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2008年10月30日 (木)

小林惠子氏の高松塚被葬者論…⑥持統朝について

持統天皇は、天武から文武へ、さらには元明、元正を挟んで聖武へ、草壁皇子の(言い換えれば天武と持統の)血統を皇位に継続させていくためのキーパーソンである。
WIKIPWDIA(981925最終更新)により、その経歴を見てみよう。

天智天皇の娘で、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘、遠智娘(オチノイラツメ)。同母姉の大田皇女とともに、父の同母弟である大海人皇子(のちの天武天皇)の妃となった。その正妃となり、草壁皇子をもうけた。 天智天皇の晩年には、皇位継承をめぐって夫・大海人皇子と父・天智天皇の仲が悪化。大海人皇子は東宮(皇太子)を辞し、天智の死後は大和国吉野に逃れた。持統はともに吉野へ落ち、壬申の乱まで吉野で過ごした。持統は、のち天皇に即位してからもたびたび吉野に遊んだ。
夫が即位するとその皇后となった。夫の没後は、姉(大田皇女)の皇子・大津皇子を謀反の嫌疑をかけて殺し、自分の息子である草壁皇子を皇太子としたが、草壁は即位する前に早世。数年の称制を経て、自身が女帝として690年、飛鳥浄御原宮で即位した。(『扶桑略記』に、「皇后朝に臨んで称制し 丁亥の歳をもって元年となす 四年に至って即位し 大和國高市郡明日香淨御原宮藤原宅に都す」とある)天武が、生前に皇后の病気平癒を祈願して造営を始めた大和国の薬師寺を完成させ、勅願寺とした。
694年には、かねてから造営していた藤原宮に遷都した。697年、草壁皇子の遺児、軽皇子を15歳で立太子させた。同年譲位し、自らは天皇を後見した。初めて、譲位後に太政天皇を名乗った。
690年、伊勢神宮の外宮で第一回の式年遷宮を行った。

このような通説的な見方に対して、持統は、実際は即位していなかったのではないか、そしてその事実を隠蔽するために、『日本書紀』の記述にはさまざまな矛盾が混入することになった、という見方がある。
その1人である関裕二氏の見解については、すでに紹介した(08年1月28日の項29日の項31日の項)。

小林惠子氏も、持統朝の実相に疑問を投げかけている。
小林説の大筋は、08年7月10日等に記したが、再記すると以下のようなものである。
「壬申の乱」は、「白村江の戦い」で同盟した唐と新羅が、戦後の倭国のあり方をめぐって争った出来事である。
大海人皇子は、高句麗の蓋蘇文で、新羅と同盟して唐と対立したが、682年に唐軍に追われて、旧高句麗領に逃げる途中信濃で殺された。
天武が没すると、天武の長子の大津皇子が即位し、683年朱雀という年号を立てた。
唐は大津を認知せず、高市皇子らによって謀反者として殺された。
親唐の高市が即位して持統天皇となり、唐と講和した。天武の長子とされている高市は、実際は天智の子だった。

つまり、持統朝は実際は高市が実権を握っており、高市朝とみるべきではないか、ということである。
高市即位論は、砂川恵伸氏(08年2月7日の項)や関裕二氏(2月8日の項)も唱えているが、小林氏は、高市皇子は、草壁皇子が没した持統3年4月以降、勢力が著しく増大したらしいとしている(『高松塚被葬者考―天武朝の謎 』現代思潮社(8812)、p52~)。
持統4年7月に太政大臣になり、5年正月には3000戸の加封、さらに6年正月に2000戸の加増など、他の皇子を圧倒している。ころも

小林氏は、持統の頻回の吉野行幸を、高市からの逃避行ではなかったか、としている。
高市は、7年正月には、浄広壱となった。『日本書紀』の1月2日の条に、以下のような記述がある。

この日、詔して、全国の人民は黄色の衣服を、奴は皁衣(クロキヌ:つるばみ、墨染めの衣)を着ることとされた。

この奇妙な詔を、小林氏は、高市が五行説でいう、土、黄色、中央を表象する人間だったことを示すものとする。
2小林氏のいう五行説というのは分かりにくいが、天智は金・白・西で、天武は木・青・東、大津は火・赤・南で、次は高市の土・黄色・中央が必然であるという。
小林氏の五行説は表のようであるが(上掲書)、高市皇子に関する五行説の説明は論理が循環しているように思われるが、どうであろうか。

8年12月に、藤原宮に遷都し、高市の政権は軌道に乗ったように見えるが、6年11月の新羅からの朴億徳らの来日、7年2月の金江南らの来日、9年3月の王子金良琳らの来日を、小林氏は何らかの国政介入のため、とする。

持統10年7月1日条に、「日蝕があった」という記事があるが、小林氏は、日蝕は、「陰が陽を侵し、臣が君を掩うの象であり、国が亡び君主が死ぬ」ということで、君主にとって縁起が良い現象ではないとする。10日に高市皇子は薨去している。

『日本書紀』の11年6月に次の記述がある。

二十六日、公卿百官は天皇の病気平癒を祈り、仏像を造ることを始めた。

そして、7月には以下の記事がある。

秋七月七日の夜半に、常<扁金+旁嬰>盗賊(ヒタヌスビト:捕縛されている盗賊)百九人の赦免をきめられた。なお、人ごとに布四常を賜わった。
……
二十九日、公卿百寮は祈願の仏像の開眼式を、薬師寺で行った。

これらの記事は、一般には天武天皇に係わるものと解釈されてきた。
しかし、小林氏は、天武はすでに持統2年正月条で無遮大会を薬師寺において執り行っており、その時仏像が存在していたはずだから、天武の死後10数年を経て初めて仏像を造るわけがなく、高市の一周忌にあたることからしても、「この場合の天皇は高市をおいてないと断言する」としている(p54)。
それが持統朝における高市皇子の地位の実相だった、というのである。

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