志貴皇子の歌の二重性
「明日香風」が二重の意味を持っていたように、志貴皇子の他の歌にも、二重性が見られるというのが、大浜巌比古氏の『万葉幻視考』集英社(7810)における指摘である。
葦辺行く鴨の羽がひに霜振りて寒き夕へは大和し思ほゆ (1-64)
「葦辺行く鴨」は、春を待たなければ飛び立てない。つまり「春待つ鳥」であるが、今は、羽がひに霜降る寒い現実の中にいる。
しかも、夕べというのは不安な気持ちにさせる時点である。
それは、「霜降る寒い夕べ」のような環境にいる志貴皇子の姿でもある。
「大和し思ほゆ」は、遥かに隔たったものに思いを馳せる感懐を示しているが、もちろん、それは大和という土地のことだけではない。
葦辺でひっそりと春を待ちながら、遥かに今は手が届かないモノを望んでいるのだ。
大浜氏は、志貴皇子の子の湯原王の次の歌を、この志貴皇子の歌と呼応するものだとする。
吉野なる夏実の川の川淀に鴨そ鳴くなる山影にして (3-375)
鴨の声に聞き入る湯原王は、父の歌を理解しようとしている。
「明日香風」が采女の袖を吹きかへすのを見て、志貴皇子が母を偲んだの同じように、鴨の鳴き声を聞いて、湯原王は、父を偲んでいるのだろう。
巻は異なるものの、そこに志貴皇子とその裔のストーリーをみることができる。
むささびは木末求むとあしひきの山の猟夫にあひにけるかも (3-267)
上記のように見てくると、“むささび”が単に動物のムササビを意味しているのではないことは明らかである。
ムササビは、夜行性で、滑空はできても自ら飛翔することはかなわない小動物である。
大友皇子や大津皇子などの宿命を眺めつつ、自らの位置を見つめて自戒する志貴皇子がいる、と理解すべきだろう。
幹を叩きながら、動き出すのをじっと待っている猟師。
動き出した途端に、叛意あり、あるいは左道を行うとして、狙い撃ちする。
この歌の次には、長屋王の歌が置かれている(08年10月3日の項)。
大浜氏は、「この歌が先にあったにもかかわらず、またしても『むささび』となってしまった人よ、という編者嘆きを私はこの配列に見る」と書く。
沢瀉久孝氏のような代表的な万葉学者ですら、「捕らえられたむささびを見ての作として、そのまゝ理解ができ」「寓意を考へるに及ばないであらう」としている(08年10月3日の項)のは、志貴皇子の韜晦が成功していることの証明でもあるわけである。
大原のこの市柴の何時しかと吾が思ふ妹に今夜逢へるかも (4-513)
この歌についても、市柴は、誉め言葉のイツが転じたものとして、「美しく茂った小さな雑木」とする解釈を排して、文字通り「市の柴」、すなわち「市井の名もなき雑木」と解するべきだとする。
「古りにし里の大原に身を置く雑木にも似たこの身にも待ちに待てば今夜のようなことがあり得るのか!」というのが大浜氏の解釈である。
そして、この歌について、自らが「待つ人」であることを顕しながら、その待つものを「吾が念ふ妹」と韜晦する賢者の歌だとする。
石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも (8-1418)
この歌が実地の写生なのか否か、土屋文明と島木赤彦の対立的な見解があるのも(08年10月11日の項)、志貴皇子の歌の持つ二重性によるものである。
さらに大浜氏は、「わらび」が、多年生草本であることに注意を喚起する。
しかも、「石走る垂水の上」の「わらび」ある。
さらにさらに、「石走る」が近江の枕詞でもある。
これらを踏まえた大浜氏の深読みは以下の通りである。
「近江朝」の系統の流れ、それは今やただ一条の垂水のみだ。その一条の垂水のほとりに多年忍んで根を張るわらびのわが身--わが一族、そこに春が来た。これはよほどのことがあったことを思わせるが、しかし、それを一見、春の到来をよろこぶ完全な自然詠にうたい了せたところに、この人の「賢者の歌」がある。
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