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2008年10月 6日 (月)

志貴皇子は、何をよろこんだのか?

志貴皇子の「懽(ヨロコビ)」の歌の、よろこびの対象は何であろうか?
もちろん、上村悦子氏の解説のように、一陽来復した早春のよろこびであると素直に解釈する説が有力のようである。
直木孝次郎『万葉集と古代史 (歴史文化ライブラリー) 』吉川弘文館(0006)には、気象学者・山本武生氏の『気候の語る日本の歴史』に依拠した山崎馨氏の、「七世紀後半の白鳳時代は冬の寒さが格別厳しい時期で、それだけに春を待つ心が深かったと考え、迎春の悦びを歌ったのであろう」という説を紹介している。

上村悦子『万葉集入門 』講談社学術文庫(8102)の解説は以下のようである。

上代においては文化の度もはなはだ低く、一般人民は自然から圧迫せられ、厳寒酷暑に脅威を感ずることが強く、心からきびしい夏、烈しい冬をおそれ厭うた。春はその圧迫から解放されるときであるので、春の訪れをどんなにか待ちこがれたことであろう。

しかし、直木氏は、上掲書において、山崎馨氏の見解に対して、「それも一案だが、いくら白鳳の冬が寒くても、春は毎年めぐってくる。またとくに志貴皇子に対してだけ寒かったわけではない。懽の歌の詠ずるのは、迎春以外にも志貴の心をよろこばせる何かがあったと考えるのが妥当であろう」としている。
私も、「ムササビの歌」の“むささび”が寓意であるならば、この韜晦の皇子の歌は、注意深く解釈する必要があると思う。

直木氏は、江戸時代の契沖にはじまる「摂津国豊島郡の垂水に封戸を賜ったことによるものか」という説を紹介している。
土屋文明氏も、「摂津の垂水に増封されたためという想像も不可能ではない」としているらしい。
封戸あるは封地だとする論拠は、『続日本紀』等に封戸の加増記事があるからである。

慶雲元(704)年
正月十一日 二品の長親王・舎人親王・穂積親王、三品の刑部親王の封戸を、それぞれ二百戸宛増加させた。三品の新田部親王・四品の志紀親王にはそれぞれ百戸宛を、右大臣・従二位の石上朝臣麻呂には二千百七十戸を、大納言・従二位の藤原朝臣不比等には八百戸を、その他の三位以下、五位以上の十四人には、それぞれ差はあったが増封された。

和銅7(714)年
春正月三日、二品の長親王・舎人親王・新田部親王と、三品の志貴親王には封戸をそれぞれ二百戸、従三位の長屋王には百戸を増した。これらの封戸の祖は、すべて封主に給される。食封の田租を全額封主に賜ることは、この時から始まった。

これらの正月における加封は、季節的にも、志貴皇子の歌と整合している。
しかし、志貴皇子の歌から受ける印象は、そのような実利的なものとは整合していないだろう。
直木氏は、封戸はこの歌にそぐわないとしつつ、しかし、それ以外の契機を的確に指摘することは、不可能であろう、としている。

直木氏の見解は以下の通りである。
持統の朝廷における志貴の立場は恵まれたものではなかった。皇位継承問題で、持統に警戒されていたからである。
持統の治世を、志貴は息をひそめて暮らしていた。
大宝2(702)年12月22日に持統太上天皇が崩御する。
志貴皇子は、大宝3年9月に四品の位をもって、ふたたび歴史の表舞台に登場してくる。
持統の治世での圧迫感から解放されたと見ることができる。
つまり、志貴にとって、長く厳しい冬(持統の治世)が終り、ようやく希望を抱ける春がめぐってきた。
その心境を詠んだのが、「懽の歌」ではないか、というのが直木氏の解釈である。

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