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2008年10月

2008年10月31日 (金)

小林惠子氏の高松塚被葬者論…⑦高松塚の築造時期

小林惠子氏は、高松塚の築造年時について、『高松塚被葬者考―天武朝の謎 』現代思潮社(8812)で、次のように推論している。

①所在地
高松塚は、古代の檜隈地に属している。
天武朝の皇族クラスの墳墓が、藤原京中軸線の南延長上の、いわゆる聖なるラインに並列し、その中に高松塚も存在するので、少なくとも藤原宮造営計画の後の造営と考えられる。
藤原宮は、『日本書紀』に、天武13年3月9日の条に、「天皇は京内を巡行されて、宮室に適当な場所を定められた」とある。
このことは、出土木簡等からも確認されている。
藤原京時代は694~710年だから、高松塚の造営時期は、7世紀後半から8世紀初頭にかけて、という見解は動かし難い。

②外形
高松塚は低い丘陵地の頂上部ではなく、南西斜面に撰地されている。
現在は墳丘は竹林になっているが、かつては頂上部に松が何本かあったらしい。
墳丘は、底面積の大きさに比して背が高い腰高である。
古墳は年代が下るにつれて腰高になる傾向があり、高松塚はもっとも腰高の古墳であるから、最終末期の古墳であり、この形状面からも、8世紀はじめ、少なくとも7世紀最末期と推定される

③石槨
石槨は終末期古墳にある横口式で、全長265.5cm、幅103.5cm、高さ113.4cmである。
石槨の尺度については論議があるが、1尺を19cmとする周(和)尺が、平均して、比較的完数に近い数値が得られる。
石槨の内部には漆喰が塗られているが、漆喰純度(CaCO3)が95%と高く、新羅系、任那系の漆喰技術に近い。

④漆棺
漆棺の木材は杉で、板に麻布を2枚重ね、木糞漆で固めた上に鉛白を下地にして朱を塗り、外面に漆を3~4回塗った上に、外側全体に金箔が貼られていた。
棺材に使われた布の織目の粗さや織糸に太さから、飛鳥、白鳳時代の中間の時代に位置すると考えられている。

⑤副葬品
主要な副葬品については、梅原猛氏の所論の項で触れた(08年9月14日の項9月15日の項)。
小林氏の論議も、副葬品に関して、特異な論を立てるものではない。

⑥壁画
壁画についても、梅原猛氏の所論を紹介する形で既に触れた(08年9月16日の項9月17日の項9月18日の項9月19日の項9月20日の項)。

小林惠子氏は、上記のような根拠から、高松塚の築造年代は、8世紀に入らず、持統末年(697年)までに限定される。
壁画の男子の副葬は持統4年4月に規定されたものであり、多少の余裕をみて、持統5年から10年くらいまでの約5年間に限定される、としている。

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2008年10月30日 (木)

小林惠子氏の高松塚被葬者論…⑥持統朝について

持統天皇は、天武から文武へ、さらには元明、元正を挟んで聖武へ、草壁皇子の(言い換えれば天武と持統の)血統を皇位に継続させていくためのキーパーソンである。
WIKIPWDIA(981925最終更新)により、その経歴を見てみよう。

天智天皇の娘で、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘、遠智娘(オチノイラツメ)。同母姉の大田皇女とともに、父の同母弟である大海人皇子(のちの天武天皇)の妃となった。その正妃となり、草壁皇子をもうけた。 天智天皇の晩年には、皇位継承をめぐって夫・大海人皇子と父・天智天皇の仲が悪化。大海人皇子は東宮(皇太子)を辞し、天智の死後は大和国吉野に逃れた。持統はともに吉野へ落ち、壬申の乱まで吉野で過ごした。持統は、のち天皇に即位してからもたびたび吉野に遊んだ。
夫が即位するとその皇后となった。夫の没後は、姉(大田皇女)の皇子・大津皇子を謀反の嫌疑をかけて殺し、自分の息子である草壁皇子を皇太子としたが、草壁は即位する前に早世。数年の称制を経て、自身が女帝として690年、飛鳥浄御原宮で即位した。(『扶桑略記』に、「皇后朝に臨んで称制し 丁亥の歳をもって元年となす 四年に至って即位し 大和國高市郡明日香淨御原宮藤原宅に都す」とある)天武が、生前に皇后の病気平癒を祈願して造営を始めた大和国の薬師寺を完成させ、勅願寺とした。
694年には、かねてから造営していた藤原宮に遷都した。697年、草壁皇子の遺児、軽皇子を15歳で立太子させた。同年譲位し、自らは天皇を後見した。初めて、譲位後に太政天皇を名乗った。
690年、伊勢神宮の外宮で第一回の式年遷宮を行った。

このような通説的な見方に対して、持統は、実際は即位していなかったのではないか、そしてその事実を隠蔽するために、『日本書紀』の記述にはさまざまな矛盾が混入することになった、という見方がある。
その1人である関裕二氏の見解については、すでに紹介した(08年1月28日の項29日の項31日の項)。

小林惠子氏も、持統朝の実相に疑問を投げかけている。
小林説の大筋は、08年7月10日等に記したが、再記すると以下のようなものである。
「壬申の乱」は、「白村江の戦い」で同盟した唐と新羅が、戦後の倭国のあり方をめぐって争った出来事である。
大海人皇子は、高句麗の蓋蘇文で、新羅と同盟して唐と対立したが、682年に唐軍に追われて、旧高句麗領に逃げる途中信濃で殺された。
天武が没すると、天武の長子の大津皇子が即位し、683年朱雀という年号を立てた。
唐は大津を認知せず、高市皇子らによって謀反者として殺された。
親唐の高市が即位して持統天皇となり、唐と講和した。天武の長子とされている高市は、実際は天智の子だった。

つまり、持統朝は実際は高市が実権を握っており、高市朝とみるべきではないか、ということである。
高市即位論は、砂川恵伸氏(08年2月7日の項)や関裕二氏(2月8日の項)も唱えているが、小林氏は、高市皇子は、草壁皇子が没した持統3年4月以降、勢力が著しく増大したらしいとしている(『高松塚被葬者考―天武朝の謎 』現代思潮社(8812)、p52~)。
持統4年7月に太政大臣になり、5年正月には3000戸の加封、さらに6年正月に2000戸の加増など、他の皇子を圧倒している。ころも

小林氏は、持統の頻回の吉野行幸を、高市からの逃避行ではなかったか、としている。
高市は、7年正月には、浄広壱となった。『日本書紀』の1月2日の条に、以下のような記述がある。

この日、詔して、全国の人民は黄色の衣服を、奴は皁衣(クロキヌ:つるばみ、墨染めの衣)を着ることとされた。

この奇妙な詔を、小林氏は、高市が五行説でいう、土、黄色、中央を表象する人間だったことを示すものとする。
2小林氏のいう五行説というのは分かりにくいが、天智は金・白・西で、天武は木・青・東、大津は火・赤・南で、次は高市の土・黄色・中央が必然であるという。
小林氏の五行説は表のようであるが(上掲書)、高市皇子に関する五行説の説明は論理が循環しているように思われるが、どうであろうか。

8年12月に、藤原宮に遷都し、高市の政権は軌道に乗ったように見えるが、6年11月の新羅からの朴億徳らの来日、7年2月の金江南らの来日、9年3月の王子金良琳らの来日を、小林氏は何らかの国政介入のため、とする。

持統10年7月1日条に、「日蝕があった」という記事があるが、小林氏は、日蝕は、「陰が陽を侵し、臣が君を掩うの象であり、国が亡び君主が死ぬ」ということで、君主にとって縁起が良い現象ではないとする。10日に高市皇子は薨去している。

『日本書紀』の11年6月に次の記述がある。

二十六日、公卿百官は天皇の病気平癒を祈り、仏像を造ることを始めた。

そして、7月には以下の記事がある。

秋七月七日の夜半に、常<扁金+旁嬰>盗賊(ヒタヌスビト:捕縛されている盗賊)百九人の赦免をきめられた。なお、人ごとに布四常を賜わった。
……
二十九日、公卿百寮は祈願の仏像の開眼式を、薬師寺で行った。

これらの記事は、一般には天武天皇に係わるものと解釈されてきた。
しかし、小林氏は、天武はすでに持統2年正月条で無遮大会を薬師寺において執り行っており、その時仏像が存在していたはずだから、天武の死後10数年を経て初めて仏像を造るわけがなく、高市の一周忌にあたることからしても、「この場合の天皇は高市をおいてないと断言する」としている(p54)。
それが持統朝における高市皇子の地位の実相だった、というのである。

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2008年10月29日 (水)

小林惠子氏の高松塚被葬者論…⑤大津皇子と朱鳥(朱雀)年号

『日本書紀』の天武紀15年は、いきなり次のように書き出される(宇治谷孟・全現代語訳『日本書紀日本書紀〈下)』講談社学術文庫(8808))。

朱鳥元年一月二日、大極殿におでましになり、宴を諸王たちに賜わった。この日、詔して『自分が王卿に無端事(ヨシナシゴト:なぞなぞのようなことか)を尋ねよう。答えて当たっていたら必ず賜物をしよう」といわれた。……

そして、同年7月の条に次のようにある。

二十日、改元して朱鳥元年とした。宮をなづけて飛鳥浄御原宮といった。

この後、九月に天武は崩じてしまう。

九日、天皇の病ついに癒えず、正宮(オオミヤ)で崩御された。

つまり、天武15年に朱鳥と改元されたが、その年に天武が崩じ、その後は鸕野皇后が称制する
その年の10月2日に、大津皇子の謀反が発覚し、3日に皇子は死を賜わる。
翌年が持統元年で、以下持統2年、3年……と続き、3年4月13日に「皇太子草壁皇子尊が薨去された」という簡単な記事のあと、4年の1月1日に皇后が皇位に就く。
つまり、朱鳥は元年だけのように解釈できる。

ところが、『万葉集』には、次のような「左注」がみられる(丸山晋司『古代逸年号の謎』アイ・ピー・シー(9202))。

1-34 日本紀云、朱鳥四年庚寅秋九月、天皇幸紀伊国也。

1-44 日本紀曰、朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰、以浄広肆広瀬王等為留守官。

1-50 日本紀曰、朱鳥七年椽癸巳秋八月、幸藤原宮地。八年甲午春正月、幸藤原宮。

2-195 日本紀云、朱鳥五年辛卯秋九月己巳朔丁丑、浄大参皇子川嶋薨。

この朱鳥年号の謎に関しては、いわゆる「九州年号」なのか否かを巡っての論議など、いろいろな論点がある(08年1月7日の項1月10日の項1月11日の項)。
この朱鳥に関して、小林惠子氏は、『争乱と謀略の平城京―称徳女帝と怪僧・道鏡の時代』文藝春秋(0210)において、次のように説いている(08年7月10日の項)。

663年の“白村江の戦い”で、元百済王子の中大兄は高句麗の蓋蘇文こと大海人と連合して、百済復活を賭けて唐国と戦ったが敗北し、百済から撤退した。
668年、天智は近江で即位式を挙げた。
高句麗が滅んで大海人は雌伏せざるを得なかったが、天智が死んで大友皇子が即位すると、吉野を出て起兵した。
当時の新羅の文武王は、大海人が新羅の名将金庾信の妹に生ませた子どもだったので、新羅は大海人を救援した。
唐は新羅に侵攻し、窮地に陥った文武王は、681年に新羅に死んだことにして、日本に亡命した。
天武も682年に唐軍に追われて、旧高句麗領に逃げる途中で殺された。
天武が没すると、天武の長子の大津皇子が即位し、683年朱雀という年号を立てた。

朱雀と朱鳥の関係については、『白村江の戦いと壬申の乱 補訂版―唐初期の朝鮮三国と日本』現代思潮社(8805)や『高松塚被葬者考―天武朝の謎 』現代思潮社(8812)において、次のような解釈を示している。
①朱鳥という年号の他に朱雀という年号を載せているものに、『愚管抄』、『簾中抄』、『扶桑略記』、『水鏡』など多数ある。

②天武朝については、必ずしも15年とされてはいず、たとえば『二中歴』では、天武13年を朱雀2年としているので、天武12年が朱雀元年となる。

③『日本書紀』では天武12(683)年2月1日条に、「大津皇子がはじめて朝政をお執りになった」とある。
つまり、大津は天武亡き後の第一人者になった。大津が皇太子であったか、即位していたかは単なる儀式上の問題ともいえ、天武11(682)年8月から朱鳥元(683)年の間のある期間、大津が実権を握っていたと推量される。

④『日本書紀』の天武12年1月2日条に、「筑紫大宰の丹比真人嶋が三本足の雀(祥瑞)をたてまつった」とあるが、これは赤雀だったのではないか。
赤雀は大津好みの瑞鳥だったようで、12年に朱雀に改元があったとしたら、大津の意思があったものと思われる。

⑤11年8月の天武の死は極秘であったが、大津が葬り去られてから持統4年まで空位のままでは長すぎるので、『日本書紀』の完成段階で、15年に朱雀とまぎらわしい朱鳥という年号を置いて、9月9日に崩じたとして、大津の事跡を全く抹消しようとしたのではないか。

⑥大津の謀反について、『日本書紀』は誰に対する謀反とも書いていないが、未だ帝位に就いていない持統、草壁に対する謀反などありえず、謀反という言葉も使わないはずである。
持統紀に「謀反発覚」とあるのは、3年前の天武に対する謀反が発覚したという意味であり、その理由のもとに大津は刑死させられた。

⑦『日本書紀』の編者によって、大津朝ともいうべき約3年間は、史上より抹殺され、忘れ去られた。

論理の筋が辿りにくいが、以上が私なりに整理した小林氏の大津皇子論である。

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2008年10月28日 (火)

小林惠子氏の高松塚被葬者論…④高市皇子(ⅲ)

小林惠子氏の「高市皇子は天智の子」説でみると、壬申の乱の状況はどう見えるか?
小林氏は、全軍の指揮は『日本書紀』の記載のように大海人の命によっていたが、大海人の軍勢に吉野出立後に加わった者の中には、高市軍に編入されたと思い込んでいた者がかなり多かったのではないか、と推測する。
それらの人が、実際の指揮者が高市ではなく、大海人だったことを知ったのは、戦後ではないか。

高市が大海人に出会ったのは、積殖(ツムエ:阿山郡伊賀町柘植)に入ったところである。
大海人がこのルートを通って不破に入るのを知っていて、近江朝は待ち伏せするために高市皇子を遣わしたのではないか。
大海人は、7月2日、多臣品治を莿萩野(タラノ)に、3000の兵をもって駐屯させているが、近江側がもともと大海人を迎え討つために、莿萩野に高市を出陣させたのではないか、と小林氏は推測する。
そして、大海人は、将だけ高市と品治を交替させ、大海人側についた高市を、不破郡和蹔にとどめおいた。
大友側にあるかも知れない高市を丸はだかにして、手元に引き付けておいた、ということである。

『日本書紀』に、以下のような記述がある(宇治谷孟・全現代語訳『日本書紀日本書紀〈下)』講談社学術文庫(8808))

(天武元年)6月27日
その日天皇は皇后を残して、不破に入られた。不破の郡家に至る頃に、尾張国司小子部連鉏鉤(サヒチ)が、二万の兵を率いて帰属した。天皇はほめられ、その軍を分けて方々の道の守りにつかせた。

この小子部連鉏鉤は、8月25日の条で、次のように記されている。

これより先、尾張国司小子部連鉏鉤は、山に隠れて自殺した。天皇は「鉏鉤は功のある者であったが、罪なくして死ぬこともないので、何か隠した謀(ハカリゴト)があったのだろうか」といわれた。

