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2008年10月27日 (月)

小林惠子氏の高松塚被葬者論…③高市皇子(ⅱ)

小林惠子氏の高市皇子論は、通説と大きく乖離しているものであるが、同時に小林氏の壬申の乱の解釈を理解する上でのキーファクターになっている。
氏の『白村江の戦いと壬申の乱 補訂版―唐初期の朝鮮三国と日本』現代思潮社(8805)に、「高市皇子の謎」という項目(p181)があるので、参照してみよう。

小林惠子氏は、壬申の乱について、以下の諸点を問題にする。
①大海人が乱の最中、直接戦闘に参加指揮せず、高市皇子を一線に立たせ、自からは美濃の不破の仮宮から一歩も出ようとせず、戦後の賞罰も高市に命じてさせていること。

②挙兵してからはじめて不破で高市に会った時の会話について(宇治谷孟・全現代語訳『日本書紀日本書紀〈下)』講談社学術文庫(8808))。

天皇は高市皇子に、「近江の朝廷には左右の大臣や智略にすぐれた群臣たちがいて、共に謀ることができるが、自分には事を謀る人物がいない。ただ、年若い子供があるだけである(高市皇子、この時十九歳か)。どうしたらよいだろう」といわれた。
皇子は腕まくりをして剣を握って、「近江に群臣あろうとも、どうしてわが天皇の霊威に逆らうことができようか。天皇はひとりでいらっしゃても、私高市が神々の霊に頼り、勅命を受けて諸将を率いて戦えば、敵は防ぐことができぬでしょう」といわれた。

宇治谷氏の注釈にもあるように、高市はこの時19歳くらいで、幼少という年齢ではない。
また高市が大海人に応えた部分は、漢文では以下のような表記である(小林・上掲書)。

近江群臣雖多、何敢逆天皇霊哉、天皇雖独、則臣高市、頼神祇之霊、請天皇之命、引率諸将而征討、豈有拒乎

小林氏は、ここに表記されている2つの「霊」の字に注意を喚起する。
『日本書紀』の訓では、最初の天皇の「霊」は「みかげ」、次の神祇の「霊」は「みたま」となっている。
宇治谷訳をみても、最初の「天皇の霊威に逆らうことができようか」は、大海人に逆らうことができようか、という意味に解するのが自然だと思われる。
しかし、小林氏は、生者に対して「霊」という文字は使われないとする。
次の天皇の「命」は、大海人の命令のことであるが、「霊」という字はないのをみても、「天皇の霊」は大海人のことではなく、とすれば、「天皇の霊」とは、この場合、天智天皇を指しているのではないか。
とすれば、近江朝の群臣が逆らえないのは当然である。

高市の応えた言葉に対し、さらに大海人は次のような行動をとった。

天皇はこれをほめ手をとり背を撫でて、「しっかりやれ、油断するなよ」といわれた。

小林氏は、ここではじめて大海人と高市の間に父子関係が成立した、とみる。
本来の父子ならば、このような手順を踏む必要がないだろうということである。

③『日本書紀』に、大伴吹負の奇計として、以下のような記述がある(宇治谷現代語訳)。

この日(天武元年6月29日)、大伴連吹負は、ひそかに留守司の坂上直熊毛(倭漢人)と謀って、一人二人の漢直らに語り、「おれは偽って高市皇子と名のり、数十騎を率いて、飛鳥寺の北の路から出て、軍営に現れるから、お前たちはそのとき寝返りをうて」といった。すでに自分は兵を百済の家(広陵町百済にあった吹負の家)に揃え、南門から出た。まず秦造熊を犢鼻褌(フンドシ)姿で馬に乗せて(衣服をつける暇もない程急いだ様子を見せ)走らせ、寺の西の軍営の中へ大声で、「高市皇子が不破から来られたぞ。軍勢が一ぱいだ」といわせた。
留守司の高坂王と、近江の募兵の使いの穂積臣百足らは、飛鳥寺の西の槻の木の下に、軍営を構えていた。ただ、百足だけは小懇田の武器庫にいて、武器を近江に運ぼうとしていたが、軍営の中の兵たちは、秦造熊の叫ぶ声を聞いてことごとく散り逃げた。大伴連吹負は、数十騎を率いて不意に現れた。熊毛をはじめ多勢の漢直の人たちはそろって吹負につき、兵士たちもまた服従した。

この部分を、小林氏は、兵たちは「逃げ去ったのではなく高市と聞いて引き下がったのではなかったか」とする。
つまり、大海人でなく、高市という名前に近江方の戦意を喪失させる何物かがあったのではないか。

④『扶桑略記』の中で最も古いといわれる「金勝院本」に、「持統天皇三年……同七月高市皇子為太政大官、天地天皇三男也」とある。
また、『扶桑略記』の天智条には、「三人即位一人不載系図」とある。
三人即位して一人系図に載っていないということであり、大友と元明が即位したとして、系図に載らない一人とは高市皇子のことではないのか。

⑤大海人と額田王の間の子である十市皇女は、大友の妃になったが、十市が亡くなった時の高市の次の歌は、弔歌というより恋歌である。

  十市皇女薨りましし時、高市皇子尊の作りませる御歌三首
三諸の神の神杉夢にだに見むとすれども寝ねぬ夜ぞ多き  (2-156)

これらの理由により、高市は天智の子であったのではないか、というわけである。
つまり、壬申の乱は、天武と近江朝の争いに加えて、大友(兄)と高市(弟)の争いという側面があったが、高市が天智の子で大友と兄弟であるならば、人々にとってはどちらが勝っても天智王朝に変わりはない。
高市を近江側と思い闘わなかった者もいるのではないか。
上記の大伴吹負の奇計は、それを利用したのではないか。
大海人は、大友・高市の兄弟の争いに見せるために、決着がつくまで表面に出なかったのではないか、と小林氏は推論する。

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