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2008年10月 2日 (木)

高松塚の被葬者は弓削皇子か?…梅原猛説(ⅹⅱ)

梅原猛氏の『黄泉の王―私見・高松塚』新潮社(7306)の論旨を要約しよう。
①高松塚の被葬者は、文武元(697)年から、和銅3(710)までに死んだ反逆の皇子である。
a.高松塚を特徴づける最大の要素である壁画は、朝賀の様子を描いたものであり、被葬者は、天皇もしくは天皇に準ずる地位の皇族である。
b.『続日本紀』の大宝元年の記述との適合性等からして、塚の築造時期は、大宝元年の前後のさほど離れていない時点である。
c.しかし、副葬品における欠損や壁画の損傷などをみると、地下の朝賀は、地上の朝賀と明らかに異なっている。
それは、地下の朝賀の主人公が体制への反逆者であることを示している。
d.反逆者の霊を鎮めるために、高松塚は華麗に荘厳された。それは、出雲におけるオクニヌシノミコトと同様である。

②正史には、反逆の皇子を明示的に示した記述はない。しかし、『万葉集』等を参照すると、該当する人物として、弓削皇子が浮かび上がってくる。
a.弓削皇子は、軽皇子立太子を論議する御前会議において、持統天皇の意に逆らう発言をしようとした。
b.弓削皇子と額田王の応答には、弓削皇子の過去を追憶する憂愁の心が込められている。
c.「紀皇女を思ふ御歌四首」からして、弓削皇子は、紀皇女に恋していたと思われる。
d.紀皇女は、文武帝の妃(后)であった可能性が高い。
e.弓削皇子の「紀皇女を思ふ御歌四首」には、濃密な恐れの雰囲気があり、それは、紀皇女の身分の高さを窺わせる。
f.紀皇女は、『万葉集』に遺された歌から推測すると、奔放な女性で、姦通者であることを窺わせる。
g.『万葉集』からすれば、紀皇女と弓削皇子は、禁断の恋愛関係にあったと考えられる。
h.大宝元年は、大宝律令の施行された年であり、法による統治への潮流が強まった時である。
i.法秩序を乱した紀皇女と弓削皇子は体制から排除される運命にあった。
j.律令という法秩序の体現者であった藤原不比等にとって、弓削皇子と紀皇女を排除することは大いにメリットのあることであった。
k.『万葉集』の志貴皇子の歌などからしても、不比等体制に狙い撃ちされた皇子の像が浮かび上がってくる。

上記のような論理展開の下に、梅原氏は、高松塚の被葬者を、弓削皇子に比定した。
梅原氏は、上掲書の末尾において、権力者の立場にたって、弓削皇子の葬儀の様子を描いている。
①弓削皇子の葬儀は、刑罰として行われた。
a.弓削皇子は、后と通じる罪を犯した。それは、律の規定の八虐の第一謀反罪にあたる。
謀反罪とは、君主をないがしろにする罪であり、后と通じることは君主をないがしろにしたことに他ならない。
b.謀反罪は、死刑に相当する。
死刑には斬首と絞首の二種類がある。斬首の方が、首と胴が別々になって再生の可能性が全く失われることから、絞首よりも重い。
謀反罪は、斬首に相当するが、皇族及び三位以上、あるいは大勲功のあるものなどは、死刑の代わりに自殺を賜ることになっていた。
弓削皇子の場合も自殺が許されたのであろうが、葬る場合には、斬首者として、屍から首が除かれたのではないか。
c.弓削皇子の葬儀に関しては、権力に反抗した者の行く末についての、見せしめの効果が重要であった。首なき皇子の屍は、律令体制の威力を示す意味が大きかった。

②弓削皇子の葬儀には、鎮魂として行われた。
a.当時の日本には、怨霊への恐怖が強かった。
無実の罪で殺された高貴な人の怨霊は、生者に復讐する。
b.法隆寺は聖徳太子の鎮魂の寺であったが、『薬師寺縁起』には、大津皇子の死霊を鎮魂するために、馬来田池を埋めて、薬師寺の金堂を建てたと伝える。
c.弓削皇子は、大津皇子と同じように殺された。弓削皇子の怨霊がタタルことを避けることが必要である。
特に、文武帝は体が弱かったと思われる節があり、弓削皇子の霊を丁重に鎮魂することが必要だった。
d.華麗な高松塚の壁画と副葬品は、被葬者(弓削皇子)の死霊に、あたかも帝位にあると思わせるように設定されたものと解釈できる。

梅原氏は次のように書く(p234)。

弓削皇子よ、あなたはあこがれの帝位についたのだ。見よ、帝位のしるしの四神の旗はひるがえり、日月、星宿、すべてにあなたの帝位をことほいでいるではないか。そしてあなたをかこむ朝賀の群臣たち、それ、あの衣蓋のもとなるひげの濃い人はあなたの兄さん長皇子、そして、あそこに杖をもったほほのふっくらした美人はあなたの恋人、紀皇女ではありませんか。そしてあそこにはあなたの詩人柿本人麿が、あなたの従者置始東人がいるではありませんか。

梅原氏は、高松塚の被葬者を、弓削皇子とする仮説を立てた。
消去法で、可能性の少ない皇子を除いていくと、弓削皇子だけが残った。しかし、積極的に弓削皇子であることを示すエビデンスがなかった。
弓削皇子を高松塚の被葬者と考えたら、高松塚と当時の歴史的状況がどのように理解されるか?
梅原氏は、仮説的代入法というが、それにより今まで明らかでなかったことが理解できると同時に、考古学の成果とも矛盾せず、歴史家の考証とも一致した。
高松塚被葬者を、弓削皇子とする仮説の生産性は高い。

梅原氏のトーンは高いが、それでもなお、梅原氏自身、高松塚の被葬者を弓削皇子と断定することはできない、とする(p245)。
梅原氏は、結論よりも論証の過程が大切なのだ、とする。
高松塚の被葬者問題は、思考技術が試される好例の一つであろう。

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