この部分について、小林氏は、伴信友(江戸時代の国学者)が、『長等山風』で「鉏鉤が近江朝の命を受け、隙をみて大海人を捕らえようとしたが、期を失して不成功に終わったので自殺した」という解釈を紹介しつつ、鉏鉤が大海人に帰属したのは、大海人が高市のいる不破の和蹔に出かける途上で、大海人の軍勢は知れていただろうから、鉏鉤が大海人を捕らえるつもりならば、正面から戦うはずだ、とする。
この時、大海人が「鉏鉤の軍勢を分けて方々の守りにつかせた」とあるから、伴信友の説のように鉏鉤は大友側にあったが、大海人が掌中にしてしまったのではないか。
鉏鉤は、天智の子である高市が帝位に就くと思って大海人に協力したのが、乱が収束すると大海人が帝位に就いたので、結果的に天智朝への裏切りになった。それを後悔して自殺したのではないか、というのが小林説である。

そして、大友が敗走したとき、大友に随ったのは、物部(石上)麻呂と1~2人の舎人だけであったとある。
つまり麻呂は、大友の側近だった。
麻呂は天武朝において、五年と十年に大使として新羅に使いしている。それは、麻呂が高市の懐刀で、国内にいると高市と結ぶので、新羅に遠征させられたと、小林氏は推量している。
養老元年3月3日に石上麻呂が薨じたとき、長屋王と多治比真人三宅麻呂が遣わされて死を弔った、とあり、高市と麻呂の結びつきが窺われる。
高市が天武の子であるならば、大友が高市と結びつきの強い麻呂を側近として信用することはなかったのではないか、ということである。

さらに、天智は終始百済側にあったが、人麻呂の挽歌には高市が「百済の原ゆ 神葬り 葬りいまして 朝裳よし」とある。
そして、持統3年に、対新羅政策が硬化した様子が窺えるが、それは高市が実権を握ったからではないか。
持統5年5月21日条の以下の記述も高市の意志ではないか。

百済淳武微子に、壬申の年の功をほめて、直大参を贈られ、絁(フトギヌ)を賜わった。

つまり、高市は天智と同じように親百済だったのではないか、というのが小林氏の推論である。
大海人は高市に、乱の収束後は高市を天皇にする口約束があったのではないか。
乱の後、大海人はただちに高市の軍を接収したであろうが、それを可能にしたのは、唐人や新羅などの外国勢だった。
郭務悰は、天武2(673)年に、大海人の即位を見届けてから帰国していると思われる。

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2008年10月27日 (月)

小林惠子氏の高松塚被葬者論…③高市皇子(ⅱ)

小林惠子氏の高市皇子論は、通説と大きく乖離しているものであるが、同時に小林氏の壬申の乱の解釈を理解する上でのキーファクターになっている。
氏の『白村江の戦いと壬申の乱 補訂版―唐初期の朝鮮三国と日本』現代思潮社(8805)に、「高市皇子の謎」という項目(p181)があるので、参照してみよう。

小林惠子氏は、壬申の乱について、以下の諸点を問題にする。
①大海人が乱の最中、直接戦闘に参加指揮せず、高市皇子を一線に立たせ、自からは美濃の不破の仮宮から一歩も出ようとせず、戦後の賞罰も高市に命じてさせていること。

②挙兵してからはじめて不破で高市に会った時の会話について(宇治谷孟・全現代語訳『日本書紀日本書紀〈下)』講談社学術文庫(8808))。

天皇は高市皇子に、「近江の朝廷には左右の大臣や智略にすぐれた群臣たちがいて、共に謀ることができるが、自分には事を謀る人物がいない。ただ、年若い子供があるだけである(高市皇子、この時十九歳か)。どうしたらよいだろう」といわれた。
皇子は腕まくりをして剣を握って、「近江に群臣あろうとも、どうしてわが天皇の霊威に逆らうことができようか。天皇はひとりでいらっしゃても、私高市が神々の霊に頼り、勅命を受けて諸将を率いて戦えば、敵は防ぐことができぬでしょう」といわれた。

宇治谷氏の注釈にもあるように、高市はこの時19歳くらいで、幼少という年齢ではない。
また高市が大海人に応えた部分は、漢文では以下のような表記である(小林・上掲書)。

近江群臣雖多、何敢逆天皇霊哉、天皇雖独、則臣高市、頼神祇之霊、請天皇之命、引率諸将而征討、豈有拒乎

小林氏は、ここに表記されている2つの「霊」の字に注意を喚起する。
『日本書紀』の訓では、最初の天皇の「霊」は「みかげ」、次の神祇の「霊」は「みたま」となっている。
宇治谷訳をみても、最初の「天皇の霊威に逆らうことができようか」は、大海人に逆らうことができようか、という意味に解するのが自然だと思われる。
しかし、小林氏は、生者に対して「霊」という文字は使われないとする。
次の天皇の「命」は、大海人の命令のことであるが、「霊」という字はないのをみても、「天皇の霊」は大海人のことではなく、とすれば、「天皇の霊」とは、この場合、天智天皇を指しているのではないか。
とすれば、近江朝の群臣が逆らえないのは当然である。

高市の応えた言葉に対し、さらに大海人は次のような行動をとった。

天皇はこれをほめ手をとり背を撫でて、「しっかりやれ、油断するなよ」といわれた。

小林氏は、ここではじめて大海人と高市の間に父子関係が成立した、とみる。
本来の父子ならば、このような手順を踏む必要がないだろうということである。

③『日本書紀』に、大伴吹負の奇計として、以下のような記述がある(宇治谷現代語訳)。

この日(天武元年6月29日)、大伴連吹負は、ひそかに留守司の坂上直熊毛(倭漢人)と謀って、一人二人の漢直らに語り、「おれは偽って高市皇子と名のり、数十騎を率いて、飛鳥寺の北の路から出て、軍営に現れるから、お前たちはそのとき寝返りをうて」といった。すでに自分は兵を百済の家(広陵町百済にあった吹負の家)に揃え、南門から出た。まず秦造熊を犢鼻褌(フンドシ)姿で馬に乗せて(衣服をつける暇もない程急いだ様子を見せ)走らせ、寺の西の軍営の中へ大声で、「高市皇子が不破から来られたぞ。軍勢が一ぱいだ」といわせた。
留守司の高坂王と、近江の募兵の使いの穂積臣百足らは、飛鳥寺の西の槻の木の下に、軍営を構えていた。ただ、百足だけは小懇田の武器庫にいて、武器を近江に運ぼうとしていたが、軍営の中の兵たちは、秦造熊の叫ぶ声を聞いてことごとく散り逃げた。大伴連吹負は、数十騎を率いて不意に現れた。熊毛をはじめ多勢の漢直の人たちはそろって吹負につき、兵士たちもまた服従した。

この部分を、小林氏は、兵たちは「逃げ去ったのではなく高市と聞いて引き下がったのではなかったか」とする。
つまり、大海人でなく、高市という名前に近江方の戦意を喪失させる何物かがあったのではないか。

④『扶桑略記』の中で最も古いといわれる「金勝院本」に、「持統天皇三年……同七月高市皇子為太政大官、天地天皇三男也」とある。
また、『扶桑略記』の天智条には、「三人即位一人不載系図」とある。
三人即位して一人系図に載っていないということであり、大友と元明が即位したとして、系図に載らない一人とは高市皇子のことではないのか。

⑤大海人と額田王の間の子である十市皇女は、大友の妃になったが、十市が亡くなった時の高市の次の歌は、弔歌というより恋歌である。

  十市皇女薨りましし時、高市皇子尊の作りませる御歌三首
三諸の神の神杉夢にだに見むとすれども寝ねぬ夜ぞ多き  (2-156)

これらの理由により、高市は天智の子であったのではないか、というわけである。
つまり、壬申の乱は、天武と近江朝の争いに加えて、大友(兄)と高市(弟)の争いという側面があったが、高市が天智の子で大友と兄弟であるならば、人々にとってはどちらが勝っても天智王朝に変わりはない。
高市を近江側と思い闘わなかった者もいるのではないか。
上記の大伴吹負の奇計は、それを利用したのではないか。
大海人は、大友・高市の兄弟の争いに見せるために、決着がつくまで表面に出なかったのではないか、と小林氏は推論する。

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2008年10月26日 (日)

小林惠子氏の高松塚被葬者論…②高市皇子

『日本書紀』では、天武の皇子、皇女の記載は、以下のような順になっている(08年1月17日の項)。

二月二十七日、天皇は有司に命じて壇場を設け、飛鳥浄御原宮で即位の儀をされた。正妃(菟野皇女)を立てて皇后とされた。后は草壁皇子(文武・元正両天皇の父)を生まれた。これよりさき皇后の姉大田皇女を召して妃とされ、大来皇女と大津皇子を生まれた。次の妃大江皇女(天智天皇の娘)は、長皇子と弓削皇子とを生まれた。次の妃、新田部皇女は舎人皇子(日本書紀編纂の総裁)を生まれた。また夫人の藤原大臣(鎌足)の女氷上娘は但馬皇女を生まれた。次の夫人氷上娘の妹の五百重娘は、新田部皇子を生まれた。次の夫人の蘇我赤兄大臣の女太蕤娘は、一男一女を生まれた。第一を穂積皇子といい、第二を紀皇女、第三を田形皇女という。天皇は初め鏡王の女、額田姫王を召して十市皇女(大友皇子の室)を生まれた。次に胸形君徳善の女尼子娘を召して高市皇子を生まれた。次に宍人臣大麻呂女カヂ媛娘は二男二女を生まれた。第一を忍壁皇子、第二を磯城皇子、第三を泊瀬部皇女、第四を託基皇女という。(宇治谷孟現代語訳『日本書紀〈下〉』 講談社文庫(8808))

つまり、母の格の順ということであり、高市皇子の母の胸形君徳善の娘が卑母であったため、高市皇子は、皇子としては、草壁、大津、長、弓削、舎人、新田部、穂積らの次に位置している。
高市皇子は、大海人皇子が壬申の乱に勝利するに際し、重要な役割を担っていた。
『日本書紀』天武元年6月条に、高市皇子に関して、次のような記述がある(08年2月5日の項、以下では宇治谷孟・全現代語訳『日本書紀日本書紀〈下)』講談社学術文庫(8808)による)。

(26日)
朝、朝明郡(三重県三重郡)の迹太川(トオガワ)のほとりで、天照大神を遥拝された。このとき益人が到着して奏上し、「関においでになったのは、山部王、石川王ではなく、大津皇子でありました」といった。やがて益人の後から大津皇子が参られた。大分君恵尺・難波吉士三綱・駒田勝忍人・山辺安麻呂・小懇田猪手・泥部胝枳・大分稚臣・根連金身・漆部友背らがお供をしてきた。天皇は大いに喜ばれた。郡家に行こうとされていると、男依が駅馬に乗ってかけつけ、「美濃の軍勢三千人を集め、不破の道をふさぐことができました」と報告した。天皇は男依の手柄をほめて、郡家につくと、まず高市皇子を不破に遣わし、軍事の監督をすることをきめられた。
(27日)
(高市)皇子は腕まくりをして剣を握って、「近江に群臣あろうとも、どうしてわが天皇の霊威に逆らうことができようか。天皇はひとりでいらっしゃっても、私高市が神々の霊に頼り、勅命を受けて諸将を率いて戦えば、敵は防ぐことができぬでしょう」といわれた。天皇はこれをほめ手をとり背を撫でて、「しっかりやれ、油断するなよ」といわれた。乗馬を賜わって、軍事をすべて託された。
(29日)
天皇は和蹔においでになり、高市皇子に命じ、総軍に号令をされた。

これらの記述からは、高市皇子が大海人皇子に任された軍の指揮に、十分応えていることが窺われる。
『万葉集』に、柿本人麻呂の詠んだ高市皇子の挽歌があり、『万葉集』中最長の歌として知られている(08年2月8日の項)

  高市皇子尊の城上(キノヘ)の殯宮(アラキノミヤ)の時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌一首並びに短歌
かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやにかしこき 明日香の 真神(マガミ)の原に ひさかたの 天つ御門(ミカド)を かしこくも 定めたまひて 神(カム)さぶと 磐隠(イハカク)ります やすみしし わが大王の きこしめす 背面(ソトモ)の国の 真木たつ 不破山越えて 高麗剣(コマツルギ) わざみがはらの 行宮(カリミヤ)に 天降(アモ)りいまして 天の下 治めたまひ 食国(ヲスクニ)を 定めたまふと 鳥が鳴く 吾妻の国の 御軍士(ミイクサ)を 召したまひて ちはやぶる 人を和(ヤハ)せと まつろはぬ 国を治めと 皇子ながら 任(マ)けたまへば 大御身(オオミミ)に 太刀取り帯(ハ)かし 大御手に 弓取り持たし 御軍士を あどもひたまひ 斉(トトノ)ふる 鼓(ツヅミ)の音は 雷(イカヅチ)の 声と聞くまで 吹き響(ナ)せる 小角(クダ)の音も 敵(アタ)見たる 虎か吼ゆると 諸人(モロヒト)の おびゆるまでに ささげたる 幡(ハタ)のなびきは 冬ごもり 春さり来れば 野ごとに 著(ツ)きてある火の 風の共(ムタ) なびくがごとく 取り持てる 弓弭(ユハズ)の騒(サワギ) み雪降る 冬の林に 飄風(ツムジカゼ)かも い巻き渡ると 思ふまで 聞(キキ)の恐(カシコ)く 引き放つ 矢の繁けく 大雪の 乱れて来(キタ)れ まつろはず 立ち向ひしも 露霜の 消(ケ)なば消(ケ)ぬべく 去(イ)く鳥の あらそふ間(ハシ)に 渡会(ワタラヒ)の 斎宮(イツキノミヤ)ゆ 神風(カムカゼ)に い吹き惑はし 天雲を 日の目も見せず 常闇(トコヤミ)に 覆(オホ)ひたまひて 定めてし 瑞穂(ミヅホ)の国を 神ながら 太敷きまして やすみしし わが大王の 天の下 申し給へば 万世(ヨロヅヨ)に 然しもあらむと 木綿花(ユフハナ)の 栄ゆる時に わが大王 皇子の御門を 神宮(カムミヤ)に 装(ヨソ)ひまつりて つかはしし 御門の人も 白たへの 麻ごろも著(キ) 埴安の 御門の原に 茜さす 日のことごと 鹿(シシ)じもの い匍(ハ)ひ伏しつつ ぬばたまの 夕べに至(ナ)れば 大殿を 振り放(サ)け見つつ うづらなす い匍(ハ)ひもとほり 侍(サモラ)へど さもらひ得ねば 春鳥の さまよひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに 憶(オモ)ひも いまだ尽きねば 言(コト)さへく 百済の原ゆ 神葬(カムハフ)り 葬(ハフ)りいまして 朝裳(モ)よし 木上(キノエ)の宮を 常宮(トコミヤ)と 高くしまつりて 神ながら 鎮まりましぬ 然れども わが大王の 万世(ヨロヅヨ)と 念(オモ)ほしめして 作らしし 香具山の宮 万世に 過ぎむと念(モ)へや 天(アメ)のごと 振り放(サ)け見つつ 玉たすき 懸けて偲(シノ)はむ 恐(カシコ)かれども  (2-199)

  短歌二首
ひさかたの天(アメ)しらしぬる君ゆゑに日月も知らに恋ひわたるかも  (2-200)
埴安の池の堤の隠沼(コモリヌ)の去(イ)く方(ヘ)を知らに舎人は惑ふ  (2-201)


