小林惠子氏の高松塚被葬者論…①天智・天武非兄弟説
小林惠子氏は、高松塚の被葬者について、『高松塚被葬者考―天武朝の謎 』現代思潮社(8812)という書を著されている。
もちろん、小林氏の史観に基づくもので、通説的な推論とはかなり乖離した内容である。
以下、小林氏の推論の道筋を辿ってみたい。
小林氏は、『日本書紀』には、「神話ときわめて正確な史実が混在しており」、『日本書紀』批判のためには、「『日本書紀』のどこが正しく、どこがどういう理由によって史実が隠蔽されているかを可能な限り正確に把握する必要がある」としている。
そして、「天武朝の一五年間と持統朝の一一年間は書紀の書かれた時代にもっとも近いために、編者によって故意に曲筆された部分の多い個所である」から、史実の実相は、書紀とはかなり違ったものである、とする。
そういう判断の上で、「高松塚の被葬者が誰であるかを知ることは、当時の政治的な史実を知る上で、もっとも具体的な方法であると思う」が、従来、被葬者に推量された人物はいずれも該当者とはいえず、それは高松塚の歴史的背景を、『日本書紀』の記載のままに信じているからである。
高松塚が、藤原京の南に位置することから、藤原京時代を中心にして、その前後に造られた古墳であり、高松塚の実体(被葬者や築造者)を把握するためには、天武・持統・文武朝を中心に、その政治的状況を知る必要がある、とする。
つまり、「壬申の乱」後の政治的状況ということである。
「壬申の乱」については、既に08年1月21日の項(研究史)、22日の項(原因論争)、23日の項(砂川史学)、24日の項(国体論)等で触れたが、WIKIPEDIA(081018最終更新)では、次のように説明している。
壬申の乱(じんしんのらん)は、672年に起きた日本古代最大の内乱であり、天智天皇の太子大友皇子(おおとものみこ、1870(明治3年)弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである。反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱であった。天武天皇元年は干支で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたるためこれを壬申の乱と呼んでいる。
なお、「天皇位をめぐる戦乱」であるため、戦前は、旧制高等学校以上に進学しないと、この乱については教育されなかった。
671年10月に、大海人皇子は、吉野に隠棲するとして近江大津京より姿を消し、672年6月、近江京に不穏な動きがあるという口実で、吉野を出て兵を募りながら、美濃国の不破(岐阜県関ヶ原)に入った。「壬申の乱」の始まりである。
小林氏は、大海人皇子は、吉野に入る前から、新羅と唐人に援軍を要請していて、大海人が吉野を出ると時を同じくして、西南の要衝の筑紫大宰府と吉備地方は、郭務悰の率いる唐人の軍勢と新羅軍によって押さえ込みに成功し、山土地法は大伴馬来田、吹負兄弟の寝返りを誘い、東国兵を主体とした軍勢を率いた村国男依が近江京を陥落させて、大海人皇子が勝利する。
大海人皇子については、小林氏は、斉明天皇が舒明天皇と結ばれる前に、高向王との間に漢皇子を生んだという『日本書紀』の記述から、この漢皇子を大海人とし、高向王は、孝徳朝の重臣で大化改新の推進者である高向玄理であるとしている。
つまり、小林氏は、天智・天武非兄弟説である。
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