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2008年10月 1日 (水)

紀皇女と弓削皇子は処刑されたのか?…梅原猛説(ⅹⅰ)

梅原猛氏は、『黄泉の王―私見・高松塚』新潮社(7306)で、『万葉集』は、大宝元(701)年前後の風潮を、累々たる屍のイメージで表現しようとした、とする(p227~)。
その累々たる屍のイメージは、律令と共にあった、と梅原氏は言う。
律令の思想とは、人間は所詮悪であるから、法を厳しくすることが国家を治める道であるとする法家の思想である。

梅原氏は、律令によって葬られた死の中心部に、弓削皇子と紀皇女がいた、とする。
弓削皇子と紀皇女を一挙に葬ることは、藤原不比等にとって有利なプランである。
紀皇女が文武帝の后であり、弓削皇子と通じていたとしたら?
不比等は、持統上皇に提案したのではないか?

弓削皇子は、軽皇子の立太子に反対したのみならず、帝の后を寝取ったとんでもない男だ。
紀皇女も、関係のあるのは弓削皇子だけではない、ともいう。
このところ、後宮は乱れている。
柿本人麿は、多くの采女を泣かせているとも聞く。
人麿を追放すべきである。彼と関係した采女たちにも死を命じるべきだ。
弓削皇子、紀皇女も、張本人だから、死を免れません。

持統上皇は、不比等の提案に反対できなかっただろう。
持統は、弓削皇子を許していなかっただろう。
不比等は、むしろ紀皇女を排除することが主眼だったのではないか?
文武帝の后の紀皇女を排除すれば、夫人である娘の宮子の位置が上昇する。
石川、紀の2人の妃は、不比等の恋人になっていた橘三千代が何とかしてくれるだろう。

不比等と三千代の間に、光明子が生まれたのは大宝元(701)年のことだから、不比等と三千代が結びついたのは、ちょうど弓削皇子の死の頃(文武3(699)年)と推測される。
梅原氏は、この弓削皇子、紀皇女排除の陰謀を通じて、不比等と三千代は強く一体化したのではないか、とする。
人は、善を共有するよりも、悪を共有する方が、結びつきは強まる。

もちろん、弓削皇子の死は、不比等にとっても好ましいことだった。
不比等の権力は、草壁の系統との関係において増大する。
草壁の系統とは、持統-元明-文武という女性と子供からなる系統である。
他の男性の皇子に皇位が移ったら、不比等の地位は、たちまち危うくなるだろう。
皇位を狙う可能性のある皇子を排除することは、不比等の願うことでもあった。
そして、弓削皇子が処刑されたことが、非公然にでも知られることになれば、持統-不比等ラインに反抗する者の末路を示すデモンストレーション効果もあるだろう。
見せしめのためにも、弓削皇子の死は好都合であった。

梅原氏は、弓削皇子は、天武の皇子として、大津皇子と並ぶ優れた人物だったのではないか、とする。
詩才においても、風貌においても、大津皇子に匹敵する人物だった。
そして、大津皇子と同じように、大胆ではあるが、用心深さに欠けるという欠点を持っていた。
その欠点のために、不比等のワナにかかってしまったのではないか。

  志貴皇子の御歌一首
むささびは木末(コヌレ)求むとあしひきの山の猟夫(サツヲ)にあひにけるかも  (3-267)

猟師を逃れて木の末に逃げようとしたむささびであったが、そこで猟師につかまってしまった。
弓削皇子のこととは書いてないが、梅原氏は、この「むささび」は、弓削皇子のことをいっているのではないか、としている(p147)。
弓削皇子がむささびならば、猟師は不比等ということになるのだろう。

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