「皇子ながら~」は、高市皇子の壬申の乱のにおける勇敢な戦いぶりを讃えたものである。
これらの範囲で、高市皇子が天武の子であることを疑わせるものはなにもない。
しかし、小林氏は、『日本書紀』の記載には虚偽があり、高市皇子は天智天皇の子であるという。

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2008年10月25日 (土)

小林惠子氏の高松塚被葬者論…①天智・天武非兄弟説

小林惠子氏は、高松塚の被葬者について、『高松塚被葬者考―天武朝の謎 』現代思潮社(8812)という書を著されている。
もちろん、小林氏の史観に基づくもので、通説的な推論とはかなり乖離した内容である。
以下、小林氏の推論の道筋を辿ってみたい。

小林氏は、『日本書紀』には、「神話ときわめて正確な史実が混在しており」、『日本書紀』批判のためには、「『日本書紀』のどこが正しく、どこがどういう理由によって史実が隠蔽されているかを可能な限り正確に把握する必要がある」としている。
そして、「天武朝の一五年間と持統朝の一一年間は書紀の書かれた時代にもっとも近いために、編者によって故意に曲筆された部分の多い個所である」から、史実の実相は、書紀とはかなり違ったものである、とする。

そういう判断の上で、「高松塚の被葬者が誰であるかを知ることは、当時の政治的な史実を知る上で、もっとも具体的な方法であると思う」が、従来、被葬者に推量された人物はいずれも該当者とはいえず、それは高松塚の歴史的背景を、『日本書紀』の記載のままに信じているからである。
高松塚が、藤原京の南に位置することから、藤原京時代を中心にして、その前後に造られた古墳であり、高松塚の実体(被葬者や築造者)を把握するためには、天武・持統・文武朝を中心に、その政治的状況を知る必要がある、とする。
つまり、「壬申の乱」後の政治的状況ということである。

「壬申の乱」については、既に08年1月21日の項(研究史)、22日の項(原因論争)、23日の項(砂川史学)、24日の項(国体論)等で触れたが、WIKIPEDIA(081018最終更新)では、次のように説明している。

壬申の乱(じんしんのらん)は、672年に起きた日本古代最大の内乱であり、天智天皇の太子大友皇子(おおとものみこ、1870(明治3年)弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである。反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱であった。天武天皇元年は干支で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたるためこれを壬申の乱と呼んでいる。
なお、「天皇位をめぐる戦乱」であるため、戦前は、旧制高等学校以上に進学しないと、この乱については教育されなかった。

671年10月に、大海人皇子は、吉野に隠棲するとして近江大津京より姿を消し、672年6月、近江京に不穏な動きがあるという口実で、吉野を出て兵を募りながら、美濃国の不破(岐阜県関ヶ原)に入った。「壬申の乱」の始まりである。
小林氏は、大海人皇子は、吉野に入る前から、新羅と唐人に援軍を要請していて、大海人が吉野を出ると時を同じくして、西南の要衝の筑紫大宰府と吉備地方は、郭務悰の率いる唐人の軍勢と新羅軍によって押さえ込みに成功し、山土地法は大伴馬来田、吹負兄弟の寝返りを誘い、東国兵を主体とした軍勢を率いた村国男依が近江京を陥落させて、大海人皇子が勝利する。

大海人皇子については、小林氏は、斉明天皇が舒明天皇と結ばれる前に、高向王との間に漢皇子を生んだという『日本書紀』の記述から、この漢皇子を大海人とし、高向王は、孝徳朝の重臣で大化改新の推進者である高向玄理であるとしている。
つまり、小林氏は、天智・天武非兄弟説である。

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2008年10月24日 (金)

新薬師寺の巨大な金堂跡を発見

このところ、歴史学と考古学の接点に位置するようなニュースが連続している。
今度は、8世紀中ごろに建立された新薬師寺の金堂跡とみられる巨大な建物跡が、奈良教育大学の構内で見つかったというものである。
同大学が、10月23日に発表した。

新薬師寺は、光明皇后の開基と伝えられている。
平城京の主要寺院の中で、新薬師寺は平安時代に中心部が倒壊し、全体像が謎に包まれた寺院だとされており、今回の発見が天平文化を知るための手がかりになるのではないか、と期待されている。

Photo_4 調査地は、平城京の東に張り出した興福寺のある外京のさらに東、東大寺の南方で、現在の新薬師寺の約150m西に位置している(地図は朝日新聞081024)。
凝灰岩の切石を丁寧に積んだ当時としては最上級の「壇上積(ダンジョウヅミ)基壇」の一部で、底部を支える延石(または基壇の階段の石)が東西約10mにわたって出土し、基壇の南東部からも延石約3.7mが発見された。

これらの遺構から、建物は裳階(飾り屋根)を含めた柱間が、東西11間(54m)、南北6間(27m)と推 定された。
江戸時代に再建された現存東大寺大仏殿に次ぐ規模で、復元中の大極殿(東西44m、南北14.9m)よりも大きいとされる(朝日新聞081024)。
2
奈良時代の絵地図「東大寺山堺四至図」(正倉院宝物)にも、金堂に相当する新薬師寺堂が東大寺三月堂の真南に描かれていて 調査地と一致し(産経新聞)、大仏殿よりも横長で描かれていることが裏付けられた(朝日新聞)。

調査を担当した金原正明奈良教育大学准教授(環境考古学)は、「権力者・藤原氏の出身で権勢を誇った光明皇后の政治力の大きさを具体的に知る、新たな手がかりになる」と話している(朝日新聞081024)。
なお、新薬師寺の「新」は、新しいという意味ではなく、「霊験あらたかな」の意味だとされる。

創建時の新薬師寺は、七組の薬師三尊像(薬師如来像と日光・月光両菩薩)とそれを囲む十二神像が安置され、金堂、東西両塔などの七堂伽藍が建ち並ぶ大寺院だったという。
ところが、『続日本紀』によれば、33年後の宝亀11(780)年の落雷で西塔が焼失し、他の堂も延焼した。
また、『東大寺要録』に、応和2(962)年に台風で金堂以下の主要堂宇が倒壊したとされ、復旧はしたものの、衰退を余儀なくされ、寺域は不明だとされてきた。
現存する本堂は、他の用途に用いられた仏堂が転用されたものとされる。

草創については、『東大寺要録』には、光明皇后が聖武天皇の病気平癒を祈願して天平19(747)年に建立し、七仏薬師像を安置したとある。
これに対し、『続日本紀』に記事のある2年前の天平17年の病気の際ではないか、とする見方もあり、聖武天皇が光明皇后の眼病平癒を祈願して天平17年に建立した、という説もある(WIKIPEDIA/08年7月9日最終更新)。

天平時代は、華やかな文化が咲き誇っていたというイメージがあるが、政争の絶えない時代だった(08年6月8日の項)し、天災や疫病が相次ぐ時代でもあった。
巨大な伽藍跡は、鎮護国家を祈って東大寺を造る一方、疾病からの回復を祈った聖武天皇と光明皇后の願いが窺える。
4光明皇后の「薬師信仰」について、菅谷文則滋賀県立大学名誉教授(考古学)は「新薬師寺金堂は薬師如来をまつり、十一面観音などを安置する東大寺二月堂や三月堂のちょうど南にも位置する。国家仏教を実践する一方、夫の病気には、現実の世界ですぐに助けてくれる身近な薬師と観音に祈ったのでは」と推測している(産経新聞081024)。

新薬師寺は、薬師如来など30体以上の仏像が並んでいた可能性があるとされる。
光明皇后は、平城京西部の薬師寺(藤原京からの「移建・非移建」「移座・非移座」の論争がある(08年2月22日の項))に対し、東に新たな寺院を建てることにより、東方にある薬師如来の浄土「浄瑠璃世界」を具現化しようとしたとされる。
(写真の白丸が柱のあったとみられる場所/産経MSNニュース081023)

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2008年10月23日 (木)

木津川市の遺跡から出土の木簡にも万葉歌

昨日、奈良県明日香村石神遺跡から出土した木簡に、万葉歌が刻まれていたことが分かった、と紹介したら、今朝の朝刊各紙で、京都府木津川市の遺跡から出土した木簡にも、万葉歌が記されていることが分かった、と報じていた。
万葉木簡は、昨日の石神遺跡以外には、滋賀県甲賀市の紫香楽宮(742~745年)跡から出土したものがある(08年5月26日の項)だけであり、3例中の2例ということになる。
またまた、「偶然か? それとも…」(07年8月21日の項8月27日の項08年5月27日の項7月22日の項)という感じではなかろうか。

22_2報じられている内容は、京都府埋蔵文化財調査研究センターが、木津川市の馬場南遺跡から出土した木簡に、『万葉集』に収められている歌が書かれていたと発表した、というものであり、時期的には、8世紀後半の木簡と推定されている。
木簡は、縦23.4cm、幅2.4cm、厚さ1.2cmのもので、表は、万葉仮名で、「阿支波支乃之多波毛美智(アキハギノシタバモミチ)」と11文字が墨書してあった(写真は、産経新聞081023)。
裏には、「馬」の字が複数書かれ、削って再利用している痕跡もあったという。

アキハギノシタバモミチは、次の歌の冒頭部分であると推測される。

秋萩の下葉もみちぬあらたまの月の経ゆけば風をいたみかも  (10-2205)
秋芽子乃下葉赤荒玉乃月之歴去者風疾鴨

発掘現場は、恭仁京の域内である(写真は朝日新聞081023)。
恭仁京は、聖武天皇がいわゆる「彷徨五年」の過程で一時宮処としたところで、740~744年の間、宮が置かれた。
同遺跡からは、緑・黄・白の3色を使った奈良三彩の焼き物の破片も多数出土している。
「神雄寺」と墨書された土器も見つかっていて、仏像を置く須弥壇(シュミダン)を飾った装飾品ではないか、と推測されている。
2神雄寺という寺の存在は、文献的には確認されていないが、土器の形状は750~780年のものと推定され、木簡もほぼ同時期に書かれたものだろうという。

出土した木簡等についての研究者の見解は、以下のようである。
上野誠・奈良大学教授(国文学)
当時歌い継がれていた流行歌。他人に見せるために書き留めたのだろう。当時の寺院は最先端の学芸の中心だった(朝日新聞081023)
上田正昭・京都大学名誉教授/上記センター理事長(古代史)
(神雄寺という)名称から、初期の神仏習合の寺院らしい。現地は反乱を計画して鎮圧された有力豪族・橘氏の根拠地であり、このため、同寺が記録に残されなかった可能性がある(朝日新聞081023)
栄原永遠男・大阪市立大学教授(日本古代史)
今回の木簡は儀式や宴で歌を詠み上げる前にあらかじめ書き留めておいた「歌木簡」だろう。編纂過程直後の万葉集には謎が多く、書かれた時期が奈良時代後半なら、当時の歌集の流布状況を知る資料になる(産経新聞081023)

『万葉集』の編纂過程において、天平17(745)年、18年が、1つの節目とされている(08年6月7日の項)。
巻16までの中で年代の分かる最も新しい歌が天平16(744)年7月の作(巻3-481~483)であり、巻17以降(大伴家持の歌日誌的な体裁)で、天平18年の正月から始まっているからである。
木簡の書かれた時期を、750~780年だとすれば、上記の編纂の節目の時期のすぐ後から、編纂の中心人物である大伴家持の死去(782年)に近い頃、ということになる。
『万葉集』の編纂・流布過程の考察に、重要な一石を投ずるものといえるだろう。

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2008年10月22日 (水)

明日香村の石神遺跡から出土の木簡に万葉歌

52奈良県明日香村の石神遺跡で出土した木簡に、『万葉集』に収められている歌が刻まれていることが分かった、と08年10月17日の各紙が報じている。
石神遺跡(地図は朝日新聞081017)は、朝鮮半島などからの使節をもてなした饗宴施設や役所などがあったとされる。

万葉歌を刻んだ木簡としては、滋賀県甲賀市の紫香楽宮(742~745年)跡から出土したものが話題になったばかりである(08年5月26日の項)。
32石神遺跡出土の木簡は、紫香楽宮出土木簡を60~70年遡るもので、万葉歌の木簡としては現時点で最古のものとなる。

木簡の状況は、写真(産経新聞081017)の通りである。
羽子板をさかさにしたような形で、長さ9.1cm、幅5.5cm、厚さ6mmである。
奈良文化財研究所によって、03年度に発見されたもので、同研究所は、右から左へ読む木簡の一般的な読み方で解釈しようとしていたため、意味を掴みきれなかった のだという。

森岡隆筑波大学大学院准教授(日本書道史)が、土器に左から歌を書く例があったことなどから、左から読んで判読した。
近くで出土した別の木簡には、己卯年と記されたものがあり、この己卯年が679年と推定されることから、万葉22歌を刻んだ木簡も7世紀後半のものとされる。

木簡の内容は、次のように解読された。
日本語の1音を漢字1文字で記す万葉仮名で、左側に「阿佐奈伎尓伎也」、右側に「留之良奈你麻久」の14文字が刻まれていた。
『万葉集』巻7に、次の歌がある。

朝凪に来寄る白波見まく欲りわれはすれども風こそ寄ね  (7-1391)
朝奈芸尓来依白浪欲見吾雖為風許増不令依寄浦沙
(大意)
朝の凪に寄せて来る白波のような恋人を見たいと思いはするが、風が波を寄せては来ない

「阿佐奈伎尓伎也」を「あさなきにきや(よ)」、「留之良奈你麻久」を「るしらなに(み)まく」と読めば、上記の歌の冒頭部分にほぼ一致することになる(解読文は産経新聞081017)。

今回の木簡では、「見まく」の「見」に相当する部分が欠落している。
森岡准教授は、「寄る」を「やる」としたのは書いた人のナマリのためであり、「白浪」を「しらなに」としたのは、「彌」を「你」と間違ったので はないか、としている。

『万葉集』の成立過程には、さまざまな見方がある(08年6月7日の項)。
森岡准教授は、「飛鳥時代には万葉仮名の形で、歌が一定の階層に広く流布していたことがはっきりした」とする(読売新聞081017)。
1字1音の万葉仮名が、7世紀後半に使われていたことを示す実物史料が、新たに判明したというわけである。
万葉仮名については、「上代特殊仮名遣い」という現象をめぐって、息の長い論争がある(08年4月19日の項20日の項21日の項22日の項)。

私は、この論争は、藤井游惟氏の『白村江敗戦と上代特殊仮名遣い―「日本」を生んだ白村江敗戦その言語学的証拠』東京図書出版会(0710)に示された仮説-白村江の敗戦(663年)の後に流入した亡命百済人らが、万葉仮名を用いた日本語の表記に係わっており、上代特殊仮名遣いは、百済人らが現在の韓国人と同様に、8母音を聞き分けていたことを示す-によって解かれたのではないか、と考えている(08年4月17日の項18日の項)。
石神遺跡出土の万葉木簡が7世紀後半のものだとすれば、白村江敗戦からさほど時を経ていない時点ということになる。
藤井氏の仮説の妥当性評価を含め、万葉仮名の形成に関して、貴重な史料となるのではなかろうか。

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2008年10月21日 (火)

志貴皇子は、誰に殺されたのか?

