弓削皇子を殺した「山の猟師」とは?
志貴皇子の“むささび”の歌のムササビが、小林惠子氏(08年10月17日の項)や梅原猛氏(08年10月1日の項)のいうように、弓削皇子を指しているとしたら、「山の猟師」とは誰を指しているのだろうか?
志貴皇子の御歌一首
むささびは木末求むとあしひきの山の猟師にあひにけるかも (3-267)
弓削皇子は、持統天皇の考えていた軽皇子(文武天皇)の立太子に反対し、軽皇子の妃とも想定される紀皇女と通じていたともされる。
とすれば、第一にムササビの命を奪う理由があるのは文武天皇であろう。
弓削皇子が没したのは、文武3(699)年7月とされているが、小林氏は、公表されたのが7月で。実際に没したのはそれ以前だっただろう、とする(『本当は怖ろしい万葉集 2 西域から来た皇女』祥伝社(0511)p162)。
小林氏は、文武天皇は間接的に関与はしているだろうが、直接関わった犯人は別にいる。それは「山の猟師」という言葉に暗示されている、という。
『万葉集』に忍壁(刑部)皇子を詠んだ歌がある。
忍壁皇子に獻る歌一首 仙人の形を詠む
とこしへに夏冬行けや裘(カハゴロモ)扇放たず山に住む人 (9-1682)
「永遠に夏と冬しかないと思っているのだろうか、冬に着る皮の衣と夏に使う扇を手放さない山に隠棲している人」というような意味だろう。
つまり、刑部皇子は、そういう変人だ、ということであるが、それは表面上の意味で、「夏」と「冬」には隠された意味があるのだと小林氏は説く(上掲書p114)。
それは五行思想によるもので、天武天皇は「春・東」の人で、次に来るのは「夏・南」である。
小林氏の示す「暗号としての五行」説は、左の通りである。
小林氏は、天武朝の次に大津朝があった、という説である(08年10月16日の項)。
つまり大津皇子は、「赤・夏・南」であり、朱雀という年号は大津朝のものだったことが窺える、という。
また、天智天皇は、「秋・白・西」の人だから、次に来るのは「冬・北」である。
大津皇子は、父方から春に続く夏、母方から秋に続く冬を受け継いでおり、夏・冬兼ね備えていた。
刑部皇子が、冬と夏に固執したということは、大津朝に固執したということで、刑部皇子は、大津皇子に忠誠を尽くした。
そして、大津の次の持統朝(小林氏は即位したのは高市皇子とする(08年10月16日の項))では、刑部皇子は世に出ようとしなかった、というのが上記の歌の意味だということになる。
刑部皇子は、持統(高市)朝では世に出なかったが、文武朝の大宝3(703)年に、知太政官事に任じられている。
知太政官事は、この時に初めて設立された官職で、刑部皇子、穂積親王、舎人親王と皇族に引き継がれていく。
左右大臣に匹敵する官職とされるが、左右大臣より先に名前が出てくる。
天平の鈴鹿王の時から、左大臣の後となり、権威が低下したことが窺われるが、鈴鹿王が没した(天平17(745)年)を機会に廃止された。
小林氏は、知太政官事は、天皇に代わって国民を統治、管理する役職で、現代でいえば首相に相当するものだが、外交には余り関わらず、刑罰を決定する法務的な仕事が主だった、とする。
刑部皇子が知太政官事という重要な役職に任じられたのは大宝3年であるが、文武朝になってすぐに文武天皇に引き立てられたのではないか。
そして、刑部皇子が最初にしたことは、弓削皇子を密かに殺害することだったのではないか、というのが小林氏の推測である。
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