« 小林惠子氏の志貴皇子論 | トップページ | 明日香村の石神遺跡から出土の木簡に万葉歌 »

2008年10月21日 (火)

志貴皇子は、誰に殺されたのか?

志貴皇子は、『続日本紀』では霊亀2年8月薨とあるのに対し、『万葉集』では霊亀元年歳次乙卯9月に薨じたとなっている(08年10月7日の項)。
霊亀元年には、6月に長皇子が、7月に穂積皇子が亡くなっており、志貴皇子が『万葉集』の表記のように霊亀元年に薨じているとすれば、3人の皇子が、間を置かず亡くなったということになる。

もちろん、天平7(737)年における藤原四兄弟の死のような例もあるが、疫病の流行もないとしたら、不自然だと考えるべきだろう。
小松崎文夫氏は、『皇子たちの鎮魂歌―万葉集の“虚”と“実”』新人物往来社(0403)において、それを謀殺と推測している(08年10月9日の項)。

小林惠子氏は、『本当は怖ろしい万葉集 2 西域から来た皇女』祥伝社(0511)において、「長皇子と穂積皇子の相前後する死には疑問は残るが、確たる証拠はないので、不問に付さざるを得ない」が、志貴皇子は、屋敷を包囲されて焼き討ちにあったのではないか、としている(p212~)。
その論拠は、『万葉集』の志貴皇子の挽歌である。
既に触れた(08年10月7日の項)ように、『万葉集』巻2の寧楽宮の標目のほとんどが志貴皇子の挽歌である。

  霊亀元年歳次乙卯秋九月、志貴親王の薨りましし時、作れる歌一首並に短歌
梓弓 手に取り持ちて ますらをの 得物矢(サツヤ)手ばさみ 立ち向ふ 高圓山に 春野焼く 野火と見るまで もゆる火を いかにと問へば 玉はこの道来る人の 泣く涙 霈霖(コサメ)に降りて 白栲(シロタヘ)の 衣ひづちて 立ち留り 吾に語らく 何しかも もとな唁(トブラ)ふ 聞けば 哭(ネ)のみし泣かゆ 語れば 心ぞ痛き 天皇の 神の御子の いでましの 手火(タビ)の光ぞ ここだ照りたる  (2-230)

  短歌二首
高圓の野辺の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人なしに  (2-231)
三笠山野辺行く道はこきだくも繁(シジ)に荒れたるか久にあらなくに  (2-232)
   右の歌は、笠朝臣金村の歌集に出でたり。

  或本の歌に曰く
高圓の野辺の秋萩な散りそね君が形見に見つつ偲はむ  (2-233)
三笠山野辺ゆ行く道こきだくも荒れにけるかも久にあらなくに  (2-234)

小林氏は、230番の歌について、「弓矢を持つ丈夫が立ち向かう高円山は春野焼く野火のようだ」という句から、志貴皇子の死因が戦いにあったことが暗示され、その結果屋敷が焼き討ちにされて火事が起き、その場所が高円山だった、と解釈している。
小林氏も、小松崎氏(08年10月9日の項)と同じように、霊亀元年9月の元明天皇の譲位と志貴皇子の死は関連している、とする。
元正への譲位は、即位しないまま没した草壁皇子の娘への譲位ということであり、志貴皇子らは元正譲位に抵抗したであろう。
そして、闇討ちにあったのではないか、と小林氏は結論づける。
志貴皇子の暗殺を計画実行させたのは、左大臣で長屋王の忠臣石上麻呂だった、とする。

|

« 小林惠子氏の志貴皇子論 | トップページ | 明日香村の石神遺跡から出土の木簡に万葉歌 »

日本古代史」カテゴリの記事

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/395349/24646257

この記事へのトラックバック一覧です: 志貴皇子は、誰に殺されたのか?:

« 小林惠子氏の志貴皇子論 | トップページ | 明日香村の石神遺跡から出土の木簡に万葉歌 »