志貴皇子は、『続日本紀』では霊亀2年8月薨とあるのに対し、『万葉集』では霊亀元年歳次乙卯9月に薨じたとなっている(08年10月7日の項)。
霊亀元年には、6月に長皇子が、7月に穂積皇子が亡くなっており、志貴皇子が『万葉集』の表記のように霊亀元年に薨じているとすれば、3人の皇子が、間を置かず亡くなったということになる。

もちろん、天平7(737)年における藤原四兄弟の死のような例もあるが、疫病の流行もないとしたら、不自然だと考えるべきだろう。
小松崎文夫氏は、『皇子たちの鎮魂歌―万葉集の“虚”と“実”』新人物往来社(0403)において、それを謀殺と推測している(08年10月9日の項)。

小林惠子氏は、『本当は怖ろしい万葉集 2 西域から来た皇女』祥伝社(0511)において、「長皇子と穂積皇子の相前後する死には疑問は残るが、確たる証拠はないので、不問に付さざるを得ない」が、志貴皇子は、屋敷を包囲されて焼き討ちにあったのではないか、としている(p212~)。
その論拠は、『万葉集』の志貴皇子の挽歌である。
既に触れた(08年10月7日の項)ように、『万葉集』巻2の寧楽宮の標目のほとんどが志貴皇子の挽歌である。

  霊亀元年歳次乙卯秋九月、志貴親王の薨りましし時、作れる歌一首並に短歌
梓弓 手に取り持ちて ますらをの 得物矢(サツヤ)手ばさみ 立ち向ふ 高圓山に 春野焼く 野火と見るまで もゆる火を いかにと問へば 玉はこの道来る人の 泣く涙 霈霖(コサメ)に降りて 白栲(シロタヘ)の 衣ひづちて 立ち留り 吾に語らく 何しかも もとな唁(トブラ)ふ 聞けば 哭(ネ)のみし泣かゆ 語れば 心ぞ痛き 天皇の 神の御子の いでましの 手火(タビ)の光ぞ ここだ照りたる  (2-230)

  短歌二首
高圓の野辺の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人なしに  (2-231)
三笠山野辺行く道はこきだくも繁(シジ)に荒れたるか久にあらなくに  (2-232)
   右の歌は、笠朝臣金村の歌集に出でたり。

  或本の歌に曰く
高圓の野辺の秋萩な散りそね君が形見に見つつ偲はむ  (2-233)
三笠山野辺ゆ行く道こきだくも荒れにけるかも久にあらなくに  (2-234)

小林氏は、230番の歌について、「弓矢を持つ丈夫が立ち向かう高円山は春野焼く野火のようだ」という句から、志貴皇子の死因が戦いにあったことが暗示され、その結果屋敷が焼き討ちにされて火事が起き、その場所が高円山だった、と解釈している。
小林氏も、小松崎氏(08年10月9日の項)と同じように、霊亀元年9月の元明天皇の譲位と志貴皇子の死は関連している、とする。
元正への譲位は、即位しないまま没した草壁皇子の娘への譲位ということであり、志貴皇子らは元正譲位に抵抗したであろう。
そして、闇討ちにあったのではないか、と小林氏は結論づける。
志貴皇子の暗殺を計画実行させたのは、左大臣で長屋王の忠臣石上麻呂だった、とする。

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2008年10月20日 (月)

小林惠子氏の志貴皇子論

志貴皇子は、『日本書紀』では、天智7(668)年2月条に「越の道君伊羅都賣(イラツメ)有り、施基皇子生めり」とあり、この施基皇子が、志貴皇子のことだとされている(08年10月3日の項)。
施基・芝基・志紀などとも記される。天武天皇の皇子に、同じ音の磯城皇子がいるが、通説では、同名別人とされている。
磯城皇子の母親は宍人臣大麻呂の娘で、刑部皇子の同母弟とされる。

朱鳥元(686)年、他の皇子たちと一緒に、芝基皇子、磯城皇子が200戸を贈与されている。
芝基皇子は天智の皇子、磯城皇子は天武の皇子である。
しかし、『万葉集』と『続日本紀』では、志貴皇子という表記があるだけで、施(芝)基皇子という表記も磯城皇子という表記もない。
シキ皇子は、志貴皇子1人であり、『続日本紀』には霊亀2(716)年に没したとある。
磯城皇子の方は、没年の記載が『日本書紀』にも『続日本紀』にもない。

小林惠子氏は、『本当は怖ろしい万葉集 2 西域から来た皇女』祥伝社(0511)において、志貴皇子と表記されているのは、天智天皇の皇子の施基皇子ではなく、天武天皇の皇子の磯城皇子であると推定している(p166)。
その根拠として挙げているのが、志貴皇子の次の代表歌である。

  志貴皇子の懽の御歌一首
石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも  (8-1418)

小林氏は、志貴皇子のよろこんだ「春」を、五行説の「春」として、それは天武朝の季節とする(08年10月19日の項)。
志貴皇子が「春」の到来をよろんでいるのは、秋の天智系ではないことの証拠だというわけである。
この歌は、文武朝が成立したときに、同母兄の刑部皇子とともに、大和朝廷で日の目をみることができたのをよろこんだ、というのである。

『日本書紀』が、志貴皇子を天智天皇の子としている理由を、小林氏は次のように説明する。
『日本書紀』は、平安時代初期の弘仁時代(810~824)を中心に、何度か手直しされている。
この間に、『続日本紀』との整合性を図るために、天智天皇の皇子にも架空のシキ皇子がいたように書き直された。
そして、消去するはずだった実在した磯城皇子が、消去されないで記録に残ってしまった。
小林氏は、実在したのは、天武天皇の皇子の磯城皇子だけであり、それが志貴皇子なのだ、とする。

唐国は、天智系を是とし、天武系は非として、日本国王として認知しなかった。
光仁天皇の父の志貴皇子を天智天皇の子として、唐国を騙したのだというわけである。
そして、そもそも天武天皇は4人の天智天皇の娘を後室に入れているのだから、数代経れば、血統的にどちらとも言い難い人が何人も生まれ、大和朝廷としても、天智系・天武系ということにそれほど拘らなくなっていたのではないか、とする。

また、天智系は、高市皇子の子の長屋王を除くと、持統朝に没した川嶋皇子で絶えている、というのが小林氏の見方である。
小林説では、「壬申の乱」の後天武朝が成立し、大津朝を経て、持統朝になるが、その持統天皇として即位したのは天智天皇の子の高市皇子だった(
08年10月16日の項)。
持統朝が終わった時点で、大和朝廷には天武系皇子以外にはほとんど皇位候補者がいなくなっていたのであり、晩年の天武天皇の懐刀だったと小林氏が推測している藤原不比等も頭角を現していて、長屋王の一族が滅亡した時点で、天智系天皇の成立はあり得なかった、ということである。

桓武天皇は、光仁天皇の子だというのが『続日本紀』の記載であるが、桓武天皇の諡にある「武」は、神武・天武・文武・聖武と続く天武系の諡である。
『続日本紀』は桓武天皇の時代に、『万葉集』は平安時代初期に編纂し直されている。
『万葉集』に、天武系皇子を推測させる志貴皇子の歌を載せて、その出自を暗示した、と小林氏は説明する。
直ちに納得できるという訳ではないが、古代史に対する1つの見方であり、さらに逍遙を続けてみようと思う。

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2008年10月19日 (日)

弓削皇子を殺した「山の猟師」とは?

志貴皇子の“むささび”の歌のムササビが、小林惠子氏(08年10月17日の項)や梅原猛氏(08年10月1日の項)のいうように、弓削皇子を指しているとしたら、「山の猟師」とは誰を指しているのだろうか?

  志貴皇子の御歌一首
むささびは木末求むとあしひきの山の猟師にあひにけるかも  (3-267)

弓削皇子は、持統天皇の考えていた軽皇子(文武天皇)の立太子に反対し、軽皇子の妃とも想定される紀皇女と通じていたともされる。
とすれば、第一にムササビの命を奪う理由があるのは文武天皇であろう。
弓削皇子が没したのは、文武3(699)年7月とされているが、小林氏は、公表されたのが7月で。実際に没したのはそれ以前だっただろう、とする(『
本当は怖ろしい万葉集 2 西域から来た皇女』祥伝社(0511)p162)。
小林氏は、文武天皇は間接的に関与はしているだろうが、直接関わった犯人は別にいる。それは「山の猟師」という言葉に暗示されている、という。

『万葉集』に忍壁(刑部)皇子を詠んだ歌がある。

  忍壁皇子に獻る歌一首 仙人の形を詠む
とこしへに夏冬行けや裘(カハゴロモ)扇放たず山に住む人  (9-1682)2

「永遠に夏と冬しかないと思っているのだろうか、冬に着る皮の衣と夏に使う扇を手放さない山に隠棲している人」というような意味だろう。
つまり、刑部皇子は、そういう変人だ、ということであるが、それは表面上の意味で、「夏」と「冬」には隠された意味があるのだと小林氏は説く(上掲書p114)。
それは五行思想によるもので、天武天皇は「春・東」の人で、次に来るのは「夏・南」である。
小林氏の示す「暗号としての五行」説は、左の通りである。

小林氏は、天武朝の次に大津朝があった、という説である(
08年10月16日の項)。
つまり大津皇子は、「赤・夏・南」であり、朱雀という年号は大津朝のものだったことが窺える、という。

また、天智天皇は、「秋・白・西」の人だから、次に来るのは「冬・北」である。
大津皇子は、父方から春に続く夏、母方から秋に続く冬を受け継いでおり、夏・冬兼ね備えていた。
刑部皇子が、冬と夏に固執したということは、大津朝に固執したということで、刑部皇子は、大津皇子に忠誠を尽くした。
そして、大津の次の持統朝(小林氏は即位したのは高市皇子とする(
08年10月16日の項))では、刑部皇子は世に出ようとしなかった、というのが上記の歌の意味だということになる。

刑部皇子は、持統(高市)朝では世に出なかったが、文武朝の大宝3(703)年に、知太政官事に任じられている。
知太政官事は、この時に初めて設立された官職で、刑部皇子、穂積親王、舎人親王と皇族に引き継がれていく。
左右大臣に匹敵する官職とされるが、左右大臣より先に名前が出てくる。
天平の鈴鹿王の時から、左大臣の後となり、権威が低下したことが窺われるが、鈴鹿王が没した(天平17(745)年)を機会に廃止された。

小林氏は、知太政官事は、天皇に代わって国民を統治、管理する役職で、現代でいえば首相に相当するものだが、外交には余り関わらず、刑罰を決定する法務的な仕事が主だった、とする。
刑部皇子が知太政官事という重要な役職に任じられたのは大宝3年であるが、文武朝になってすぐに文武天皇に引き立てられたのではないか。
そして、刑部皇子が最初にしたことは、弓削皇子を密かに殺害することだったのではないか、というのが小林氏の推測である。

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2008年10月18日 (土)

弓削皇子に獻(タテマツ)る歌

弓削皇子は、文武3(699)年に没している(08年9月23日の項)。
文武天皇が即位して、間もない時期ということになる。
小林惠子氏は、文武即位の時点で、弓削皇子の死は衆人の予知するところだったのではないか、とする。 

『万葉集』に、弓削皇子に獻(タテマツ)る歌三首という題詞の歌がある。

さ夜中と夜は深けぬらし雁が音の聞ゆる空に月渡る見ゆ  (9-1701)

妹があたり茂き雁が音夕霧に来鳴きて過ぎぬ為方(スベ)なきまでに  (9-1702)

雲隠り雁鳴く時は秋山の黄葉片待つ時は過ぐれど  (9-1703)

これらの歌は風景を詠んだ歌のように見えるが、「弓削皇子に献る歌」とある以上、「政治的意味が込められていることは疑う余地はない」と小林氏は断言する。
雁は、渡り鳥で日本では子育てをしない外来者であり、外国勢力を指す。ここでは、唐国を暗示している。

1701番歌が、「真夜中に雁が鳴く空に月がある」というのは、「雁(唐国)は、月で表意される天智系天皇を支持する」という意味になる。
弓削皇子は、父は天武であるが、母方は天智系なので、唐国の許容範囲にある。

1702番歌は、恋人のあたりで雁が盛んに鳴いているというのは、唐国の意向は弓削皇子即位にあるという意味だという。
1703番歌も、雁=唐国が、大和朝廷を動かして秋山の天智朝時代すなわち弓削皇子の即位を、時が経ても待っている、ということである。

しかし、結果的に、文武天皇が即位し、時を経ずして弓削皇子は没した。
難解とされる「弓削皇子に献る歌」がある。

  弓削皇子に獻る歌一首
御食(ミケ)向ふ南淵山の巌には落りしはだれか消え残りたる
御食向南淵山之巌者落波太列可削遺有
  右のものは柿本朝臣人麿の歌集に出づ。

「御食向かう」は天皇に対する用語で、「南淵山の巌」は天皇位を指す。
「消え残り」の万葉仮名の「削遺有」は、「削」の字によって「はだれ」が弓削皇子を暗示し、その「はだれ」は淡雪ですぐ消える。
つまり、弓削皇子の野望は、淡雪のように、少しの痕跡を残して消えてしまう運命だった、というのが小林氏の解釈である。

  雲を詠む
痛足(アナシ)川川波立ちぬ巻目(マキモク)の由槻(ユツキ)が嶽に雲居立てるらし  (7-1087)

あしひきの山川の瀬の響(ナ)るなべに弓月(ユツキ)が嶽に雲立ち渡る  (7-1088)

小林氏は、「柿本朝臣人麿の歌集に出づ」の中にあるこの2首を、弓削皇子を詠んだ歌であるとする。
それは、由槻と弓月が詠み込まれていて、由槻と弓月は、弓削をかけたものではないか、ということである。

つまり、1087番歌は、「川波立ちぬ」の表現で、不穏な事態の発生を意味しており、真の意味は、「不穏な事態が起きた。弓削皇子は殺されたらしい」ということである(『本当は怖ろしい万葉集 2 西域から来た皇女』祥伝社(0511)p160~)。
また、1088番歌は、「瀬音が高い」で紛争を意味し、その中で「雲が立って」弓削皇子は没したという意味になるという。
小林氏は、人麻呂が、弓削皇子に対して同情を込めた歌を詠んだことが、文武天皇の意に反し、人麻呂追放の理由になったのではないか、と推測する。

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2008年10月17日 (金)

小林惠子氏の弓削皇子論

梅原猛氏が、高松塚古墳の被葬者に比定する弓削皇子(08年10月2日の項)について、小林惠子氏はどう理解しているだろうか?
弓削皇子は、『万葉集』に、「紀皇女を思ふ御歌四首」を遺していることから、天武天皇の皇女の1人である紀皇女に恋していたであろうことについては既に触れた(08年9月25日の項)。

弓削皇子と同母兄の長皇子は、持統7(693)年に、浄広弐という位を授けられている。
浄広壱が高市皇子で、その次に位置づけられており、持統朝において、兄弟は破格の厚遇を受けていた。
それは、父が天武、母が天智天皇の娘・大江皇女という貴種性によることが大きな要因だったのだろう。
弓削皇子の歌について、小林氏は次のように解説している(『本当は怖ろしい万葉集』祥伝社(0310)p109~)

夕さらば潮満ち来なむ住吉の浅鹿の浦に玉藻刈りてな  (2-121)
暮去者塩満来奈武住吉乃朝鹿乃浦尓玉藻刈手名

「玉藻刈る」あるいは「草を刈る」と表現は、小林氏によれば、藻あるいは草を体毛にたとえて、共寝するという意味の間接表現である。

大船の泊つる泊りのたゆたひに物思ひ痩せぬ人の児ゆえに  (2-122)
大船之泊流登麻里能絶多日二物念痩奴人能子尓

李寧熙氏の吏読による解釈は以下のようである。
「大船之」は、「オポペジ」と読んで、「駄目になった」。
「泊流登麻里能」は、「バクドゥマンリヌン」と読んで、「刺せといっておきながら止める」。
「絶多日二」は、「ダダビニ」と読んで、「歯がゆい奴なので」。
→「やれやれとけしかけておきながら、止めろといっているもどかしい(歯がゆい)奴だ」

持統10(696)年の御前会議において、弓削皇子は、軽皇子(文武天皇)の即位に反対する勢力を代弁して、即位反対の発言をしようとした。
小林氏は、軽皇子が即位してから、弓削皇子は吉野に幽閉されたのではないか、とする。
吉野における弓削皇子と額田王の相聞歌について、小林氏はどう見ているか?

