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2008年10月26日 (日)

小林惠子氏の高松塚被葬者論…②高市皇子

『日本書紀』では、天武の皇子、皇女の記載は、以下のような順になっている(08年1月17日の項)。

二月二十七日、天皇は有司に命じて壇場を設け、飛鳥浄御原宮で即位の儀をされた。正妃(菟野皇女)を立てて皇后とされた。后は草壁皇子(文武・元正両天皇の父)を生まれた。これよりさき皇后の姉大田皇女を召して妃とされ、大来皇女と大津皇子を生まれた。次の妃大江皇女(天智天皇の娘)は、長皇子と弓削皇子とを生まれた。次の妃、新田部皇女は舎人皇子(日本書紀編纂の総裁)を生まれた。また夫人の藤原大臣(鎌足)の女氷上娘は但馬皇女を生まれた。次の夫人氷上娘の妹の五百重娘は、新田部皇子を生まれた。次の夫人の蘇我赤兄大臣の女太蕤娘は、一男一女を生まれた。第一を穂積皇子といい、第二を紀皇女、第三を田形皇女という。天皇は初め鏡王の女、額田姫王を召して十市皇女(大友皇子の室)を生まれた。次に胸形君徳善の女尼子娘を召して高市皇子を生まれた。次に宍人臣大麻呂女カヂ媛娘は二男二女を生まれた。第一を忍壁皇子、第二を磯城皇子、第三を泊瀬部皇女、第四を託基皇女という。(宇治谷孟現代語訳『日本書紀〈下〉』 講談社文庫(8808))

つまり、母の格の順ということであり、高市皇子の母の胸形君徳善の娘が卑母であったため、高市皇子は、皇子としては、草壁、大津、長、弓削、舎人、新田部、穂積らの次に位置している。
高市皇子は、大海人皇子が壬申の乱に勝利するに際し、重要な役割を担っていた。
『日本書紀』天武元年6月条に、高市皇子に関して、次のような記述がある(08年2月5日の項、以下では宇治谷孟・全現代語訳『日本書紀日本書紀〈下)』講談社学術文庫(8808)による)。

(26日)
朝、朝明郡(三重県三重郡)の迹太川(トオガワ)のほとりで、天照大神を遥拝された。このとき益人が到着して奏上し、「関においでになったのは、山部王、石川王ではなく、大津皇子でありました」といった。やがて益人の後から大津皇子が参られた。大分君恵尺・難波吉士三綱・駒田勝忍人・山辺安麻呂・小懇田猪手・泥部胝枳・大分稚臣・根連金身・漆部友背らがお供をしてきた。天皇は大いに喜ばれた。郡家に行こうとされていると、男依が駅馬に乗ってかけつけ、「美濃の軍勢三千人を集め、不破の道をふさぐことができました」と報告した。天皇は男依の手柄をほめて、郡家につくと、まず高市皇子を不破に遣わし、軍事の監督をすることをきめられた。
(27日)
(高市)皇子は腕まくりをして剣を握って、「近江に群臣あろうとも、どうしてわが天皇の霊威に逆らうことができようか。天皇はひとりでいらっしゃっても、私高市が神々の霊に頼り、勅命を受けて諸将を率いて戦えば、敵は防ぐことができぬでしょう」といわれた。天皇はこれをほめ手をとり背を撫でて、「しっかりやれ、油断するなよ」といわれた。乗馬を賜わって、軍事をすべて託された。
(29日)
天皇は和蹔においでになり、高市皇子に命じ、総軍に号令をされた。

これらの記述からは、高市皇子が大海人皇子に任された軍の指揮に、十分応えていることが窺われる。
『万葉集』に、柿本人麻呂の詠んだ高市皇子の挽歌があり、『万葉集』中最長の歌として知られている(08年2月8日の項)

