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2008年10月 8日 (水)

『万葉集』巻1・巻2の構成

巻1・巻2について、小松崎文夫『皇子たちの鎮魂歌―万葉集の“虚”と“実”』新人物往来社(0403)では、「《古撰万葉》とか言われるもので、編纂の意図やその時期など、種々の面で特殊な巻と見られている。」とし、その特殊性として、次のような性格を挙げている。

①巻1・巻2は、「巻1……雑歌、巻2……相聞・挽歌」と分割された一対であること。

②両巻は、とりわけ、天武・持統の皇統を祝福礼賛する“天皇家の歌集”であること。

③巻1は持統朝まで、巻2は藤原宮(持統・文武。元明)までなど、同じ《古撰万葉》でも、“原撰”と“後補”が考えられること。

④それぞれ、「泊瀬朝倉宮御宇天皇代」などのように、天皇の代ごとに分けられ、歌の配列もかなり年代順にこだわっていること。

④について、巻1の標目は、以下の通りである。
「雑歌」
泊瀬朝倉宮御宇天皇代(雄略朝)
高市岡本宮御宇天皇代(舒明朝)
明日香川原宮御宇天皇代(皇極朝)
後岡本宮御宇天皇代(斉明朝)
近江大津宮御宇天皇代(天智朝)
明日香清御原御宇天皇代(天武朝)
藤原宮御宇天皇代(持統・文武・元明朝)
寧楽宮(それ以降)

巻2については、次のようである。
「相聞」
難波高津宮御宇天皇代(仁徳朝)
近江大津宮御宇天皇代(天智朝)
明日香清御原御宇天皇代(天武朝)
藤原宮御宇天皇代(持統・文武・元明朝)

「挽歌」
後岡本宮御宇天皇代(斉明朝)
近江大津宮御宇天皇代(天智朝)
明日香清御原御宇天皇代(天武朝)
藤原宮御宇天皇代(持統・文武・元明朝)
寧楽宮(それ以降)

小松崎氏は、この標目自体が、巧妙な仕掛けなのだ、とする。
例えば、巻2の「藤原宮御宇天皇代(持統・文武・元明朝)」は、「相聞」と「挽歌」に両方出てくる。

   相聞
藤原宮に天の下知らしめしし高天原広野姫天皇の代

    天皇諡して持統天皇といふ、元年丁亥の十一年、位を軽太子に譲り、尊号を太上天皇といふそ
  大津皇子竊に伊勢神宮に下りて上り来ましし時、大伯皇女の作りませる御歌二首
わが背子を大和へ遣るとさ夜ふけて暁露にわが立ちぬれし  (2-105)
二人行けど行き過ぎがたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ  (2-106)
  大津皇子、石川郎女に贈れる御歌一首
あしひきの山のしづくに妹待つと吾立ちぬれぬ山のしづくに  (2-107)
吾を待つと君がぬれけむあしひきの山のしづくにならましものを  (2-108)
  大津皇子、竊に石川郎女に婚ひし時、津守連通、その事を占へ露はししかば、皇子の作りませる御歌一首
大船の津守の占に告らむとは正しに知りてわが二人宿し  (2-109)

   挽歌
 藤原宮に天の下しらしめしし天皇の代

    高天原広野姫天皇、天皇の元年丁亥、十一年位を軽太子に譲り、尊号を太上天皇といふ
  大津皇子薨ぜし後に、大泊皇女、伊勢の斎宮より京に上る時に作らす歌二首
神風の伊勢の国にもあらましをいかにか来けむ君もあらなくに  (2-163)
見まく欲りわがする君もあらなくにいかにか来けむ馬疲るるに  (2-164)
  大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時に、大泊皇女の哀しび傷みて作らす歌二首
うつそみの人なる吾や明日よりは二上山を兄弟とわが見む  (2-165)
磯の上に生ふるあしびを手折るらめど見すべき君がありといはなくに  (2-166)
  右の一首は、今案ふるに、移し葬る歌に似ず。けだし疑はくは、伊勢神宮より京に還る時に路の上に花を見て、感傷哀咽して、この歌を作りませるか。

巻2を読んできた読者は、高天原広野姫天皇に関する注記によって、「相聞」の藤原宮に天の下知らしめしし高天原広野姫天皇の代の標目を想起する。
そして、振り返って読めば、大津皇子に関連する歌は、ほとんど、この両箇所に集められ、「一堂に会している」ことになる。
そういう仕掛けが、標目にはある、というわけである。

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