  吉野の宮に幸(イデマ)しし時、弓削皇子、額田王に贈与(オク)る歌一首
古に恋ふる鳥かもゆづるはの 御井の上より鳴き渡り行く  (2-111)

  額田王、和へ奉る歌一首 大和の都より奉り入る
古に恋ふらむ鳥はほととぎす けだしや鳴きし我が恋ふるごと  (2-112)

先ず、「表」の意味を次のように解説する。
ホトトギスは天武天皇を暗示する鳥である。ホトトギスは、託卵する鳥だから、実の親を知らない。
小林氏は、『日本書紀』に天智天皇の同父同母の弟とある天武天皇の親は誰だか分からない、とする。
ホトトギスの口の中は赤い色をしているが、漢の国の色が赤であり、漢の高祖を指向する天武に相応しい。
つまり、弓削皇子と額田王が共に天武天皇を偲んだ歌である。
梅原猛氏の解釈(08年9月24日の項)とほぼ同じである

そして、李寧熙氏の朝鮮語による解読(08年8月22日の項23日の項)を参照しつつ、李氏が、鸕野皇女と文武天皇にからめて理解しているのに対し、小林氏は、額田王が弓削皇子に対して忠告した歌だとしている。
つまり、弓削皇子が文武天皇や鸕野皇女等と争っても負けるでしょう、そして、紀皇女と関係することは止めなさい、という忠告だとする。

紀皇女が誰の妃であったか?
小林氏は、記録は残されていないが、『万葉集』巻3の譬喩歌の筆頭にある紀皇女の歌から想像できる、とする。

  紀皇女の御歌一首
軽の池の汭廻(ウラミ)行き廻(ミ)る鴨すらに玉藻のうへに獨り宿(ネ)なくに  (3-390)

譬喩歌は、人を物事に譬える歌で、鴨は紀皇女自身であり、軽の池の軽は軽皇子をさしている。
つまり、紀皇女は、文武天皇の軽皇子時代の妃だっただろう、というのが小林氏の推測で、この部分でも梅原猛氏の見解(08年9月29日の項)と一致している。
弓削皇子が軽皇子の即位を阻止しようとしたのは、紀皇女への私的な思いもあったのだろう、というのが小林氏の指摘である。

紀皇女の没年は、『続日本紀』に記されていない。
皇子、皇女の没年が必ず記されていることにおける例外である。
小林氏は、文武3(699)年正月条の「浄広三坂合部女王卒す」とあるのを、坂合部女王なる人物がこの時代には存在しないので、紀皇女の変名であろう、とする。
「卒す」とあるのは、文武天皇が皇女の身分を剥奪し、庶民として葬られたからで、それは弓削皇子との不倫によって、処刑されたものであろう。
また、同じ年の7月、弓削皇子も没しているが、小林氏は偶然ではないだろうとする。
梅原猛氏の処刑説(08年10月1日の項)と同じとしていいだろう。

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2008年10月16日 (木)

小林惠子氏による『万葉集』の解読

小林惠子(ヤスコ)氏の独特の古代史観からみると、『万葉集』はどのような書になるだろうか?
小林氏は、『万葉集』は、「正史に留めるわけにはいかない隠された史実を強く反映させた歌集」と位置づけている。
この時代に対する小林氏の基本的な視点は次のようなものであった(08年7月10日の項)。

①奈良時代の日本は、中国を中心とした東アジアの政治的な動きと密接に連動していた。
②『続日本紀』は『日本書紀』におとらず、讖緯説的表現で重大な事実を暗示している場合が多い。

小林氏による『万葉集』の解読は、『本当は怖ろしい万葉集』祥伝社(0310)、『本当は怖ろしい万葉集 2 西域から来た皇女』祥伝社(0511)、『本当は怖ろしい万葉集 完結編 大伴家持の暗号―編纂者が告発する大和朝廷の真相』祥伝社(0611)の3冊セットに示されている。
小林氏の認識の枠組みは通説と大きく異なっているが、「完結編」に、小林氏の認識の枠組みが、以下のように箇条書き的に整理されている。

■六六一年に始まる「白村江の戦い」で半島出兵した中大兄皇子(後の天智天皇)は百済の亡命王子であり、大海人皇子(後の天武天皇)は高句麗の将軍であった。戦いに敗れた両者は倭国内で対立し、以後、天智系皇子と天武系皇子の対立が続く。

■新羅の文武王(後の文武天皇)は大海人の子で、終生唐国に抵抗した父と共闘して反唐国の態度を終生、堅持した。したがって唐国は天武系皇子の倭王(天皇)即位を認めようとしない。この唐国の姿勢は、奈良時代に引き継がれた。

■「壬申の乱」で天武朝が成立し、大津朝を経てやがて持統朝の成立をみるが、持統天皇として即位したのは天智天皇の子、高市皇子である。

■平城京遷都後の七一五年、藤原不比等に支えられた女帝・元明から、同じく女帝の元正へ譲位があった。その前後、天武皇子の穂積親王、志貴皇子が暗殺される。首謀者は高市皇子の子で元正側の長屋王である。

■しかし元正は天武系=草壁皇子の娘であるから唐国は認知せず、ついに長屋王は、文武天皇(新羅文武王)の子であり新羅聖徳王の異母弟・聖武の即位に踏み切る。この聖武の母は天智系の元明である。

■不比等の死後、長屋王と対立するようになった藤原一族は、ひそかに渤海から文武王の別の子を連れ帰り、即位していた聖武とすり替えた。ここから大和朝廷は天武系聖武の時代になった。それはすなわち唐国と大和朝廷との対立を決定的にした。

李寧熙氏の朝鮮語による『万葉集』の解読については、08年8月10日の項8月22日の項8月25日の項9月2日の項、等で触れたが、小林氏も、朝鮮語による裏読み(吏読)が有効であるとする。
東アジア史を一体的に捉える小林氏の立場からすれば当然ともいえよう。
吏読について、WIKIPEDIAの解説(08年8月2日最終更新)は、以下の通りである。

吏読(りとう、이두、朝鮮民主主義共和国では리두)とは、漢字による朝鮮語の表記方法の1つである。「吏書」、「吏道」、「吏刀」、「吏吐」などとも呼ばれる。三国時代に始まり、19世紀末まで用いられた。古代朝鮮語の資料の1つに数えられる。

小林氏は、万葉仮名を吏読できるのは、来日一世から二世までであり、一世は中大兄皇子、柿本人麻呂、高市智皇子などであり、二世でそれができたのは、山上憶良、大津皇子、弓削皇子などである、としている。
また、身近に朝鮮渡来の人がいて、才能があれば歌の二重読みは可能だろうとする(『本当は怖ろしい万葉集』p59)。

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2008年10月15日 (水)

光仁天皇即位と『万葉集』

志貴皇子の薨年は、霊亀元年(『万葉集』)か、霊亀2年(『続日本紀』)か?
『万葉集』によって霊亀元(715)年とし、その生誕を斉明6(660)年とすれば、55歳での没ということになる。
この年(霊亀元年)、長皇子と穂積皇子も亡くなっている。
また、元明譲位、元正即位の年でもあった。
そこに、皇子たちの謀殺の匂いを感じ取ることもできる(08年10月9日の項)。

この年、志貴皇子の子の白壁王は7歳だった。
霊亀-養老-神亀-天平-天平感宝-天平勝宝-天平宝字-天平神護-神護景雲と時代は移り、神護景雲4(770)年8月4日、称徳天皇が崩御して白壁王が立体子し、10月1日に即位して光仁天皇となった。
この時、62歳という高齢であった。

志貴皇子の死から約半世紀が過ぎている。
天智の崩御からはおおよそ1世紀である。
光仁天皇の朝廷には、どのような万葉歌人が残っていたか?
大浜巌比古氏『万葉幻視考』集英社(7810)には、次のような名前が挙がっている。

文室智努(智努王)(693~770)
藤原永手(714~771)
大伴駿河麿(?~776)
河内女王・石上宅嗣(729~781)
大中臣清麻呂(702~788)
大伴家持(718?~785)
市原王(?~?)(光仁天皇は、市原王<志貴皇子の曾孫>の妃能登内親王の父)

光仁天皇(白壁王)の生きた時代は、皇位継承をめぐる陰謀と術策の渦巻く時代だった。
その争いから逃れるべく、白壁王は酒に韜晦したとされる。
白壁王も、父・志貴皇子倣って、“むささび”となることを避けたのである。

光仁天皇の即位の頃の藤原氏は、どのような状況だったか?
2南家の仲麻呂(恵美押勝)が、天平宝字8(764)年に謀反を起こすが斬殺される。
代わって、北家は、房前の子の永手が左大臣になり、真盾(八束)、魚名が健在だった。
式家は、宇合の子の良継、百川、南家は豊成の子の縄麻呂、継縄が台頭してきていた。
このような藤原家の勢威の中での光仁即位であった。

『万葉集』の最後の歌を家持が詠んだ天平勝宝3(751)年からも約20年が過ぎている。

  三年春正月一日、因幡国庁にして、饗を国郡の司等に賜ふ宴の歌一首
新しき年の始の初春の今日降る雪の いや重(シ)け 吉事(ヨゴト) (20-4516)

家持の待望久しい願いが達成されたとみるべきか?
大浜氏は、「家持には一貫して、まだ歌のもつ『ことだま』を信じ、歌の呪力のまだ失われていないことを信じようとする姿勢があった」とする。
『万葉集』の編者・家持は、父・旅人がいさぎよくすて去った古代鎮魂の世界を信じ、それにすがろうとした、と大浜氏は説く。

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2008年10月14日 (火)

“ほととぎす”と皇位回復の願い

「待つ人」である志貴皇子は、果たして何を待っていたのか?
「待ち遠しさ」を詠んではいても、その対象が何であるかは、シークレットであった。

神奈備の磐瀬の杜のほととぎす毛無の岡にいつか来鳴かむ  (8-1466)
神奈備の磐瀬の森のほととぎすよ、お前は毛無の岡にいつ来て鳴くのだろうか。

この歌は、まさに「待つ人」の歌である。
しかし、この“ほととぎす”は、初夏の風物詩としてあると見ることはできない。
“ほととぎす”について、WIKIPEDIA(08年10月5日最終更新)を見てみよう。

ホトトギス(杜鵑、学名 Cuculus poliocephalus)は、カッコウ目・カッコウ科に分類される鳥類の一種。特徴的な鳴き声とウグイスなどに托卵する習性で知られている。(「ホトトギス目ホトトギス科」と書かれることもあるが、カッコウ目カッコウ科と同じものである。)
日本では古来から様々な文書に登場し、杜鵑、時鳥、子規、不如帰、杜宇、蜀魂、田鵑など、漢字
表記や異名が多い。
中略
ホトトギスに関する伝説・迷信は、漢文の古典に由来するものが多い。
ホトトギスの異称のうち「杜宇」「蜀魂」「不如帰」は、中国の伝説にもとづく。古代の蜀国の帝王だった杜宇は、ある事情で故郷を離れたが、さまよううちにその魂が変化してホトトギスになった。そのため、ホトトギスは今も「不如帰(帰るにしかず)」と鳴いている、という。

“ほととぎす”の異称の「蜀魂」について、大浜氏は、「蜀の望帝の魂魄が化してこの鳥になったという海彼の伝説にもとづく。望帝は位を譲った後で、再び帝位に帰ろうと思ったが、果し得ずして死んでしまった。その果し得ぬ恨が残って鳥と化し、昼夜を分かたず悲しく鳴いた」と説明している。

弓削皇子と額田王の相聞歌も“ほととぎす”を詠んでいる(08年9月24日の項)。

吉野の宮に幸(イデマ)しし時、弓削皇子、額田王に贈与(オク)る歌一首
古に恋ふる鳥かもゆづるはの 御井の上より鳴き渡り行く

額田王、和へ奉る歌一首 大和の都より奉り入る
古に恋ふらむ鳥はほととぎす けだしや鳴きし我が恋ふるごと

「古に恋ふる鳥」は、中国の伝説を踏まえたもので、弓削皇子や志貴皇子にとって、“ほととぎす”が蜀魂の鳥であることは共通認識だったと考えられる。
初夏の風物詩としては凡作に思えるこの歌も、蜀魂の歌としてみれば、自ずから異なった意味合いを示すことになる。
蜀魂の知識を有する天智唯一の遺皇子が詠んだ“ほととぎす”である。

かくして、志貴皇子は、みずからの「待つ」対象を明らかにした。
“ほととぎす”が磐瀬の森から毛無の岡へかえってくるのを待つように、天智や大友が喪ったものが、自分の血統の中へかえってくるのを、細竹のような柔撓性で待ったのであった。

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2008年10月13日 (月)

志貴皇子の歌の二重性

「明日香風」が二重の意味を持っていたように、志貴皇子の他の歌にも、二重性が見られるというのが、大浜巌比古氏の『万葉幻視考』集英社(7810)における指摘である。

葦辺行く鴨の羽がひに霜振りて寒き夕へは大和し思ほゆ  (1-64)

「葦辺行く鴨」は、春を待たなければ飛び立てない。つまり「春待つ鳥」であるが、今は、羽がひに霜降る寒い現実の中にいる。
しかも、夕べというのは不安な気持ちにさせる時点である。
それは、「霜降る寒い夕べ」のような環境にいる志貴皇子の姿でもある。

「大和し思ほゆ」は、遥かに隔たったものに思いを馳せる感懐を示しているが、もちろん、それは大和という土地のことだけではない。
葦辺でひっそりと春を待ちながら、遥かに今は手が届かないモノを望んでいるのだ。
大浜氏は、志貴皇子の子の湯原王の次の歌を、この志貴皇子の歌と呼応するものだとする。

吉野なる夏実の川の川淀に鴨そ鳴くなる山影にして  (3-375)

鴨の声に聞き入る湯原王は、父の歌を理解しようとしている。
「明日香風」が采女の袖を吹きかへすのを見て、志貴皇子が母を偲んだの同じように、鴨の鳴き声を聞いて、湯原王は、父を偲んでいるのだろう。
巻は異なるものの、そこに志貴皇子とその裔のストーリーをみることができる。

むささびは木末求むとあしひきの山の猟夫にあひにけるかも  (3-267)

上記のように見てくると、“むささび”が単に動物のムササビを意味しているのではないことは明らかである。
ムササビは、夜行性で、滑空はできても自ら飛翔することはかなわない小動物である。
大友皇子や大津皇子などの宿命を眺めつつ、自らの位置を見つめて自戒する志貴皇子がいる、と理解すべきだろう。
幹を叩きながら、動き出すのをじっと待っている猟師。
動き出した途端に、叛意あり、あるいは左道を行うとして、狙い撃ちする。

この歌の次には、長屋王の歌が置かれている(08年10月3日の項)。
大浜氏は、「この歌が先にあったにもかかわらず、またしても『むささび』となってしまった人よ、という編者嘆きを私はこの配列に見る」と書く。
沢瀉久孝氏のような代表的な万葉学者ですら、「捕らえられたむささびを見ての作として、そのまゝ理解ができ」「寓意を考へるに及ばないであらう」としている(08年10月3日の項)のは、志貴皇子の韜晦が成功していることの証明でもあるわけである。

