「待つ人」志貴皇子の韜晦
大浜巌比古氏は、『万葉幻視考』集英社(7810)において、志貴皇子の歌の文体の特徴から、「待ち遠しさ」を導出した森本治吉氏の論考をもとに、志貴皇子は、「待つ人」であった、とする。
その「待つ人」の心が「待ち遠しさ」を歌ったというわけである。
しかし、大浜氏は言う。「志貴がなにかを『待つ人』であることほど、志貴にとって危険なことはなかった」。
だから、当時においても、誰にでも理解できるような歌にすることはできなかった。
真に、志貴皇子を理解する人々だけが理解できるものでなければならなかった。
志貴皇子は、天智天皇の皇子の1人である。
天智天皇の系図を見てみよう(上掲書)。天智天皇の皇子は、4人いた。
最初の子の建皇子は、蘇我山田石川麻呂の娘の遠智娘の生んだ皇子であるが、障害を持っていたとされ、斉明4(658)年に8歳で夭折した(08年10月3日の項)。
長兄の大友皇子は、太政大臣として天智天皇の政務を補佐したが、壬申の乱において大海人皇子に敗れ、死を余儀なくされた。
次兄の川島皇子は、持統5(691)年9月に薨じた。
つまり、志貴皇子は、天智天皇の最後の遺皇子としてその生を全うしたことになる。
それ自体が、草壁の直系の皇統を確立しようとする持統・藤原不比等の体制の中では、きわめて危険な要素だった。
大浜氏は、志貴皇子は、「そういう環境と地位の中で、一つの秘しかくした願いを持ち続けた」とする。
それは待ち遠しいものではあっても、目立ってはならず、なおかつ断念し、沈黙すべきものでもなかった。
「待つ人」は他からは「待たれる人」であり、その人たちに対しては、自分の心情を訴えることも必要だったのだ。
志貴皇子の歌は、その人たちだけへの訴えであった。
「決してあらわになることのないひそやかにして絶えざる願い」
そして「それを彼の知己には心に沁みて理解させ、彼を警戒する人々にはゆめにもさとらせない」
この2の背反する命題。
それを1つの歌の中にどう具現化するか?
「待つ人」志貴皇子の姿は、彼の歌の中に存在している。
采女の袖吹きかへす明日香風京(ミヤコ)を遠みいたづらに吹く (1-51)
ここで歌われている采女は、現実に見えている采女ではない。
大浜氏の言を借りれば、「幻視の中に袖をひるがえす采女である。ふと我にかえれば、そこには采女などはさらになく、いたずらに風のみ吹き、その風の中にひとり身をさらす己れを見いだすだけである。皇子の母は、父の名さえ記されていない宮女--采女であった。」
この時代、世相は変転極まりなく移り変わり、旧都に立てば、その移り変わりが感慨深い。
伊賀采女宅子娘という卑母の出であるが、皇太子になり、そのために命を絶たなければならなかった大友皇子。その大友を敗残させた天武、尊母の皇子であったが故に謀反の汚名によって倒された大津皇子、大津を倒してまで守った草壁皇子、保身のために親友の大津を裏切った川島皇子。
この歌は、そういう世相を背景にして成り立っている。
単に、旧都を懐旧するのではない。
明日香風は、現実の明日香を吹く風であると同時に、このような時代を吹き続けた風である。
「愛」と「力」の変転の歴史、その中のいたましい「死」を吹いた風である。
志貴皇子の肉親の愛憎にからみ、皇位継承の権力闘争の明日香風である。
「京を遠み」とは「皇位を遠み」であり、「いたづら」に吹くは、政争の空しさへの嗟嘆であり、自分にはかかわりなく吹く、の意である。
つまり、この歌は、現実の風景と志貴の心象風景の二重性を詠んだものである。
彼を警戒する人に対しては、旧都懐旧の歌であるが、彼を知る人にとっては彼の心情を察知させる歌であった。
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