小林惠子氏の弓削皇子論
梅原猛氏が、高松塚古墳の被葬者に比定する弓削皇子(08年10月2日の項)について、小林惠子氏はどう理解しているだろうか?
弓削皇子は、『万葉集』に、「紀皇女を思ふ御歌四首」を遺していることから、天武天皇の皇女の1人である紀皇女に恋していたであろうことについては既に触れた(08年9月25日の項)。
弓削皇子と同母兄の長皇子は、持統7(693)年に、浄広弐という位を授けられている。
浄広壱が高市皇子で、その次に位置づけられており、持統朝において、兄弟は破格の厚遇を受けていた。
それは、父が天武、母が天智天皇の娘・大江皇女という貴種性によることが大きな要因だったのだろう。
弓削皇子の歌について、小林氏は次のように解説している(『本当は怖ろしい万葉集』祥伝社(0310)p109~)
夕さらば潮満ち来なむ住吉の浅鹿の浦に玉藻刈りてな (2-121)
暮去者塩満来奈武住吉乃朝鹿乃浦尓玉藻刈手名
「玉藻刈る」あるいは「草を刈る」と表現は、小林氏によれば、藻あるいは草を体毛にたとえて、共寝するという意味の間接表現である。
大船の泊つる泊りのたゆたひに物思ひ痩せぬ人の児ゆえに (2-122)
大船之泊流登麻里能絶多日二物念痩奴人能子尓
李寧熙氏の吏読による解釈は以下のようである。
「大船之」は、「オポペジ」と読んで、「駄目になった」。
「泊流登麻里能」は、「バクドゥマンリヌン」と読んで、「刺せといっておきながら止める」。
「絶多日二」は、「ダダビニ」と読んで、「歯がゆい奴なので」。
→「やれやれとけしかけておきながら、止めろといっているもどかしい(歯がゆい)奴だ」
持統10(696)年の御前会議において、弓削皇子は、軽皇子(文武天皇)の即位に反対する勢力を代弁して、即位反対の発言をしようとした。
小林氏は、軽皇子が即位してから、弓削皇子は吉野に幽閉されたのではないか、とする。
吉野における弓削皇子と額田王の相聞歌について、小林氏はどう見ているか?
吉野の宮に幸(イデマ)しし時、弓削皇子、額田王に贈与(オク)る歌一首
古に恋ふる鳥かもゆづるはの 御井の上より鳴き渡り行く (2-111)額田王、和へ奉る歌一首 大和の都より奉り入る
古に恋ふらむ鳥はほととぎす けだしや鳴きし我が恋ふるごと (2-112)
先ず、「表」の意味を次のように解説する。
ホトトギスは天武天皇を暗示する鳥である。ホトトギスは、託卵する鳥だから、実の親を知らない。
小林氏は、『日本書紀』に天智天皇の同父同母の弟とある天武天皇の親は誰だか分からない、とする。
ホトトギスの口の中は赤い色をしているが、漢の国の色が赤であり、漢の高祖を指向する天武に相応しい。
つまり、弓削皇子と額田王が共に天武天皇を偲んだ歌である。
梅原猛氏の解釈(08年9月24日の項)とほぼ同じである
そして、李寧熙氏の朝鮮語による解読(08年8月22日の項、23日の項)を参照しつつ、李氏が、鸕野皇女と文武天皇にからめて理解しているのに対し、小林氏は、額田王が弓削皇子に対して忠告した歌だとしている。
つまり、弓削皇子が文武天皇や鸕野皇女等と争っても負けるでしょう、そして、紀皇女と関係することは止めなさい、という忠告だとする。
紀皇女が誰の妃であったか?
小林氏は、記録は残されていないが、『万葉集』巻3の譬喩歌の筆頭にある紀皇女の歌から想像できる、とする。
紀皇女の御歌一首
軽の池の汭廻(ウラミ)行き廻(ミ)る鴨すらに玉藻のうへに獨り宿(ネ)なくに (3-390)
譬喩歌は、人を物事に譬える歌で、鴨は紀皇女自身であり、軽の池の軽は軽皇子をさしている。
つまり、紀皇女は、文武天皇の軽皇子時代の妃だっただろう、というのが小林氏の推測で、この部分でも梅原猛氏の見解(08年9月29日の項)と一致している。
弓削皇子が軽皇子の即位を阻止しようとしたのは、紀皇女への私的な思いもあったのだろう、というのが小林氏の指摘である。
紀皇女の没年は、『続日本紀』に記されていない。
皇子、皇女の没年が必ず記されていることにおける例外である。
小林氏は、文武3(699)年正月条の「浄広三坂合部女王卒す」とあるのを、坂合部女王なる人物がこの時代には存在しないので、紀皇女の変名であろう、とする。
「卒す」とあるのは、文武天皇が皇女の身分を剥奪し、庶民として葬られたからで、それは弓削皇子との不倫によって、処刑されたものであろう。
また、同じ年の7月、弓削皇子も没しているが、小林氏は偶然ではないだろうとする。
梅原猛氏の処刑説(08年10月1日の項)と同じとしていいだろう。
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コメント
弓削皇子について調べているうちに、思いがけず小林恵子さんと李寧煕(イヨンヒ)さんに出会いました。
イヨンヒさんの主張は正しいと思います。万葉仮名が韓国語でも読めてなんで悪い?もとをたどれば韓国からの渡来人なんだから当たり前じゃないですか。
投稿: カトちゃん | 2009年7月30日 (木) 14時46分
カトちゃん様
来訪有難うございます。
私は韓国語を云々できる立場ではありませんが、万葉仮名は白村江敗戦後にやってきた百済人等が使い始めたとすれば、当然韓国語で読めても不思議ではないですね。
以前に書いたことですが、「上代特殊仮名遣い」と言われている現象についても、亡命百済人の関与を考えると納得的ですね。
投稿: 管理人 | 2009年7月30日 (木) 17時16分