志貴皇子の“むささび”の歌の置かれた位置
小松崎文夫『皇子たちの鎮魂歌―万葉集の“虚”と“実”』新人物往来社(0403)に、志貴皇子の“むささび”の歌(08年10月1日の項)に関する注目すべき指摘がある。
それは、やはりこの歌の位置に着目したものである。
この歌の前後を見てみよう。
柿本朝臣人麿の歌一首
淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば情(ココロ)もしのに古思ほゆ (3-266)志貴皇子の御歌一首
むささびは木末求むとあしひきの山の猟夫にあひにけるかも (3-267)長屋王の故郷の歌一首
わが背子が古家の里の明日香には千鳥鳴くなり島待ちかねて (3-268)
右、今案(カムガ)ふるに、明日香より藤原宮に還(ウツ)る後、この歌を作るか。
小松崎氏は、梅原猛氏が『水底の歌―柿本人麿論』で、人麻呂が体制に圧殺されたとしていることを踏まえ、長屋王も同じように、体制に圧殺されたのであるから、この志貴皇子の歌は、そういう観点で捉えるべきだとする。
“むささび”とはどういう動物か?
WIKIPEDIA(08年7月4日最終更新)の説明を見てみよう。
ムササビ(鼯鼠、鼺鼠)は哺乳類の一種である。ムササビ属に属する哺乳類の総称でもある。ネズミ目(齧歯目)、リス科、モモンガ亜科に属する。野臥間、野衾(のぶすま)という異名がある。長い前足と後足との間に飛膜と呼ばれる膜があり、飛膜を広げることでグライダーのように滑空し、樹から樹へと飛び移ることができる。160m程度の滑空が可能である。
つまり、“むささび”の特徴は、滑空できることである。
滑空はすれども……、それは(時)流に乗せられるだけ……、と小松崎氏は解説している。
梅原氏は、この歌を弓削皇子に引きつけて解しているが、小松崎氏は、志貴皇子自身の宿命と重ね会わせている。
志貴皇子は、そのプロフィールが余り明確でない皇子の1人である。
小松崎氏の上掲書に引用されている小学館版『日本古典文学全集/万葉集1』の解説を孫引きしておこう。
天智天皇の第七皇子。白壁王(光仁天皇)・湯原王らの父。施基・芝基・志紀などとも記す。天武天皇の皇子磯城皇子とは同名別人。霊亀元(七一五)年二品を授けられ翌二年八月薨。万葉集では元年九月薨とある。光仁天皇が即位すると春日宮御宇天皇と追尊され、また田原天皇とも呼ばれた。
薨年が、『続日本紀』と『万葉集』で食い違っているが、出生の事情も曖昧である。
『日本書紀』の天智7(668)年2月条に「越の道君伊羅都賣(イラツメ)有り、施基皇子生めり」とあり、この施基皇子が、志貴皇子のことだとされている。しかし、越の道君伊羅都賣の素性もはっきりしないし、誕生した時も定かではない。
『日本書紀』の皇子・皇女の記載は、母の格で括られ、その母の子供が長幼の順に記されている。
志貴皇子の母の越の道君伊羅都賣は、天智天皇の「宮人の、男女を生める者四人あり」の中の3人目、全体で8人目に位置している。
その後は、近江朝として壬申の乱を戦った大友皇子の母の伊賀采女宅子娘がいるだけである。
嬪以上を母とする皇子としては、蘇我山田石川麻呂の娘の遠智娘の生んだ建皇子がいたが、障害を持っていたとされ、斉明4(658)年に8歳で夭折した。
健常者として成人していれば、近江朝の継承候補の第一であったのであろうが、上記の事情により、結果として、格の低い采女たちの生んだ、大友皇子、川島皇子、志貴皇子が歴史を彩ることになった。
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