大原のこの市柴の何時しかと吾が思ふ妹に今夜逢へるかも  (4-513)

この歌についても、市柴は、誉め言葉のイツが転じたものとして、「美しく茂った小さな雑木」とする解釈を排して、文字通り「市の柴」、すなわち「市井の名もなき雑木」と解するべきだとする。
「古りにし里の大原に身を置く雑木にも似たこの身にも待ちに待てば今夜のようなことがあり得るのか!」というのが大浜氏の解釈である。

そして、この歌について、自らが「待つ人」であることを顕しながら、その待つものを「吾が念ふ妹」と韜晦する賢者の歌だとする。

石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも  (8-1418)

この歌が実地の写生なのか否か、土屋文明と島木赤彦の対立的な見解があるのも(08年10月11日の項)、志貴皇子の歌の持つ二重性によるものである。
さらに大浜氏は、「わらび」が、多年生草本であることに注意を喚起する。
しかも、「石走る垂水の上」の「わらび」ある。
さらにさらに、「石走る」が近江の枕詞でもある。
これらを踏まえた大浜氏の深読みは以下の通りである。

「近江朝」の系統の流れ、それは今やただ一条の垂水のみだ。その一条の垂水のほとりに多年忍んで根を張るわらびのわが身--わが一族、そこに春が来た。これはよほどのことがあったことを思わせるが、しかし、それを一見、春の到来をよろこぶ完全な自然詠にうたい了せたところに、この人の「賢者の歌」がある。

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2008年10月12日 (日)

「待つ人」志貴皇子の韜晦

大浜巌比古氏は、『万葉幻視考』集英社(7810)において、志貴皇子の歌の文体の特徴から、「待ち遠しさ」を導出した森本治吉氏の論考をもとに、志貴皇子は、「待つ人」であった、とする。
その「待つ人」の心が「待ち遠しさ」を歌ったというわけである。

しかし、大浜氏は言う。「志貴がなにかを『待つ人』であることほど、志貴にとって危険なことはなかった」。
だから、当時においても、誰にでも理解できるような歌にすることはできなかった。
真に、志貴皇子を理解する人々だけが理解できるものでなければならなかった。
志貴皇子は、天智天皇の皇子の1人である。

天智天皇の系図を見てみよう(上掲書)。
Photo天智天皇の皇子は、4人いた。
最初の子の建皇子は、蘇我山田石川麻呂の娘の遠智娘の生んだ皇子であるが、障害を持っていたとされ、斉明4(658)年に8歳で夭折した(08年10月3日の項)。

長兄の大友皇子は、太政大臣として天智天皇の政務を補佐したが、壬申の乱において大海人皇子に敗れ、死を余儀なくされた。
次兄の川島皇子は、持統5(691)年9月に薨じた。
つまり、志貴皇子は、天智天皇の最後の遺皇子としてその生を全うしたことになる。
それ自体が、草壁の直系の皇統を確立しようとする持統・藤原不比等の体制の中では、きわめて危険な要素だった。

大浜氏は、志貴皇子は、「そういう環境と地位の中で、一つの秘しかくした願いを持ち続けた」とする。
それは待ち遠しいものではあっても、目立ってはならず、なおかつ断念し、沈黙すべきものでもなかった。
「待つ人」は他からは「待たれる人」であり、その人たちに対しては、自分の心情を訴えることも必要だったのだ。
志貴皇子の歌は、その人たちだけへの訴えであった。

「決してあらわになることのないひそやかにして絶えざる願い」
そして「それを彼の知己には心に沁みて理解させ、彼を警戒する人々にはゆめにもさとらせない」
この2の背反する命題。
それを1つの歌の中にどう具現化するか?

「待つ人」志貴皇子の姿は、彼の歌の中に存在している。

采女の袖吹きかへす明日香風京(ミヤコ)を遠みいたづらに吹く  (1-51)

ここで歌われている采女は、現実に見えている采女ではない。
大浜氏の言を借りれば、「幻視の中に袖をひるがえす采女である。ふと我にかえれば、そこには采女などはさらになく、いたずらに風のみ吹き、その風の中にひとり身をさらす己れを見いだすだけである。皇子の母は、父の名さえ記されていない宮女--采女であった。」

この時代、世相は変転極まりなく移り変わり、旧都に立てば、その移り変わりが感慨深い。
伊賀采女宅子娘という卑母の出であるが、皇太子になり、そのために命を絶たなければならなかった大友皇子。その大友を敗残させた天武、尊母の皇子であったが故に謀反の汚名によって倒された大津皇子、大津を倒してまで守った草壁皇子、保身のために親友の大津を裏切った川島皇子。

この歌は、そういう世相を背景にして成り立っている。
単に、旧都を懐旧するのではない。
明日香風は、現実の明日香を吹く風であると同時に、このような時代を吹き続けた風である。
「愛」と「力」の変転の歴史、その中のいたましい「死」を吹いた風である。
志貴皇子の肉親の愛憎にからみ、皇位継承の権力闘争の明日香風である。
「京を遠み」とは「皇位を遠み」であり、「いたづら」に吹くは、政争の空しさへの嗟嘆であり、自分にはかかわりなく吹く、の意である。

つまり、この歌は、現実の風景と志貴の心象風景の二重性を詠んだものである。
彼を警戒する人に対しては、旧都懐旧の歌であるが、彼を知る人にとっては彼の心情を察知させる歌であった。

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2008年10月11日 (土)

志貴皇子の歌の文体的特徴

たとえば、志貴皇子の代表歌の次の歌を見てみよう。

  志貴皇子の懽(ヨロコビ)の御歌一首
石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも  (8-1418)

確かにリズム感のいい、しかも難解と思われる語句もなく、イメージも爽やかで秀歌のように思う。
しかし、大浜巌比古氏の『
万葉幻視考』集英社(7810)には、歌誌「アララギ」昭和47年6月号に掲載されている、島木赤彦と土屋文明両大御所の対立的な2つの見解が引用されている。

土屋文明
現代人が考へるやうな写実的、実地写生的といふよりも、便化の加へられた、典型的なものであるから、之を玩賞するにあたつても、実際の滝水に臨んだ丘陵の側面などに、春のさきがけの蕨が萌えて居る、といふ如き形象を、伴はしめるに及ばないものである。そうした受け入れ方は、返つて作の感銘を安易軽率にしてしまふであらう。
(『万葉集私注』)

島木赤彦
垂水の上の早蕨は、一見何の奇なくして、実にいい所を見てゐるのであつて、恐らく作者の空想ではなく、実際そのほとりに立つて写生したのであらう
(『万葉集の鑑賞及び其批評』

写生と見るべきか、写生と見ることは間違いと考えるべきなのか?
大家というべき2人の解釈には大きな乖離があって、平明と思われた歌も奥が深く、志貴皇子に関しては、理解が難しいようだ。

この歌もそうであるが、大浜氏の上掲書は、志貴皇子の歌の特徴として、「形容詞句」的修飾語の存在に着目した森本治吉氏の論考を高く評価する。

「石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる」になりにけるかも
「石走る~出づる」は、「春」に係る修飾語である。

同じように、「……」は太字の名詞を修飾する語である。
「采女の袖吹きかへす」明日香風都を遠みいたづらに吹く
「葦べゆく鴨の羽交に霜降りて寒き」夕べは大和し思ほゆ
むささびは木末求むと「あしひきの山の」猟夫にあひにけるかも
「大原のこの市柴の何時しかと吾が思ふ」に今夜あへるかも
「神奈備の磐瀬の杜の」ほととぎす毛無の岡にいつか来鳴かむ

これらの修飾語は、単に名詞を修飾するだけの意義だけと理解することはできない。
「石走る~出づる」が、「春」を修飾す形容詞句だけであるとしたら、この歌は、「春になりにけるかも」が残るだけになてしまう。
つまり、修飾語の部分に、一定の独立的な価値があるということだ。
それは、敢えて修飾語の部分を切り離して考える必要がないことを意味しているが、このような形容詞句が用いられているところに、志貴皇子の歌の特徴があり、そこにメッセージがある。

長い修飾語の存在によって、息の切れる切断の箇所がなく、綿々として連続した感じを持たせる効果が生まれる。
それは、「非常に柔軟な細竹が、いくらでも曲るくせに折れることは決してないねばり強さを持つのと、共通した味のもので、しなしなした調子でありながら切れ目がない。--この無切断の柔撓性が、上記の長い修飾語と関係があると考へ得る。いや、前者が後者を生んだと考へ得る。」(森本治吉/大浜:上掲書より引用)

この語法は、読者には「待ち遠しさ」を覚えさせる。
特に、「葦べゆく」「石走る」の代表作とされる歌において、この特徴が顕著であることは、志貴皇子の「歌」の価値との関係を示すものであると同時に、志貴皇子の「人」との関係を示唆するものでもある、と大浜氏は説く。

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2008年10月10日 (金)

志貴皇子の死と挽歌

志貴皇子と倶に宴した長皇子の歌は、以下の通りである。

  長皇子、志貴皇子と佐紀宮にして倶に宴せる歌
秋さらば今も見るごと妻ごひに鹿鳴かむ山ぞ高野原の上  (1-84)  

この歌は、どう理解すべきか?
岩波書店版『日本古典文学大系4/萬葉集一』(5705)の頭注は、次のようである。

この歌、意味のとり方に色々ある。「今は秋ではないが鹿が鳴いている。秋になれば一層鳴くだろう」「今秋でなく、絵で鹿の鳴いているのを見ているが、秋になれば現実に…」「今見ているようなよい景色の高野原に、秋になったら…(今は秋でない)」「秋になったら今のようにまたいっしょに飲みましょうよ。秋になると…面白いところですよ。是非いらっしゃい」など。

小松崎文夫氏は、『皇子たちの鎮魂歌―万葉集の“虚”と“実”』新人物往来社(0403)において、上記の注を踏まえ、この歌を「秋ではない今、ひたすら『鹿の鳴く“秋”にこだわった』歌ということになる」としている。
そして、“「秋」へのこだわり”をキーワードではないか、とする。
さらに、その「秋」にもかかわる「鹿」に象徴される寓意が、返歌の志貴皇子の歌中に表現されていて、「それが万葉集の宿命的なネガティブな表現を越えるものがあったが故に、最終的に抹消されたのかもしれない」と書いている。

「万葉集の宿命的なネガティブな表現」というのは、正史と対立する事象をカモフラージュした表現ということだろう。
つまり、そのまま載せてしまうと、カモフラージュを逸脱してしまうということだろうか?

志貴皇子への挽歌をどう理解するか?

梓弓 手に取り持ちて ますらをの 得物矢手ばさみ 立ち向ふ 高圓山に 春野焼く…… 

「梓弓~立ち向ふ」は、高圓山を導く「序」とされる。
小松崎氏は、この部分は、通常の「序」を越えた、ことさらに重い意味が込められているのではないか、という。
つまり、「猟師に捕らわれ、木末に逃れた“むささび”の末路」との関連である。

「ますらお」は、猟師なのか、皇子なのか?
「猟師」ならば、“的”である“ムササビ”の誅殺ということになり、「皇子自身」と考えるならば、「得物(さつ)=幸(さち・さつ)に、最後の望みを託しつつも、自らは飛行能力を持たず、逃れるすべを断たれた“むささび”の、最後の矜持(悟りきったすがすがしさ)と捉えられなくもない、というのが小松崎氏の解釈である。

「高野原」は、皇子の宮のあった辺りの高野(高原)とされるが、高圓山を示すとも解釈できる。
志貴皇子には永久に訪れることのなかった秋。そして出会えることのなかった鹿と秋萩。

高圓の野辺の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人なしに  (2-231)

小松崎氏は、欠落している“倶に宴する”長皇子への志貴皇子の返歌は、編者が笠金村の名を借りて、挽歌(反歌)として巻2の巻末に記しているのだ、とする。

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2008年10月 9日 (木)

霊亀元年の謀殺?

小松崎文夫『皇子たちの鎮魂歌―万葉集の“虚”と“実”』新人物往来社(0403)は、巻1の巻末で、「倶に宴した」とある長皇子と志貴皇子は、『万葉集』において、しばしばセットで登場していて、そこに『万葉集』編者の「ある意志」を感じとる、としている。
長皇子は、天武天皇の皇子の1人であり、弓削皇子と同じ生母(大江皇女)の兄で、穂積皇子とほぼ同年の異母兄弟であるとされる。

小松崎氏は、長皇子と志貴皇子は、同じ年に(あるいは一緒に)薨去している、とする。
志貴皇子は、薨年が、『続日本紀』と『万葉集』で食い違っている(08年10月3日の項)。
つまり、『続日本紀』では霊亀2年8月薨とあるのに対し、『万葉集』では霊亀元年9月薨となっている。
その「謎」について、小松崎氏は、次のように推測する。

志貴皇子の薨去が、『万葉集』のとおりだとすると、霊亀元年(七一五)年はこのような史実が記されることになる。
 ◆六月甲寅(二日)    長皇子薨去
 ◆七月丙午(二十七日) 穂積皇子薨去
 ◆九月           志貴皇子薨去
   (私(注:小松崎氏)は、あるいは長皇子と同時、もしくは、異伝などから八月十日前後と考えている)
 ◇九月庚辰(二日)    元明女帝譲位(元正女帝即位)

このような史実をどう解釈するか?
小松崎氏の解釈は、以下のようである。

不比等(元明)体制が進行する中で、後述するような世相の深刻さは極限に達する。叙位、封戸と、勅や弾圧など、アメとムチの政策にも限度があり、さらに、数年前の文武帝から引きずってきていた皇位継承の問題が「元正擁立」問題を機に、ついに、皇親派の反発として現実のものとなった。
しかし、結局は、“猟師”の策の前に粛正されたのが、三人の皇子たちではなかったのか。
相次ぐ三皇子の死--。その場合、穂積皇子の死にさしたる疑問は生じまい。しかし、長皇子さらには志貴皇子と相次ぐ薨去記録が並ぶなら、必ずや、そこに謀殺の臭いを嗅ぎ取る者は現れる。
志貴皇子の志を辛うじて一年遅れにしてカモフラージュしたのではなかったか。そして、不可解な理由づけとともに、とりあえずの反発の矛を収めるべく、元正即位が実現したものではなかったのか。

宮処(平城京)造営による酷税と労役が、民を疲弊させた。そして、気象異常などにより、飢饉的な状況が生まれ、疫病も発生していた。
この頃、状況はきわめて危機的なものとなっていた。

このような状況の中での、元明譲位・元正即位である。
一般的には、「政治への心労に加えて相次ぐ皇子たちの薨去が引き金になった退位」と理解される。
しかし、小松崎氏は、「この“霊亀元年の皇子たちの謀殺”--その隠蔽工作のための元明女帝退位(元正即位)であった」と透視する。

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2008年10月 8日 (水)

『万葉集』巻1・巻2の構成

巻1・巻2について、小松崎文夫『皇子たちの鎮魂歌―万葉集の“虚”と“実”』新人物往来社(0403)では、「《古撰万葉》とか言われるもので、編纂の意図やその時期など、種々の面で特殊な巻と見られている。」とし、その特殊性として、次のような性格を挙げている。

