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2008年10月 7日 (火)

『万葉集』における志貴皇子の位置づけをめぐる謎

志貴皇子は、秀歌の作者であると同時に、『万葉集』の研究者にとっては、大きな謎の人物になっているようだ。
それは、巻1の最後が、次のように終わっているからである。

 寧楽宮
  長皇子、志貴皇子と佐紀宮にして倶に宴せる歌
秋さらば今も見るごと妻ごひに鹿鳴かむ山ぞ高野原の上  (1-84)                 
   右の一首は長皇子

寧楽宮の標目は、この歌一首だけである。
つまり、倶に宴せる志貴皇子の歌は欠落している。
小松崎文夫『皇子たちの鎮魂歌―万葉集の“虚”と“実”』新人物往来社(0403)によれば、元暦本や紀州本などの「目録」には、志貴皇子の御歌が載っているが、歌そのものは脱落しているという。
小学館版『日本古典文学全集/万葉集』では、「古くは志貴皇子の歌もあったのであろう」ということである。

また、巻2の巻末は次のようになっている。

 寧楽宮
  和銅四年歳次辛亥、河辺の宮人、姫島の松原に、嬢子の屍を見て悲嘆みて作れる歌二首
妹が名は千代に流れむ姫島の子松が末に蘿むすまでに  (2-228)
難波潟潮干なありそね沈みにし妹が光儀(スガタ)を見まく苦しも  (2-229)

  霊亀元年歳次乙卯秋九月、志貴親王の薨りましし時、作れる歌一首並に短歌
梓弓 手に取り持ちて ますらをの 得物矢(サツヤ)手ばさみ 立ち向ふ 高圓山に 春野焼く 野火と見るまで もゆる火を いかにと問へば 玉はこの道来る人の 泣く涙 霈霖(コサメ)に降りて 白栲(シロタヘ)の 衣ひづちて 立ち留り 吾に語らく 何しかも もとな唁(トブラ)ふ 聞けば 哭(ネ)のみし泣かゆ 語れば 心ぞ痛き 天皇の 神の御子の いでましの 手火(タビ)の光ぞ ここだ照りたる  (2-230)

  短歌二首
高圓の野辺の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人なしに  (2-231)
三笠山野辺行く道はこきだくも繁(シジ)に荒れたるか久にあらなくに  (2-232)
   右の歌は、笠朝臣金村の歌集に出でたり。

  或本の歌に曰く
高圓の野辺の秋萩な散りそね君が形見に見つつ偲はむ  (2-233)
三笠山野辺ゆ行く道こきだくも荒れにけるかも久にあらなくに  (2-234)

寧楽宮という標目自体が、~宮御宇天皇代という標目の一般型と異なっているし、あたかも志貴皇子のために設けられたかのような感じでもある。
巻1と巻2の巻末が、ともに志貴皇子に関連する歌であることは、編纂者の意図をどう理解すべきか?
それは、『万葉集』そのものの理解に深く係わることであり、多くの研究者の論議を招いてきた。

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