  高市皇子尊の城上(キノヘ)の殯宮(アラキノミヤ)の時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌一首並びに短歌
かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやにかしこき 明日香の 真神(マガミ)の原に ひさかたの 天つ御門(ミカド)を かしこくも 定めたまひて 神(カム)さぶと 磐隠(イハカク)ります やすみしし わが大王の きこしめす 背面(ソトモ)の国の 真木たつ 不破山越えて 高麗剣(コマツルギ) わざみがはらの 行宮(カリミヤ)に 天降(アモ)りいまして 天の下 治めたまひ 食国(ヲスクニ)を 定めたまふと 鳥が鳴く 吾妻の国の 御軍士(ミイクサ)を 召したまひて ちはやぶる 人を和(ヤハ)せと まつろはぬ 国を治めと 皇子ながら 任(マ)けたまへば 大御身(オオミミ)に 太刀取り帯(ハ)かし 大御手に 弓取り持たし 御軍士を あどもひたまひ 斉(トトノ)ふる 鼓(ツヅミ)の音は 雷(イカヅチ)の 声と聞くまで 吹き響(ナ)せる 小角(クダ)の音も 敵(アタ)見たる 虎か吼ゆると 諸人(モロヒト)の おびゆるまでに ささげたる 幡(ハタ)のなびきは 冬ごもり 春さり来れば 野ごとに 著(ツ)きてある火の 風の共(ムタ) なびくがごとく 取り持てる 弓弭(ユハズ)の騒(サワギ) み雪降る 冬の林に 飄風(ツムジカゼ)かも い巻き渡ると 思ふまで 聞(キキ)の恐(カシコ)く 引き放つ 矢の繁けく 大雪の 乱れて来(キタ)れ まつろはず 立ち向ひしも 露霜の 消(ケ)なば消(ケ)ぬべく 去(イ)く鳥の あらそふ間(ハシ)に 渡会(ワタラヒ)の 斎宮(イツキノミヤ)ゆ 神風(カムカゼ)に い吹き惑はし 天雲を 日の目も見せず 常闇(トコヤミ)に 覆(オホ)ひたまひて 定めてし 瑞穂(ミヅホ)の国を 神ながら 太敷きまして やすみしし わが大王の 天の下 申し給へば 万世(ヨロヅヨ)に 然しもあらむと 木綿花(ユフハナ)の 栄ゆる時に わが大王 皇子の御門を 神宮(カムミヤ)に 装(ヨソ)ひまつりて つかはしし 御門の人も 白たへの 麻ごろも著(キ) 埴安の 御門の原に 茜さす 日のことごと 鹿(シシ)じもの い匍(ハ)ひ伏しつつ ぬばたまの 夕べに至(ナ)れば 大殿を 振り放(サ)け見つつ うづらなす い匍(ハ)ひもとほり 侍(サモラ)へど さもらひ得ねば 春鳥の さまよひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに 憶(オモ)ひも いまだ尽きねば 言(コト)さへく 百済の原ゆ 神葬(カムハフ)り 葬(ハフ)りいまして 朝裳(モ)よし 木上(キノエ)の宮を 常宮(トコミヤ)と 高くしまつりて 神ながら 鎮まりましぬ 然れども わが大王の 万世(ヨロヅヨ)と 念(オモ)ほしめして 作らしし 香具山の宮 万世に 過ぎむと念(モ)へや 天(アメ)のごと 振り放(サ)け見つつ 玉たすき 懸けて偲(シノ)はむ 恐(カシコ)かれども  (2-199)

  短歌二首
ひさかたの天(アメ)しらしぬる君ゆゑに日月も知らに恋ひわたるかも  (2-200)
埴安の池の堤の隠沼(コモリヌ)の去(イ)く方(ヘ)を知らに舎人は惑ふ  (2-201)


「皇子ながら~」は、高市皇子の壬申の乱のにおける勇敢な戦いぶりを讃えたものである。
これらの範囲で、高市皇子が天武の子であることを疑わせるものはなにもない。
しかし、小林氏は、『日本書紀』の記載には虚偽があり、高市皇子は天智天皇の子であるという。

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