邪馬台国に憑かれた人…①原田大六と「東遷」論
渡辺一衛『邪馬台国に憑かれた人たち』学陽書房(9710)に登場する研究者のトップバッターは、原田大六である(以下、関連稿においては敬称略)。
原田大六は、WIKIPEDIAでは、以下のように解説されている。
福岡県糸島郡前原町(現前原市)に父・猪之助、母・ユクの長男として生まれる。福岡県立糸島中学校(現在の福岡県立糸島高等学校)在学中に安河内隆教諭の薫陶を受け、考古学に傾倒。中学卒業後、上京、就職、召集、復員の後、故郷に戻り、中山平次郎博士に師事。地域の発掘・調査を通じて、天皇家の故郷は、自分の郷土であると確信を持つに至る。
昭和40年(1965年)、前原市有田で平原遺跡を発見、八咫鏡と平原遺跡出土鏡の近似性を推測、被葬者を天照大神であると推量した著作「実在した神話」を出版し、世に衝撃を与えた。
原田大六は、邪馬台国問題に関する主著『邪馬台国論争』三一書房(6905)において、以下のように「邪馬台国問題の現状(当時)」を批判している。
(戦前・戦中には一般に知る人の少なかった「魏志倭人伝」によって)正しい歴史を知ろうとする傾向は、まことに結構なことであった。しかし、邪馬台国の所在地を、九州と畿内という二つに分けてしまって、それを対立のまま持ち出し、世間に「邪馬台国ブーム」までつくってしまった学者達に、「結構なことでございますね」とは挨拶にもいえないのである。なぜならば、それらのなかには、戦前の歴史をうまく裏返してみせただけのものがあり、科学らしくみせて非科学のとりことなるもの、他人の研究成果を寄せ集めてひとかどの大学者になったつもりでいるものなど、その実態はまことにひどいもので、戦後二十数年の邪馬台国研究に進展はなく、虚構が歴史学の中にいつの間にかもぐりこんで、小説とも歴史ともつかぬものに堕落してしまっているのである。
まことに手厳しいが、宮崎康平『まぼろしの邪馬台国』講談社(6701)などによって、「邪馬台国ブーム」が大衆的に盛り上がっている状況に対し、学者の側から、新規的・進歩的な見解が提示されていないと論難しているのであろう。
原田大六の師事した中山平次郎は、大正から昭和にかけて、北九州の遺跡を調査研究した考古学者だった。
中山は、北部九州の弥生時代の甕棺墓から出土する鏡・剣・玉などの副葬品が、古墳時代の古墳から出土する副葬品と連続していることに着目し、畿内の弥生時代と古墳時代のつながりよりも、北九州の弥生時代と畿内の古墳時代のつながりの方が強いとした。
原田は、徴兵されて中国に出兵したが、敗戦後帰国して兵隊服姿で、1人で福岡市内の6畳間で暮らしていた老考古学者の中山平次郎を訪ね、入門を許される。
毎日のように、マンツーマンの講義を受けたという。
原田は、中山の「九州北部の弥生→畿内の古墳」の連続性の考えを受け継ぎ、弥生時代の北九州勢力が畿内に入って邪馬台国をつくった、という「東遷仮説」を展開した。
京都大学を中心とする畿内説論者は、畿内の弥生時代の勢力が、大和を中心とする邪馬台国をつくった、としている。
原田説は、邪馬台国成立以前の2世紀代まで、倭国の中心は北九州であり、その勢力が、2世紀末に畿内に遷移して大和に邪馬台国をつくったとするものである。
この考えでは、畿内の弥生時代と古墳時代の間には断絶があることになる。
考古学的には、弥生時代の畿内では銅鐸が祭器であり、古墳時代の鏡・剣・玉による信仰体系とは異なっている。
邪馬台国論争の1つの焦点として、「三角縁神獣鏡」の問題がある。
「三角縁神獣鏡」とは、文字通り、銅鏡の縁部の断面形状が三角形の神獣鏡であって、古墳時代の古墳から多数出土している。
「魏志倭人伝」に、卑弥呼が魏の皇帝から鏡を下賜された、という記述があることから、その鏡が「三角縁神獣鏡」であるのか否か、という問題である。
「三角縁神獣鏡」が出土するのは、主として畿内の古墳であり、卑弥呼が下賜された鏡が「三角縁神獣鏡」であるなら、邪馬台国畿内説が有利になる。
もう1つの重要な論点は「高地性集落」である。
瀬戸内海沿岸部や、大和盆地の周辺部に、人が居住するのには適さないような高地に多くの遺跡が残されている。
これらの遺跡は高地性集落と呼ばれているが、戦争のためn見張台や避難場所と考えられている。
つまり、平時に使用されたものではないだろう、ということである。
とすれば、「魏志倭人伝」に記された「倭国大乱」と結びつけて考えるのが自然である。
問題は、高地性集落が、畿内から西へ西遷したのか、北九州から東へ東遷したのか、である。
戦後、高地性集落に関する研究が進んで、東遷説に有利に展開している。
つまり、北九州と畿内との統一は、畿内の勢力が北九州に進出して統一したと考えるよりも、九州の勢力が畿内に進出して統一した、と考える方が合理的である、ということである。
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今朝の朝刊各紙によれば、仁徳天皇陵(大山古墳)などで知られる百舌鳥古墳群にあり、陵墓参考地に指定されている御廟山古墳を、宮内庁と堺市が発掘し、一般公開されることになった。
陵墓参考地も、陵墓に準じて考えられている。
その工事規模と工事費について、試算した事例を紹介したことがある(
もちろん、高松塚古墳の例を持ち出すまでもなく、発掘調査には慎重な配慮が必要だと思うが、その時代の最善の努力が行われたならば、発掘による状態の変化は止むを得ないことだと思う。
出土木簡の文字は鮮明で、肉眼でも十分に判読出来る状態だった(写真は甲賀市教育委員会発表資料から)。
安積親王の死の真相は今となっては想像するしかないが、藤原氏の手が係わっていた可能性が高いと考えるのが合理的だろう。
津田程域割理論とは、「古代のあらゆる設計に、中国がその神仏思想(道教、儒教、陰陽五行説)から、中国本土を表す、最も尊い天子の図形(呂氏春秋、爾雅釈地、淮南子、の各天下図)とした正方形と、その土地が形成する矩形(程域形)が使用されている」というものである(p90)。
域比0.6)の程域形3個を併せた規格(=短辺5尺・長辺9尺)となり、「大仁以
下」の規格は、短辺2.25尺・長辺4尺の程域形を4個併せた規格(=短辺4尺・長辺9尺)となる。
わせた形ということになる。
藤ノ木古墳は、奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺字藤ノ木にある古墳で、古墳時代後期にあたる6世紀後半の円墳である。
江戸時代までは、染料の原料として盛んに栽培されていた。花期は6~7月で、花は、はじめ鮮やかな黄色で、徐々に赤くなる。
元禄10年に、幕府による皇陵の探索が始まるが、高松塚は所伝がないことから皇陵から外された。
三種の神器意識がいつから生じたのか、高松塚出土の鏡・刀・玉が三種の神器であるのか否か等について議論があるが、小林氏は、出雲勢力が大和勢力に統合された時代あたりから、三種の神器の意識が生まれた、とする。
もちろん、藤原宮跡の支柱跡が『続日本紀』大宝元年正月の朝賀に用いられた幢幡のためのものとは断言できないが、木下正

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