小林惠子氏の高松塚被葬者論…④高市皇子(ⅲ)
小林惠子氏の「高市皇子は天智の子」説でみると、壬申の乱の状況はどう見えるか?
小林氏は、全軍の指揮は『日本書紀』の記載のように大海人の命によっていたが、大海人の軍勢に吉野出立後に加わった者の中には、高市軍に編入されたと思い込んでいた者がかなり多かったのではないか、と推測する。
それらの人が、実際の指揮者が高市ではなく、大海人だったことを知ったのは、戦後ではないか。
高市が大海人に出会ったのは、積殖(ツムエ:阿山郡伊賀町柘植)に入ったところである。
大海人がこのルートを通って不破に入るのを知っていて、近江朝は待ち伏せするために高市皇子を遣わしたのではないか。
大海人は、7月2日、多臣品治を莿萩野(タラノ)に、3000の兵をもって駐屯させているが、近江側がもともと大海人を迎え討つために、莿萩野に高市を出陣させたのではないか、と小林氏は推測する。
そして、大海人は、将だけ高市と品治を交替させ、大海人側についた高市を、不破郡和蹔にとどめおいた。
大友側にあるかも知れない高市を丸はだかにして、手元に引き付けておいた、ということである。
『日本書紀』に、以下のような記述がある(宇治谷孟・全現代語訳『日本書紀日本書紀〈下)』講談社学術文庫(8808))
(天武元年)6月27日
その日天皇は皇后を残して、不破に入られた。不破の郡家に至る頃に、尾張国司小子部連鉏鉤(サヒチ)が、二万の兵を率いて帰属した。天皇はほめられ、その軍を分けて方々の道の守りにつかせた。
この小子部連鉏鉤は、8月25日の条で、次のように記されている。
これより先、尾張国司小子部連鉏鉤は、山に隠れて自殺した。天皇は「鉏鉤は功のある者であったが、罪なくして死ぬこともないので、何か隠した謀(ハカリゴト)があったのだろうか」といわれた。
この部分について、小林氏は、伴信友(江戸時代の国学者)が、『長等山風』で「鉏鉤が近江朝の命を受け、隙をみて大海人を捕らえようとしたが、期を失して不成功に終わったので自殺した」という解釈を紹介しつつ、鉏鉤が大海人に帰属したのは、大海人が高市のいる不破の和蹔に出かける途上で、大海人の軍勢は知れていただろうから、鉏鉤が大海人を捕らえるつもりならば、正面から戦うはずだ、とする。
この時、大海人が「鉏鉤の軍勢を分けて方々の守りにつかせた」とあるから、伴信友の説のように鉏鉤は大友側にあったが、大海人が掌中にしてしまったのではないか。
鉏鉤は、天智の子である高市が帝位に就くと思って大海人に協力したのが、乱が収束すると大海人が帝位に就いたので、結果的に天智朝への裏切りになった。それを後悔して自殺したのではないか、というのが小林説である。
そして、大友が敗走したとき、大友に随ったのは、物部(石上)麻呂と1~2人の舎人だけであったとある。
つまり麻呂は、大友の側近だった。
麻呂は天武朝において、五年と十年に大使として新羅に使いしている。それは、麻呂が高市の懐刀で、国内にいると高市と結ぶので、新羅に遠征させられたと、小林氏は推量している。
養老元年3月3日に石上麻呂が薨じたとき、長屋王と多治比真人三宅麻呂が遣わされて死を弔った、とあり、高市と麻呂の結びつきが窺われる。
高市が天武の子であるならば、大友が高市と結びつきの強い麻呂を側近として信用することはなかったのではないか、ということである。
さらに、天智は終始百済側にあったが、人麻呂の挽歌には高市が「百済の原ゆ 神葬り 葬りいまして 朝裳よし」とある。
そして、持統3年に、対新羅政策が硬化した様子が窺えるが、それは高市が実権を握ったからではないか。
持統5年5月21日条の以下の記述も高市の意志ではないか。
百済淳武微子に、壬申の年の功をほめて、直大参を贈られ、絁(フトギヌ)を賜わった。
つまり、高市は天智と同じように親百済だったのではないか、というのが小林氏の推論である。
大海人は高市に、乱の収束後は高市を天皇にする口約束があったのではないか。
乱の後、大海人はただちに高市の軍を接収したであろうが、それを可能にしたのは、唐人や新羅などの外国勢だった。
郭務悰は、天武2(673)年に、大海人の即位を見届けてから帰国していると思われる。
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