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2008年10月 9日 (木)

霊亀元年の謀殺?

小松崎文夫『皇子たちの鎮魂歌―万葉集の“虚”と“実”』新人物往来社(0403)は、巻1の巻末で、「倶に宴した」とある長皇子と志貴皇子は、『万葉集』において、しばしばセットで登場していて、そこに『万葉集』編者の「ある意志」を感じとる、としている。
長皇子は、天武天皇の皇子の1人であり、弓削皇子と同じ生母(大江皇女)の兄で、穂積皇子とほぼ同年の異母兄弟であるとされる。

小松崎氏は、長皇子と志貴皇子は、同じ年に(あるいは一緒に)薨去している、とする。
志貴皇子は、薨年が、『続日本紀』と『万葉集』で食い違っている(08年10月3日の項)。
つまり、『続日本紀』では霊亀2年8月薨とあるのに対し、『万葉集』では霊亀元年9月薨となっている。
その「謎」について、小松崎氏は、次のように推測する。

志貴皇子の薨去が、『万葉集』のとおりだとすると、霊亀元年(七一五)年はこのような史実が記されることになる。
 ◆六月甲寅(二日)    長皇子薨去
 ◆七月丙午(二十七日) 穂積皇子薨去
 ◆九月           志貴皇子薨去
   (私(注:小松崎氏)は、あるいは長皇子と同時、もしくは、異伝などから八月十日前後と考えている)
 ◇九月庚辰(二日)    元明女帝譲位(元正女帝即位)

このような史実をどう解釈するか?
小松崎氏の解釈は、以下のようである。

不比等(元明)体制が進行する中で、後述するような世相の深刻さは極限に達する。叙位、封戸と、勅や弾圧など、アメとムチの政策にも限度があり、さらに、数年前の文武帝から引きずってきていた皇位継承の問題が「元正擁立」問題を機に、ついに、皇親派の反発として現実のものとなった。
しかし、結局は、“猟師”の策の前に粛正されたのが、三人の皇子たちではなかったのか。
相次ぐ三皇子の死--。その場合、穂積皇子の死にさしたる疑問は生じまい。しかし、長皇子さらには志貴皇子と相次ぐ薨去記録が並ぶなら、必ずや、そこに謀殺の臭いを嗅ぎ取る者は現れる。
志貴皇子の志を辛うじて一年遅れにしてカモフラージュしたのではなかったか。そして、不可解な理由づけとともに、とりあえずの反発の矛を収めるべく、元正即位が実現したものではなかったのか。

宮処(平城京)造営による酷税と労役が、民を疲弊させた。そして、気象異常などにより、飢饉的な状況が生まれ、疫病も発生していた。
この頃、状況はきわめて危機的なものとなっていた。

このような状況の中での、元明譲位・元正即位である。
一般的には、「政治への心労に加えて相次ぐ皇子たちの薨去が引き金になった退位」と理解される。
しかし、小松崎氏は、「この“霊亀元年の皇子たちの謀殺”--その隠蔽工作のための元明女帝退位(元正即位)であった」と透視する。

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