小林惠子氏の高松塚被葬者論…⑦高松塚の築造時期
小林惠子氏は、高松塚の築造年時について、『高松塚被葬者考―天武朝の謎 』現代思潮社(8812)で、次のように推論している。
①所在地
高松塚は、古代の檜隈地に属している。
天武朝の皇族クラスの墳墓が、藤原京中軸線の南延長上の、いわゆる聖なるラインに並列し、その中に高松塚も存在するので、少なくとも藤原宮造営計画の後の造営と考えられる。
藤原宮は、『日本書紀』に、天武13年3月9日の条に、「天皇は京内を巡行されて、宮室に適当な場所を定められた」とある。
このことは、出土木簡等からも確認されている。
藤原京時代は694~710年だから、高松塚の造営時期は、7世紀後半から8世紀初頭にかけて、という見解は動かし難い。
②外形
高松塚は低い丘陵地の頂上部ではなく、南西斜面に撰地されている。
現在は墳丘は竹林になっているが、かつては頂上部に松が何本かあったらしい。
墳丘は、底面積の大きさに比して背が高い腰高である。
古墳は年代が下るにつれて腰高になる傾向があり、高松塚はもっとも腰高の古墳であるから、最終末期の古墳であり、この形状面からも、8世紀はじめ、少なくとも7世紀最末期と推定される
③石槨
石槨は終末期古墳にある横口式で、全長265.5cm、幅103.5cm、高さ113.4cmである。
石槨の尺度については論議があるが、1尺を19cmとする周(和)尺が、平均して、比較的完数に近い数値が得られる。
石槨の内部には漆喰が塗られているが、漆喰純度(CaCO3)が95%と高く、新羅系、任那系の漆喰技術に近い。
④漆棺
漆棺の木材は杉で、板に麻布を2枚重ね、木糞漆で固めた上に鉛白を下地にして朱を塗り、外面に漆を3~4回塗った上に、外側全体に金箔が貼られていた。
棺材に使われた布の織目の粗さや織糸に太さから、飛鳥、白鳳時代の中間の時代に位置すると考えられている。
⑤副葬品
主要な副葬品については、梅原猛氏の所論の項で触れた(08年9月14日の項、9月15日の項)。
小林氏の論議も、副葬品に関して、特異な論を立てるものではない。
⑥壁画
壁画についても、梅原猛氏の所論を紹介する形で既に触れた(08年9月16日の項、9月17日の項、9月18日の項、9月19日の項、9月20日の項)。
小林惠子氏は、上記のような根拠から、高松塚の築造年代は、8世紀に入らず、持統末年(697年)までに限定される。
壁画の男子の副葬は持統4年4月に規定されたものであり、多少の余裕をみて、持統5年から10年くらいまでの約5年間に限定される、としている。
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