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2008年10月29日 (水)

小林惠子氏の高松塚被葬者論…⑤大津皇子と朱鳥(朱雀)年号

『日本書紀』の天武紀15年は、いきなり次のように書き出される(宇治谷孟・全現代語訳『日本書紀日本書紀〈下)』講談社学術文庫(8808))。

朱鳥元年一月二日、大極殿におでましになり、宴を諸王たちに賜わった。この日、詔して『自分が王卿に無端事(ヨシナシゴト:なぞなぞのようなことか)を尋ねよう。答えて当たっていたら必ず賜物をしよう」といわれた。……

そして、同年7月の条に次のようにある。

二十日、改元して朱鳥元年とした。宮をなづけて飛鳥浄御原宮といった。

この後、九月に天武は崩じてしまう。

九日、天皇の病ついに癒えず、正宮(オオミヤ)で崩御された。

つまり、天武15年に朱鳥と改元されたが、その年に天武が崩じ、その後は鸕野皇后が称制する
その年の10月2日に、大津皇子の謀反が発覚し、3日に皇子は死を賜わる。
翌年が持統元年で、以下持統2年、3年……と続き、3年4月13日に「皇太子草壁皇子尊が薨去された」という簡単な記事のあと、4年の1月1日に皇后が皇位に就く。
つまり、朱鳥は元年だけのように解釈できる。

ところが、『万葉集』には、次のような「左注」がみられる(丸山晋司『古代逸年号の謎』アイ・ピー・シー(9202))。

1-34 日本紀云、朱鳥四年庚寅秋九月、天皇幸紀伊国也。

1-44 日本紀曰、朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰、以浄広肆広瀬王等為留守官。

1-50 日本紀曰、朱鳥七年椽癸巳秋八月、幸藤原宮地。八年甲午春正月、幸藤原宮。

2-195 日本紀云、朱鳥五年辛卯秋九月己巳朔丁丑、浄大参皇子川嶋薨。

この朱鳥年号の謎に関しては、いわゆる「九州年号」なのか否かを巡っての論議など、いろいろな論点がある(08年1月7日の項1月10日の項1月11日の項)。
この朱鳥に関して、小林惠子氏は、『争乱と謀略の平城京―称徳女帝と怪僧・道鏡の時代』文藝春秋(0210)において、次のように説いている(08年7月10日の項)。

663年の“白村江の戦い”で、元百済王子の中大兄は高句麗の蓋蘇文こと大海人と連合して、百済復活を賭けて唐国と戦ったが敗北し、百済から撤退した。
668年、天智は近江で即位式を挙げた。
高句麗が滅んで大海人は雌伏せざるを得なかったが、天智が死んで大友皇子が即位すると、吉野を出て起兵した。
当時の新羅の文武王は、大海人が新羅の名将金庾信の妹に生ませた子どもだったので、新羅は大海人を救援した。
唐は新羅に侵攻し、窮地に陥った文武王は、681年に新羅に死んだことにして、日本に亡命した。
天武も682年に唐軍に追われて、旧高句麗領に逃げる途中で殺された。
天武が没すると、天武の長子の大津皇子が即位し、683年朱雀という年号を立てた。

朱雀と朱鳥の関係については、『白村江の戦いと壬申の乱 補訂版―唐初期の朝鮮三国と日本』現代思潮社(8805)や『高松塚被葬者考―天武朝の謎 』現代思潮社(8812)において、次のような解釈を示している。
①朱鳥という年号の他に朱雀という年号を載せているものに、『愚管抄』、『簾中抄』、『扶桑略記』、『水鏡』など多数ある。

②天武朝については、必ずしも15年とされてはいず、たとえば『二中歴』では、天武13年を朱雀2年としているので、天武12年が朱雀元年となる。

③『日本書紀』では天武12(683)年2月1日条に、「大津皇子がはじめて朝政をお執りになった」とある。
つまり、大津は天武亡き後の第一人者になった。大津が皇太子であったか、即位していたかは単なる儀式上の問題ともいえ、天武11(682)年8月から朱鳥元(683)年の間のある期間、大津が実権を握っていたと推量される。

④『日本書紀』の天武12年1月2日条に、「筑紫大宰の丹比真人嶋が三本足の雀(祥瑞)をたてまつった」とあるが、これは赤雀だったのではないか。
赤雀は大津好みの瑞鳥だったようで、12年に朱雀に改元があったとしたら、大津の意思があったものと思われる。

⑤11年8月の天武の死は極秘であったが、大津が葬り去られてから持統4年まで空位のままでは長すぎるので、『日本書紀』の完成段階で、15年に朱雀とまぎらわしい朱鳥という年号を置いて、9月9日に崩じたとして、大津の事跡を全く抹消しようとしたのではないか。

⑥大津の謀反について、『日本書紀』は誰に対する謀反とも書いていないが、未だ帝位に就いていない持統、草壁に対する謀反などありえず、謀反という言葉も使わないはずである。
持統紀に「謀反発覚」とあるのは、3年前の天武に対する謀反が発覚したという意味であり、その理由のもとに大津は刑死させられた。

⑦『日本書紀』の編者によって、大津朝ともいうべき約3年間は、史上より抹殺され、忘れ去られた。

論理の筋が辿りにくいが、以上が私なりに整理した小林氏の大津皇子論である。

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