« “ほととぎす”と皇位回復の願い | トップページ | 小林惠子氏による『万葉集』の解読 »

2008年10月15日 (水)

光仁天皇即位と『万葉集』

志貴皇子の薨年は、霊亀元年(『万葉集』)か、霊亀2年(『続日本紀』)か?
『万葉集』によって霊亀元(715)年とし、その生誕を斉明6(660)年とすれば、55歳での没ということになる。
この年(霊亀元年)、長皇子と穂積皇子も亡くなっている。
また、元明譲位、元正即位の年でもあった。
そこに、皇子たちの謀殺の匂いを感じ取ることもできる(08年10月9日の項)。

この年、志貴皇子の子の白壁王は7歳だった。
霊亀-養老-神亀-天平-天平感宝-天平勝宝-天平宝字-天平神護-神護景雲と時代は移り、神護景雲4(770)年8月4日、称徳天皇が崩御して白壁王が立体子し、10月1日に即位して光仁天皇となった。
この時、62歳という高齢であった。

志貴皇子の死から約半世紀が過ぎている。
天智の崩御からはおおよそ1世紀である。
光仁天皇の朝廷には、どのような万葉歌人が残っていたか?
大浜巌比古氏『万葉幻視考』集英社(7810)には、次のような名前が挙がっている。

文室智努(智努王)(693~770)
藤原永手(714~771)
大伴駿河麿(?~776)
河内女王・石上宅嗣(729~781)
大中臣清麻呂(702~788)
大伴家持(718?~785)
市原王(?~?)(光仁天皇は、市原王<志貴皇子の曾孫>の妃能登内親王の父)

光仁天皇(白壁王)の生きた時代は、皇位継承をめぐる陰謀と術策の渦巻く時代だった。
その争いから逃れるべく、白壁王は酒に韜晦したとされる。
白壁王も、父・志貴皇子倣って、“むささび”となることを避けたのである。

光仁天皇の即位の頃の藤原氏は、どのような状況だったか?
2南家の仲麻呂(恵美押勝)が、天平宝字8(764)年に謀反を起こすが斬殺される。
代わって、北家は、房前の子の永手が左大臣になり、真盾(八束)、魚名が健在だった。
式家は、宇合の子の良継、百川、南家は豊成の子の縄麻呂、継縄が台頭してきていた。
このような藤原家の勢威の中での光仁即位であった。

『万葉集』の最後の歌を家持が詠んだ天平勝宝3(751)年からも約20年が過ぎている。

  三年春正月一日、因幡国庁にして、饗を国郡の司等に賜ふ宴の歌一首
新しき年の始の初春の今日降る雪の いや重(シ)け 吉事(ヨゴト) (20-4516)

家持の待望久しい願いが達成されたとみるべきか?
大浜氏は、「家持には一貫して、まだ歌のもつ『ことだま』を信じ、歌の呪力のまだ失われていないことを信じようとする姿勢があった」とする。
『万葉集』の編者・家持は、父・旅人がいさぎよくすて去った古代鎮魂の世界を信じ、それにすがろうとした、と大浜氏は説く。

|

« “ほととぎす”と皇位回復の願い | トップページ | 小林惠子氏による『万葉集』の解読 »

日本古代史」カテゴリの記事

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/395349/24488509

この記事へのトラックバック一覧です: 光仁天皇即位と『万葉集』:

« “ほととぎす”と皇位回復の願い | トップページ | 小林惠子氏による『万葉集』の解読 »