①巻1・巻2は、「巻1……雑歌、巻2……相聞・挽歌」と分割された一対であること。

②両巻は、とりわけ、天武・持統の皇統を祝福礼賛する“天皇家の歌集”であること。

③巻1は持統朝まで、巻2は藤原宮(持統・文武。元明)までなど、同じ《古撰万葉》でも、“原撰”と“後補”が考えられること。

④それぞれ、「泊瀬朝倉宮御宇天皇代」などのように、天皇の代ごとに分けられ、歌の配列もかなり年代順にこだわっていること。

④について、巻1の標目は、以下の通りである。
「雑歌」
泊瀬朝倉宮御宇天皇代(雄略朝)
高市岡本宮御宇天皇代(舒明朝)
明日香川原宮御宇天皇代(皇極朝)
後岡本宮御宇天皇代(斉明朝)
近江大津宮御宇天皇代(天智朝)
明日香清御原御宇天皇代(天武朝)
藤原宮御宇天皇代(持統・文武・元明朝)
寧楽宮(それ以降)

巻2については、次のようである。
「相聞」
難波高津宮御宇天皇代(仁徳朝)
近江大津宮御宇天皇代(天智朝)
明日香清御原御宇天皇代(天武朝)
藤原宮御宇天皇代(持統・文武・元明朝)

「挽歌」
後岡本宮御宇天皇代(斉明朝)
近江大津宮御宇天皇代(天智朝)
明日香清御原御宇天皇代(天武朝)
藤原宮御宇天皇代(持統・文武・元明朝)
寧楽宮(それ以降)

小松崎氏は、この標目自体が、巧妙な仕掛けなのだ、とする。
例えば、巻2の「藤原宮御宇天皇代(持統・文武・元明朝)」は、「相聞」と「挽歌」に両方出てくる。

   相聞
藤原宮に天の下知らしめしし高天原広野姫天皇の代

    天皇諡して持統天皇といふ、元年丁亥の十一年、位を軽太子に譲り、尊号を太上天皇といふそ
  大津皇子竊に伊勢神宮に下りて上り来ましし時、大伯皇女の作りませる御歌二首
わが背子を大和へ遣るとさ夜ふけて暁露にわが立ちぬれし  (2-105)
二人行けど行き過ぎがたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ  (2-106)
  大津皇子、石川郎女に贈れる御歌一首
あしひきの山のしづくに妹待つと吾立ちぬれぬ山のしづくに  (2-107)
吾を待つと君がぬれけむあしひきの山のしづくにならましものを  (2-108)
  大津皇子、竊に石川郎女に婚ひし時、津守連通、その事を占へ露はししかば、皇子の作りませる御歌一首
大船の津守の占に告らむとは正しに知りてわが二人宿し  (2-109)

   挽歌
 藤原宮に天の下しらしめしし天皇の代

    高天原広野姫天皇、天皇の元年丁亥、十一年位を軽太子に譲り、尊号を太上天皇といふ
  大津皇子薨ぜし後に、大泊皇女、伊勢の斎宮より京に上る時に作らす歌二首
神風の伊勢の国にもあらましをいかにか来けむ君もあらなくに  (2-163)
見まく欲りわがする君もあらなくにいかにか来けむ馬疲るるに  (2-164)
  大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時に、大泊皇女の哀しび傷みて作らす歌二首
うつそみの人なる吾や明日よりは二上山を兄弟とわが見む  (2-165)
磯の上に生ふるあしびを手折るらめど見すべき君がありといはなくに  (2-166)
  右の一首は、今案ふるに、移し葬る歌に似ず。けだし疑はくは、伊勢神宮より京に還る時に路の上に花を見て、感傷哀咽して、この歌を作りませるか。

巻2を読んできた読者は、高天原広野姫天皇に関する注記によって、「相聞」の藤原宮に天の下知らしめしし高天原広野姫天皇の代の標目を想起する。
そして、振り返って読めば、大津皇子に関連する歌は、ほとんど、この両箇所に集められ、「一堂に会している」ことになる。
そういう仕掛けが、標目にはある、というわけである。

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2008年10月 7日 (火)

『万葉集』における志貴皇子の位置づけをめぐる謎

志貴皇子は、秀歌の作者であると同時に、『万葉集』の研究者にとっては、大きな謎の人物になっているようだ。
それは、巻1の最後が、次のように終わっているからである。

 寧楽宮
  長皇子、志貴皇子と佐紀宮にして倶に宴せる歌
秋さらば今も見るごと妻ごひに鹿鳴かむ山ぞ高野原の上  (1-84)                 
   右の一首は長皇子

寧楽宮の標目は、この歌一首だけである。
つまり、倶に宴せる志貴皇子の歌は欠落している。
小松崎文夫『皇子たちの鎮魂歌―万葉集の“虚”と“実”』新人物往来社(0403)によれば、元暦本や紀州本などの「目録」には、志貴皇子の御歌が載っているが、歌そのものは脱落しているという。
小学館版『日本古典文学全集/万葉集』では、「古くは志貴皇子の歌もあったのであろう」ということである。

また、巻2の巻末は次のようになっている。

 寧楽宮
  和銅四年歳次辛亥、河辺の宮人、姫島の松原に、嬢子の屍を見て悲嘆みて作れる歌二首
妹が名は千代に流れむ姫島の子松が末に蘿むすまでに  (2-228)
難波潟潮干なありそね沈みにし妹が光儀(スガタ)を見まく苦しも  (2-229)

  霊亀元年歳次乙卯秋九月、志貴親王の薨りましし時、作れる歌一首並に短歌
梓弓 手に取り持ちて ますらをの 得物矢(サツヤ)手ばさみ 立ち向ふ 高圓山に 春野焼く 野火と見るまで もゆる火を いかにと問へば 玉はこの道来る人の 泣く涙 霈霖(コサメ)に降りて 白栲(シロタヘ)の 衣ひづちて 立ち留り 吾に語らく 何しかも もとな唁(トブラ)ふ 聞けば 哭(ネ)のみし泣かゆ 語れば 心ぞ痛き 天皇の 神の御子の いでましの 手火(タビ)の光ぞ ここだ照りたる  (2-230)

  短歌二首
高圓の野辺の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人なしに  (2-231)
三笠山野辺行く道はこきだくも繁(シジ)に荒れたるか久にあらなくに  (2-232)
   右の歌は、笠朝臣金村の歌集に出でたり。

  或本の歌に曰く
高圓の野辺の秋萩な散りそね君が形見に見つつ偲はむ  (2-233)
三笠山野辺ゆ行く道こきだくも荒れにけるかも久にあらなくに  (2-234)

寧楽宮という標目自体が、~宮御宇天皇代という標目の一般型と異なっているし、あたかも志貴皇子のために設けられたかのような感じでもある。
巻1と巻2の巻末が、ともに志貴皇子に関連する歌であることは、編纂者の意図をどう理解すべきか?
それは、『万葉集』そのものの理解に深く係わることであり、多くの研究者の論議を招いてきた。

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2008年10月 6日 (月)

志貴皇子は、何をよろこんだのか?

志貴皇子の「懽(ヨロコビ)」の歌の、よろこびの対象は何であろうか?
もちろん、上村悦子氏の解説のように、一陽来復した早春のよろこびであると素直に解釈する説が有力のようである。
直木孝次郎『万葉集と古代史 (歴史文化ライブラリー) 』吉川弘文館(0006)には、気象学者・山本武生氏の『気候の語る日本の歴史』に依拠した山崎馨氏の、「七世紀後半の白鳳時代は冬の寒さが格別厳しい時期で、それだけに春を待つ心が深かったと考え、迎春の悦びを歌ったのであろう」という説を紹介している。

上村悦子『万葉集入門 』講談社学術文庫(8102)の解説は以下のようである。

上代においては文化の度もはなはだ低く、一般人民は自然から圧迫せられ、厳寒酷暑に脅威を感ずることが強く、心からきびしい夏、烈しい冬をおそれ厭うた。春はその圧迫から解放されるときであるので、春の訪れをどんなにか待ちこがれたことであろう。

しかし、直木氏は、上掲書において、山崎馨氏の見解に対して、「それも一案だが、いくら白鳳の冬が寒くても、春は毎年めぐってくる。またとくに志貴皇子に対してだけ寒かったわけではない。懽の歌の詠ずるのは、迎春以外にも志貴の心をよろこばせる何かがあったと考えるのが妥当であろう」としている。
私も、「ムササビの歌」の“むささび”が寓意であるならば、この韜晦の皇子の歌は、注意深く解釈する必要があると思う。

直木氏は、江戸時代の契沖にはじまる「摂津国豊島郡の垂水に封戸を賜ったことによるものか」という説を紹介している。
土屋文明氏も、「摂津の垂水に増封されたためという想像も不可能ではない」としているらしい。
封戸あるは封地だとする論拠は、『続日本紀』等に封戸の加増記事があるからである。

慶雲元(704)年
正月十一日 二品の長親王・舎人親王・穂積親王、三品の刑部親王の封戸を、それぞれ二百戸宛増加させた。三品の新田部親王・四品の志紀親王にはそれぞれ百戸宛を、右大臣・従二位の石上朝臣麻呂には二千百七十戸を、大納言・従二位の藤原朝臣不比等には八百戸を、その他の三位以下、五位以上の十四人には、それぞれ差はあったが増封された。

和銅7(714)年
春正月三日、二品の長親王・舎人親王・新田部親王と、三品の志貴親王には封戸をそれぞれ二百戸、従三位の長屋王には百戸を増した。これらの封戸の祖は、すべて封主に給される。食封の田租を全額封主に賜ることは、この時から始まった。

これらの正月における加封は、季節的にも、志貴皇子の歌と整合している。
しかし、志貴皇子の歌から受ける印象は、そのような実利的なものとは整合していないだろう。
直木氏は、封戸はこの歌にそぐわないとしつつ、しかし、それ以外の契機を的確に指摘することは、不可能であろう、としている。

直木氏の見解は以下の通りである。
持統の朝廷における志貴の立場は恵まれたものではなかった。皇位継承問題で、持統に警戒されていたからである。
持統の治世を、志貴は息をひそめて暮らしていた。
大宝2(702)年12月22日に持統太上天皇が崩御する。
志貴皇子は、大宝3年9月に四品の位をもって、ふたたび歴史の表舞台に登場してくる。
持統の治世での圧迫感から解放されたと見ることができる。
つまり、志貴にとって、長く厳しい冬(持統の治世)が終り、ようやく希望を抱ける春がめぐってきた。
その心境を詠んだのが、「懽の歌」ではないか、というのが直木氏の解釈である。

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2008年10月 5日 (日)

『万葉集』と志貴皇子

志貴皇子は、『万葉集』屈指の歌人といえよう。
志貴皇子が、『万葉集』に遺した歌はわずかに6首に過ぎないが、いずれも秀歌と評価されているものである。

  明日香宮より藤原宮に遷りましし後、志貴皇子の作りませる御歌
采女の袖吹きかへす明日香風京(ミヤコ)を遠みいたづらに吹く  (1-51)

  慶雲三年へ以後、難波宮に幸(イデマ)しし時、志貴皇子の作りませる御歌
葦辺行く鴨の羽がひに霜振りて寒き夕へは大和し思ほゆ  (1-64)   

  志貴皇子の御歌一首
むささびは木末求むとあしひきの山の猟夫にあひにけるかも  (3-267)

  志貴皇子の御歌一首
大原のこの市柴の何時しかと吾が思ふ妹に今夜逢へるかも  (4-513)

  志貴皇子の懽(ヨロコビ)の御歌一首
石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも  (8-1418)

  志貴皇子の御歌一首
神奈備の磐瀬の杜のほととぎす毛無の岡にいつか来鳴かむ  (8-1466)

上記が、『万葉集』における志貴皇子の歌のすべてであるが、なかでも「懽」の歌は有名である。
私自身、『万葉集』にさほどの関心がなかった頃でも、好きな一首として愛唱していた。
上村悦子氏は、『万葉集入門 』講談社学術文庫(8102)において、以下のように解説している。

巻八の冒頭の歌である。一読、一陽来復の良き時節の訪れを、心から喜んでいられる気持ちが一首の中にあふれている。
中略
なにかの機会に、早春のころ攝津の垂水に赴かれ、その丘上においていちはやく目撃せられた景を述べ、一陽来復の喜びを表わされたものであろう。騒々しい理屈っぽいところは一つもなく、些細な、よく気をつけねば見出しがたい自然のささやかな現象に目を注いで、それにより春の到来の大きな喜びを感ずる歌人の心持がすなおに吐露されている。
皇子の心の躍動は「石ばしる垂水の上のさ蕨の」のこの渋滞のない直線的なリズムと「萌え出づる春になりにけるかも」と一気に大きな詠嘆に誘導したこの表現によく現れている。一首の中にラ行音が七つも使用され、やわらかなふくよかな気持ちが、音のリズムのうえからわれわれに忍びよってくる。
中略
平明な表現の中に爽快な早春の気分がみなぎって、読む人の心にも限りない春のよろこびをおのずと感ぜしめる歌で、古来愛唱されている。芭蕉の「雪間より薄紫の芽うどかな」も連想される。島木赤彦の「高槻の梢にありて頬白のさへづる春となりにけるかも」の歌もこの歌に負うのであろう。

「石ばしる」は垂水の枕詞とされる。
櫻井満監修『万葉集を知る事典』東京堂出版(0005)では、垂水は、「流れ落ちる水で、滝のこと」と説明し、「石ばしる」も含め、「ここは実景でもあろう」と説明している。
また、上村氏は、垂水は、「垂れる水、すなわち滝(普通名詞)と見る説と、摂津国豊能郡豊津村字垂水とする(固有名詞)説などに分かれているが、これを相関せしめて、垂水という地にある滝の意にとる説が有力に行われている」としている。

この歌は、垂水という地名があることを知らなくても、つまり垂水を普通名詞と解しても、十分理解できると思う。
一読して、「気持ちのいい歌」ということができるのではないだろうか。

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2008年10月 4日 (土)

“むささび”の歌は寓意なのか?

