

江戸時代になると、松下見林の『全王廟陵記』(元禄9(1969))が世に出、『延喜式』(諸陵寮)に文武陵とある安占岡陵を、高松塚に比定する方向性が示された。
2_2元禄10年に、幕府による皇陵の探索が始まるが、高松塚は所伝がないことから皇陵から外された。
しかし、不分明陵とされたものについてもさらに検分が続けられ、高松塚については、与力玉井与左衛門・中条五左衛門が担当し、以下のような報告書が書かれたという。
①高松塚は文武陵と考えられる。
②高さ2間半、根回り27間で一里塚のようであり、平芝山の中で切り崩した残りのようである。
③塚の上に松が15本ある。自然木の枝を伐っても祟りがあるといわれる。
④周囲の竹垣は27間と見積もられる。

上記では、松が15本ある、とされているが、嘉永7(1854)年の津久井清影『聖蹟図志』の絵図では、松が3~4本生えている図になっている(上掲書より引用)。
この絵図では、高松塚は、檜隈安占岡上、文武天皇陵とされている。
安政2(1855)年、文武陵は現在の天武・持統陵とされ、天武・持統陵は丸山古墳とされて、高松塚は皇陵から外されることになった。

小林氏は、皇陵から外された高松塚は、天皇陵に間違いない、とする。
その論拠は以下の通りである。
第一に、壁画の従者たちがすべて南向きに歩いて行く様子として描かれており、被葬者に南向きの意識があった可能性がある。
南面している陵墓は、天子南面の思想からして、陵墓である可能性が高いと考えられる。
また、高松塚の名の通り、松が植えられていたことが特徴であるが、中国では陵墓には必ず木が植えられ、その中に必ず松があったという。
つまり、南面と松からして、高松塚は天皇陵であると考えられる。

天皇陵にしては規模が小さい、という意見があるが、大化薄葬令には王以上の墳丘は方9尋とあるが、1尋を180cmとすると、高松塚の規模(直径20m)は王以上を超えている。
また、高松塚からは鏡と刀と玉という三種の神器が出土している。これについては、梅原猛氏も、皇位継承のしるしとしている(08年9月14日の項15日の項)。
2_3三種の神器意識がいつから生じたのか、高松塚出土の鏡・刀・玉が三種の神器であるのか否か等について議論があるが、小林氏は、出雲勢力が大和勢力に統合された時代あたりから、三種の神器の意識が生まれた、とする。
天武は渡来人であった、というのが小林氏の持論であり、天武は土着勢力を懐柔するために、日本古来の風俗習慣を尊重しなければならなかった。
そして、「高松塚の場合、持統朝以前の三種の神器意識をもって、被葬者の天皇という身分を表明するために、三種の品を入れた」としている。

壁画については、梅原猛氏の「地下の朝賀」説がある(08年9月21日の項)。
朝賀説にも異論はあるが、小林氏は、従者が朝賀の儀式に持つ物と同様の物を持っているということは、被葬者が天皇であることを意味している、とする。
朝賀の調度品とは図に示すようなものである(上掲書)。
『続日本紀』の大宝元年正月の記事は有名であるが(08年9月9日の項)、平成20年6月28日の新聞は、藤原宮跡で、この時に幢幡(ドウバン:旗)を立てたとみられる支柱跡が見つかったことを報じている。

『続日本紀』の記載を再引しよう。

春正月一日、天皇は大極殿に出御して官人の朝賀を受けられた。その儀式の様子は、大極殿の正門に烏形の幢(先端に烏の像の飾りをつけた旗)を立て、左には日像(日の形を象どる)・青竜(東を守る竜をえがく)・朱雀(南を守る朱雀をえがく)を飾った幡、右側に月像・玄武(北を守る鬼神の獣頭をえがく)・白虎(西を守る虎をえがく)の幡を立て、蕃夷(ここでは新羅・南嶋など)の国の使者が左右に分れて並んだ。こうして文物の儀礼がここに整備された。

2_4もちろん、藤原宮跡の支柱跡が『続日本紀』大宝元年正月の朝賀に用いられた幢幡のためのものとは断言できないが、木下正史東京学芸大学特任教授(考古学)は、「出土遺構と続日本紀との符合から、大宝元年の朝賀の儀の跡と見て間違いないだろう。本格的律令国家成立をうたい上げた世紀の祭典が目の前によみがえるような痛快な発見だ」としている(朝日新聞080628)。

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