志貴皇子の“むささび”の歌は、動物のムササビそのものを詠んだものなのか、それとも“むささび”は寓喩として使われているのか?
ムササビは、移動するときには、木の一番高いところから、滑空してつぎの木に飛ぶ。
だから、猟師は、ムササビが木末に駆け登ろうとするところを狙い撃ちして射止めるといわれる。
そのムササビの習性を哀れんだ歌とも解することができるが、例えば、高望みした結果、身を滅ぼすことになったことの寓喩というふうにも理解できよう。

直木孝次郎『万葉集と古代史 (歴史文化ライブラリー) 』吉川弘文館(0006)は、諸研究者の解釈を紹介している。
加藤千陰『万葉集略解』では、大友皇子や大津皇子がイメージされている。
沢瀉久孝『万葉集注釈/巻三』では、「捕らえられたむささびを見ての作として、そのまゝ理解ができ」「寓意を考へるに及ばないであらう」としている。
稲岡耕二『和歌文学大系「万葉集」一』も、「とらえられたむささびに対する思いを歌ったものとすなおに理解しておきたい」である。

しかし、寓意とする研究者もいる。
吉永登『万葉-通説を疑う』は、「特殊な猟法に興味を持った志貴皇子が、その習性ゆえに殺されたムササビの上をすなおに歌ったものと言うべきであろう」と、ムササビそのものとしつつも、次のような追記を書いている。
「前述のように解しても、なお比喩歌であることは、おそらく間違いないであろう。ただ何を比喩するものかはもとよりわからない。」

直木氏自身は、この歌を詠んだときに、志貴皇子は、大津皇子のいたましい死を想起していた、としている。
鸕野皇后は、大津の周辺をきびしく監視しながら、圧力を加えつつ大津の動きを待った。
大津は、その圧迫に堪えられずに、伊勢にいる姉の大伯皇女を訪ね、親友の川島皇子に心情を訴えた。
その動きを狙い撃ちされて、謀反として処刑されてしまった。
つまり、猟夫は鸕野皇后、“むささび”は大津皇子ということになる。
志貴皇子と川島皇子は、同じ天智天皇の皇子として、年齢もさして違わないと思われる。
「志貴には、大津と川島に注がれる鸕野のつめたい眼の光がよくわかっていたであろう」というのが直木氏の想定である。

これに対して、犬養悦子氏は、『古代史幻想―万葉集の謎に迫る』文芸社(0202)で、「持統10(696)年の衆議粉紜の御前会議(08年9月26日の項)」の様子に触れつつ、この歌を、志貴皇子の自戒の言葉として捉えている。
犬養氏は、次のように書く。

皇子皇女が集められた。「それぞれ忌憚のない意見を」と、天皇のお言葉があった。
中略
「ご一同……」弓削皇子の透き通った声が堂内に響き渡った。
「お考えがおありでしたらどうぞ……」
「しっかりと我々兄弟を束ねて、帝の右腕として国政になくてはならない貴重なお方を失って、本当に残念です。これから先は、私たち兄弟が考えを新たに一致団結していこうではありませんか。今は兄、長皇子が力を付けております。母は、帝の御妹ですから適任ではないでしょうか。私は兄を推薦致します。」
「なるほど……」
「いや、それは……」
遮ったのは、十市皇女の子、葛野王であった。
中略
日本の国は一筋の皇統を守ることを貫いてきた。時にして、兄弟相続を行ったが必ず災いを招いている。今回も十分留意せねばならないことだ。
要約すればこういうことであった。
中略
どこかで、誰かが、「壬申の乱の生き残りが、保身のために、よいしょしたのだ」と呟いていたという。もう一人の生き残りは、一言も発言しなかった。その皇子は

  むささびは木末求むとあしびきの
          山の猟師に遭ひにけるかも  (3-267)

と言う一首を自戒の言葉として持ち続けて一生を過ごした。
中略
そして、この志貴皇子の御子が光仁天皇となり、桓武天皇に続き、ずっと平安時代に連綿として続いていくことになったのである。歴史って、面白い物語である。

はたして、“むささび”は、大津皇子の寓意なのか、あるいは梅原猛氏のいうように弓削皇子の寓意なのか、はたまた志貴皇子自身の寓意なのか。

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2008年10月 3日 (金)

志貴皇子の“むささび”の歌の置かれた位置

小松崎文夫『皇子たちの鎮魂歌―万葉集の“虚”と“実”』新人物往来社(0403)に、志貴皇子の“むささび”の歌(08年10月1日の項)に関する注目すべき指摘がある。
それは、やはりこの歌の位置に着目したものである。
この歌の前後を見てみよう。

  柿本朝臣人麿の歌一首
淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば情(ココロ)もしのに古思ほゆ  (3-266)

  志貴皇子の御歌一首
むささびは木末求むとあしひきの山の猟夫にあひにけるかも  (3-267)

  長屋王の故郷の歌一首
わが背子が古家の里の明日香には千鳥鳴くなり島待ちかねて  (3-268)
  右、今案(カムガ)ふるに、明日香より藤原宮に還(ウツ)る後、この歌を作るか。

小松崎氏は、梅原猛氏が『水底の歌―柿本人麿論』で、人麻呂が体制に圧殺されたとしていることを踏まえ、長屋王も同じように、体制に圧殺されたのであるから、この志貴皇子の歌は、そういう観点で捉えるべきだとする。
“むささび”とはどういう動物か?
WIKIPEDIA(08年7月4日最終更新)の説明を見てみよう。

ムササビ(鼯鼠、鼺鼠)は哺乳類の一種である。ムササビ属に属する哺乳類の総称でもある。ネズミ目(齧歯目)、リス科、モモンガ亜科に属する。野臥間、野衾(のぶすま)という異名がある。長い前足と後足との間に飛膜と呼ばれる膜があり、飛膜を広げることでグライダーのように滑空し、樹から樹へと飛び移ることができる。160m程度の滑空が可能である。

つまり、“むささび”の特徴は、滑空できることである。
滑空はすれども……、それは(時)流に乗せられるだけ……、と小松崎氏は解説している。
梅原氏は、この歌を弓削皇子に引きつけて解しているが、小松崎氏は、志貴皇子自身の宿命と重ね会わせている。

志貴皇子は、そのプロフィールが余り明確でない皇子の1人である。
小松崎氏の上掲書に引用されている小学館版『日本古典文学全集/万葉集1』の解説を孫引きしておこう。

天智天皇の第七皇子。白壁王(光仁天皇)・湯原王らの父。施基・芝基・志紀などとも記す。天武天皇の皇子磯城皇子とは同名別人。霊亀元(七一五)年二品を授けられ翌二年八月薨。万葉集では元年九月薨とある。光仁天皇が即位すると春日宮御宇天皇と追尊され、また田原天皇とも呼ばれた。

薨年が、『続日本紀』と『万葉集』で食い違っているが、出生の事情も曖昧である。
『日本書紀』の天智7(668)年2月条に「越の道君伊羅都賣(イラツメ)有り、施基皇子生めり」とあり、この施基皇子が、志貴皇子のことだとされている。しかし、越の道君伊羅都賣の素性もはっきりしないし、誕生した時も定かではない。

『日本書紀』の皇子・皇女の記載は、母の格で括られ、その母の子供が長幼の順に記されている。
志貴皇子の母の越の道君伊羅都賣は、天智天皇の「宮人の、男女を生める者四人あり」の中の3人目、全体で8人目に位置している。
その後は、近江朝として壬申の乱を戦った大友皇子の母の伊賀采女宅子娘がいるだけである。

嬪以上を母とする皇子としては、蘇我山田石川麻呂の娘の遠智娘の生んだ建皇子がいたが、障害を持っていたとされ、斉明4(658)年に8歳で夭折した。
健常者として成人していれば、近江朝の継承候補の第一であったのであろうが、上記の事情により、結果として、格の低い采女たちの生んだ、大友皇子、川島皇子、志貴皇子が歴史を彩ることになった。

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2008年10月 2日 (木)

高松塚の被葬者は弓削皇子か?…梅原猛説(ⅹⅱ)

梅原猛氏の『黄泉の王―私見・高松塚』新潮社(7306)の論旨を要約しよう。
①高松塚の被葬者は、文武元(697)年から、和銅3(710)までに死んだ反逆の皇子である。
a.高松塚を特徴づける最大の要素である壁画は、朝賀の様子を描いたものであり、被葬者は、天皇もしくは天皇に準ずる地位の皇族である。
b.『続日本紀』の大宝元年の記述との適合性等からして、塚の築造時期は、大宝元年の前後のさほど離れていない時点である。
c.しかし、副葬品における欠損や壁画の損傷などをみると、地下の朝賀は、地上の朝賀と明らかに異なっている。
それは、地下の朝賀の主人公が体制への反逆者であることを示している。
d.反逆者の霊を鎮めるために、高松塚は華麗に荘厳された。それは、出雲におけるオクニヌシノミコトと同様である。

②正史には、反逆の皇子を明示的に示した記述はない。しかし、『万葉集』等を参照すると、該当する人物として、弓削皇子が浮かび上がってくる。
a.弓削皇子は、軽皇子立太子を論議する御前会議において、持統天皇の意に逆らう発言をしようとした。
b.弓削皇子と額田王の応答には、弓削皇子の過去を追憶する憂愁の心が込められている。
c.「紀皇女を思ふ御歌四首」からして、弓削皇子は、紀皇女に恋していたと思われる。
d.紀皇女は、文武帝の妃(后)であった可能性が高い。
e.弓削皇子の「紀皇女を思ふ御歌四首」には、濃密な恐れの雰囲気があり、それは、紀皇女の身分の高さを窺わせる。
f.紀皇女は、『万葉集』に遺された歌から推測すると、奔放な女性で、姦通者であることを窺わせる。
g.『万葉集』からすれば、紀皇女と弓削皇子は、禁断の恋愛関係にあったと考えられる。
h.大宝元年は、大宝律令の施行された年であり、法による統治への潮流が強まった時である。
i.法秩序を乱した紀皇女と弓削皇子は体制から排除される運命にあった。
j.律令という法秩序の体現者であった藤原不比等にとって、弓削皇子と紀皇女を排除することは大いにメリットのあることであった。
k.『万葉集』の志貴皇子の歌などからしても、不比等体制に狙い撃ちされた皇子の像が浮かび上がってくる。

上記のような論理展開の下に、梅原氏は、高松塚の被葬者を、弓削皇子に比定した。
梅原氏は、上掲書の末尾において、権力者の立場にたって、弓削皇子の葬儀の様子を描いている。
①弓削皇子の葬儀は、刑罰として行われた。
a.弓削皇子は、后と通じる罪を犯した。それは、律の規定の八虐の第一謀反罪にあたる。
謀反罪とは、君主をないがしろにする罪であり、后と通じることは君主をないがしろにしたことに他ならない。
b.謀反罪は、死刑に相当する。
死刑には斬首と絞首の二種類がある。斬首の方が、首と胴が別々になって再生の可能性が全く失われることから、絞首よりも重い。
謀反罪は、斬首に相当するが、皇族及び三位以上、あるいは大勲功のあるものなどは、死刑の代わりに自殺を賜ることになっていた。
弓削皇子の場合も自殺が許されたのであろうが、葬る場合には、斬首者として、屍から首が除かれたのではないか。
c.弓削皇子の葬儀に関しては、権力に反抗した者の行く末についての、見せしめの効果が重要であった。首なき皇子の屍は、律令体制の威力を示す意味が大きかった。

②弓削皇子の葬儀には、鎮魂として行われた。
a.当時の日本には、怨霊への恐怖が強かった。
無実の罪で殺された高貴な人の怨霊は、生者に復讐する。
b.法隆寺は聖徳太子の鎮魂の寺であったが、『薬師寺縁起』には、大津皇子の死霊を鎮魂するために、馬来田池を埋めて、薬師寺の金堂を建てたと伝える。
c.弓削皇子は、大津皇子と同じように殺された。弓削皇子の怨霊がタタルことを避けることが必要である。
特に、文武帝は体が弱かったと思われる節があり、弓削皇子の霊を丁重に鎮魂することが必要だった。
d.華麗な高松塚の壁画と副葬品は、被葬者(弓削皇子)の死霊に、あたかも帝位にあると思わせるように設定されたものと解釈できる。

梅原氏は次のように書く(p234)。

弓削皇子よ、あなたはあこがれの帝位についたのだ。見よ、帝位のしるしの四神の旗はひるがえり、日月、星宿、すべてにあなたの帝位をことほいでいるではないか。そしてあなたをかこむ朝賀の群臣たち、それ、あの衣蓋のもとなるひげの濃い人はあなたの兄さん長皇子、そして、あそこに杖をもったほほのふっくらした美人はあなたの恋人、紀皇女ではありませんか。そしてあそこにはあなたの詩人柿本人麿が、あなたの従者置始東人がいるではありませんか。

梅原氏は、高松塚の被葬者を、弓削皇子とする仮説を立てた。
消去法で、可能性の少ない皇子を除いていくと、弓削皇子だけが残った。しかし、積極的に弓削皇子であることを示すエビデンスがなかった。
弓削皇子を高松塚の被葬者と考えたら、高松塚と当時の歴史的状況がどのように理解されるか?
梅原氏は、仮説的代入法というが、それにより今まで明らかでなかったことが理解できると同時に、考古学の成果とも矛盾せず、歴史家の考証とも一致した。
高松塚被葬者を、弓削皇子とする仮説の生産性は高い。

梅原氏のトーンは高いが、それでもなお、梅原氏自身、高松塚の被葬者を弓削皇子と断定することはできない、とする(p245)。
梅原氏は、結論よりも論証の過程が大切なのだ、とする。
高松塚の被葬者問題は、思考技術が試される好例の一つであろう。

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2008年10月 1日 (水)

紀皇女と弓削皇子は処刑されたのか?…梅原猛説(ⅹⅰ)

梅原猛氏は、『黄泉の王―私見・高松塚』新潮社(7306)で、『万葉集』は、大宝元(701)年前後の風潮を、累々たる屍のイメージで表現しようとした、とする(p227~)。
その累々たる屍のイメージは、律令と共にあった、と梅原氏は言う。
律令の思想とは、人間は所詮悪であるから、法を厳しくすることが国家を治める道であるとする法家の思想である。

梅原氏は、律令によって葬られた死の中心部に、弓削皇子と紀皇女がいた、とする。
弓削皇子と紀皇女を一挙に葬ることは、藤原不比等にとって有利なプランである。
紀皇女が文武帝の后であり、弓削皇子と通じていたとしたら?
不比等は、持統上皇に提案したのではないか?

弓削皇子は、軽皇子の立太子に反対したのみならず、帝の后を寝取ったとんでもない男だ。
紀皇女も、関係のあるのは弓削皇子だけではない、ともいう。
このところ、後宮は乱れている。
柿本人麿は、多くの采女を泣かせているとも聞く。
人麿を追放すべきである。彼と関係した采女たちにも死を命じるべきだ。
弓削皇子、紀皇女も、張本人だから、死を免れません。

持統上皇は、不比等の提案に反対できなかっただろう。
持統は、弓削皇子を許していなかっただろう。
不比等は、むしろ紀皇女を排除することが主眼だったのではないか?
文武帝の后の紀皇女を排除すれば、夫人である娘の宮子の位置が上昇する。
石川、紀の2人の妃は、不比等の恋人になっていた橘三千代が何とかしてくれるだろう。

不比等と三千代の間に、光明子が生まれたのは大宝元(701)年のことだから、不比等と三千代が結びついたのは、ちょうど弓削皇子の死の頃(文武3(699)年)と推測される。
梅原氏は、この弓削皇子、紀皇女排除の陰謀を通じて、不比等と三千代は強く一体化したのではないか、とする。
人は、善を共有するよりも、悪を共有する方が、結びつきは強まる。

もちろん、弓削皇子の死は、不比等にとっても好ましいことだった。
不比等の権力は、草壁の系統との関係において増大する。
草壁の系統とは、持統-元明-文武という女性と子供からなる系統である。
他の男性の皇子に皇位が移ったら、不比等の地位は、たちまち危うくなるだろう。
皇位を狙う可能性のある皇子を排除することは、不比等の願うことでもあった。
そして、弓削皇子が処刑されたことが、非公然にでも知られることになれば、持統-不比等ラインに反抗する者の末路を示すデモンストレーション効果もあるだろう。
見せしめのためにも、弓削皇子の死は好都合であった。

梅原氏は、弓削皇子は、天武の皇子として、大津皇子と並ぶ優れた人物だったのではないか、とする。
詩才においても、風貌においても、大津皇子に匹敵する人物だった。
そして、大津皇子と同じように、大胆ではあるが、用心深さに欠けるという欠点を持っていた。
その欠点のために、不比等のワナにかかってしまったのではないか。

  志貴皇子の御歌一首
むささびは木末(コヌレ)求むとあしひきの山の猟夫(サツヲ)にあひにけるかも  (3-267)

猟師を逃れて木の末に逃げようとしたむささびであったが、そこで猟師につかまってしまった。
弓削皇子のこととは書いてないが、梅原氏は、この「むささび」は、弓削皇子のことをいっているのではないか、としている(p147)。
弓削皇子がむささびならば、猟師は不比等ということになるのだろう。

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